昭和24年(1949) (54歳)
およそ疑ってかかるより、物事を信じていくことのほうが、結果から見て得るところが多いと思います。
ところが今日のお互いにのあり方を反省してみますと、
一度は疑ってみるのが常識になり、それがわれわれの生活態度の中に相当強く識りこまれているように感ぜられます。
友達どうしの話しあいでも、だまされはしないか、
先生の言うことすら、ウソをつかないかと思い、
少しも信を心の中心としてものを見ようとしませんから、
みずからものを失いつつある現状ではないかと思います。
なるほど、ときにはたやすく信じてだまされる場合もありましょう。
が、
だまされる場合にも、あまり純真に信ずることによって、
だまそううとした者も、神のごとき相手に感化され、翻然として、
自分の行動を悔い改めることもあるのであります。
宗教の面について考えましても、それはやはり信仰が中心であります。
仏の思召が、また神の摂理が、大きな力となり、
深い恵みとなって現われてくると信じることによって初めて、
仏教やキリストの教えも生き、
その人を救い導く効果を現わすのであります。
しかし、
キリスト教なり仏教の説くところは一応分かる。
が、実際において、神や仏の力はあるかどうか、目で見ることも、
舌で味わうわけにもいかないから、
これは信じられない、 ということで疑う心が起これば、
いかによい教理を説いても信仰は生まれるものではありません。
したがって、宗教はこれを信ずるという心の芽生えを基礎として、だんだん進んでいき、
ありながたさを感じ、いよいよ信仰三昧に入って、
絶対に帰依することになるのであります。
ひとり宗教だけでなく、日常の仕事の上にも、家庭生活のことについても、
友人、師弟、労使のあいだでも、信ずる心持ちが強ければ強いほど、事がスムーズに運び、よい結果をもたらすものと思うのでたあります。 (中略)
宗教について考えてみますと、信仰することによって、
宗教の真たいを悟りひらき、神の愛なり、
仏の慈悲なりを体得し、
信仰三昧に入って、平和な人生を送っている人も非常に多いのであります。
今日の精神文化は、そういう宗教を中心として発達してきたのであります。
それほど大きな効果があったのでありますが、
しかし宗教は、信仰だけによっていっさいの成果をあげているかというと、そうではありません。
信ずるだけでは迷信に陥ることがあります。
過去の歴史に徴しましてもこの事例がずいぶんあります。
信ずるだけでは、真理に立脚した教理を誤りなく信仰していくつもりでも、
そこに誤解が生じたり、また邪教というものが知らず識らず生まれてきて、
いわゆる迷信に陥りやすいのであります。
軌道からはずれて、脱線のかたちで進んでいる場合も多いのであります。
ですから、ただ信ずる、信仰する、だけでは正しい成果をあげることはできません。
ほんとうの正しい信仰の心持ちを生かすには、一方によき理解、
よき判断、よき認識というものがなければならないと思うのであります。
つまり信ずる心を高めると同時に、それと併行して理解を深めていかなけばならないと思うのであります。
しかし理解が高まっても、もし心に疑いの念が強いと、 物事は容易に実行に移せないのであります。
学問や体験によって認識した真理を、信じあう心の上にあてはめなければならないのであります。
この信ずるという心の働きを正確な理解の上にのせて生かしていくことが、
新解両全ということになるのであります。
そこでわれわれは、信ずることと物事を理解していくことの2つながらを全うする心がけをもたなければならないと思うのであります。
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