昭和49年(1974) (79才)
人間が死んだら、その後どうなるのか、ということについては、
昔から、いろんなことが考えられてきているわね。
まったく消えてなくなってしまうとか、
あるいは霊魂としてそれぞれに残っているんだとか。
仏教の教えでは、
個々の生命はその人の死後、大宇宙という生命体に融合し、
融合するということだそうだけども、
私もだいたい同じような考え方やね。
ただ、個々の生命が大宇宙という生命体と渾然一体になるのであれば、
それぞれの個性というものは失われてしまう、
と考えたほうがいいんじやないかな。
仏教では、個々の生命は、その人の死後もそのまま残って、
それが再びこの世に生まれ変わって出てくる、ということのようだけれども、
それは、この世というか現世の行いによって、
あの世、来世の姿がよくも悪くもなる、
だからこの世で正しい行いをせよ、という一つの教化の方法として説かれたものではないかという気がするね。
しかし、そういう説き方は、今の人にはいまひとつ理解しにくいところがあるんじゃないかな。
ぼくは、生命というものは、肉体が滅ぶことによって宇宙という生命体に帰納するのだけれど、
そこではもう個性はなくなっているんじゃないかと思う。
それでは個々人というものは、
その死とともにまったく足形もなくなってしまうのかというと、
決してそうではない。
個々人が生きているあいだの思い、行い、実績というものは、この世に永遠に残る。
現に今から2000年も前に亡くなられたお釈迦様の思い、行い、実績というものは、
今日も立派に生き続けているなね。
お釈迦様ではなくても、すべての人の生きているあいだの足跡、
実績、思いというものは、現実の事実として残される。
だから、もし教化するのであれば、
よきにつけあしきにつけ、個々人としての実績として残るのだから、
この世でよりよく生きなさい、というように説いてみたらどうかな。
そして、それと同時に、個々の人々の実績ののちのちまで残し伝えていくために、
その人が死んだら、
その人の経歴書というか、
功績書のようなものをつくって、
それを保存していくようにするのも一つの方法ではないかと思うね。
それはともかく、ぼくは、新しい生命は、やはり大宇宙の生命体から出てきて、
それが個々の肉体に結びつき、
新しい個々人が生まれるのだと思うな。
そしてその人の死後は、
また宇宙の生命体に帰る。
それはたとえば、同じ鉄でつくられているものでも、
鍬もあればナイフもあるわね。
ところがそれらが使えなくなると、
溶鉱炉に入れられて溶かされ、再び同じ鉄になる。
そこでは鍬であるとかナイフであるとかの区別はなくなるけれど、
その溶鉱炉の鉄によって、再び鍬もナイフも新たにつくられる。
死後の生命が帰っていく大宇宙の生命体というのは、ちょうどこの溶鉱炉のようなものと考えられるんじゃないかなあ。
だから、死後の生命については、宇宙の生命体に帰納し一体となって、
個々にはもう存在しない、そう考えるんだけど、どうだろうか。
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