交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

代受苦者

2012-01-28 10:46:29 | 徳育 人間力

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◆目が見えないことが、いつしか「苦しみ」ではなくなっていた
 
  (株式会社アソウ・ヒューマニーセンター勤務 浦田理恵さん)
 
………………………………………………………………………………………………
 

皆さん、こんにちは。
 
私は九州の福岡からきました、
アソウヒューマニーセンターの浦田理恵と申します。
皆さん、お分かりにならないかもしれませんが、
実は私は視覚に障害があります。
 
活字を見ることも、相手の表情を見ることもできません。
 

私が視力を失ったのは、教職の免許を取るために
福岡の専門学校に通っていた20歳の時でした。
 
卒業を間近に控えた頃、網膜色素変性症と診断され、
僅か3か月で左目の視力を失い、
右目もわずかに光を感じるくらいまで
低下してしまったのです。
 
何もできなくなった自分が生きている意味があるのだろうか。
 
いろいろと悩み苦しみ、どん底にまで落ち込みました。
独り暮らしをしていた私は
誰とも会わずに家の中に引きこもり、
熊本の両親にも友達にも真実を伝えられないまま、
一年半が過ぎていきました。
 

失明したことを思い切って家族に伝える決心をしたのは、
数年ぶりに熊本に帰省した時でした。
 
駅の改札口まで迎えに来てくれた母は、
私のぎこちない仕草を見て
最初はふざけていると思ったそうです。
 

「お母さん、私はもう何も見えん」。
 

近寄ってきた母にそう率直に打ち明けると、
母はその場で泣き崩れてしまいました。
 

でも、この時、自分の思いを一気に吐き出せたことが、
一つのステップになったと思っています。
 

私がどんな状態になっても絶対に見捨てずに
温かく包み込んでくれる家族がいるのが
どれほどありがたいかを、しみじみと感じたからです。
 

人生に絶望していた私が、現在、前向きに頑張れるのは
この安心感のお陰です。
 

さて、前置きが長くなりましたが、
私は縁あって2年半前、
ヘルスキーパーとしてアソウヒューマニーセンターに入社しました。
その一方、女子ゴールボール競技のアスリートとして
厳しい練習に励む毎日を過ごしています。
 

当社で社内木鶏会がスタートしたのは昨年の11月でした。
最初
 

「木鶏会をやるから朝7時に集合ね」
 

と上司から言われた時は、
まるで他人ごとのように聞いていました。
 

私が所属するシーズアスリートには視覚障害者が4人いますが、
活字を普段目にすることのない私たちにとって、
木鶏会への参加はないものと考えていたのです。


しかし、上司や周りの社員の方々が私たちの成長を考えて、
何とか一緒にできないかと、
忙しい中時間を作って『致知』を読んできかせてくれたり、
PCにおとしてメールで送って音声ソフトで読ませたりと、
できる方法を一緒に考えてくれました。
 

できない理由を並べて甘えるのではなく、
一つでもできる方法を考え、トライすることが
成長の第一歩であると教えていただいたのは、
とてもありがたいことでした。


木鶏会に参加することで、
普段情報が入りにくい私は多くの刺激を受けています。
『致知』7月号の中では
「代受苦者(だいじゅくしゃ)」といういうワードに出会いました。
 

「災難や苦しみを自分の代わりとなって受けてくれる人」
 
という意味で、本来どこで起きてもおかしくはなかった
3月11日の大震災を、
東日本の方々が私たちの代わりに受けてくれた。
そう思うととても他人ごととは思えませんでした。


その時の話し合いの中で、ある方が私に向かって言われました。
 

「浦田さん、私の代わりに見えない不自由さを
 感じてくれてありがとう」
 

そう言われて私はあることに気づきました。
最初は見えなくなって怖くて不安で悔しくて
どうしようもない日々を過ごしていた私が、
沢山の温かな励ましや、ハード面・ソフト面のサポートのお陰で、
今は見えないことを忘れてしまうほど
毎日笑顔で過ごさせていただいていたのです。

周りの真心でいつしか目が見えないことが
「苦しみ」ではなくなっていたのです。
 

このようにお互いに支え合う仲間がいるのは
本当にありがたいことです。
木鶏会では普段同じ職場にいても
あまり話したことがない人とも
コミュニケーションがとれます。
 

その人の名前と声を一致させることに加え、
自分にはなかった考え方に出会い、
仕事でもプライベートにおいても
当事者意識を持っていかに自分の行動レベルに
落とし込んでいくかのヒントを得ることができます。
 
そして、何よりも、参加者同士がお互いに共感しあい
一体感を感じることができるのが
素晴らしいと感じています。
 

私はアスリートとして昨年のアジア大会女子ゴールボール競技で
銀メダルを獲得し、ロンドンパラリンピックへの出場権を
手にすることができました。
 
これからの練習が勝負です。
その意味で私にとって月1回の木鶏会は、
自分の気持ちをリセットし、
やる気を高める大切な場となっています。
 

社内木鶏の美点凝視の精神により私も笑顔、みんなも笑顔。
笑顔のキャンドルサービスが会社中、
そして日本中に広がっていったら、
どんなに素敵な社会になるだろう。
 
そんな夢を描きながら、
これからも前向きに頑張っていきたいと思います。
 

本日はご清聴いただき、ありがとうございました。
 

……………………………………………………………………………………
●社内木鶏会に興味を持たれた方・詳細をお知りたい方は
 こちらまでお気軽にお問い合わせください。
 

◆TEL:03-3796-2112(致知出版社営業部)


「いった豆でない限り、かならず芽が出るときがくるんだから」

2012-01-28 10:35:19 | 徳育 人間力

  「人生のダブルヘッダー」      郡司ななえ(鍼灸士)
 
   『致知』1998年7月号「致知随想」    ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
 

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私の目が見えなくなったのは二十七歳のときだった。
激しい痛みをともなって、徐々に視界がぼやけていった。
視力の低下が著しく入院を余儀なくされたときには、
とうとう「べーチェットさん」にかなわなくなったのかと思って、
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
 
厚生省指定の難病の一つであるべーチェット病だと診断されたのは、
高校三年生のときだった。
体育の時間にクラス全員で列を組んで
マラソンをしていたときのことである。
 
突然、足に劇痛が走った。
こらえきれずに転倒した。
 
足の腫れがひかずに病院でいろいろな検査を受けていくうちに、
ベーチェット病だと診断された。
 
病名がわかっても、どんな障害が出てくるかということは、
その時点ではまだわかっていなかった。
 
体に宿ってしまった病と仲良くしようと、
私は「ベーチェットさん」と名づけて、
なだめすかして十年あまりを平和に過ごしてきた。
 
新潟から東京に出てきて、建築会社でOLをしていた。
この平凡な生活が、ずっと続くのではないかと思っていた。
 
いや、そう願い続けることで、病気を克服できると信じていたかった。
ところが、「ベーチェットさん」はそんなに優しくなかった。
目の痛み、全身を襲う倦怠感、増していく内服薬、
注射、度重なる手術……。
 
難題を押しつけるだけ押しつけておいて、
一向によくなる気配は見えない。
それどころか、ますます窮地に追い詰めていく
あまりの意地の悪さに、ほとほと疲れ果ててしまった。
 
十か月あまりの入院の末に、退院することになった。
回復したからではない。
濃い乳白色の世界は、もう微動だにしなかった。
 
心配して、上京してきた母の腕につかまって、
週に一度だけ薬をもらいに病院へ通った。
 
外界との接触はそれだけだった。
テレビやラジオの音を耳にするのも煩わしくて仕方がなかった。
 
私にとって見える世界が失われたことは、
世界が失われたことに等しかった。
ただただ、ベッドの上に縮こまって、何も考えたくなかった。
 
一年六か月の間、私の巣ごもりは続いた。
その間、母が私を守る防波堤になってくれた。
「がんばりなさい」とか「そろそろ再起をはかったら」
などといったことは一言も言わなかった。
 

「いった豆でない限り、かならず芽が出るときがくるんだから」。
 

母が繰り返し言ったのはその一言だけだった。
 
そんな生きているのか、死んでいるのかわからないような
私の魂を呼び戻すきっかけとなったのは、
大宅壮一さんがお書きになった『婦人公論』の一文だった。
 

「野球の試合にダブルヘッダーがあるように、
 人生にもダブルヘッダーはある。
 最初の試合で負けたからといって、悲観することはない。
 
 一回戦に素晴らしい試合をすることができたのならば、
 その試合が素晴らしかった分だけ、
 惨敗して悔しい思いをしたならば、
 悔しかった分だけ二回戦にかければいい。
 
 その二回戦は、それまでにどれだけウォーミングアップを
 してきたかによって勝敗が決まってくる」
 
 
私の二回戦はこれから始まるのだと思った。
一回戦とは違って、目の見えない私で戦わなければいけない。
 
だが、一年半というもの、二回戦を戦う準備をさせてもらった。
もうウォーミングアップは十分だと思った。
いてもたってもいられない気持ちで
東京都の福祉局に電話をかけ、戸山町にある
心身障害者福祉センターを紹介してもらった。
 
目が見えなくなって、何から始めたらいいのかわからない
私にとって、まず最初に必要なのは
一人で歩けるようになることと、
点字を読めるようになることだった。
 
やっと外界と接触する心の準備のできた私を後押しするように、
電話で相談にのってくださった先生がおっしゃった。
 

「あなたは運のいい人ですね。
 ちょうど視覚障害者向けのカリキュラムにあきが
 出たところなのですよ。
 
 明日いらしてください。
 明日来られなければ、他の人に順番をまわしてしまいますからね」
 
 
舞い込んできた幸先のよさに喜び勇んで、
新しい人生を出発することになった。
 
そんな私の二回戦の試合模様が、
先に『ベルナのしっぽ』という一冊の本にまとまった。
 
結婚して、子供を産み、盲導犬とともに暮らす
奮闘ぶりが描かれている。
大竹しのぶさん主演のドラマとして、
フジテレビでも取り上げていただいた。
 
こうして、あの空白の一年半から立ち直ってみて思うのは、
生きる勇気を失わない限り、私たちは
たいていの困難を乗り越えていくことができるということである。
不幸のどん底にいるときには、どこまでも奈落の底に
落ちていくのではないかと思えてくる。
 
だが、それをこらえてじっと痛みを耐えていれば、
かならず明るい光は見えてくる。
 
その一つひとつの困難を乗り越えていくことが
生きるということなのではないかと思う。
 
そして、一試合目がうまくいかなくても、
人生にはときに二試合目が巡ってくる。
そのためのウォーミングアップを続けていくことこそが、
次の一歩を踏み出すためにもっとも大切なことなのだと思う。
 

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けれどもそれが教典になったのは200年後ですわ

2012-01-26 16:07:40 | 徳育 人間力

昭和54年(1979)  (84才)

 

成功を期する以上は、成功するまでやめない。

自分が死んでも、必ずあとを継ぐ人がある。

その人間がやっていく。

お釈迦さんでも、仏法を広めるにあたって、いろんなことを言うて、 亡くなられた。

けれどもそれが教典になったのは200年後ですわ。

200年たって初めて経典ができた。

お釈迦さんがこういうことを言われたということは、

弟子の弟子がやったわけですな。

そうですから、皆さんが志を立てて、

これをやろうと思った場合に、必ず成功するとはかぎらない

しかし、成功するまではやめないと心に誓ってやれば、

もし皆さんが途中で死んでも、必ずあと継ぎがある

失敗するというのは、たいてい成功するするかせんか分からん途中でやめてしまうからです。

だから途中で志をくじいたらいけない。

あくまでも志を失わんようにやっていけば、いかなることでもみな必ず成功すると思うです。


愉快に仕事をしているところに、非常な発展が生まれる

2012-01-26 15:51:58 | 建て直し

昭和36年(1961) (66才)


発展をしていくところの店というものは、そこの主人公を中心として、10人なら10人の店の人が、

みんな商売に強い関心をもって、

そして愉快に仕事をしているというようなところに、非常な発展が生まれてきていると思うのであります。

しかしそうでなくして、多少の不平不満があるということをそれを強く口に出して、

それを態度に表していくというようなところは、不思議に衰微しているのであります。

これは主人公の指導よろしきをえないのか、

あるいはまた店員の方々の自制が足りないのか、

いろいろございましょうが、

結論として全体が融和し、

そして仕事に興味をもって経営をしておられるお店は、ぐんぐん栄えております

そういうことを考えてみますと、

事業がいかに大きくなっても、ことは一緒だと思うのであります。

松下電器が今後さらに大成しても、

いま申しあげましたように、北街道にいる人の苦労が九州にいる人の胸に伝わり、

お互いにそこに心と心を通わしているというような状態に、松下電器の全部署がなっていなければならない。

そうなれば理想どおりの成果があがり、

社会のためにも大衆のためにもなる働きを、生産人としてなすことができるであろうと思うのであります。

なぜかと申しますと、そういうようなものの考えから、

いろいろの創意工夫というものが生まれからであります

仕事に非常に興味をもち、これを一つの使命とし、

これを天職とし、そして情熱をこれに傾いてやっていくという姿から、

いろいろな創意工夫というものが生まれるのであります。

いわゆる発明が生まれるのであります。

製品の上に発明が生まれるだけでなく、販売の上にも発明が生まれるのであります。

電話のかけ方にも発明が生まれるのであります

ひとたび電話を取ってお得意先に電話をかけたら、

先方はただなんとなくその熱意に心を打たれるものがあって、「よし、ナショナルを買おう」ということになろうと思うのであります。

そういうような点が、やはり問題だと思うのであります。

だんだんと仕事が増えてまいり、

その範囲が広がってまいりますと、なかなかみんなが、

いま申しあげましたような理想の過程に向かって修業していくということは、むずかしいのであります。

しかしそのむずかしいことに、お互いの努力によって成功しなければならないと思うのであります


【 そこに暗黒があるならば、その暗黒を光明に変えていこう】

2012-01-26 15:27:08 | 建て直し

昭和33年(1958) 松下電器入社式 (63才)

 

皆さんが松下電器へはいれたということは、皆さんの希望によるだけではないのであります。

皆さんの方針、希望にもとづいてはおりますが、

しかしそれを決定するには皆さんの力以上のものがそこにあった

その力の働きと申しますか、

そういうものによって両者が結合されたということを、

ここでははっきり私は考えてみたいと思うのであります。

したがって、今後、この結ばれたお互いの関係というものは、 
お互いの単なる個人意識をもって打ち切ることができないものだということも同時に考えられる。

それほど両者の結ばれた事実というものは強いものである。 
そう考えてみますと、

今後皆さんが会社で働いていくということ、
また会社が皆さんを擁して活動していくということに、

非常に強いものが生まれてくると思うのです。

単なる個人意識ではない。

単なる個人的な意識によってすべてが決定されるということは

いいかえますとまことに頼りないものである

それは烏合の衆の集まりにすぎないということにもなろうかと思いますが

お互いの強い希望、意思によって結ばれたのであるが、

それだけではないより大きなものがそこに働いておったのだ、というような考えをはっきりともてますと、

今後の両者の関係、また仕事の上に起こってくるいろいろ困難な問題も、

比較的これを苦労とせずして乗り切れるのではなかろうかと思うのであります。(中略)

おれは会社を選ぶにあたって、

その職種を選ぶにあたって、いろいろ考えてみた。


考えた結果こうと決心したんだ。

こうと決心したことがあるいは不幸であったかもしれない、

あるいは幸福であるかもしれないが、

いったん決心した以上は、この点を断固として貫いて、

そこから光明を見いだしていこう。

もしそこに暗黒があるならば、

その暗黒を光明に変えていこう、という

熱意と誠意がなければならないと思うのであります

そういうような考えを皆さんがおもちになっていかれたならば、

松下電器は皆さんの安住の地となり、

また光明の地ともなっていこうと思います。

それなくして、単なる才能、単なる学識をもって光明を見いだしていくということは、私はありえないと思うのであります。


人間が死んだら、その後どうなるのか、ということについては

2012-01-26 15:05:14 | 徳育 人間力

昭和49年(1974)  (79才)

人間が死んだら、その後どうなるのか、ということについては、

昔から、いろんなことが考えられてきているわね。

まったく消えてなくなってしまうとか、

あるいは霊魂としてそれぞれに残っているんだとか。

仏教の教えでは、

個々の生命はその人の死後、大宇宙という生命体に融合し、

融合するということだそうだけども、

私もだいたい同じような考え方やね。

ただ、個々の生命が大宇宙という生命体と渾然一体になるのであれば、

それぞれの個性というものは失われてしまう、
と考えたほうがいいんじやないかな。

仏教では、個々の生命は、その人の死後もそのまま残って、

それが再びこの世に生まれ変わって出てくる、ということのようだけれども、

それは、この世というか現世の行いによって、

あの世、来世の姿がよくも悪くもなる、

だからこの世で正しい行いをせよ、という一つの教化の方法として説かれたものではないかという気がするね

しかし、そういう説き方は、今の人にはいまひとつ理解しにくいところがあるんじゃないかな。

ぼくは、生命というものは、肉体が滅ぶことによって宇宙という生命体に帰納するのだけれど、

そこではもう個性はなくなっているんじゃないかと思う。

それでは個々人というものは、 
その死とともにまったく足形もなくなってしまうのかというと、

決してそうではない。

個々人が生きているあいだの思い、行い、実績というものは、この世に永遠に残る。

現に今から2000年も前に亡くなられたお釈迦様の思い、行い、実績というものは、

今日も立派に生き続けているなね。

お釈迦様ではなくても、すべての人の生きているあいだの足跡、

実績、思いというものは、現実の事実として残される。

だから、もし教化するのであれば、

よきにつけあしきにつけ、個々人としての実績として残るのだから、

この世でよりよく生きなさい、というように説いてみたらどうかな。

そして、それと同時に、個々の人々の実績ののちのちまで残し伝えていくために、

その人が死んだら、 

その人の経歴書というか、

功績書のようなものをつくって、

それを保存していくようにするのも一つの方法ではないかと思うね。

それはともかく、ぼくは、新しい生命は、やはり大宇宙の生命体から出てきて、

それが個々の肉体に結びつき、

新しい個々人が生まれるのだと思うな。

そしてその人の死後は、

また宇宙の生命体に帰る。

それはたとえば、同じ鉄でつくられているものでも、

鍬もあればナイフもあるわね。

ところがそれらが使えなくなると、

溶鉱炉に入れられて溶かされ、再び同じ鉄になる。

そこでは鍬であるとかナイフであるとかの区別はなくなるけれど、

その溶鉱炉の鉄によって、再び鍬もナイフも新たにつくられる。

死後の生命が帰っていく大宇宙の生命体というのは、ちょうどこの溶鉱炉のようなものと考えられるんじゃないかなあ

だから、死後の生命については、宇宙の生命体に帰納し一体となって、

個々にはもう存在しない、そう考えるんだけど、どうだろうか。


あるものは双葉のままで踏みにじられてしまうかもしれません

2012-01-26 14:58:33 | 徳育 人間力

昭和24(1949)  (54才)

生まれてすぐ死んだり、不慮の災害で死んだりすることは、

個人的な人情からいえばまことに忍びないことだと思います。

しかし、ここで申しあげております死というのは、個々のものについて言っているのではなく、

全体としての死を指しているわけです。

たとえば、草木について見ても、

個々のものを見れば、

あるものは若木で枯れ、

あるものは双葉のままで踏みにじられてしまうかもしれません。

しかし、草木全体の生長の姿を見ますと、

日に新たであり、日々に生まれ変わりつつあって、

全体としてはいつも生成発展の姿をとっているわけです。

これと同じように、人間も個々に見ればいろいろな不慮の死もあるでしょうが、

全体として見れば、人類はいつも日に新たに生まれ変わりつつあり、

絶えず生と死との流転の姿をとりつつ生成発展しているわけであります。

ですから、個々の場合において、情において忍びないものがあったとしても、

それをもって全体を推し測ってはいけないのです。

人類全体を通じての死、

さらに生あるものすべてを通じての原理を、はっきり自覚していなければならないと思います。

この原則を自覚すれば、

人情として嘆くことはあるとしても、

その悲しみから心を乱して、

人生を踏み誤るようなことは起こらないと思います。


神の意志は一人一人に一つの使命を与えている

2012-01-26 14:50:06 | 徳育 人間力

昭和36年(1961)(66才)


結局、人間は神の意志によって生き、神の意志によって死ぬということやろな。

人間の意志によって生き、人間の意志によって死ぬということじゃないな。

人間の、つまり人類の恒久性ということも、神の意志によって保たれ、神の意志によって発展するということがいえるのやな、基本的には。

だから、その神の意志の範囲においてわれわれが最善を尽くすということだけが認められている。

われわれもそれを信じてやるべきである、というようになるな。

人間の生死観というものは、そういうものやな。

人間の性質というものも、人間の意志以外が決めている

まあいちばん考えなければならんのが、やっぱり神の意志によってこの世に生まれてきて

神の意志によってこの世から去っていくということやろな

その生きているあいだに、神の意志は一人一人に一つの使命を与えている

それが、われわれには分からんからね。

手探りで、それを察知する、 
あるいは経験によって、あるいは経験した人々の数えによって察知して、

その与えられた運命に近い生活をしていくということが、いちばん幸せということやろな。

そういうことを察知すれば、自分はどういうような運命で、どのような神の思召によってここに生まれてきているのか。

たぶんこうだろう、

じゃあ自分はそのとおり誠実にやっていこう。

適当な時が来れば、神が死を宣告してくれるだろう。

それまでは神によって得た命やから大切にせああかん、

こういう生活態度がそこに生まれてくるのではないか。

基本の生死観だけそういうように考えたらいいのやね。


武士道の教えるところは、やってはならんということです

2012-01-26 14:38:10 | 徳育 人間力

昭和36年(1961) (66才)


言葉は多少違いますけれども、昔の日本には武士道精神というものがあって、
一時、武士道精神が世を支配したのであります。

この武士道精神にもいろいろありますが、結局、

そういう武士道の教えるところは、やってはならんということです。

簡単です。

やらなければいかんときに、命が惜しいとか損やというようなことを言うたら、

武士道に反するんです。

やらなければいかんときには、自分の利害、一身というものを無にして、やらねばならんという使命感に立つてやるというのが武士道である

また、いかにわが身の面目がつぶれても、

やってはならんときには、それはやらないようにする


あいつは卑怯者と言われても、

やってはならんことは、何と言われてもこれはやらない、というのが武士道精神である

単に利害関係、面目によって、事を決するのではないのです。

面目とか利害ということを超越して、ものの真実に直面して事を決する。

事の真実によって事を決するんだから、ある場合、世論のほうが誤っておるときには、

世論の攻撃をこうむる。

そのあげくには自分の身も捨てるということになる。

それでもその真実のためには、自分がやろうということが、

武士道の精神であります。

それによって日本は非常に大きな人間的成果をあげた時代があると思うのです。

今は是非善悪を、全部、利害得失によって決定するかの感があります。

これは人間として、たいへんな問題だと思うのです。

人間がもし利害関係のみによって是非善悪を決定するなら、

これは動物とあまり変わらんと思います。

しかし人間は、パンによって動く場合もあるが、

パンによって動かないような高い尊いものも同時にもっておるというところに、

人間の尊さというものがある。

さういうようなことをあらゆる角度から決定したものが、

日本武士道精神だと私は思うのです。

松下電器の経営も、いい意味の武士道精神の経営でなくてはならんと思うのです。

儲かるからやるとか、儲からないからやらないということのみ終始しない

儲かっていくからやるという場合も、

正当な場合にはそれでよろしい。

しかしある場合には、儲からなくてもやらなくてはならんという場合がある。


世のため、人のために使いこなせる精神を養わないといけない

2012-01-26 14:24:42 | 商い

昭和35年(1960)(65才)


神様があるかないかということについては、見方がいろいろありますが、

われわれが、俗に神さんというているもの、

その神さんは結局、いっさいのものに対して非常な慈愛の心をもっている。

そういうところに神さんの尊さがある。

神さんが、人間は弱いからあいつを苦しめてやれというようなことで、

どんどん苦しめたり、勝手なことをなさるんであれば、神さんの価値がない。

弱き者も強き者も悪人も善人も同じように、

なんとかして、さらによく助けてあげたいというような慈愛の心をもっているところに、

神さんとしてのほんとうの値うち、尊さというものがあると、私はこう思うんです。

われわれ人間は神さんほどではないが、

やはりそういうような慈愛の心をもって、

強い人を恐れたり、弱い人を見下げたりしないで、

みんな平等の考えをもって奉仕していこう、

そしてお互いがよくなっていこうと努める。

そういうところに人間の高まりがあり、そうすると戦争をしていいか悪いかということも、おのずと分かってくると思うのです。

またそうなれば、自分というものを絶えず反省しますから、自分の価値判断もできる。

自分というものがどれだけのものかということが分かる、

そうするとうぬぼれたりしないということになる。

また自分がちょっと劣っていたとしても悲観しない

劣っておれば、さらに努力して少しでもよくなって皆に喜んでもらおう

両親にも、兄弟にも、先輩にも喜んでもらおうと心がけるから、

先輩からも、両親からも、「感心した子どもである。 いい子どもである」と言うて、

心から喜んでもらえる。

そうしてその人には、いろいろな意味において世間の導きが与えられることになると思います

松下電器も私はそうだと思う。

今二万何千人かの人がおりますけれども、

この人たちが、みんな心を合わせて、そうして奉仕をしていくという考えをもてば、

「松下電器の人たちは立派な人だから、同じことであれば松下電器をひいきにしてやろうやないか。

松下電器をひとつ助けてやろうやないか」と言うて、

多くの方がわれわれに接触をもってこられる。

それが松下電器の繁栄の姿になってくるわけです。

そうでありますから、皆さんが両三年間いろいろ勉強してくださる。

その結果、技術は技術として高まらないといかん

知識またしかりである

そういうようにして一生懸命やらないといけないけれども

同時に、そういう習った知識や学問というものを、

立派に世の中、人のために使いこなせるような精神そのものを養わないといけない

その点を皆さんに私は特にお願いしておきます。


自分の発想で神様というものを創造するわけですな

2012-01-26 13:30:40 | 徳育 人間力

昭和52年(1977)(82才)


祇園さん(八坂神社)というお宮さんが京都にありますけれども、あそこは祇園さんとしての神さんですな。

どれだけの力をもってはるのか知らんけど、皆が認めてますわな

そしてそこへお参りしてお賽銭あげてますわ。

あれはやっぱり、形なきもの、

姿なきものですけれども、その神さんがおられるという、

神の力というもの、権威というものを認めて、みなお参りするんですな。

それはそれで秩序が立つていくわけです

町の秩序も立っていくわけです。

そういう目に見えない、金もなんにも要らない権威というものを、

われわれがつくり出して、そしてお祭りしたりなんかして、やっているんですな。

そういう起用なことができるんです。

私は、人間というものが偉いものやと思うのは、

自分の発想で神様というものを創造するわけですな

その創造した神さんに手を合わして措んでいる。

それで知恵を授かる。

知恵を授かって自分が成長する。

成長した知恵をもって、より高き神さんをつくる。

そしてそのより高き神さんをまた手を合わして拝む、そして自分も成長させる。

そういうようにして、

だんだん内容の充実した円満具足の神さんを、

われわれは今創造しつつあるわけですわ。

そういうことができるのが人間である。

自由自在に神をつくっているのが人間ですわ。

そういうことができるのが人間である。

自由自在に神をつくっている人間ですわ。

だから私は、人間は万物の王者や、 ということを本にかいたんです。


人間の幸せのために、宗教も学問も経営も存在する

2012-01-26 13:06:14 | 徳育 人間力

昭和44年(1969)(74歳)

 

こういうような物騒な世相というものを考えてみますと、

はたしてこれが人間の真の姿なのかどうか、過去は戦争につぐ戦争であったけれども、それは過去の姿であって、

だんだんと文化がすすんで、人間が月の面を歩くという状態になってきたんだから、もう地上の人間生活には平和が来て目もよさそうなものだ、

高度な文化生活というものが考えられるんじゃないかと思うのであります。

しかし事実はそうではなく、むしろ闘争が激しくなってきている。

なぜそういうふうなことが起こるのであろうことかということでありますが

私は結局、人間の偉大さというものを見失っているところから来ていると思うんですね。

宗教は人間の幸せのために存在する、学問もまたそのとおりであります

いっさいは人間が主である。 
神の教えを説くにいたしましても、主体は人間である

人間の幸せのために神の教えを説くのである

人間の幸せを進めるために宗教があるんだと考えられるのであります

ですからいつの場合でも、人間は主体とならなればならない。

人間が主座に立たなくてはならない

ところが人間が下僕になり、人間の主座というものが変わってきたというところに、いま申しましたような過ちがくり返されてきているんじゃないかという感じがするんです。

これは非常に大事なことでもあると思うんですね。

私ども会社の経営をやっていくにつきましては、やはり社会観・人生観というものをきわめて重要なこととして考えねばならんことは、これはいうまでもございません。

経営から生まれてくる所産というものは、人々の幸せになるものでなければならない

人々の幸せにならないことはしてはならないと思うのであります

人間が経営の下僕になることは許されない。 
人間のために経営が存するのである。

絶えずこういうふうに考えねばならんと思うんです 。

宗教の教えを行う方々にしましても、初めは人間のために、ということではあったんだろうと思います

お釈迦様の説法にいたしましても、

人々の不幸を見て幸せな人生が送れるようにということでいろいろとお考えになって

人間の道というものをお教えになった

人間をいちばん大事にして中心にして、そしてその人間の歩む道はかなくあるべしというふうに研究なさったんだろうと思うんです。

そうしてのちに教団というものができたわけですね。

ですから、教団もまた人間を中心としたものでなくちゃならん。

教団のために人間が下僕になってはならないと私は思うんです。

それは全部が全部そうではありませんが、ともすれば人間は教団の下僕であるというような錯覚に陥っている。

そういうところに、大きな災いというものが起こってくるんだと思うんであります。

今日新しい思想がだんだん生まれてまいります。

その思想によって、よりよき人間生活というものが探求されるということは、あってしかりやと思うし、

またなくてはならんと思います。

しかし、人間が思想の下僕になってはならないと思うんです。

ところが今日、思想のためにいかに多くの人々が残虐なめに遭ってきているか、

それは皆さんご承知のとおりであります。

これは、こと志と違うわけですね。

そういうことからしましても、われわれ今、 
大いに考えねばならないときに来ているのではないかと感じがします。

人間を下僕にしてはならないということを、

はっきりとわれわれの人生観に、社会観に、もつようにしなくてはならないという感じがすんわけであります。


信ずる心を高めると同時に、理解を深めていかなけばならない

2012-01-26 12:58:22 | 徳育 人間力

昭和24年(1949) (54歳)


およそ疑ってかかるより、物事を信じていくことのほうが、結果から見て得るところが多いと思います。

ところが今日のお互いにのあり方を反省してみますと、

一度は疑ってみるのが常識になり、それがわれわれの生活態度の中に相当強く識りこまれているように感ぜられます

友達どうしの話しあいでも、だまされはしないか、

先生の言うことすら、ウソをつかないかと思い

少しも信を心の中心としてものを見ようとしませんから、

みずからものを失いつつある現状ではないかと思います。

なるほど、ときにはたやすく信じてだまされる場合もありましょう。

が、
だまされる場合にも、あまり純真に信ずることによって、

だまそううとした者も、神のごとき相手に感化され、翻然として、

自分の行動を悔い改めることもあるのであります。

宗教の面について考えましても、それはやはり信仰が中心であります。

仏の思召が、また神の摂理が、大きな力となり、

深い恵みとなって現われてくると信じることによって初めて、

仏教やキリストの教えも生き、

その人を救い導く効果を現わすのであります。

しかし、

キリスト教なり仏教の説くところは一応分かる。

が、実際において、神や仏の力はあるかどうか、目で見ることも、

舌で味わうわけにもいかないから、

これは信じられない、 ということで疑う心が起これば、

いかによい教理を説いても信仰は生まれるものではありません。

したがって、宗教はこれを信ずるという心の芽生えを基礎として、だんだん進んでいき、

ありながたさを感じ、いよいよ信仰三昧に入って、

絶対に帰依することになるのであります。

ひとり宗教だけでなく、日常の仕事の上にも、家庭生活のことについても、

友人、師弟、労使のあいだでも、信ずる心持ちが強ければ強いほど、事がスムーズに運び、よい結果をもたらすものと思うのでたあります。 (中略)

宗教について考えてみますと、信仰することによって、

宗教の真たいを悟りひらき、神の愛なり、

仏の慈悲なりを体得し、

信仰三昧に入って、平和な人生を送っている人も非常に多いのであります。  

今日の精神文化は、そういう宗教を中心として発達してきたのであります。

それほど大きな効果があったのでありますが、

しかし宗教は、信仰だけによっていっさいの成果をあげているかというと、そうではありません。

信ずるだけでは迷信に陥ることがあります

過去の歴史に徴しましてもこの事例がずいぶんあります。

信ずるだけでは、真理に立脚した教理を誤りなく信仰していくつもりでも、

そこに誤解が生じたり、また邪教というものが知らず識らず生まれてきて、

いわゆる迷信に陥りやすいのであります。

軌道からはずれて、脱線のかたちで進んでいる場合も多いのであります。

ですから、ただ信ずる、信仰する、だけでは正しい成果をあげることはできません。

ほんとうの正しい信仰の心持ちを生かすには、一方によき理解、

よき判断、よき認識というものがなければならないと思うのであります。

つまり信ずる心を高めると同時に、それと併行して理解を深めていかなけばならないと思うのであります

しかし理解が高まっても、もし心に疑いの念が強いと、 物事は容易に実行に移せないのであります。

学問や体験によって認識した真理を、信じあう心の上にあてはめなければならないのであります。

この信ずるという心の働きを正確な理解の上にのせて生かしていくことが、

新解両全ということになるのであります。

そこでわれわれは、信ずることと物事を理解していくことの2つながらを全うする心がけをもたなければならないと思うのであります。

 


宇宙根源の力は、燦々として降り注いでいるのであります

2012-01-26 12:13:17 | 徳育 人間力

昭和24年(1949)(54齢)
 


ですから、天地の恵みは、すでに限りなく与えられているのだということを、お互いにに十分に認識していなければなりません

恵みはすでに与えられているのですから、ある宗教を信じているからといって特別に与えられるものではないのであります

この認識が、迷信を避ける第一の道であり、また正しい信仰への第一歩になると思うのであります

さて、このように天地の恵みがすでに限りなく与えられているとしましても、

この与えられ方が人によって違うのかどうかということが、
つぎの問題になります。

もしも宇宙根源の力が、ある人間には深い恵みを与え、他の人間には罰を与えるというように、

個々の意識をもって臨んでおられるのだと考えますと、

ここから非常に大きな迷信が生まれてくるのであります。

つまり、あの人間は三べんお参りしたから特別な恵みを与え、

この人間は一ぺんも参らないから罰を与えてやるというふうに、

神様や仏様が何か特別の意識といいますか、

愛情の念をもって臨んでおられると考えますと、

これは真実をはなはだしくゆがめてしまうことになるのであります。

天地の恵みは、このような姿で与えられているのではないと思います。

三べんお参りしょうが一ぺんだけお参りしょうが、宇宙根源の力は、そんなことにかかわりなく

燦々として天地の恵みを降り注いでいるのであります。(中略)

宇宙根源の力は、善人悪人の区別なく、賢者愚者の区別なく、すべての人間に平等にその恵みを与えているのであります

われわれ人間のように、ある一つの意欲をもって与えようとしているのではなく、

まったく無心の姿において、燦々としてその恵みを降り注いでいると思うのであります。

もっとも、無心であるとは申しましても、あるいはその奥に、人間に対する深い愛がひそんでいるかもしれません

しかしながらその恵みが、あまりにも広大であるために、

とうていわれわれ人間の小さな意識では、宇宙根源の力の意志を判定することはできないと思うのであります。

それほど大きいのであります。

ところが、今までの宗教の教化の方法を顧みますと、どうも神様を信ずる者だけを神は助けてくださるのだ、というふうな説き方をしているように思われのであります。

この宗教に帰依する者だけに、何か特別のご利益があるのだと言うのであります。

そして仏罰だとか神罰だとか言って、人間に恐怖心を与え、

これによって信仰に導いていこうとしているのであります。

もちろんこういう方法のほうが早く信仰に導けるかもしれません。

また、どうせ信仰に導けばよいのだから方便として使ってもいいではないかと思われるかもしれません。

しかしながら、この方便が方便だけで終わればよいのですが、なかなかそうはいかないのであります。

方便と真実とが混同されてしまって、

ついには信ずべからざるものを信じてみたり、正しくないものを正しいと見たり、

いろんな迷信や迷いを起こして、その結果、生活を乱すことがはなはだ多いと思うのであります

この意味において、今までのある種の宗教のあり方は、功罪相半ばすると思うのであります。

すなわち、方便の効果があったと言えばあったのですが、しかしその方便からまた大きな弊害が生まれてきていると思うのであります。

そこでこういった弊害を避け、お互いに迷信に陥らないようにするためには、

天地の恵みは無心の姿において、すべての人間に平等に与えられているということを、

この際はっきり認識し直さなければならないと思うのであります。

天地の恵みは平等であり、無心である。

これが正しい信仰に入る第二の要点であります。