┌───今日の注目記事───────────────────────┐
「いや、大丈夫。もう一回やりなさい。有美ならできるから」
佐野有美(さの・あみ=車椅子のアーティスト)
『致知』2013年8月号
特集「その生を楽しみ その寿を保つ」より
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【記者:小さい頃にご両親から特訓を受けられたと
おっしゃっていましたが、
どのようなことをなさっていたのですか?】
皆さんもなんで手で食事をするのって
急に言われると困るじゃないですか。
それと同じように私も唯一あったこの三本の指で、
ごく自然と周りのものを触ったり、掴んだりしていたようです。
それを見た母が、
「あれ? もしかしたら足でいろいろできるんじゃないか」
と思ったらしく、積み木やおもちゃで遊ばせたり、
フォークやスプーンを持たせてくれたんです。
三歳の時、あゆみ学園という
肢体不自由児施設に一年間だけ通っていたのですが、
そこで着替えの練習をしていた記憶があります。
これは私の中で一番嫌な訓練でしたね。
フックのついた柱が二本あって、
その間にパンツやTシャツをかけておくんです。
そこをお尻で移動して、脱いだり穿いたりする
練習をしたんですけど、なかなか上手くいかない。
私が「できない」って言うと、
母は「やってみなきゃ分からない」と。
ところが、何回やってもできないわけですよ。
それで段々嫌になってしまったんです。
ただ、どんなに弱音を吐いても、
「いや、大丈夫。もう一回やりなさい。有美ならできるから」
と言って、母はとにかくやめさせてくれませんでした(笑)。
そうやって毎日、毎日、言われるがままにやっていたら
ある日、Tシャツを着ることができました。
その時、母に
「ほらね。やっぱり有美はできるんだよ」
って言われたのが凄く嬉しくて、
そこからどんどんチャレンジ精神が出てきました。
そのうち道具を使わずに、足でTシャツの裾を引っ張って
着脱したりと、自分でいろいろ考えていけるようになりました。
私は、他人と同じ方法ではできません。
ピアノを弾いたり、字を書いたり、
裁縫とかも自分なりに工夫してできるようになりました。
それから、小学校三年生の時に水泳で
二十五メートル泳ぎたいって思ったんです。
一般学校に通っていたので、私以外はみんな手足があって、
普通に泳いでいました。
それを見て、私もみんなのように泳ぎたいなと。
そしたら父が協力してくれて、
どうやったら泳げるか一緒に考えてくれました。
そして辿り着いたのが有美泳ぎ(笑)。
バタフライのように体全体をうねらせるんです。
息継ぎする時はクルンと仰向けになって、
またクルンと戻る。
それなら泳げるんじゃないかということで、
地元の市民プールで父と特訓を始めました。
ところが、何度も溺れるんですよ。
それで水が怖くなってしまって、やっぱり私には無理だと。
でも、その時に父が
「ここで諦めていいのか?
さっき一人で五メートル泳げただろ。まだ行けるぞ」
って励ましてくれたんです。
「そっか、私の目標は二十五メートルだ。
諦めるわけにはいかない」
と思い直して、頑張って練習を重ねて、
遂に二十五メートルを泳ぐことができたんですよ。
そしたら父が
「学校でも泳いでみろ。もっといけると思うよ」
と。それで先生に
「限界まで泳がせてください」とお願いして、
クラスの皆に見守られながら泳ぎました。
ターンの際は、片足を水中で回し、
体を半回転させて短い足で壁を精いっぱい蹴る。
そして、顔を上げた瞬間、もう先生も友達も大拍手。
気づいたら百メートルも泳いでいたんです。
あの時の達成感はもう本当に忘れられません。
いま振り返ると、初めて心の底から
諦めないでよかったって思えた瞬間だったと思います。
●車椅子のアーティスト・佐野有美さんのお写真はこちら
<※誌面未公開写真もあります>
http://ameblo.jp/otegami-fan/entry-11572685031.html
┌───今日の注目記事───────────────────────┐
「クリントン大統領が取り上げた一首」
武田鏡村(作家)
『致知』2013年8月号
特集「その生を楽しみ その寿を保つ」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201308_pickup.html
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「たのしみは 艸(くさ)のいほりの
筵(むしろ)敷き
ひとりこころを 静めをるとき」
(私の楽しみは、世間の喧噪から離れ
粗末な草葺きの我が家に筵を敷き、
一人静かに自分を見つめる時である)
この歌は、江戸末期の歌人・橘曙覧の短歌集
『独楽吟』の一首です。
『独楽吟』には五十二の歌が収められていますが、
いずれもこの歌同様に「たのしみは」で始まり、
日常の些細な出来事の中に見出した楽しみが
巧みに表現されています。
人はレジャーやショッピングなど、
外の世界に楽しみを求めますが、
そうした欲求はどこまでいっても満たされることはなく、
そのことによって逆に苦しみを得ます。
人生の楽と苦は一枚の葉っぱの表と裏のようであり、
むしろ苦しみのほうが多いことを
痛感する方も多いのではないでしょうか。
橘曙覧はこの真実の中で、
苦楽の波間に高ぶる心を、
自分で見つめて静めるところに本当の楽しみを求めました。
狭い家の中でも僅かなスペースを見出して、
そこに座って静かに自分を見つめる。
そのゆとりの中から誰にも邪魔されない
楽しみの空間が広がっていく。
字面こそ平易ですが、自分の心に感応させて読むと、
実に奥深いものがあります。
恥ずかしながら、私はこの秀逸な短歌集の存在を
二十年前まで認識しておらず、
アメリカ人を通じて初めて教えられたのでした。
平成六年、天皇皇后両陛下を国賓として迎えた
クリントン大統領が、ホワイトハウスの歓迎式典のスピーチで
取り上げたのが『独楽吟』の一首だったのです。
「たのしみは 朝おきいでて
昨日まで
無かりし花の 咲ける見る時」
(私の楽しみは、朝起きた時に昨日までは
見ることがなかった花が咲いているのを見る時である)
クリントン大統領はこの歌を通して、
日本人の心の豊かさを賞賛しました。
恐らく専門家の意見をもとに盛り込んだのでしょうが、
その判断は見事なもので、
私たち日本人が自らの感性の素晴らしさを再認識し、
知る人ぞ知るこの名作が平成の世に
再びスポットライトを浴びる契機となったのです。
「たのしみは」で始まる『独楽吟』は、
日常のありふれた出来事を「楽しい」と受けとめること。
そうした感性を育むことで、日頃見失っている尊いものを
受けとめられることに気づかせてくれます。
どんな苦境にあっても、楽しみを求める感性があれば、
人生はまさに「楽しみ」に満ちていることを発見できるのです。
私も早速その作品に触れ、たちまち虜になったのでした。
※『独楽吟』はなぜ人々の心を打つのか?
詳しくは、『致知』8月号(P56~59)をご覧ください。
┌───今日の注目記事───────────────────────┐
「『易経』に学ぶ社長の心得」
伊與田覺(論語普及会学監)
『致知』2013年8月号
連載「巻頭の言葉」より
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前回(2013年5月号)は『易経』に説かれる、
立派な君子になるための正しい行為をご紹介しました。
その道筋は龍が天に昇る姿に例えられ、
初九、九二、九三、九四、九五、上九の
六段階に分けて記されています。
今回はその五段階と六段階、会社であれば社長となり、
さらに社長を退いた後の心得について紐解いてみたいと思います。
「九五。飛龍天に在り。
大人(たいじん)を見るに利(よ)ろし」
社長ともなれば「飛龍天に在り」で、
龍が天空を自在に駆け巡るほどの実力も身についています。
しかし、お山の大将でいい気になっていてはなりません。
社長になると社外での交流も盛んになりますが、
「大人を見るに利ろし」で、
外部の優れた人物から学ぶ心掛けが必要です。
但し外だけでなく、内もしっかり見ておかなければなりません。
大きな会社になると、自分の会社の課長や係長の名前を
知らない社長も多いようですが、
普段から将来大人となるべき若手によく目を配り、
彼らの優れた意見に耳を傾けることも大切です。
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■龍は雲に乗って天に昇る
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私は昭和二十八年に大学生の塾を立ち上げた頃、
中井祖門という禅僧に
深く親炙(しんしゃ)しておりました。
ある正月にご挨拶に伺うと、
床の間に中井老師の描いた龍の絵が掛かっていました。
私はその見事さに感嘆し、
ぜひとも自宅の床の間に掛けてみたい、
と無理を言って借りて帰りました。
ところが毎日眺めていると、
その元気な龍に何か危ういものを感ずるのです。
よくよく見ると、その龍には雲が描かれていませんでした。
私はそういう絵を掛けていると自分も墜ちてしまうと思い、
すぐに老師に返しに行きました。
龍は雲に乗って天に昇るものです。
会社で重役になるくらいの人は、
能力も働きも秀でているものですが、
それだけでは一国一城の主にはなれません。
人望、徳望がなければ上がることはできないのです。
聞けば老師がその絵を描いたのは四十九歳の時。
まだ元気盛りの頃だと分かり得心しました。
自分の力だけでなく、時間をかけて徳を養い、
人望によって推挽されていくのが本当の社長であり、
地位を奪い取ったような社長は長く続くものではありません。
雲が十分寄ってくるまで天に昇ってはならないのです。
※明月堂は「博多通りもん」で有名な福岡の和菓子店です。
┌───今月の注目記事───────────────────────┐
「人という字を刻んだ息子」
秋丸由美子(明月堂教育室長)
『致知』2007年5月号
致知随想より
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■医師からの宣告
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
主人が肝硬変と診断されたのは昭和54年、
結婚して間もなくの頃でした。
「あと10年の命と思ってください」
という医師の言葉は、死の宣告そのものでした。
主人は福岡の菓子会社・明月堂の五男坊で、
営業部長として会社を支えていました。
その面倒見のよさで人々から親しまれ、
たくさんの仕事をこなしていましたが、
無理をして命を落としては、元も子もありません。
私は「まずは身体が大事だから、仕事は二の次にして
細く長く生きようね」と言いました。
しかし主人は
「精一杯生きるなら、太く短くていいじゃないか」
と笑って相手にしないのです。
この言葉を聞いて私も覚悟を決めました。
10年という限られた期間、
人の何倍も働いて主人の生きた証を残したいと思った私は、
専業主婦として歩むのをやめ、
会社の事業に積極的に関わっていきました。
30年前といえば、九州の菓子業界全体が
沈滞ムードを脱しきれずにいた時期です。
暖簾と伝統さえ守っていけばいいという考えが
一般的な業界の意識でした。
明月堂も創業時からの主商品であるカステラで
そこそこの利益を上げていましたが、
このままでは将来どうなるか分からないという思いは
常に心のどこかにありました。
そこで私は主人と一緒に関東・関西の菓子業界を行脚し、
商品を見て回ることにしました。
そして愕然としました。
商品にしろ包装紙のデザインにしろ、
九州のそれと比べて大きな開きがあることを
思い知らされたのです。
あるお洒落なパッケージに感動し、
うちにも取り入れられないかと
デザイナーの先生にお願いに行った時のことです。
「いくらデザインがよくても、それだけでは売れませんよ。
それに私は心が動かないと仕事をお受けしない主義だから」
と簡単に断られてしまいました。
相手の心を動かすとはどういうことなのだろうか……。
私たちはそのことを考え続ける中で、一つの結論に達しました。
それは、いかに商品が立派でも、
菓子の作り手が人間的に未熟であれば、
真の魅力は生まれないということでした。
人づくりの大切さを痛感したのはこの時です。
■「博多通りもん」の誕生
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
以来、菓子屋を訪問する際には、
売れ筋の商品ばかり見るのではなく、
オーナーさんに直接会って
その考え方に触れることにしました。
しかし、同業者が突然訪ねていって、
胸襟を開いてくれることはまずありません。
行くところ行くところ門前払いの扱いでした。
忘れられないのが、神戸のある洋菓子店に
飛び込んだ時のことです。
そのオーナーさんは忙しい中、一時間ほどを割いて
ご自身の生き方や経営観を話してくださったのです。
誰にも相手にされない状態が長く続いていただけに、
人の温かさが身にしみました。
人の心を動かす、人を育てるとは
こういうことなのかと思いました。
いま、私たちの長男がこのオーナーさんのもとで
菓子作りの修業をさせていただいています。
全国行脚を終えた私たちは、社員の人格形成に力を入れる一方、
それまで学んだことを商品開発に生かせないかと
社長や製造部門に提案しました。
そして全社挙げて開発に取り組み、
苦心の末に誕生したのが、「博多通りもん」という商品です。
まったりとしながらも甘さを残さない味が人気を博し、
やがて当社の主力商品となり、いまでは
博多を代表する菓子として定着するまでになっています。
「天の時、地の利、人の和」といいますが、
様々な人の知恵と協力のおかげで
ヒット商品の誕生に結びついたことを思うと、
世の中の不思議を感ぜずにはいられません。
■「父を助けてください」
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ところで、余命10年といわれていた主人は
その後も元気で働き続け、私も一安心していました。
しかし平成15年、ついに肝不全で倒れてしまいました。
手術で一命は取り留めたものの、
容態は悪化し昏睡に近い状態に陥ったのです。
知人を通して肝臓移植の話を聞いたのは、そういう時でした。
私の肝臓では適合しないと分かった時、
名乗り出てくれたのは当時21歳の長男でした。
手術には相当の危険と激痛が伴います。
万一の際には、命を捨てる覚悟も必要です。
私ですら尻込みしそうになったこの辛い移植手術を、
長男はまったく躊躇する様子もなく
「僕は大丈夫です。父を助けてください」
と受け入れたのです。
この言葉を聞いて、私は大泣きしました。
手術前、長男はじっと天井を眺めていました。
自分の命を縮めてまでも父親を助けようとする
息子の心に思いを馳せながら、
私は戦場に子どもを送り出すような、
やり場のない気持ちを抑えることができませんでした。
そして幸いにも手術は成功しました。
長男のお腹には、78か所の小さな縫い目ができ、
それを結ぶと、まるで「人」という字のようでした。
長男がお世話になっている
神戸の洋菓子店のオーナーさんが見舞いに来られた時、
手術痕を見ながら
「この人という字に人が寄ってくるよ。
君は生きながらにして仏様を彫ってもらったんだ。
お父さんだけでなく会社と社員と家族を助けた。
この傷は君の勲章だぞ」
とおっしゃいました。
この一言で私はどれだけ救われたことでしょう。
お腹の傷を自慢げに見せる息子を見ながら、
私は「この子は私を超えた」と素直に思いました。
と同時に主人の病気と息子の生き方を通して、
私もまた大きく成長させてもらったと
感謝の思いで一杯になったのです。
もう一度『致知』を読みたいと思った方はこちら
http://www.chichi.co.jp/news/3691.html
(動機に「再講読」をお選びください)