2013年、習近平国家主席が陸と海のシルクロード戦略を打ち出し、2年以上が経過した。陸はシルクロード経済ベルトと呼ばれ、中国から中央アジア、西アジア、南アジアひいてはヨーロッパをにらむエリアを含んでいる。海は21世紀海上シルクロード発展戦略で、南シナ海、インド洋、アラビア海を経て地中海に至る海上交通ルートを指し、ASEANをはじめミャンマー、スリランカ、パキスタン、さらにはギリシャなどの港湾を含めたインフラ整備を目指している。中国の船舶が自由に航行できる海上ルートの確保にもつながり、安全保障上の意義も大きい。
中国では、陸のシルクロードを「一帯」、海のシルクロードを「一路」とし、「一帯一路」戦略と称される。 同戦略に関してはおびただしい内外の研究があるので、これを歴史的に見ると「中国にとって」どう映っているか、を考えてみる。海外メディアの報道に最も欠けているのが、当事国の視点だからである、特に中国についてはこの傾向が際立っている。
シルクロードは長安を都にした唐の時代、東西の交易から生まれた道である。現在、北京の故宮に伝わる白、緑、黄の唐三彩はイランの影響であり、遣唐使として派遣された日本の阿倍仲麻呂が安南節度使として任官するなど、寛容で多様で文化を生んだ。日本はシルクロードの終着点に位置し、文化はしばしば伝播した辺境の地で原型をとどめると言われる通り、長安に模した京都の街並みや正倉院の宝物がそれを如実に物語る。だが終着点から見てしまうと、シルクロードのダイナミックさが見落とされてしまう。中国は常に文明の発祥した西アジア、ヨーロッパとつながっている。それが時代によって様々な顔をのぞかせる。
海について言えば、中国では明朝の時代、宦官だった鄭和によるヨーロッパに先立つ大航海があった。鄭和は1405~1433年の間、計7回にわたり東南アジアからインド洋にわたり、通商貿易を開いた。その後、ヨーロッパで起きた産業革命がポルトガルとスペインによる大航海時代を生み、一気に世界地図を塗り替える。その後、イギリス、フランス、さらには日本が力を強め、中国が今度は落伍した国として侵略を受けるのは歴史の示すとおりである。習近平が語る「中華民族の偉大な復興」とは、海においては鄭和時代の再来を意味する。
中国の転落はアヘン戦争から始まる。清朝の欽差大臣として、広東でイギリス人が売りさばこうとしたアヘンを焼き捨てたのが林則徐だ。その後、中国では海防論が生まれ、軍艦の輸入や製造が始まる。皮肉なことに戦争の発端を作った林則徐は海防論者になるどころか、戦争責任を問われて新疆に飛ばされ、そこで、長い国境を接するロシアに対する防衛の必要に目覚める。これが塞防論である。そしてイギリスに備えた海防重視でロシアと手を結ぶのか、イギリスと結んでロシアに対するのか、という論争が起きた。親ロシア派と反ロシア派の争いである。
親ロシア派の代表は李鴻章だ。日清戦争後の下関条約で日本を訪れて以来、大の日本嫌いでである。李鴻章はロシア皇帝の戴冠式に行き、ウイッテと密約を結んだほどだ。15年間の有効期間中に日本がロシアと戦争になったら、清国はロシア側に立って日本と交戦するとの内容だ。だが、日露戦争で清国は自ら戦場でありながら、ロシアの侵略に対する警戒が強まり、結局、条約を守らなかった。だが三国干渉を仕掛け、日本に報復した形だ。
日本と戦った経験を持つ李鴻章は、侵略者は海からくると身をもって知った。それに対抗するには陸続きのロシアと結ぶべきだと考え、北洋海軍の建設に力を入れた。李鴻章ももともとは、西洋から遅れたアジアの連帯を考えていたが、日本が侵略の道を進んだために海防論者になった。
毛沢東は基本的にソ連と結んだ海防論者であるが、当初の敵である国民党軍とは陸戦であり、すでに上陸していた日本とも陸上の戦いにとどまった。蒋介石は米国を招き寄せ、海防に加え塞防論も援用した。共産党政権は戦後、ソ連との対立によって米国に接近する決断が下されたが、これはまさに塞防論であった。北京にはソ連との開戦に備え、多くの防空壕が掘られた。共産党軍はもともと大半が農民を主体とした陸軍部隊だったため、海軍、空軍の建設は大幅に遅れることとなった。
そして今、中国が陸も海もと進み、かつてない規模で世界と手を結ぼうとしている。防御から攻勢への転換である。そこに東西交流が最も栄えた「シルクロード」の名称を持ってきたところは、なかなかのセンスである。海防論、塞防論の論争を「一帯一路」で一気に決着させてしまおうというわけだ。陸にはテロ組織があるが、ロシアや中央アジアと安全保障の協力関係を結んで対応する。海には領土問題を抱えしばしば米国海軍との摩擦を生んでいるが、戦争を避ける危機管理はしっかりやる。「一帯一路」を掲げた以上、全方位外交を強いられる。大風呂敷を広げたということは、選択肢を広げたように見えるが、海防か塞防かといった二者択一の簡単な選び方は放棄したことになる。
習近平がしばしば「大同」を訴えているのも、真意はこんなところにあるのではないか。
中国では、陸のシルクロードを「一帯」、海のシルクロードを「一路」とし、「一帯一路」戦略と称される。 同戦略に関してはおびただしい内外の研究があるので、これを歴史的に見ると「中国にとって」どう映っているか、を考えてみる。海外メディアの報道に最も欠けているのが、当事国の視点だからである、特に中国についてはこの傾向が際立っている。
シルクロードは長安を都にした唐の時代、東西の交易から生まれた道である。現在、北京の故宮に伝わる白、緑、黄の唐三彩はイランの影響であり、遣唐使として派遣された日本の阿倍仲麻呂が安南節度使として任官するなど、寛容で多様で文化を生んだ。日本はシルクロードの終着点に位置し、文化はしばしば伝播した辺境の地で原型をとどめると言われる通り、長安に模した京都の街並みや正倉院の宝物がそれを如実に物語る。だが終着点から見てしまうと、シルクロードのダイナミックさが見落とされてしまう。中国は常に文明の発祥した西アジア、ヨーロッパとつながっている。それが時代によって様々な顔をのぞかせる。
海について言えば、中国では明朝の時代、宦官だった鄭和によるヨーロッパに先立つ大航海があった。鄭和は1405~1433年の間、計7回にわたり東南アジアからインド洋にわたり、通商貿易を開いた。その後、ヨーロッパで起きた産業革命がポルトガルとスペインによる大航海時代を生み、一気に世界地図を塗り替える。その後、イギリス、フランス、さらには日本が力を強め、中国が今度は落伍した国として侵略を受けるのは歴史の示すとおりである。習近平が語る「中華民族の偉大な復興」とは、海においては鄭和時代の再来を意味する。
中国の転落はアヘン戦争から始まる。清朝の欽差大臣として、広東でイギリス人が売りさばこうとしたアヘンを焼き捨てたのが林則徐だ。その後、中国では海防論が生まれ、軍艦の輸入や製造が始まる。皮肉なことに戦争の発端を作った林則徐は海防論者になるどころか、戦争責任を問われて新疆に飛ばされ、そこで、長い国境を接するロシアに対する防衛の必要に目覚める。これが塞防論である。そしてイギリスに備えた海防重視でロシアと手を結ぶのか、イギリスと結んでロシアに対するのか、という論争が起きた。親ロシア派と反ロシア派の争いである。
親ロシア派の代表は李鴻章だ。日清戦争後の下関条約で日本を訪れて以来、大の日本嫌いでである。李鴻章はロシア皇帝の戴冠式に行き、ウイッテと密約を結んだほどだ。15年間の有効期間中に日本がロシアと戦争になったら、清国はロシア側に立って日本と交戦するとの内容だ。だが、日露戦争で清国は自ら戦場でありながら、ロシアの侵略に対する警戒が強まり、結局、条約を守らなかった。だが三国干渉を仕掛け、日本に報復した形だ。
日本と戦った経験を持つ李鴻章は、侵略者は海からくると身をもって知った。それに対抗するには陸続きのロシアと結ぶべきだと考え、北洋海軍の建設に力を入れた。李鴻章ももともとは、西洋から遅れたアジアの連帯を考えていたが、日本が侵略の道を進んだために海防論者になった。
毛沢東は基本的にソ連と結んだ海防論者であるが、当初の敵である国民党軍とは陸戦であり、すでに上陸していた日本とも陸上の戦いにとどまった。蒋介石は米国を招き寄せ、海防に加え塞防論も援用した。共産党政権は戦後、ソ連との対立によって米国に接近する決断が下されたが、これはまさに塞防論であった。北京にはソ連との開戦に備え、多くの防空壕が掘られた。共産党軍はもともと大半が農民を主体とした陸軍部隊だったため、海軍、空軍の建設は大幅に遅れることとなった。
そして今、中国が陸も海もと進み、かつてない規模で世界と手を結ぼうとしている。防御から攻勢への転換である。そこに東西交流が最も栄えた「シルクロード」の名称を持ってきたところは、なかなかのセンスである。海防論、塞防論の論争を「一帯一路」で一気に決着させてしまおうというわけだ。陸にはテロ組織があるが、ロシアや中央アジアと安全保障の協力関係を結んで対応する。海には領土問題を抱えしばしば米国海軍との摩擦を生んでいるが、戦争を避ける危機管理はしっかりやる。「一帯一路」を掲げた以上、全方位外交を強いられる。大風呂敷を広げたということは、選択肢を広げたように見えるが、海防か塞防かといった二者択一の簡単な選び方は放棄したことになる。
習近平がしばしば「大同」を訴えているのも、真意はこんなところにあるのではないか。