NHKスペシャル 「ヒューマン なぜ人間になれたのか」第2集 グレートジャーニーの果てに
http://www.nhk.or.jp/special/onair/human.html
テーマは、「道具」。
私たち人類の祖先に当たるホモサピエンスが、 なぜここまで、進化を遂げ、生き残って来れたのか。
それは、
身体が小さかったホモサピエンスが、「飛び道具」の発明によって、狩りの能力を飛躍させ、より安定して食料を供給できるようになり、
身体が大きく屈強だったネアンデルタール人との生存競争に勝ち、繁栄への道を切り開いたのだと紹介されていました。
そして、その「飛び道具」が、いつしか狩りのためだけの道具ではなく、仲間を監視し、罰を与え、威嚇するための道具になっていった。
血族、親族、友人、仲間だけで構成される集団の限界数は150人くらいだそうです。
しかし、狩をするためのこの「飛び道具」(投擲具)を仲間に向けることで、人数規模がそれ以上の集会を可能にした。
150名以上の規模になると、当然知らない人がいる。
お互い知らないもの同士が集まっても、秩序が守られた状態。たとえ、争いや喧嘩がおきても鎮圧できる。
このことが安心して集まれる集会ということになる。
そのために、土手の上に投擲具を持った人を置き、その人間に見張り役をさせた。
これにより、集会が、150人レベルから1000人規模の集会が出来るようになった。
「集団」を作ることで繁栄してきたからこそ、「ルール」を守ることが大切で、その「ルール」を守らせるために、「ルールを破れば罰を受ける」という、
これもまた「ルール」を生み出したのです。
そして、この「罰を与える」ということに関して、私たちには、「悪いことをした人が罰を受けると快感を感じる」という、脳の機能が備わっている。
何もなくて人が傷つけられるのを見ると、人は不快感を示す。
しかし、その人に「傷つけられるだけの理由がある」と判断すれば、逆に快感になるのです。
ある実験で、ただ男性が女性にひっぱたかれる映像を見せると、その人は不快感を示しますが、
「この男性は、女性にひどいことをした。これは罰だ」という情報を先に聞いていると、脳の快感を示す部分が反応したのです。
これもまた、集団になることで、繁栄を築いて行った人類に備わった反応です。
古くから人類は、「悪いことをした人には、他者が罰を与えてもいい」「時には、その人を殺してもいい」と、「誰か」に対して暴力を振るうことを「正当化」してきた。
科学者は、 人間が、同じ仲間を、「罪を犯した」という理由にせよ、 罰しなければいけないときに、 通常は、自分も嫌な思いをするが、
それをきちんと行うことができる様にする為に、そのような進化をして来たのではないか、と説明する。
実験では、その「悪い人」が、本当に悪いことをしたのかを知らなくても、
「この人は悪いことをした」と、自分で確かめていない、不確かな情報を聞いただけで、その人が罰を受けることに快感を示した。
つまり私たち人類には、その情報が確かかどうかわからなくても、「悪い人」と言われる人に「暴力を振るってもいい」と思う性質が備わっているのです。
「悪いことをすれば罰を受ける」というルールが、仲間や知り合いの集団規模よりもさらに大きな集団になることを可能にした。
それは、人間として「知性」とは別に、「暴力」を利用しなければ規律できなかった、ということでもあります。
ネアンデルタール人よりも体つきが小さく、 明らかに不利にあった、ホモサピエンス(我々の祖先)が、 獲物をとるために 開発をした道具、投擲具。
それが、次第に、 人間の集まるグループ内の、 秩序を守らせる為の道具となり、 それがやがて、 人が人をお互いに攻撃する道具へと変わって行く。
この映画の出だしは、ホラー映画かと思うほど怖くって、途中で、見るのやめようかと数回思いましたが、最後まで観て、ようやく、えがきたかったことがわかります。
【ストーリー】
かつていじめられっ子だった村崎十三は、一見穏やかな青年に成長して、建築現場の仕事に就き、とあるボロアパートに引っ越してくる。だが、彼のカラダには凶暴な別人格“13号”が巣食っており、怒りの沸騰と共に顔を出す。そして少年時代の自分をいじめた赤井トールへ、10年越しの壮絶な復讐を仕掛けるのだった。しかし、その凶暴性は徐々に増していき、ようやく事の重大性に気づいた十三は、なんとか“13号”を抑えようとするが、もはや自分の力ではコントロールすることはできなくなっていた…。
ネットサーフィンで見つけたサイト
http://www2.chokai.ne.jp/~assoonas/UC135.HTML
罰を与えなかったツケ
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<悪魔が育った>
この頃(現在は平成10年9月)、食品への毒物混入など、不特定多数の人間をねらった犯罪が多発している。
特定の誰かに恨みがあるわけでもない。金を手に入れようとしての犯罪でもない。おそらくちょっとしたイタズラ程度と思ってやっている愉快犯的な犯行なのであろう。
全国各地で多発しているので、全ての事件にあてはまるわけではないが、これらの事件の犯人の多くは若い年代の人間のように思える。和歌山の事件は保険金目当てという感じがあるので(現在、逮捕されているわけではないので断定はできないが)年齢が高そうだが、他の事件の場合、どんなに年をとっていても、せいぜい40代までだろう。
戦後の教育、もっと限定すれば最近の教育を受けた年代である。
子供の能力や長所を伸ばすことに力を入れてきたが、悪いことに対するけじめをつけないできた教育のつけが、こんな悪魔のような人間が多発するという現象に出てきたように思う。
<悪いことがわからない>
「子供の個性を尊重し、よさを認め、心を育てる」というのが、今の教育の基本である。これはこれで良い。最近の子供は心が貧しいと言われる。それを様々な体験などを通して豊かな心に育てるというのは、本当に必要なことだし、実際にそのような取り組みが多く行われ、成果も出てきている。
しかし、良い人間に育ったからといって、その人が「悪い人間でない」と言い切ることはできない。某国の大統領のように、政治家として成果をあげ、プラスの方向に大きな力を持つ人間でも、同時に倫理から外れた行動をとるというマイナスの方向の人間性を持つ例もある。
よく、事件の犯人がつかまったりすると、近所の人が「普段はとてもよい子だったのですが、あんな犯行をするなんて想像もつきません」などというが、犯人が「よい子」のふりをしていたのではなく、本当によい子だったけれども、同時に悪い子でもあったと考えるべきである。
しかも、意図的に悪いことをしたというよりは、悪いことをするという行動に歯止めがきかなかったと見るべきであろう。
要は、善悪の判断(特に悪に対する判断)が育っていないということである。
<悪に対する歯止めは>
「悪いことをしてはいけない」ということを身につけさせるには、どんなに口で言っても効果は少ない。また、良いことをどんなにほめたり勧めたりしても、良い行動に対しての効果はあるが、悪い行動に対しては無関係である。
「悪いことをしたら、大変なことになる」ということを身にしみて感じさせなければならない。
宗教が徹底している国なら、「どんな行動も神は見ており、死後、裁きにあう」ということだけで足りる。しかし我が国は基本的に無宗教である。
「大変なことになる」ということを、「被害にあった人が大きな迷惑を被る」とか「相手の人の気持ちを思いやれば悪いことはできない」などと言って諭しても、効果はない。
人間は基本的に自己中心に生きている。それが生きる力のもとになっているのであり、自己中心が悪いことではない。だから「悪いことをしたら、自分がひどい目にあう」ということをきちんと教えていかなければならない。
悪いことをしたら、簡単に許したりしないで、きちんと罰を与えて叱るということをやっていかなくてはならない。叱って善悪の判断を教えていくことが、幼児期のしつけの基本であることは誰も否定できないだろう。
ところが、これがきちんと行われていない。また、このしつけは大人になるまで継続して行わなければならないのに、「子供にも人権がある」などと言って、早い時期にしつけをやめてしまう傾向がある。
とんでもないことである。人権などというものは、悪いことに対しての判断がつく人間にだけ許されるもので、飲み物に毒を入れて誰かが死ぬのを愉快がっているような生き物に人権もなにもない。こんな人間の顔をした悪魔には、地上に存在する権利を与えてはいけないのである。
ところが、私たちは、こんな生き物を量産してきた‥‥‥
<甘やかさずに厳罰を>
世の中全体が犯罪者を甘やかしていると感じる。
今回のような犯罪の場合、徹底して犯人を見つけ、たとえ被害者に死者がいない場合でも、死者を出す可能性があった場合は、全て死刑または無期懲役にすべきである。犯人の氏名もはっきり公表すべきだ。それが未成年者でも、精神状態に異常があった場合でも同様にすべきである。
家族に迷惑がかかるということもあるが、自分の家庭から凶悪な犯罪者を出した責任は家族にもある。それで一家が破滅するようなことになっても、甘んじて受けるべきであろう。
殺人および未遂に限らず、多額の金を不正に手にしたような犯罪も同様である。死をもって断罪するぐらいの姿勢で臨まないと不正は絶えない。
推理小説などでは、犯人には過去の出来事に対する復讐など、共感できる動機があることが多いが、この頃の犯罪にはそんなものはないように思える。自分のたいくつや不機嫌をまぎらし、面白半分の興味を満足するために、人の命を危険にさらすようなことを(重大な犯罪とも考えないで)やっているのだとしたら、そのような人間に情状酌量の余地は少しもない。こんな人間は人間として存在することは許されない。
人間は神ではないから、個人の存在の可否を他者が判定するなどという権利はないのかもしれないが、人間とも呼べないような生き物の存在を許さないことも、人間としての責任なのではないだろうか。
「一度だけのあやまちだから許す」のではなく、「一度だけのあやまちも許さない」という厳しい態度が、悪いことをしない人間を作っていく唯一の方法であると思う。
<学校でも罰を>
しつけは子供のうちに行わなければ意味がない。学校でも悪いことに対してはきちんとけじめをつけさせることが必要である。
中学生の非行はこれまでずっと問題になってきており、近年は事件の件数も増し、低年齢化の傾向も見られる。また、いわゆる「非行少年」の犯罪だけでなく、「ふつうのよい子」が起こす犯罪が増えてきている。
中でも多いのが「万引き」である。「お金がないけどどうしても欲しいものがあるので盗んでしまった」という事例はほとんどなく、「お金は持っていたけど使いたくないので」とか、「見つかったらお金を払おうと思っていた」とか、「スリルを楽しみたくて」とか、「つかまって、親が呼ばれて怒られるとおもしろいと思って」とか、「つかまっても説教されるだけで済むと思ったから」など、悪いことをやっているという意識があまりない遊び感覚でやってしまう子供が多いそうだ。
親も、それほど自分の子供が悪いことをしたという感覚がないようで、「いくら弁償すればいいんですか?」と聞く親や、「自分の子供がつかまえられたときに、公衆の面前で連れていかれたので、子供の人権が侵害された」などと寝ぼけたようなことをいう親がかなりいるそうだ。
自分の子を殴りつけ、涙を流して土下座し、「取り返しのつかないことをしました。この通り謝りますので、どうか許してください」と言い、翌日には親子ともども頭を丸め、謝罪の品を持って謝りに行くのが、正しい親の姿(?)であると、私は思う。そうしないと子供は悪いことの判断ができない人間になる。
現在の法律(学校教育法第11条)では、体罰を与えることはできないことになっている。体罰自体は暴力であるから肯定することはできないのだが、万引き・ゆすり・暴力などの事件を起こした子供には、きちんとした制裁の罰を与える必要があると思う。子供だから許すという甘い態度では、「俺が悪いことをしても、学校なんて何にもできない」となめられてしまうし、その子自身の一生にとっても良いことではない。
学校教育法第26条には、「性行不良であって他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる」とあるが、これは制裁としての罰としてふさわしくはない。あくまでも学校の秩序を維持し、他の児童の教育を受ける権利を保障するためだけに行われるものであって、悪いことをした子供に対する教育を放棄することになる。
学校として罰を与える場合、私だったら次のような方法を考える。
○ 坊主刈りにさせる。
○ 一定の期間、部活動に参加させない。
○ 一定期間、草むしり・トイレ掃除などの奉仕活動をさせる。
○ 早朝登校し教科書を音読する。
この程度の内容なら、極端に身体的苦痛を与える体罰にはならないだろう。坊主刈りはきついかもしれないが、2ヶ月もすれば髪は普通に戻る。
このようなことをすれば、悪いことをした事実は他の子にわかられてしまう。しかし、それはそれで必要なことだと思う。子供の人権を守るというきれいごとのために、やってしまった悪いことを隠してうやむやにする必要はない。
「この子はこんな悪いことをした。そして、こんな罰を受けた。そして、今は立ち直った」ということを明確にしていけばよい。他の子にも「悪いことをしたら、あんな罰を受ける」ということをわからせておくことも必要だ。
私が中学校の校長ならば、入学式のときに、生徒と保護者に対して、そのことを明言しておく。そして、そのことに対して意見のある方は、電話でも手紙でもよいのでお話くださいとしておく。
罰を与えるのは悪いことではない。むしろ必要なことなのだ。そして、きちんと罰を受けたあとで、更生しようとする子供を力づけて育てていくことが、学校としての義務であると考える。
(強硬意見なので、反論が多そうですね‥‥)(^^;) (秋田の教頭)