交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

公教育は本当に必要なのか

2012-01-07 23:42:35 | 教育

http://www.systemicsarchive.com/ja/b/education.html

教育をすべて民間に任せれば、教育の機会均等を守りながらも、

子供たちの選択の自由を増やし、学校の質を上げることができる。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

司会 

医者と教師は、客から先生と呼ばれ、

客を客とは思わない特殊な職業に従事しています。

教育は、市場原理とは無縁の聖域でしょうか、

それとも教育にも市場原理を導入するべきでしょうか。

日本の経済大国としての成功の秘訣は教育にあるとよく言われますが

公教育は、次第に機能不全に陥り始めています。

60年代の末から大学紛争が始まり、

70年代の半ばから高校生の荒廃が社会問題化し、

70年代の後半には中学校で校内暴力の嵐が吹き始め、

80年代の半ばから、校内暴力に代わっていじめがクローズアップされ、

そして現在小学校で学級崩壊が始まっています。

公教育のあり方は今のままで良いのかどうかを議論してください。

 

社会 

教育が荒廃しているのは、厳しい受験競争のもとで、

子供たちが仲間を蹴落とすことしか考えなくなっているからだ

91年に文部省の調査研究協力者会議が、

小中学校の児童生徒の成績評価を、

学内順位で決まる現行の相対評価中心から到達度に応じた絶対評価中心へ

転換する旨の報告を出したが、これは重要な指摘だ。

労働者予備軍に偏差値という市場価格をつけて

労働市場で売買することは非人間的だ。

偏差値教育で子供たちを競争させるのではなくて、

一人一人の個性を重視した教育を行うべきだ。

 

自由 

一方で偏差値や順位による相対評価を否定しておきながら、

他方で個性尊重を主張することは理論的に矛盾している。

個性があるかどうかは他人と比較しなければわからない。

昔「偏差値よりも個性値」というキャッチフレーズを掲げている大学があったが、

偏差値は個人が平均からどれだけ偏差しているかを示す数字で、

個性を数量化する値、個性値と言ってよい。

文部省の調査研究協力者会議が提案するように、

教育から相対評価を追放しても、企業の求人は定員を決めているので、

最終的には相対評価が重要になる。

日本の教育が画一的であるのは、偏差値を使うからではなくて、

偏差値の基準が画一的であるからだ。

 

社会 

あなたは自由主義者(リベラリスト)なのに、

なぜ子供たちを受験競争から解放(リベレイト)し、

もっと自由にのびのびと勉強できる環境を作ろうとは思わないのか。

 

自由 

自由を認めるということは、選択の自由を認めるということだ。

選択をする時、必ず選択される者とされない者が出てくる。

当然競争になる。

だから自由を肯定するならば、競争も肯定しなければならない

 

社会 

絶対評価なら、勉強するべき分量に上限があるが、

相対評価なら、競争の悪循環で、上限がなくなり、

勉強時間が無限に伸びていく。

子どもたちの遊びが質・量ともに貧しいものになっている状況は、

子どもの生活における時間とゆとりの乏しさと深くかかわっている。

小学生から既に多くの者が腕時計を持っていることにも象徴されるように、

子どもたちは、

学校、塾やおけいこごと、自宅での勉強などで時間に逐われるようになり、

遊びの時間は削られ、

その内容も屋内での孤立型の遊びが主役になっていく。

子どもたちは、ゆとりのある自由な時間を与えられることによって、

はじめて心から遊びを楽しみ、自分なりに遊び方を創意工夫し、

のびのびと個性や創造性を伸ばすことができる。

英語のことわざに、「勉強をしすぎるとばかになる」というものがあるが、

子供を受験地獄から救い、適度に遊ばせるほうが、教育上好ましい。

 

自由 

日本の子供が勉強しすぎているというのはうそだ

国際教育到達度評価学会の調査では、

日本の子どもたちの塾などを含めた家庭学習時間は、

世界ランキングで平均をかなり下回っている。

 

社会 

でも国際教育到達度評価学会が96年に行った国際数学・理科教育調査では、

日本の子供は、世界41カ国中、3位から4位だ。

やはり日本の子供は勉強しすぎている

もっとカリキュラムを軽減して学力を落とすべきだ。

 

自由 

もうすでにかなり落ちている。

東京大学工学部が、81年から現在まで計4回、

工学部に進学する2年生に

まったく同じ内容の数学の学力テストを行ったところ、

第1回の81年に100点満点で54.0点だった平均点が、

第二回の83年には52.8点に、

第三回の90年には43.9点に、

第4回の94年には42.3点に下がっている。

入試科目に数学がない大学はもっと悲惨だ。

分数の掛け算や割り算すらできない大学生がたくさんいる。

また英語の学力も一段と低下していて、TOEFLの平均点を見てみると、

アジア25ヶ国の中で日本は北朝鮮とともに最下位だ。

 

国家 

それは少子化が進んで、大学に入るのが簡単になったからではないのか

 

自由 

第二次ベビーブーマーの頂点が大学を受験したのは90年代の初めだから、

80年代前半よりも90年代前半の方が

 大学に入るのは倍率的には難しかったはずだ。

にもかかわらず学力が落ちている。

 これは、文部省のゆとり重視路線のおかげだ。

文部省は、平成14年から施行される新学習指導要領で

数学などの学習内容をさらに大幅にカットするつもりだ。

 

社会 

私は《生きる力》と《学力》を区別している。

これからの社会が子どもたちに求める最も重要なものは

自ら学び、自ら考える力、豊かな人間性、健康や体力からなる《生きる力》だ

こうした力を身につけるためには、

ゆとりの中で、子どもたちが試行錯誤をしたり、

遊びを含む多様な体験を積み重ねることが不可欠だ。

小さいころから一刻を争い、

ひたすら知識を詰め込む勉強だけでは、《生きる力》ははぐくまれない

親は、是非とも、そうした世の中の変化に目を向けて、

勇気を持って子どもたちに時間とゆとりを与える努力をするべきだ

そして、学校週5日制によってもたらされる自由な時間を、

子どもたちの遊びの再生にも大いに生かさなければならない

従来の詰め込み教育で頭に叩き込まれてきた知識のほとんどは

実社会で役に立たない。

そんな役に立たない学力を高めることが教育の目標であってはならない。

子供たちは地域社会での活動に参加して、生きる力を身につけるべきだ

 


教育の自由化 2/3

2012-01-07 23:40:00 | 教育

http://www.systemicsarchive.com/ja/b/education.html

 

自由 

文部省は、ゆとりができれば、

子供たちは自主的にゆとりを有効活用すると思っていたようだが、

実際にはテレビゲームに熱中したり、

携帯電話で用もなく友達とおしゃべりをしたりして暇を持て余し、

自分の将来を真剣に考えた時間の過ごし方をしていない

旧来の教育システムを改革する必要があることは確かだが、

文部省や教育評論家たちは、問題の所在がわかっていないから、

彼らが教育システムをいじればいじるほど、

ますます日本の教育は堕落していく。

 

国家 

明治以来、日本の教育システムは優秀な人材を育ててきたし、

資源に乏しい我が国が製造業の分野で成功しえたのは、

そうした優秀な人材のおかげだ。

日本の初等教育や中等教育は、アメリカのそれよりも世界的評価が高い

日本の教育評論家の中には、

個性重視・自由尊重のアメリカ流の教育方法を理想として

教育改革を提案している人が多いが、

どうして教育が最も荒廃している国をモデルとして見習わなければならないのか

 

国家 

日本には和の伝統があって、

個人が組織から浮き上がることは許されない。

民族の特性を考えれば、

日本人は、チームワークを生かした物作りに向いている

だからこれからも協調性に重きを置いた教育を行うべきだ

 

自由 

民族の特性を先入見に基づいて固定してはいけない。

アニメの宮崎駿、

ゲームソフトの飯野賢治、

映画の北野武、

音楽の坂本龍一など、

非製造業分野でも世界的な評価を受けるような独創的な仕事をしているこうした天才的個人は、

日本人がいるではないか。

娯楽産業が比較的自由な分野だから

日本からも輩出されるわけだが、

出る杭を打つ現在のシステムを改めれば、

更に幅広い分野から現れるはずだ。

情報革命の今、

政府主導の画一的な公教育の廃止を考える時期にきていると私は思う

 

社会 

文部省も中央教育審議会も、

「教育の多様化」や「個性の尊重」などのスローガンを掲げて

何回となく教育改革を手がけてきた。

教育の多様化や個性の尊重のために公教育を廃止しろ

という議論には飛躍がある。

公教育のどこに問題があるというのか。

 

自由 

公教育は、医療と同様、補助金と許認可で守られた保護産業だ。

保護産業の弊害を取り除くためには、

教育機能と評価機能という二つの機能を分離する必要がある。

ここで謂う所の評価機能とは、

資格試験の資格やコンテストの賞が持っているような、

個人が一定の能力を持っていることを保障する機能で、

普遍的な、

つまり超組織的な妥当性があれば、

就職や昇進などにおいて人選のコストを削減する。

これまで日本の社会で、

評価機能として最も重視されてきたのが、学歴である。

学歴を決定する入学試験や単位の認定や学位の授与は、

資格試験やコンテストと同様に評価機能を持つが、

教育機能との抱き合わせであるから機能が純粋ではない。

教育機関が行う試験には、

英検のような学歴を前提としない資格試験と比較すると、

1.資格試験の場合、特定の学校に通う必要はない。
  実力さえあればそれでよい。

  ところが学歴の場合、本来独学で成果を出せる人の方が

  他人から教わらなければ成果を出せない人より

  優秀であるにもかかわらず、前者の能力はまったく評価されない

2. 学歴社会のもとでは、

  現在の職業を放棄して大学に通うことは困難だから、

  18歳の勝負で人生が決まり、敗者復活が認められないが、

  資格試験は、受験者の年齢を問題としないので、生涯学習を促進する。

3. 学歴が保証する能力は漠然としすぎている。

  これまで日本の銀行は、

  偏差値50の大学の経済学部卒業生よりも偏差値60の大学の

  文学部卒業生を採用してきた。

  経済学部でも文学部でも入学試験の中身はほとんど同じで、

  銀行が期待するのは専門的知識ではなくて、

  潜在的な能力だからである。

  ところが雇用形態が、

  ジェネラリストの終身雇用からスペシャリストのアウトソーシングへと

  変化して行くと、

  特殊な才能を保証する評価機能が求められるようになる。

 

4. 入学試験の難易度は年度ごとに変動する。

  仮に大学審議会が提案するように、

  単位認定や学位授与を厳しくして、

  卒業に評価機能を持たせたとしても、

  教授の講義は個人色が強く、

  教授ごと大学ごとに評価基準がまちまちであるから、

  学位の価値にばらつきが出てしまう。

  出身大学による人物判定は、資格試験のような普遍性がないし、

  学閥という形で業績原理が帰属原理に転化することによって、

  経済の活性化を阻害する危険がある。   などの問題点がある。


社会 

入学試験であれ、資格試験であれ、

一回のペーパーテストで人間の評価が決められるのはおかしい。

平成5年に文部省が通知を出して以来、

内申書に業者テストの結果が盛り込まれないようになり、

公立高校でも推薦入学が実施され、

一般入試では、その内申点と学力試験の得点が、

一対一の比率で評価されようになった。

入学試験だけで合否を決めるのではなく、

生徒の学習態度や学習意欲をも評価する推薦制度が取り入れたことは

評価できる。

学力だけでなく、人格をも評価しようとすれば、

生徒と長期間にわたって接触している教師が、

教育者としての役割だけでなく、評価者としての役割をも担う必要がある。

 

自由 

これまで日本の教育システムは優秀な人材を育ててきたが、

その「優秀さ」には「工業社会での」という限定が必要だ。

日本の学校教育が理想とする秀才の条件と

良いコンピュータの条件は奇妙に一致する。即ち、

  1. 記憶録容量が大きくて、
  2. 情報処理速度が速く、
  3. バグ(ミス)が少ない

人間が、

  1. あらかじめ出題範囲が指定された、つまり覚えれば良いだけの、
  2. 制限時間のある、
  3. 満点以上を期待しない減点方式のテストで

 

知的エリートとして選ばれる。

また日本の道徳教育および体育教育は、

命令されたとおりに従順に動くロボット型の人間を作ってきた

だから日本の知徳体の教育は、

優秀なコンピュータ代用物と優秀なロボット代用物を量産することによって

工業社会に貢献してきた。

ところが70年代以降、

産業用ロボットの導入によるオートメーション化とパソコン導入による

事務作業の軽減化が進み、

人間にはロボットやコンピュータにはできないような複雑系の仕事が

求められるようになった。

その結果労働市場では従来型秀才の価値が大幅に下落してしまった

 

これまで工業社会では、企業は画一的商品を大量生産してきたし、

学校は画一的労働商品を大量生産してきた。

複製にコストがかかる時、

このコストを下げる労働はそれなりの付加価値を持つ。

日本企業は、これまで欧米から基本的なアイデアを輸入し、

欧米と同じ物を、より効率的に、つまりより安く、

そしてより精確に模造複製することによって

世界市場での競争力を付けてきた。

ところが、情報産業の生産物の場合、

コンピュータソフトやインターネットコンテンツを例に取ればわかるように、

複製や流通にはほとんどコストがかからないので、

オリジナルを作成した者のみが利益を独占する。

横並びで他者の物まねをやっている者は淘汰される。

 


教育の自由化  3/3

2012-01-07 23:35:59 | 教育

http://www.systemicsarchive.com/ja/b/education.html

 

自由 

文部省が主観的評価に基づく内申書(調査書)制度の普及を推進した結果、

管理教育が強化され、中高生に偽善的な子供が増え始めた。

例えば、内申点を稼ぐために、解答を丸写ししてまで提出物を出したり、

老人ホームでボランティア活動をやったりする中学生がいる。

内申点アップを看板にしている都内のある塾は、

学校の先生に知らないことではなく知っていることを質問しに行くように

塾生の中学生を指導している。

知らないことを聞いて、理解できなければ先生の気分を害してしまう。

だからわざと知っていることを質問し、熱心に説明を聞くふりをして、

「先生の御説明でとても良く分かるようになりました。

ありがとうございます」と言って頭を下げる。

すると先生はうぶだから、

にこにこしながら内申点を上げてくれるのだそうだ。

 


社会 

学校教育では、学科の知識を暗記することよりも

人間関係を学ぶことの方が重要だ

たとえ内申点目的でも、

中学生がボランティア活動することは社会勉強になって良いではないか。


自由 

内申点制度は人格形成という点でも好ましくない。

上司が見ている前でだけ努力しているふりをする人材が増えて良いのか

文部省は、

さらに大学受験にも学力試験を伴わない推薦入学の制度を普及させようとしている。

平成11年度より選択的に導入される公立の中高一貫教育も、

狙いは名門公立校を作り、小学校教師にまで推薦権を与えることにある。

小学校の教員から大学教授にいたるまで、

およそ教師にとって、生徒・学生の推薦権は、

一度手にすると手放せなくなるほどおいしい既得権益で、

この既得権益を取り上げなければ、

公教育は、いつまでも殿様商売を続けることになるだろう。

公教育がまともな教育をしてくれないから、

中学生は進学塾へ、高校生は予備校へ、大学生は専門学校へ通うという

ダブルスクール現象が起きる。

権威だけで中身のないフォーマルな教育と

権威はないが中身のあるインフォーマルな教育の両方に

出費しなければならないことは、大変な浪費だ

中身のない公教育は廃止するべきだ

教育は民に任せ、官は試験だけするという官民の役割分担が必要だ。


 

社会 

大手学習塾や予備校の中には、教育をビジネスと割り切り、

営利追求に走っているところが少なくない

低所得の家庭の子供が、

無料もしくは廉価で学校に行くことができなければ、

教育の機会均等が守られない

特に義務教育は、無償でなければ憲法第26条に違反する。

 


自由 

憲法第26条は、政府が直接教育を行えとは言っていない。

政府はただ教育を受ける権利を保証すれば良い

平成7年の調査によると、

国と地方による子供一人当たりの年間教育負担額は、

小学生で76万円、中学生で83万円だ。

この金額をバウチャーとして6歳から15歳までの子供に直接支給すればよい。

16歳以上の青年には、

学校民営化によって得られる売却益を基金にして奨学金制度を充実させ、

学費を貸与する。

生徒・学生はその金で好きな学校と好きな教師を選ぶことができる。

その結果学校側には生徒・学生獲得の競争が起きる。

各学校は文部省に規制されることなく、

自らの教育理念に従って自由に教育できるが、

生徒・学生が集まらなければ経営は破綻し、

より競争力のある学校によって買収されることになる


社会 

生徒や両親には、伝統ある名門校を選好し、

新設の無名校を嫌がる傾向がある。

良い教師がいるから、あるいはカリキュラムに工夫があるから

競争に生き残れるとは限らない。


自由 

そうならないように、

教育機能と評価機能を分離することを提案しているのだ。

公教育から評価機能を取り上げて民営化すれば、

どこの学校に行っても取れる単位や学位は同じであるから、

生徒は学校を形式的権威ではなくて、教育の中身で選ぶようになる。

それは教師にとって良い刺激となるはずだ。

また入学者を制限する入学試験もなくなる。

客の数を自分から減らそうとする企業はないのであって、

近くの貸ビルを借りてでも、学校は生徒を受け入れようとするであろう。

国家教育に熱心でない親や勉強に熱意のない子供が、

学校経営者とバウチャーを山分けするという不正はどうやって防ぐのか。

自由不正のうわさがある場合、

警察は、その学校にオトリの生徒(あるいは保護者)を送り込めばよい。

もしオトリが、

「バウチャーをおたくの学校で使いますから、そのうち一部を還元して下さい」と

言って、学校側が交渉にのれば、即御用となる。

オトリと本物を区別するために調査を行うと、

コストが高くつくので、ビジネスとしては成り立たない。

 

国家 

資格試験を国家が行うのはわかるが、専門性のある学位請求論文の審査は、専門家がいる大学がする他ない。

自由 

学位論文の審査は学会でやれば良い。これまで卒論の審査などはいいがげんであることが多かったが、薬の臨床試験の時と同様に、文部省が請求者と学会の間に入って、相互に誰が誰の論文を審査しているのかわからないようにすれば、審査の中立性と厳正さを保つことができる。口頭試問で顔はわかってしまうかもしれないけれど。

社会 

資格試験は年齢とは無関係に受検できるから、幼児教育が過熱するおそれがある。知育に偏った教育を施そうとして、幼児の遊びや様々な体験活動の機会を減らしてしまうことは好ましいことではない。幼少期からひたすら勉強をさせられた子どもが、小・中学生の段階から疲れてしまい、自発的な学習意欲を失ってしまう場合も少なくない。

自由 

もし幼児教育が子供の成長にとって有害ならば、幼児教育が過熱することはない。幼児教育が過熱するのは、幼児教育への投資に効果があると信じられている証拠だ。いずれにせよ、幼児教育するかどうかは各家庭が決めることであって、政府が決めることではない。

社会 

97年ごろから小学校で学級崩壊が始まったが、これは幼児教育により小学生のストレスがたまったせいだ。小学生を熾烈な幼児教育の競争から解放し、彼らに個性を育むゆとりを与えないと、彼らの偏差値教育に対する反乱は終わることがないだろう。

国家 

90年代に保育園で自由保育を始めてから、小学校で学級崩壊が起き出した。自由とか個人の尊重とか言って子供を甘やかしているから、学校での集団生活が成り立たなくなる。学級崩壊は戦後民主主義と自由主義と称する偏狭なミーイズムの産物だ。父親の権威を復活させ、父親や教師が子供に対して厳しい躾をすることが必要だ。

社会 

父親の権威なんてもう古い。現代のトレンドはフェミニズムで、オヤジの論理はもう通用しない。学級崩壊は、学力一辺倒で、心の教育をおろそかにしてきたつけがまわってきた結果だ。

自由 

学級崩壊の引き金となっているのは、ADHD(注意力欠如多動性症候群)の子供たちの可能性が高い。注意力欠如多動性症候群は、日本のみならず世界各地の子供で観察されるようになった病気で、ドーパミンに関する遺伝子の変異が原因ではないかという説が出されている。この子供たちは、授業を理解するだけの集中力がなく、じっと椅子に座っていることすらできず、授業中立ち歩き、注意されるとかっとなって衝動的な行為に走る。教師はこの子供に振り回されてまともに授業ができず、おとなしい普通の子供までが私語を始めるようになる。いったん授業秩序が崩壊すると、もう元には戻らなくなる。これが学級崩壊だ。

国家 

そういう生理的なレベルだけの問題か。ADHDの原因として精神社会的要因を挙げる学者もいるぞ。小学校から大学まで、授業が成り立たないという広い意味での学校崩壊はどうだ。

自由 

これまで落ちこぼれや非行や登校拒否は、一部の生徒が学校に適応できないという形で起きてきた。しかし今の学校崩壊は、学校が変貌を遂げる社会に適応できないという形で起きている。平成8年度間に不登校だった、つまり「学校ぎらい」を理由として年度間に30日以上欠席した子どもは小・中学校あわせて約9万4千人で、対前年度比15%増となり、調査の開始以来最多に達している。学校に登校しても授業には出席せず、保健室で時を過ごすいわゆる「保健室登校」という現象も目立ってきており、そうした子どものいる学校の割合は中学校で4割近くに上っている。現在の教育改革では、こうした子供を正常に登校させるための提案が多く出されているが、本人に合わない学校に行かせるよりも、合った学校を選ばせることができるシステムを作ることのほうが重要だ。ADHDの子の場合も、ADHD専用の学校に通わせるべきだ。

社会 

障害を持っているからといって、差別的な隔離教育を行うと、隔離された子供は劣等感を持ってしまう。みんなが仲良くいっしょに勉強することが大事だ。個性重視と称して、落ちこぼれを作る選別教育には反対だ。

自由 

落ちこぼれが出てくるのは、従来のように、すべての子供に同じ学習内容を同じスピードで教えようとするからだ。どの教科をどのペースで学ぶかを、学習者が自分で決めるシステムが必要だ。現在文部省は、学年制の弾力化を検討中だが、飛び級にせよ留年にせよ、それがフルセット式であるところに問題がある。フルセット式は、スペシャリストの時代にはふさわしくないし、生徒に不必要な優越感や劣等感を与えることになる。だから生徒の個性を尊重して、単位修得はアラカルト式にするべきだ。

単位の資格試験化と並んで、資格試験の単位化も必要だ。就職に密着した既存の実用技能検定などにも、その難易度に応じて単位数を振り分ける。またコンテストなどで一定以上の成績を上げた者にも単位を出す。このように単位修得の選択肢を増やすことによって、子供たちの多様な才能を早い段階で引き出すことができるようになる。

社会 

これまで公教育は、子供の特殊な才能を育てるために、クラブ活動・部活動などの課外授業を行ってきた。それでは不十分なのか。

自由 

不十分だ。素人の学校教師が片手間で顧問を務めるクラブ活動・部活動は、「人格教育」とか「教養」といったあいまいな理念でしか正当化できない。単位認定科目の範囲を広げれば、正規の授業と課外授業との従来の区別はおのずと消滅する。旧課外科目も、専門のインストラクターが指導する有料の授業になるはずだ。

社会 

スペシャリスト養成は結構だが、教養をおろそかにすると、専門バカばかりになってしまう。公教育は、少なくとも全人格的教養教育だけでもするべきだ。

自由 

スペシャリストと専門バカ、個性と視野の狭さは同じでない。ヘーゲルは森羅万象を自分の哲学の対象にしたが、だからといって個性がなかったわけではなく、むしろ西洋哲学史上最も個性のある哲学者の一人とされている。逆にどの大学にもごろごろいる専門バカには個性がない。

そのヘーゲルは、当時編集されたフランスの百科全書を「偶然経験的に集められたもので、その中には学とは名ばかりで、実はたんなる知識の集積に過ぎないもの」と酷評している。日本の公教育が提供している教養は、相互に関係のない無機的な知識の集積で、つまらない。どうして教養が無機的になるかといえば、それはまず教養を身につけてから専門の道を歩むという順番が間違っているからだ。まず自分が一番好きで得意な分野を見つけて専門を作り、その後で関連する分野を芋づる式に広げて教養として習得していくほうが、有機的な教養が身につく。

社会 

子供の才能や好みは早い段階ではわからない。幼児の段階で親が勝手に子供の専門を決めるのはいかがなものか。

自由 

両親は子供の好みがわからないから、初めは基礎的な学力を満遍なくつけさせようとするはずだ。12歳ぐらいになると子供は自己意識を持つようになるので、そこから先のスペシャルティ探しは子供の自主性に任せるべきだ。専門は必ずしも固定しつづける必要はなく、専門を中心に教養の範囲を広げていくなかで、中心を変えても良い。天才的個人を育てるには、早い段階でスペシャルティを決めさせる必要はないが、早くから将来の職業に結びつく自分のスペシャルティを作ろうとする意欲を持たせる必要がある。画一的なカリキュラムを押し付け、一部の受動的な秀才と多数の規格外の落ちこぼれを作り出すシステムを改めなければならない。


Matrix Reloadedの宗教的メタファー(隠喩)」

2012-01-07 13:34:33 | 映画 音楽

http://www.geocities.jp/takenakausa/200306-01.htm

 

200362

ワシントン情報、裏Version

Matrix Reloadedの宗教的メタファー(隠喩)」

竹中正治

映画通の知人に言わせると、「アメリカ映画が好きだ」なんて言うのは、「私はマックのハンバガーが好きだ」と言うのと同じくらい恥ずかしいことだと言う。 しかし私はアメリカ映画、とりわけSF映画のファンである。

映画Matrix Reloaded515日の封切りと同時に見た。その週末に更に2度見た。 気が付いている人は少なくないと思うのだが、この映画は宗教的のメタファーに満ちている。

主人公Neothe oneと呼ばれ、救世主である。Matrixの支配から逃れた人間達が生きるザイアン(Zion)は第1作では名前しか登場しないが、イエルサレムの別名である。私が一番好きな女性キャラクターのTrinityは、キリスト教の「三位一体の意味である。ちなみに、マンハッタンの100 BradwayTrinity Churchという真っ黒な外装の教会がある。映画の中でTrinityも真っ黒の皮のつなぎを着ているのは、偶然ではないかもしれない。映画の中でMorpheus(モフィアス)は言う、「この世に偶然などないのだ」と。 

このMorpheusの意味を辞書で見て驚いた。Morpheus:モルペウス、ギリシア神話の夢の神だそうだ。映画の中でのMorpheusの役割は、救世主を発見し、救世主としての覚醒をもたらすと言う意味で、福音書のバプテスマのヨハネ(キリストに洗礼を施す)を暗示する。第2作の終盤で登場するMatrixの設計者architectは神の役割であり、神が創造した世界としてMatrixが存在することになる。

悪魔の役は誰か?勿論AgentSmithである。第1作のラストシーンでNeoに敗れた(破壊された)Smithは、破壊されたことによりMatrixの直接的なコントロールから離れ、しかも無限に自己をコピーして増殖できる存在として登場する。このSmithNeoの対決シーンは、キリストの悪魔との対決のシーンを暗示する。無限に自己をコピーできる存在とは、救世主Neoに悪魔がつきつける辛らつな矛盾である。なぜか?

 

現実(reality)が仮想であったことが暴露されてこのドラマはスタートしたRealityへの問いかけは、それを認識している自己とは何か、なぜ自分はこの世界にいるのかという自己存在への問いに発展する。Neoが第2作の終盤に、設計者に発したのもこの問いである。 ところがSmith(悪魔)はNeoに向かって言う。「唯一の自己?意思の自由? そんなものは幻想だよ。俺を見ろ。無限に自己をコピーできるんだぜ。」 人間がいかに複雑であろうとも、物質的に作られたハードと情報(ソフト)の集積であるならば、コピーできないはずがあろうか?と悪魔は問いかけているのである。コピーできるならば、自己の唯一性は失われる。

Trinityの役割は何か? 福音書に同じようなキャラクターが存在するか? カトリックの教義では、マリア(Mary)と言うと聖母マリアばかり強調されているが、福音書には複数のマリアが登場する。マグダラのマリアは十字架の下までキリストに従っていった女性である。私の記憶が間違っていなければ、キリストの復活を最初に目撃するのも、このマグダラのマリアだった。ローマカトリックの女性蔑視思想のために、このマリアの存在は現在の公式福音書ではスポットが当らない。しかしローマカトリックが確立する以前の原始キリスト教では、女神の存在が(ソフィアとも呼ばれる)重要な役割を演じ、キリストと結ばれる関係にあったことを示す聖書研究がある。こうした原始キリスト教の流れは、ローマカトリック確立の後は、異端のグノーシス派として弾圧されたと言う。(”Jesus and the Lost Goddess, The Secret Teaching of the Original Christians” by Timothy Freke, Peter Gandy

この映画が提供する宗教的メタファーの背後にあるテーマは、従って現在主流のキリスト教のものではない。ギリシア哲学の基底に「汝自身を知れ」という問いがあったことを思い出そう。その問題意識はローマカトリックによっては継承されず、むしろ異端として弾圧されたグノーシス派によって継承された(前掲書)。主人公Neoの真実の自己の探求を通して、この映画が語るメッセージは、実はギリシア哲学に遡るこの問いかけなのであろう。


10.学校教育でも、生涯学習でもBRICs との交流を活発化すること

2012-01-07 13:17:34 | 教育

10.学校教育でも、生涯学習でもBRICs との交流を活発化すること


現在、BRICs で進行中の世界史的激流を肌で知り、

自国の短所と長所を自省・自考する機会を得ることは、

学校教育と生涯学習の別なく、

これからの時代を生きる日本人の育成にとって極めて重要である。

それにはBRICs との間で、

旅行に加えインターネット接続(個人によるテレビ電話機能等も含む)の強化など、

いわゆる「インテンシブ・グローバリゼーション」を加速する必要がある。


BRICs との交流では、特に年長者の経験がプラスにも、マイナスにも働く。

そこで、若年者と組み合わせ協働する機会を設けることが重要となる。

技術の継承、一般知と専門知の交流など、相互に補完・学習し合い、

相乗効果を得ることができれば、少子高齢化への対策にもなるだろう。


また、「我以外、皆、我師」という日本的精神が、

日本人に再認識されるとともに、BRICs の人々にも継承され、

世界に伝播していくとすれば、その効果には計り知れない大きさがある。

 

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9.教育活動にブロードバンドを活用すること

2012-01-07 12:55:16 | 教育

9.教育活動にブロードバンドを活用すること


日本の高速情報ネットワーク(いわゆるブロードバンド)は急速に充実し、

いまや質・量とも世界のトップに立っている。

ブロードバンドは、学校、教室など教育の場にとどまらず、

社会、そしてライフ・スタイルにも新たなモデルを創造していく

大きな可能性を秘めている。

日本は、フロントランナーとして、

教育活動へのブロードバンドの活用に果敢に挑戦すべきである。


ブロードバンドを教育活動に活用するに際しては、

以下の点を踏まえることが重要である。


第 1 に、ブロードバンドは、従来の「シングル・リアリティ」の世界から、

    仕事と子育てなど複数の生活空間を同時に生きる

    「パラレル・リアリティ」の世界への転換を可能にする。

    これを親子の絆の強化に役立てることである。


第 2 に、これを端緒として、

    各家庭の個性に応じたさまざまなネットワークのあり方を追求・

    具体化することである。


第 3 に、子どもが自衛するための防犯用携帯電話機の使用法、

    あるいは悪用防止策についての訓練を本格化することである。


第 4 に、自動車運転免許と同様に、たとえば「ケータイ元服」などといった

    21 世紀型の社会的慣習を創り上げ、

    青少年に自律心と責任感をもたせる契機とすることである。

第 5 に、あらゆる技術の陳腐化を防ぐために、ネットワークを使った交流の

    機会を活発化する一方、

    協力すること、特に教える体験を通じて

    共に学ぶことの大切さを実感させることである

 

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8.「歴史」を学校が選択するよう奨励すること

2012-01-07 12:48:34 | 教育

8.「歴史」を学校が選択するよう奨励すること

あらゆる「歴史教育の弊害」は、歴史を「社会科」の中に包含し、

他の社会知識と混在させ、その一領域に貶めたことに起因する

高校における歴史未履修問題も、

暗記・詰め込みの歴史学習も、「偏向」歴史教科書問題も、

突き詰めるとここに原因の根源がある。

そこで、従来の「社会科」を解体し、歴史を独立した教科に格上げする。

日本史・世界史を一般教養課程入学試験の必須科目とし、

授業時間を増やすとともに、

歴史上の人間と生活への関心を育む新時代の歴史教育に改めることとする。


諸外国、とくに欧米諸国での「歴史」教科の重視と充実ぶりに比べ、

日本の義務教育と中等教育における歴史軽視は際立っている。

まず教科としての独立と、時間その他の量的充実の努力が、


国際化の時代に合致した要請でもある。

その上に立って、とくに義務教育レベルでは、

学問としての「歴史学」に寄り添った項目叙述的な歴史ではなく、

個人の伝記や時代と人の生き様を生き生きと伝える「人間感覚」中心の

新しい歴史のカリキュラムを一から作り直す必要がある。

 

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7.「日本文化」の教科を設け、学校が選択するよう奨励すること

2012-01-07 12:44:19 | 教育

7.「日本文化」の教科を設け、学校が選択するよう奨励すること


国際化、グローバル化の時代を生きる日本人にとって、

日本的なるものへの理解は不可欠な基礎的教養である。

そこで、生活文化に重点を置いて日本文化の特質を肌身で

吸収させる機会を、学校教育、とりわけ義務教育レベルに設けることとする。


例えば、各学校に畳敷きの和室を一室設け、靴を脱ぐ生活習慣の意味、

座布団の使い方、正座の仕方、和食の作法や意味など、

今日では家庭生活で教えられなくなった日本的生活文化と

それが培う情操を、知育ではなく一種の「体育」として身につけさせる

そこから徐々に高学年に進むにつれ、茶道・華道や短歌・俳句など、

より文化的な教養習得をめざす授業へとつないでいく。


これにより、観念的ではなく、

あくまで実践的で情操涵養に重点を置く日本文化の教育

広く普及させていくべきである。

これは、とかく無味乾燥にして時に殺伐とした精神環境に陥りがちな


現代の子どもたちにとって、情操回復のための「一つの救済」としても

大切な意味をもつ。

また真の国際人としての資質を養う上でも極めて有益である。

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6.「通貨」「地域社会」「家族」の教科を設け、学校が選択するよう奨励すること

2012-01-07 12:37:10 | 教育

6.「通貨」「地域社会」「家族」の教科を設け、学校が選択するよう奨励すること


教育には、社会の構成主体として相応しい知識・技能とともに、

他者との関係を構築し社会や組織を営む能力を培うことが求められる

これまでの学校教育では、

ともすると自己の能力、個人の心がけのみが強調され

社会や他者と関係していく能力は積極的に捉えられてこなかった

この点も、今日の子どもや若者をめぐるさまざまな問題につながっている


そこで、中学・高校教育に、

社会人として必要な「通貨」、「地域社会」、「家族」など社会生活

の基本知識を教える必須教科を加えることとする。

その内容は、お金の効用と機能、投資運用の方法と目的、

地域社会の機能と効用、家族の基本などである。


なお、今日、日本ほど国際情報に乏しい国はなく、

子どもたちは中学卒業までドル札を見ない、


異民族・異教徒・異言論人と付き合わない、

アジア情報を教えられないという状況に陥っている

したがって、これらの教科においても、国際感覚の拡充が図られる必要がある

 


5.教師は国定資格ではなく能力と意欲によって選ばれる「指導者」とすること

2012-01-07 12:09:56 | 教育

5.教師は国定資格ではなく能力と意欲によって選ばれる「指導者」とすること

教育の信頼性には、

明確な教育理念とそれを担保する制度に加え、

教育技術の不断の進歩・向上が不可欠である。

後者では、学校のカリキュラムと組織、教師の資質が鍵を握る

重要なことは、

教師は人材を育てる聖職であることを自認しなければならないことである。

聖職であるためには、聖職として維持し守る努力が必要である。

教師の頭の中には、24 時間、いつも生徒・学生がいなければならない。

そして、生徒・学生の信頼を得るには、

教師の実力を養成する研修が常に必要であるが、

これは免許更新とは次元を異にするものである

免許更新という発想には熟練度の蓄積という視点が欠如しているからである


また、義務教育の目的の一つは、

子どもたちに、祖国に対する愛情と誇りを与えることであり、

この点も「指導者」となる者の資質として求められるべきである。

こうした条件を満たす「聖職者」たる教師は、

教育委員会によって、教育に関わらざる者から防御されなければならない。

教育委員会が外部(特に文部官僚)からの意見に右往左往するようでは、

教育の信頼性は揺らいでしまう

教育委員会は自らの教育の信念を吐露し、

それを貫くことで教師と教育を守らなければならない。

なお、教育委員の選任の仕方には工夫が必要である。

http://research.php.co.jp/research/education/policy/data/20061211.pdf


4.短大や専門学校の連合による大学卒業資格の付与を可能にすること

2012-01-07 12:08:26 | 教育

4.短大や専門学校の連合による大学卒業資格の付与を可能にすること


短大や専門学校が連合して、共通の卒業資格認定試験を厳格に行い、

たとえば「東京連合大学卒業」など、

共通のデグリーを与えることを可能にすべきである。

これによって、特別な技能をもつ専門学校卒業の成績優秀者に、

大学卒業の資格を付与することができるようになる。

これは、かつてロンドン大学ができた当時のやり方に通じている

 


3.義務教育は「四年制」、中等・高等教育は多様な制度にすること

2012-01-07 11:59:48 | 教育

3.義務教育は「四年制」、中等・高等教育は多様な制度にすること


子どもの基礎的教育は、

「ひとつ」すなわち1 歳から、

「ここのつ」すなわち9 歳までに行われるべきである。

いわば「つの時代」にいかに子どもを徹底的に教え育てるかが重要である

この間は教師が子どもを圧倒できる時期である。

そこで義務教育を「四年制」に改め、

6 歳から9 歳までの4 年間に「読み、書き、算数、道徳」を教え込むこととし、

この間は教育費を無償(完全ヴァウチャー制度)とする。


義務教育後、

すなわち10 歳からは、民営を基本とする百花繚乱の中高大学等の中で

子どもが希望する学校に進学させることとする。

そのため中学以上の教育は多様化させ

既存の塾も学校として承認するだけでなく、将来の進路にベクトルを合わせ、

人文系、社会系、理数系、生物・医学系、工学系、芸術系、体育系など

特色ある学校・コースを設定し、選択の幅を広げる。


また、中学は四年制、高校も四年制とし、中・高一貫も可能とする。

その教育内容については各学校に大幅な裁量権を与える

さらに、これに対応した専門的課程をもつ大学を自由に創設できることとする。

大学の教育期間は2~5 年と柔軟性をもたせ、

学生や社会人の選択の幅を広げる。

加えて、20 歳以上(社会人、主婦、リタイア層等を含む)を対象とする

新たな高度専門教育システム(仮称「知力院」)を道州など

地域単位(ブロック)に創設する。

「知力院」では2~3 年の期間で、技術・経営など実践的な次元に立つ

高度専門分野の教育を行い、多様な人材を育成する。

これは欧米先進諸国、BRICs など新興経済諸国との

「大競争」が激化する中で、

日本が「新しい競争力」を確保していく上で必須の手段となる。

むろん、この「知力院」にはBRICs や他の先進諸国からの人材を

積極的に参加させることとする。

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2.「教育改革」を「分権化」すること

2012-01-07 11:46:22 | 教育

2.「教育改革」を「分権化」すること


  学齢人口、私学や塾・予備校など含め、

  教育環境は地域によって大きく変化している。

  今後も中央教育審議会、教育再生会議など中央からの教育改革、

  学校設置基準や学習指導要領など

  一国一制度を前提とした教育行政を続けるならば

  学校教育はかえって困難な状況に陥ることとなる


  教育再生のためには、地域や学校の創意工夫を重視し、

  教育政策の立案と実施が呼応し合う状況をつくり出す必要がある。

  それには地域や学校を規制から解き放ち、自由に教育のあり方を構想


   できるよう教育改革の決定・実行プロセスを「分権化」していくべきである


1.教育を自由化すること

2012-01-07 11:33:27 | 教育

1.教育を自由化すること


日本の教育を再生するためには、

「教育の自由化」が必要かつ唯一の方策である。

これによって消費者の選択を自由にし、

教育サービスの提供者(学校・教師)間に競争原理を働かせ、

教育の多様化と質的向上を図ることができる。

国家統制と供給者保護からは進歩改善は生まれない。


「教育の自由化」とは、具体的に以下の内容をさす。
①学校設立の自由化:誰でもどんな学校でも設立できる。

 各種学校でも文部科学省が指定する最低限のカリキュラムを実施すれば、

 義務教育履修と認める(昭和16 年4 月「国民学校」制以前の制度に戻す)。

②学校選択の自由化:生徒と保護者は自由に学校を選ぶことができる。

    (1)学校情報の公開と評価の公表、

    (2)すべての学校を対象とした教育ヴァウチャーは、

       これを担保する手段となる。

③教員任用の自由化:

    学校経営者(公立においては首長、教育委員会および校長)は、

    誰でも教員に採用し、かつ解雇する権利をもつ。

    ただし、各学校は自校の教員に関する能力・実績と採用理由を公表する。


④教育内容の自由化:

   文部科学省による教科の選定、教育内容の枠決めは「参考」程度に止め、

   各学校は当該「参考」と自校との差を公表する。


なお、これには以下を付加することが望ましい。
*過疎地域優遇制度:全国を過疎過密の程度に応じて等級分けし、

  過疎地域の学校ほどヴァウチャーの政府購入価格を高くする。

  これにより過疎地域への全寮制学校の誘致等も可能になる。

* 国立 学校の廃止:

  自衛官など国家が必要とする技能者の教育は適切な学校に委託する。

* 税制上の優遇措置:

  学校や奨学基金への寄付には所得税控除や損金扱いを認める。

  奨学基金からの給付金は非課税とする。

  将来必要とされる教育費への一括の資産譲渡は非課税とする。

  社会人大学生・大学院生に対する教育助成を目的とした資産譲渡等には

  贈与税非課税や所得税控除を認める。

*奨学金制度の拡充:

  奨学金制度(教育費貸与制度)を拡充し外国人にも適用する

  (ただし返済取立ては厳しくする必要がある)。

*大学入学資格認定:

  現行の「大学入学者選抜大学入試センター試験」を

  「大学入学資格試験(いわゆるバカロレア)」に改める。

  試験内容はいたずらに受験勉強を要するものとしないよう工夫する。

 
  こうした「教育の自由化」を基本理念として日本の教育を再生していくためには、

  教育基本法、学校教育法等のさらなる改正により理念の制度化を図るとともに、

  教育政策の立案・執行体制の見直し、

  そして何より教育現場における不断の努力が不可欠である

http://research.php.co.jp/research/education/policy/data/20061211.pdf


教育を自由化すること   世界を考える京都座会 

2012-01-07 11:06:36 | 教育

世界を考える京都座会「教育再生への緊急提言」
1.教育を自由化すること
2.「教育改革」を「分権化」すること
3.義務教育は「四年制」、中等・高等教育は多様な制度にすること
4.短大や専門学校の連合による大学卒業資格の付与を可能にすること
5.教師は国定資格ではなく能力と意欲によって選ばれる「指導者」とすること
6.「通貨」「地域社会」「家族」の教科を設け、学校が選択するよう奨励すること
7.「日本文化」の教科を設け、学校が選択するよう奨励すること
8.「歴史」を学校が選択するよう奨励すること
9.教育活動にブロードバンドを活用すること
10.学校教育でも、生涯学習でもBRICs との交流を活発化すること

http://research.php.co.jp/research/education/policy/data/20061211.pdf

BRICsとは、B(ブラジル)・R(ロシア)・I(インド)・C(チャイナ=中国)の4カ国