行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア・中国雑感】胡耀邦を生んだ湖南・瀏陽人気質について

2016-02-17 00:07:55 | 日記
昨年、胡耀邦の生誕100周年記念で胡耀邦の生家、湖南省瀏陽に足を運んだが、以来、気になっていることがある。周年行事を単なる記念イベントにしないためにも、素通りできないもう2人の瀏陽出身者がいる。

湖南省は毛沢東や劉少奇など著名な共産党指導者を生んだことで知られ、私が知っている記者仲間にも湖南人が多い。熱血漢で、頑固で、屈強で、個性的で、骨太で・・・これまで見聞きしてきた湖南人気質は英雄を生むのに十分な素質を備えている。湖南料理は湘菜と呼ばれ、唐辛子をふんだんに使った激辛で知られる。湖南人気質を表現するのには「激辛」が最も適している。清末、西洋の技術を導入し、湘軍と呼ばれる強靭な義勇軍を率いた曽国藩もまた湖南出身だ。北宋から続く岳麓書院に代表されるように、学問を重視するのも湖南の特色だ。

湖南・瀏陽には近代革命史に名を残した2人の知識人がいる。譚嗣同(1865~98)と唐才常(1867~1900)だ。1984年の日清戦争で清朝が破れ、立憲君主の政治改革を求める変法自強運動に身を投じた。胡耀邦が文化大革命後、実事求是の精神をもって開明的な政治改革に専心したことを重ね合わせずにはおられない。

2人はいずれも33歳で若死にしている。散り際も潔かった。



譚嗣同は、康有為や梁啓超らの清末官僚が光緒帝を担いで起こした戊戌変法に加わったが、西太后一派に弾圧されると、潔く処刑の道を選んだ。梁啓超は北京の日本公館に逃げ込み、日本に亡命した。譚嗣同も同じ道を選ぶことができたが、梁啓超に対し「あなたは西郷(隆盛)となれ、私は月照となる」と遺言を残し、北京・菜市口の刑場に赴いた。だれかが血を流さなければ国の変革はできないとの信念があった。



唐才常は変法のための自立軍を結成し、1900年、義和団事件の混乱に乗じ、長江一帯で挙兵し、幽閉された光緒帝を救出するクーデターを計画するが、事前に発覚し漢口で処刑される。自立会の規約には「天下の興亡は匹夫に責あり」とうたい、「外夷の凶気たちこめ、侵攻やまざるときにあたり、どうしてうず高い薪の上に眠りこけ、崩れんとする石塀のもとにたたずんでいられよう」(岩波書店『原典中国近代思想史』)と決起を促した。唐才常が口にしていたのが、「長沙は薩摩である」だった。「西郷」といい「薩摩」といい、2人を含め、当時の変法派は日本の明治維新をモデルとしていたのである。

譚嗣同は『仁学』を著し、後の革命運動に大きな影響を残した。キリスト教、仏教、儒教を一体化させた思想だというのでじっくり読んでみようと思う。主義主張にとらわれず、自由で平等な大同社会を築こうとした点において、胡耀邦の思想に通じると直感している。『仁学』は胡耀邦の蔵書にもあったことを長男の胡徳平が語っている。困難を恐れず前に進み、出処進退もきれいだった点においても、瀏陽人の伝統として記憶されるべきだろう。