行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

【日中独創メディア】中国で信仰が復活している背景は?

2016-02-10 16:55:29 | 日記
上海で知人に連れられ春節の大みそか、祖先の祭事に参加した。実家に一族が集まり、先祖の写真を並べた祭壇に向かって線香をあげ、拝礼をするのである。祭壇には家族が作った肉や魚料理、酒や果物が供えてある。拝礼が終わると、外で紙の金を燃やす儀式が待っている。天に昇った先祖に、あの世でもお金に困らないようにと燃やして届けるのである。田舎で葬式の際、札に模した紙を燃やすのを見たことがあるが、上海で見たのは、スズ箔の紙を折り紙のように丸く折りたたんだものだった。硬貨をイメージしたものだという。かつて貴重だった銀貨の名残なのか。





スズは燃えると黄色の灰が残る。燃えカスが舞い上がると、みなが「祖先が持って行った」と口をそろえる。風に紙が吹かれ飛んで行っても、「祖先が拾うから心配はない」という。燃やす前には、積み上げた紙の周囲を丸く囲むようにしるしをつける。その輪の中には足を踏み入れてはいけない。燃えカスの飛び散ったあと、地面に輪のしるしだけが残っているのを路上で見かけるが、通行人は避けて歩かなければならない。時代の流れを反映し、紙で作った車やi-phone、パソコンを燃やすこともあるという。中国人の祖先信仰の強さを物語るものだ。

中国人にとって、信仰は宗教だけを意味するのではなく、信念や主義主張、信条、道徳、倫理をも含む幅広い概念だ。グローバル化の進展もあって社会主義イデオロギーが色あせ、逆に拝金主義が横行して伝統的な道徳観念が危機にさらされている。信仰の不在が叫ばれる一方、キリスト教や仏教、道教を含めたさまざまな宗教に人々が救いを求めて集まっている。春節の初詣がかつてない活況を呈しているのもそのためだろう。本来、宗族を重んじてきた漢族は、祖先信仰の伝統に回帰しているように思える。

孫文は中国人は「バラバラの砂」だと嘆いたが、宗族のつながりだけは強かった。彼はそれを民族の団結に結び付けようとしたわけである。今でいえば愛国主義教育ということになるが、国が愛国を強調する一方、庶民が個人の救いを求める信仰、祖先信仰に向かうのはいかなる現象か。人間が自らの弱さを自覚し、本来の謙虚な姿に戻っているということではないのか。文化大革命は家族をバラバラにし、個々人を頂点に立つ毛沢東に直結させようと試みたが、結局は失敗した。

主義やイデオロギー、特定の信仰が一人歩きし、人間がそれに振り回されるような世の中であってはならない。習近平は、中華民族復興の団結の求心力として、伝統文化の復活を提唱しているが、そのベクトルがイデオロギー強化に向かうのであれば、自己矛盾であることに気付かなくてはならない。

日本もまた同じような現象がみられる。とても自分が人生の主人公になれているとは思えないような人が多すぎる。列車がホームに入ると突然、階段を駆け出す人がある。非常に危ない。そういう姿を見ると、時間に振り回されているその人の人生が透けて見える。組織に縛られ、過剰なルールに縛られ、窒息しようになっている人もあまりにも多い。自分を縛っている細かいルールが、果たして妥当であるかどうさえ問おうとしない。個人として独立せず、いったん組織から離れるとどう道を進んでいけばよいのかわからない。独立した頭を持たない人々は容易に操られる。そういう人々が多い社会も非常に危険だ。

お互いが誤って道に進まないよう、お互いを鏡として見ることの意味がここにある。