交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

先縁尊重を実践

2012-10-15 20:41:55 | 徳育 人間力

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┃□□□ 致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」
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┃□□□           2012/8/15 致知出版社( 毎月15日配信)

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│121 │8月15日――「先縁尊重」に生きる
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『致知』はこの9月1日発行の10月号で創刊34周年になります。

創刊からこの雑誌の編集に携わってきた者としては
随分と長い道のりを歩いてきたという実感があります。


この34年、
それぞれの一道を拓いてきた人たちに折に触れ、
させていただいた質問があります。

それは
「人生で大事なものは何か」
という質問です。


たくさんの人たちの答えを一語に集約すると、
「先縁尊重」
という言葉に表現できると思います。

原点の人を忘れないで、大事にするということです。

例えばAさんからBさんを紹介され、
Bさんと大変親しくなり、Aさんを忘れてしまう。
あげくは無視したり、不義理をする。
そういう原点の人を大事にしない人は
運命から見放されてしまう、ということです。


私の知っている経営者にこういう方がいます。
その人は丁稚奉公に入った店の主人から、
ある日突然、理不尽に解雇されたにもかかわらず、
毎年正月に、
その元主人の家に年始の挨拶に行くことを欠かさなかった、といいます。

普通なら恨みに思っても不思議はないところですが、
自分がこうして曲がりなりにも商いをやっているのは、
その元主人が自分に仕事を教えてくれたおかげだという原点を
忘れなかったのです。

この人はまさに先縁尊重を実践した人です。
この人の会社が創業44年、なおも隆盛しているのは、
この精神と無縁ではないと思います。


先縁の原点は親です。
親がいなければ、私たちは誰1人この世に存在していません。

その親を大事にしない人は、やはり運命が発展していきません。

親は、いわば根っこですね。

根っこに水をやらなければ、あらゆる植物は枯れてしまいます。
親を大事にするというのは、根っこに水をやるのと同じです。


「父母の恩の有無厚薄を問わない。
 父母即恩である」

と西晋一郎先生はいっています。

まさに、至言です。
この覚悟のもとに立つ時、人生に真の主体が立つのだと思います。


そして、その親の恩をさらにさかのぼってゆくと、
国というものに行きつきます。

この国のあることによって、
私たちの祖先はその生命を維持継承してきたのです。

即ち、国恩です。
国恩あることによって、私たちはいまここに、生きています。

最近はこの“国の恩”ということを意識する人が少なくなりました。
そういう国民は発展しないと思います。

いま日本に確たるものがなく、
漂流しているがごとき感があることと、
国恩という言葉も意識も薄れていることとは無縁ではないと思います。


幕末明治の人、山岡鉄舟にこういう言葉があります。

 人は至誠をもって、四恩の鴻徳(こうとく)を奉答し、
 誠をもって、私を殺して万機に接すれば
 天下敵なきものにして、これが即ち武士道である


武士道とは人間道、人生道といい変えてもいいでしょう。

四恩とは国とか親とか主君とか先祖とか天の恩。
鴻徳とは計り知れないほど大きいということ。
即ち、そういう目に見えない四恩に答え、
私心なく、自分のやるべき仕事を誠を尽くし
全力をもってやりきれば、天下に敵がなくなる、ということです。

これは何も武士だけに限りません。
一般の人も含めて、かつての日本人が共通して持っていた価値観です。

こういう思いこそ、
日本を日本たらしめているものの根底にあったものです。


ローマはローマたらしめているものを守ろうとする意識が薄れて滅びたといいます。

私たちは後世に対して
日本を日本たらしめているものを守っていかねばなりません。


8月15日、日本敗戦の日。
この原点を忘れず、
りりしい国づくりに微力を尽くしていきたいものです。


「日本人の誇りを取り戻せば子どもたちは変わる」

2012-10-15 20:12:40 | 教育

熊本県の勇志国際高等学校の校長・野田将晴氏が月刊誌「致知」の最新号(9月号)の「日本人の誇りを取り戻せば子どもたちは変わる」という対談の中で、こんな体験を述べていました。

氏は県警時代、24歳の時青年協力隊でマレーシアに行った。向こうでは、「戦争の話は絶対するな、石を投げつけられるから」と耳にたこができるぐらい、言い聞かされたが、いざ現地では戦争の話ばかり聞かされたそうな。「日本のおかげで、マレーシアは独立できた」と。

でも、半信半疑だったが、ある時、自分が柔道を教えているラティフという青年に、なぜキミは日本人の若者を見ると家に連れ帰って家族で歓待するのか、聞いてみた。

すると彼は、

「僕はマレー人だ。しかし、誰よりも天皇陛下を尊敬している。マレーシアは何百年もの間、イギリスの植民地化にあり人々は奴隷の如く扱われてきた。

独立は絶対に不可能と思っていた。そこに日本軍が来て僅か五十日でイギリス人を追い払ってくれた。その経験が戦後マレーシアの独立に繋がった。

大東亜戦争の後、日本人は謝ってばかりだけれども、なぜそんなバカなことをするのか。日本の若者は祖国の歴史をもっと誇りに高く思ってほしい、それに気づいてほしい」

といって、だんだんが語気を強めながらオイオイ声を上げて男泣きに泣きだしてまった。


そのとき以来、野田氏は、私はこのことを日本の若者に伝えなければいけないと思い、地方議員時代は東京裁判の間違いを一貫して訴えてきたし、現在は校長なので、子どもたちに正しい教育教えるのが私の役割と明言しております。



もう一つのエピソードも、「致知」から得た内容だが、何月号だったか失念しましたが、そのときメモを元に再現すると、おおむねこんなお話でした。


ある日本の女性がインドネシアをおとづれたとき、「日本はあなたの国を占領して大変ご迷惑をかけた」と挨拶した。



応対したインドネシアの教授から「とんでもない。私たちは日本が大好きです」と女性にとって意外な答えが返ってきた。

日本がくる前にやってきたオランダはインドネシアを何百年も統治したが、この国から何でもかんでも取っていくばかりだった。しかし、日本はオランダを追い出し、そのあとインドネシアのために学校をたて、産業を起こした。




本は戦争に負け帰っていたが、日本人が教えた独立の精神はしっかり根付いており、国民は銃をもってオランダと戦い悲願の独立を果たした。その戦いのために残って参加し命を落とした日本人もたくさんいる。といったことを教授は日本の女性に話したという。

でも植民地にしたことは良くないと、日本女性は反論した。すると教授はこういった。

日本が「植民地」にした韓国や台湾はいまや先進国の仲間入りをしているが 、欧米が統治した国でそこまで発展した国がありますかと反論した。これには、女性もぐの音もでなかった。こうして女性は、それまでもっていた自虐史観を脱却できたという。


歴史教育で生徒たちを変えていった野田将晴氏の名言

2012-10-15 18:08:25 | 徳育 人間力

通信制の学校でありながら、
歴史教育、道徳教育を通して日本人の誇りを植え付け、
問題行動を起こす生徒たちを更生させていった
熊本県の勇志国際行動学校の野田将晴校長。


┌───今日の注目の人───────────────────────┐



        歴史教育で生徒たちを変えていった
           野田将晴氏の名言


                『致知』2012年8月号
                 特集「知命と立命」より

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●日本人としての誇りを取り戻すことさえできたら、
  人間としての誇りも自分に対する自信も取り戻せる。

 そこから夢や希望が湧いてくる。
 人を愛することもできるようになる。
 この7年間で私はそれを確信しました。



●教育は国家百年の大計であるといわれます。
 若者の姿を見れば日本の将来が見えてくるという意味で、
 私は校長に就任して極めて深刻な危機感を
 持たざるを得ませんでした。

 私が感じた現代高校生のイメージは「幼い」の一語でしたね。
 いい替えれば極端に自己中心的なんです。
 これこそまさに戦後の人権教育のツケだという思いを強くしました。
 


●私は教育に携わってまだ8年目ですが、
 いろいろな世界が広がってきました。
 その中で一つ確信を得たのは、
 教育の本質とは祖国の尊い歴史と文化を
 次世代に語り継ぐ営みだということでした。

 生徒と教師が祖国への誇りを取り戻せば、
 いまマスコミを騒がせる問題の多くは
 解決できるのではないでしょうか。



●教育者は、先ず自らを常に鍛錬する姿勢が求められるし、
 その姿勢があって始めて生徒に対して指導する資格がある。
 生徒に志を持てと指導する以上、
 教師自らが高い志を持っていなければならない。

 使い古された言葉ですが「教師は聖職者」です。
 


「デザインの力で新時代を切り開く」  佐藤可士和氏(クリエイティブディレクター

2012-10-15 16:31:22 | 商い

 働く環境をデザインすることによって社員の意識や働き方を変え、より高いパフォーマンスを発揮することができるのです。

 

 固定観念に囚われず、本質を突き詰めていけば、答えは必ず見えてくる。

 

 全然知らない分野の仕事を依頼されることも多いので、「アイデアが尽きることはありませんか」と、よく質問を受けるんですが、アイデアは自分が無理矢理ひねり出すものではなく、答えは常に相手の中にあると思っています。

 

 僕はいつも、打率10割、すべてホームランにしようと思ってやっています。何人ものクライアントを抱えていると、つい目の前のクライアントを大勢いる中の一人と捉えがちですが、それは違います。

 クライアントにとっては1回、1回が真剣勝負で、社運を賭けて臨んでいるわけですから、失敗なんて許されないですよ。

 

 商品の本質を見抜く上で最も大事だと思うのは、「そもそも、これでいいのか?」と、その前提が正しいかどうかを一度検証してみることです。

 過去の慣習や常識にばかり囚われていては、絶対にそれ以上のアイデアは出てきませんから。

 

 自分が常にニュートラルでいること、それが重要です。邪念が入るとダメですね。

 人間なので好き、嫌いとか気性の合う、合わないは当然あるじゃないですか。ただ、合わない人の言っていることでも正しければ、その意見に従うべきですし、仲のいい人でも間違っていれば「違いますよね」と言うべきでしょう。

 感情のままに行動するのではなく、必要かどうかを判断の拠り所とする。いつも本質だけを見ていようと思っていれば、判断を間違えることはありません。


ちゃんと根っこを張ってから上を伸ばしていけと、そこから進めなければ、一流選手にはなれません。

2012-10-15 15:38:38 | 教育

 内村航平選手の金メダル獲得などで、
  全国に感動を与えたロンドン五輪・日本体操男子。

  本日は、大阪の清風中学体操部の団体20連覇に大きく貢献し、
  選手育成に携わり、冨田洋之、鹿島丈博、西川大輔、池谷幸雄ら
  数多くのオリンピック選手を育てた城間晃氏のお話をご紹介します。



┌───今日の注目の人───────────────────────┐



        「宝くじは買わないと当たらない」

              城間晃(シロマスポーツクラブ理事長)


                『致知』2009年5月号
                 特集「執念」より
    http://www.chichi.co.jp/monthly/200905_pickup.html#pick2

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私が日頃から一番よく言うのは「人に聞け」ということですね。
体操は自分で点数をつけるんじゃない。
人が見て点数をつける。

人が感動するような演技をするためには、
人に聞けばいいんです。

八百屋のおじさんでも誰でもいいから、いろんな人に聞け。
とりあえず千人の人に聞け。
そうしたらおまえは頂点に立てるよ、と。

そして「教えてもらえる人間になれ」と。

そのためには挨拶もそうですし、
礼儀もわきまえていなければいけません。


もう一つは「宝くじは買わないと当たらない」ということです。
オリンピックも「行こう!」と思わないと行けない。

宝くじを買いもせず、じっと待っていても
当たるわけがないのと同じように、
強くなろうと努力もしていない、

そう思ってもいないのに、強くなれるはずがない。
本当にそう思ったら、ちゃんと行動に移すはずです。


「人の話を聞く」という事柄にしても、
結局大切なのは基本ですよね。

木でも、根っこがなければ幹や枝の部分が伸びた時に
倒れてしまいます。基本というのは根っこのことなんです。

高度な技術ばかりいくら磨いて試合に勝ったとしても、
必ずスランプに陥る時がくる。

その時に、選手はもう一度基本に戻らないといけないんです。
でも基本ができていなければ、戻れるところがない。

だから私は、ちゃんと根っこを張ってから上を伸ばしていけと、
選手や指導者らに言うんです。

最初が肝心、最初に目いっぱい時間をかけるべきですね。
基本を確実に百%やる。
そこから進めなければ、一流選手にはなれません。


しかしここから何を学んでいこうかという気持ちや何かを得てやろうという思いさえあれば

2012-10-15 15:31:16 | 徳育 人間力

┌───今日の注目の人───────────────────────┐



       「後輩の仕事観を変えた27歳の説教」
       
       
           横田尚哉(ファンクショナル・アプローチ代表)
        
        
                      『仕事力入門』より
       http://www.chichi.co.jp/book/shigotoryoku_nyuumon.html

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 就職活動で苦労して会社に入ったものの、
 理想と現実のギャップにぶち当たり、
 外れくじを引いたように感じている人も多いかもしれません。

しかし本来仕事には、当たりも外れもありません。

  当時はつまらなくて仕方がないと思っていたはずの仕事が、
 後にその人の大きなベースとなるようなことが
 往々にしてあるのです。


  私が入社して四年半が経ち、二十七歳になった時のこと。
 広島に技術部門が新設され、私は大阪本社から転勤を命じられました。

  その広島の勤務地に、新卒で入社してきた
 後輩のエンジニアがいました。

 他の同期は東京や大阪本社に配属され、
 彼一人だけがぽつんと広島にいる。
 周りの先輩とは年が離れていて普段話せる人もいない。
 
 季節は夏を迎えていましたが、
 彼は毎日つまらなさそうな顔をして
 図面と向き合っていました。


 私はそんな彼に「いま何の仕事をしてる?」と声を掛けました。
 
 すると彼は

 
 「横田さん、私もう、ずっとこんな雑務ですよ。
    同期は東京で打ち合わせに参加したとか、
    自分の資料がプレゼンに使われたとか、
    楽しそうに話してる。
 
    自分はアルバイトにでもできるような
   雑務ばっかりさせられて……。
   もっと技術屋的な仕事がしたいです」
 
 
 と言って不貞腐れていました。
 
 私は「あぁ、そうか」と返事をして、もう一度、
 「おまえがいまやっているのはどういう仕事なの。
  その図面の縮尺は何分の一?」と聞きました。
  
 すると彼は「えっ、ちょっと待ってくださいよ」と言って、
 端っこに書いてある縮尺の数値を読もうとした。


「おまえ、数字を見ないと分からないのか。
 半年間もずっとその図面の作業をしてきて、
 いまだにそれを見ないと分からないのか。
 半年間勿体ないことしてるよなぁ。

 一つの図面を散々見続ける経験なんて滅多にできんことやで。
 どんな図面がきても、これは何分の一の縮尺だと
 パッと見て言える。それが技術屋の仕事というもんや。
 
 おまえは朝から晩までそれだけをしていて、
 なんで覚えられんのや」


 私の言葉を聞いて、彼は初めてハッとした表情を浮かべ、
 
 
 「自分はこの半年間、雑務としか思いませんでした」
 
 
 と言いました。


 「おまえの先輩が雑務としてこの仕事を与えたか、
  経験として与えたかは分からない。
  いずれにせよ、おまえはそれを経験にはしなかった。
  
  この半年間ただ“消費”をしただけで、
 “投資”にはなっていない。

  図面を見ただけで、縮尺も何も瞬時にして分かる。
  その技術は教科書にも書いていなければ、
  学校の先生も教えてくれない。
  
  これは経験でしか得られないものなんや。
  おまえはその経験の場を与えられてる。
  おまえはすごく恵まれてる。
  
  同期の人間なんかより、おまえのほうがずっと恵まれてる。
  それをおまえは分かってないだけや」


 彼はこのことがあってから、目の色を変え、
 嬉々として自分の仕事に励むようになりました。


 二十代は夢や理想が人一倍強いため、
 会社や上司に文句を言いたくなることも多いかもしれない。
 
 でもそれは自分の知っている、
 ごく狭い世界の話であることが多いのです。
 
 広島にいた彼は、いま自分が置かれている環境で
 できることは何だろう、ここにいる特権とは何だろうと
 考えたこともなく、無益な日々を送っていた。
 
 しかしここから何を学んでいこうかという気持ちや、
 何かを得てやろうという思いさえあれば、
 誰もが充実した日々を過ごせるはずなのです。


京セラ創業期秘話 稲盛和夫(京セラ・日本航空名誉会長)

2012-10-15 10:09:24 | 建て直し

┌───今日の注目の人───────────────────────┐


     「京セラ創業期秘話 ~前篇~」


        稲盛和夫(京セラ・日本航空名誉会長)

                『人生と経営』より


└─────────────────────────────────┘


創業して3年目(昭和36年)の5月、
会社は順調に発展していたが、私は自分の考えを
根底から覆されるような事件に遭遇した。

研究者として、自分の開発したファインセラミック技術を
世に問いたいということが、会社設立にあたっての
直接の動機であったが、そのような私の姿勢を
根本的に見直さなければならなくなったのである。

前年春に採用した高卒男子11人が、
血判まで捺した要求書を持って、
私に団交を申し入れてきた。

要求書には、定期昇給やボーナスの保証などの
要求が記さている


彼らは、その要求書を私に突きつけて、


「会社が将来、どうなるのかわからず、不安でたまらない。
  毎年の昇給とボーナスの保証をしてほしい。
 もし、保証できなければ、
 いつまでもこの会社に勤めるわけにはいかない」

と言う。

私には、とても彼らの要求をのむことはできなかった。
初年度から黒字を出すことができたとは言え、
会社はいまだ手探りの状態で、明日のことなど皆目わからない。
1年先の保証すら請け合えるものではなかった。

しかし、彼らは自分たちの要求が聞き入れられなければ、
全員が辞めると言う。
会社で話し合っても埒(らち)があかないので、
私はその頃住んでいた京都、嵯峨野の市営住宅に
場所を移して話し合いをつづけた。


「先々の給料やボーナスを保証しろというが、
 今日どうやって飯を食おうかと日々悪戦苦闘しているのに、
 そんなことができるわけがないじゃないか。

 君たちを採用するとき、
 『できたばかりの会社で、今は小さいが、
 一緒に頑張って大きくしていこう』と言ったはずだ。

 だから、なんとしても会社を立派にして、
 将来みんなで喜びを分かち合えるような会社にしたいと考え、
 このように毎日頑張って仕事をやっているのじゃないか」


私は、このように彼らに話し、懸命に説得を続けたが、
当時は社会主義的な思想が蔓延し、
労使の対立という枠組みの中でしか、
ものごとを見ない風潮があった。

そのため、経営者はいつも、そんなまやかしを言って、
労働者をだます。やはり、給与や賞与を
保証してもらわなければ安心して働けない」

と、夜が更けても頑として納得しない。
結局、3日3晩ぶっつづけで話し合うことになった。


3日目に私は覚悟を決めて言った。



「約束はできないが、私は必ず君たちのためになるように
 全力を尽くすつもりだ。

 この私の言葉を信じてやってみないか。
 今会社を辞めるという勇気があるなら、
 私を信じる勇気を持ってほしい。
 私はこの会社を立派にするために命をかけて働く。
 もし私が君たちを騙していたら、私は君たちに殺されてもいい」



ここまで言うと、私が命懸けで仕事をし、
本気で語りかけているのがようやくわかったのか、
彼らは要求を取り下げてくれた。

しかし、彼らと別れて一人になったとたん、
私は頭を抱え込んでいた。


(……明日へ続く)
 

 

 

 

┌───今日の注目の人───────────────────────┐


     「京セラ創業期秘話 ~後編~」


        稲盛和夫(京セラ・日本航空名誉会長)

                『人生と経営』より


└─────────────────────────────────┘

(※本日はここから↓)


経営者である自分自身でも明日のことが見えないのに、
従業員は経営者に、自分と家族の将来にわたる
保証を求めていることを、初めて心の底で理解したからである。

私は、このことに気がつくと、
「とんでもないことを始めてしまった」と
思わざるをえなかった。

本来なら無理をして私を大学までいかせてくれた、
鹿児島にいる両親や兄弟の面倒をまず見るべきなのに、
それさえ十分にできていない私が、
経営者として赤の他人の給料だけでなく、
彼らの家族のことまでも考え、将来を保証しなければならない。


会社創業のとき、私が抱いていた夢は、
自分の技術でつくられた製品が、
世界中で使われることだった。

しかし、そんな技術屋の夢では、
従業員の理解は得られず、
経営は成り立たないということを、
この事件を通して初めて身に泌みて理解することができた。

会社とは何か、会社の目的とは何かということについて、
このとき改めて私は真剣に考えさせられた。

会社とは経営者個人の夢を追うところではない。
現在はもちろんのこと、将来にわたっても
従業員の生活を守るための場所なのだ。

私はそのとき、このことに気づき、
これからは経営者としてなんとしても、
従業員を物心両面にわたって幸せにすべく、
最大限の努力を払っていこうと決意したのである。


さらに、経営者としては、自社の従業員のことだけでなく、
社会の一員としての責任も果たさなくてはならない。
そこまで考えを進めたとき、


「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、
 人類、社会の進歩発展に貢献すること」


という京セラの経営理念の骨格ができあがっていた。

突然の反乱劇で、そのときは驚き、悩み苦しんだが、
おかげで私は若いうちに経営の根幹を理解することができたと思う。

それは、経営者は自分のためではなく、社員のため、
さらには世のためにという考え方をベースとした経営理念を
持たなくてはならないということである。

これを創業3年目という早い時期から経営の基盤に置いた結果、
京セラはその後大きく発展することができたのだと私は考えている。


最初のひらめきがよくなければ、いくら努力しても無駄である

2012-10-15 09:51:37 | 商い

┌───今日の注目の人───────────────────────┐



        トーマス・エジソンの発想法


                浜田和幸(国際未来科学研究所代表)

                『致知』2004年7月号
                 特集「熱意・誠意・創意」より

└─────────────────────────────────┘


「天才とは、1%のひらめきと99%の努力の賜物である」



1929年2月11日、エジソン82歳の誕生日に残したこの名言は、
おそらく世界中で一番よく知られている「格言の王様」でしょう。

「あの発明王エジソンですら、努力の大切さを言っているではないか。
やはり人は才能ではない、努力こそが大事なのだ」

と、努力を重んじる我々日本人にも、たいへん受け入れやすい言葉として愛され、
多くの人たちに、夢や希望を与えてきた言葉です。

ところが残念ながら、この言葉ほど間違った意味が世の中に流布し、
多くの人の誤解を受けている言葉はないのです。


エジソンは、肉体や精神、宇宙などに対し、
独特の世界観のようなものを持っていて、
自身の発明の原動力についてこう述べています。


「人間、自然界すべての現象は、われわれの思いもよらぬ
 はるかに大きな未知の知性によって
 運命づけられている気がしてなりません。

 私自身も、これらのより大きな力によって動かされて、
 数多くの発明を成し遂げることができました」


と。

この「はるかに大きな未知の知性」のことを


「リトル・ピープル・イン・マイ・ブレイン(頭の中に住む小人)」


と呼んでいたエジソンは、発想の原点である
リトル・ピープルの声を聞くこと、
つまり1%のひらめきを得ることが大事だと、
日記の中で繰り返し述べています。


「最初のひらめきがよくなければ、いくら努力しても無駄である。
 ひらめきを得るためにこそ努力はするべきなのに、
 このことをわかっていない人があまりにも多い」


と、自分の発言が世の中に誤った解釈で伝わってしまったことを
嘆いているくらいです。


エジソンは、発明や研究に行き詰まると、海辺に行き、
釣り糸を垂れるのが常でした。

ただし糸の先に餌はつけません。
潮風に吹かれ波音を聞き、自然の中に身を置くことで、
不思議と頭を悩ませていた問題の解決策が浮かんでくるというのです。
自然界や宇宙から流れてくる未知の知性のアイデアをキャッチし、
新しいひらめきを釣る。

エジソンの釣りには、そんな意味が込められていました。

しかし、これは天才・エジソンだからこそできることです。
では、私たちはどうすればよいのでしょうか。


エジソンは、研究に行き詰まったエンジニアにこんなアドバイスをしています。


「問題は君の考え方にある。
 大事なことは、頭の中に巣食っている『常識』という理性を
 きれいさっぱり捨てることだ。

 もっともらしい考えの中に新しい問題解決の糸ロはない」


塩沼亮潤大阿闍梨の今週のことば

2012-10-14 21:41:24 | 徳育 人間力

修行は毎日同じことの繰り返し
体調と精神面も最高の状態で出発しても
なぜか噛み合わない場合もある
そんな時は、いい意味で開き直って
姿勢を正し、呼吸を整える
すると、自然に精神が集中して、いつもの流れになってくる
逆に、調子が悪いということに執らわれていると
呼吸が乱れ、集中出来ず
どんどん歩みが遅くなり、体力を消耗してしまう
山の行も里の行も基本は同じ
迷ったら、基本にかえれ

 

 

塩沼亮潤(しおぬま りょうじゅん) 慈眼寺住職
昭和43年宮城県生まれ。61年東北高校卒業。
62年吉野山金峯山寺で出家得度。平成3年大峯百日回峰行満行。
11年吉野・金峯山寺1300年の歴史で2人目となる大峯千日回峰行を果たす。
12年四無行満行。18年八千枚大護摩供満行。
現在、仙台市秋保・慈眼寺住職。大峯千日回峰行大行満大阿闍梨


二宮金次郎(尊徳)の名言

2012-10-14 21:37:24 | 建て直し

┌───今日の注目の人───────────────────────┐



         二宮金次郎(尊徳)の名言を
        7代目子孫・中桐万里子さんが説く


                『致知』2012年10月号
                 特集「心を高める 運命を伸ばす」より


└─────────────────────────────────┘




 ◆自然は偉大であっても荒れ地しかつくれない。
  田畑は、人間と自然がともに力を尽くし、
  協同することでしか実らない。

  これこそ二宮金次郎が荒れ地(自然)から学んだことでした。



 ◆二宮金次郎は
  「荒れ地は荒れ地の力で開闢(かいびゃく)する」
  「異変を前提として定め、異変への工夫をする」
  という言葉も残しています。

  荒れ地や異変を破壊力でなく「徳」として受け取り、
  その力を活かす工夫を尽くす場所にこそ人道はあると金次郎は考えたのです。



 ◆「貧困の原因が何かを突き詰めれば、
  貧困には所詮限りがあることが見えてくる。

  貧困が無限に続くことはない。
  むしろ無限なのは実りのほうである。
  実りは必ず倍々で増えていく。貧しさが無限だと思うのは、
  妄想にすぎない」(二宮金次郎)


 
 ◆「名を残さず、行いを残せ」という遺言は
  二宮金次郎の人柄を端的に象徴しています。

  人間は所詮無一物で生まれ無一物で土に帰っていく存在なのだから、
  名利に汲々とするより、人々や世の中の役に立つことを実践するほうが
  よほど価値あることだ、と伝えたかったのでしょう。


フランシスコ・ザビエルが、本国に送った手紙

2012-10-02 11:03:59 | 徳育 人間力

「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、
 日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。
 彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がない。

 驚くほど名誉心の強い人々で、他の何ものよりも名誉を重んじる。
 大部分の人々は貧しいが、武士も、そういう人々も
 貧しいことを不名誉とは思わない……」

 

1549(天文18)年、キリスト教布教のために日本にやってきた
フランシスコ・ザビエルが、本国に送った手紙である。

 

それから300年、江戸末期から明治にかけて
たくさんの外国人が日本を訪れ、
日本と日本人についての感想を残している。

 

イギリス人女性旅行家で紀行作家のイザベラ・バードは
1878(明治11)年5月に来日、東北や北海道を旅行し、
こう書いた。

 

「ヨーロッパの国の多くや、所によってはわが国でも、
 女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないとしても、
 無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、
 私は一度たりとも無礼な目に遭わなかったし、
 法外な料金をふっかけられたこともない」

 

1856(安政3)年、通商条約を結ぶために来日した
ハリス提督は、その日記にこう記している。

 

「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。
 一見したところ、富者も貧者もない。
 これが人民の本当の幸福の姿というものだろう。

 

 私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、
 この人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、
 疑わしくなる。

 

 私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く
 日本において見出す。

 

 生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、
 現在の日本の顕著な姿であるように思われる」

 

1890(明治23)年来日のドイツ人宣教師の記録。

 

「私は全ての持ち物を、ささやかなお金も含めて、
 鍵を掛けずにおいておいたが、
 一度たりともなくなったことはなかった」

 

フランスの詩人ポール・クローデルは
1921~27(大正10~昭和2)年まで駐日大使を務めたが、
第二次大戦で日本の敗色が色濃くなった
1943(昭和18)年、パリで言った。

 

「日本は貧しい。しかし、高貴だ。
 世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、
 それは日本人だ」

 

私たちの祖先は勤勉・正直・親切・謙虚・素直・感謝といった徳目を規範に、
幾世紀も暮らしてきた人たちであった。
外国の人たちの証言はそのことを明らかにする。

 

さて昨今は……隔世の感、と言わざるを得ない。

 

この日本人の美質を取り戻し、後生に渡さなければならない。
私たち一人ひとりがこの美質を涵養し、発揮した時、
日本は真に豊かな国となる。

 

富国有徳とはこのことである。

 

先覚者安岡正篤師の言が思い起こされる。

 

「人々が己れ一人を無力なもの、ごまめの歯ぎしりと思わず、
 如何に自分の存在が些細なものであっても、
 それは悉く人々、社会に関連していることを体認して、
 まず自らを良くし、また自らの周囲を良くし、
 荒涼たる世間の砂漠の一隅に緑のオアシスをつくることである。

 

 家庭に良い家風をつくり、
 職場に良い気風をつくれないような人間が集まって、
 どうして幸福な人類を実現できましょうか」

 

富国有徳への道は一己より始まることを、
私たちは忘れてはならない。


石門心学の教えを商いの根幹に据え、京都の地で323年にわたり麩屋(ふや)を営む半兵衛麩。

2012-10-02 10:48:58 | 商い

石田梅岩が説いた石門心学の教えを商いの根幹に据え、
       京都の地で323年にわたり麩屋(ふや)を営む半兵衛麩。

       現在発行中の『致知』10月号にて、
      11代当主の玉置半兵衛会長に
事業永続の秘訣をお話しいただいております。

       本日はその記事の中から一部をご紹介いたします。


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      「老舗(しにせ)ではなく、しんみせであれ」



         玉置半兵衛(半兵衛麩会長・11代目当主)


              『致知』2012年10月号
               特集「心を高める 運命を伸ばす」より
        http://www.chichi.co.jp/monthly/201210_pickup.html


└─────────────────────────────────┘


私の父は「老舗(しにせ)」という言葉が
一番嫌いだったんです。

老舗は老に舗(みせ)と書くけれど、
こんなに失礼な言葉はない。

うちの店は老いていない。

舗(みせ)は老いたらあかんのや。
舗が老いたら死を待って潰れるだけやと。

しにせの「し」は止とも表せますが、
進化を止めてしまったらそこで終わり。
だからしにせではなく、
新しい舗、しんみせでいきなさいと言うんです。


一代一代が、自分が新しい舗の創業者になったつもりで
商売をしなさい。常に新しいことをしていきなさい

商売の本質
「先義後利(せんぎこうり=義を先にして、利を後にする者は栄える)」
を変えずに、常に時代の流れに合わせて革新の連続をしなさいと。
まさに「不易流行」です。


しんみせの「しん」は「真」の字で「しんみせ」とも表せます。
お客様に真心を尽くしなさいと。


他にも、信用、信頼を大切にの「信(しん)」。


驕らず控えめにせよの「慎(しん)」。


思いやりや仁の精神の「心(しん)」。


先祖を大切にしたり、お客様に親しみを感じてもらうの「親(しん)」、


規則を守り常に清らかの「清(しん)」、


辛い苦しいことでも辛抱できる「辛(しん)」、


人柄、家柄のよい紳士としての「紳(しん)」……、



こういう商売をしていけば自ずとしんみせになると。


石原進(九州旅客鉄道会長)  「創意工夫の湧き出ずる職場のつくり方」

2012-10-02 10:41:12 | 建て直し

「創意工夫の湧き出ずる職場のつくり方」

   石原進(九州旅客鉄道会長)


      『致知』2012年10月号
      特集「心を高める 運命を伸ばす」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201210_pickup.html


└─────────────────────────────────┘


スピードアップや車両の改善などのハード面とともに、
もう一つ大事なのが社員のサービスです。
このサービスの改善に徹底的に取り組みました。

サービスを決めるのはその人の心なんですね。
本当にお客さまのことを大切に思っているか否かによって、
まるで対応が違ってくる。

社員をサービスという最も大事なマネジメントに
直接参加させなければならないと考えて、
それまでとは別の方法でサービス改善運動を始めたのです。


【記者:具体的にはどんなことを手掛けられたのですか】


「新・感・動・作戦」と銘打った
サービスの取り組みを始めました。

感謝の気持ちをベースにしたサービスの提供と、
お客さまの声を商品や施策に反映するという2点に重点を置き、
ネーミングにもその思いを込めました。

サービスの事象はすべて現場で起こります。
そこで私は、社内LANを活用し、
現場で起こったことについて
社員に直接入力してもらうような仕組みをつくりました。
何かあったらすぐ入力してくれと。

そして、入力された社員の声を専門部署で集約し、
お金の必要な設備改善や、制度改善など、
従来は時間がかかっていた問題に
すべて2週間以内で対応策を出すようにしました。

自分たちが発信したことがすぐ会社の施策に反映されますから、
現場は喜びます。

さらに次々と問題が上がってくるようになって、
それをどんどん直していく。

列車の本数を増やしてほしいとか、
あそこの設備が汚いとかいろんな問題が提示されるんですが、
結局それが非常に有効なマーケティングにもなり、
おかげで随分業務改善が図れました。
 

【記者:自発的に業務改善が促進されていったことは実に大きいですね】


結局、事業は、社員が知恵を出し合うことが大切です。
皆がそれぞれの持ち場でどうしたら
お客さまのためになるかを真剣に考えることが、
収益の種になるのです。

社員の意識を高め、創意工夫の湧き出ずる職場にすることが、
会社を伸ばすことにも繋がっていくと思います。


メンタルトレーナー・久瑠あさ美さん

2012-10-01 01:25:00 | 商い


     延べ1万人以上のクライアントを導いてきた
      メンタルトレーナー・久瑠あさ美さんの
      心を創り、人生を発展させる言葉集


                『致知』2012年10月号
                 特集「心を高める 運命を伸ばす」より


└─────────────────────────────────┘


 ◆ 多くの人は自分が見えていることや認識できていること、
   つまり、顕在意識がすべてだと思っています。
しかし、その顕在意識が脳に占める割合は
僅か3%から10%だといわれているんです。
   
ですから、残りの90%以上の潜在意識、
   自分の中に眠っている底知れぬ力の存在に、
     自ら気づいていくことが大切です。


 ◆ どんなトップアスリートでも、
ヒットが打てなかったり、パットが入らなかったりと、
     失敗が続けば落ち込んで自分の才能を疑い始めます。

しかし、自分を疑うことがパフォーマンスに
最も悪影響を及ぼしてしまうのです。



 ◆ 人生の成功を分けるもの、
   それはやはり、「自分を信じる勇気」が
   あるかどうかだと思います。

どんなに周りから無理だと言われようとも、
     過去の自分ではなく、未来の自分を信じて進む。



 ◆ 私がクライアントに最初にする質問は、
   「自らの人生を懸けて何がしたいのか」
   「その仕事を通してあなたは何を伝えていきたいのか」
ということです。

     使命感を持った人間はとにかく強い。
     打たれようが、スランプだろうが、
     心の次元がそこまで高まっていれば決して諦めません。
だからこそ、その道で成功できるんです。



 ◆ 私は、心のあり方が人生の価値とクオリティーを
   変えていくと思っています。
     目に見えるもの、形あるものは有限ですが、
   人間の内にある心の世界は無限です


 「紙芝居は我が命」 杉浦貞(プロ街頭紙芝居師)

2012-10-01 00:06:44 | 徳育 人間力


     「紙芝居は我が命」


        杉浦貞(プロ街頭紙芝居師)

                『致知』2012年10月号
                      致知随想より

└─────────────────────────────────┘


まだ誰もいない公園を背に、
よく音のとおる拍子木を打ちながら街を回る。

二十分もすれば、子供たちが公園に集まり出す。
子供たちが自らの感覚で小さい子は前、
大きい子は後ろの順で座りだせば、
いよいよ街頭紙芝居の始まりだ。

街頭紙芝居は、マンガ一巻、続き物の物語一巻、
最後にとんちクイズ十問が出て、
正解者は水飴券がもらえるという決まりで行われる。

もっとも紙芝居はただ子供たちを喜ばせればよいと
いうものではない。

例えば水飴券は一週間後にしか使えないため、
その間子供たちには我慢することを教えている。

また、クイズでの「ハイ」の返事は、
私の目を見てしないとやり直しをさせている。
元気な返事が子供たちの自立心を育て、
友達関係を良好に築く原点となるのだ。

私はプロの街頭紙芝居師としてこの道三十二年、
毎週十二か所以上、年間六百回以上紙芝居を
上演することを生活のためのノルマとしてきた。

しかも駄菓子の値段を三十二年間、
一度も値上げすることなく一律五十円を守り続けているのだ。

だが最盛期だった昭和三十年代に
紙芝居師が全国に五万人いたのもいまは昔。

現在、紙芝居で生計を立てているプロの街頭紙芝居師は
八十一歳になる私一人のみだが、
二百年の歴史を持つ紙芝居という、
日本独自の文化を担っているという気負いはない。

むしろいまの仕事は我が天分であり、
楽しくてやめられないというのが本音だ。


初めて街頭紙芝居を見たのは二十歳の時だった。
石川県羽咋市という田舎から身一つで大阪に出てきた私は、
その日も日雇いの仕事を終え、
大道芸が並ぶ盛り場をあてもなく歩いていた。

ふと広場の片隅に年配の老人が子供や婦人たちを集めて
何かをしているのに気がついた。
聞けば紙芝居屋といって、いっぱしの職業だという。

肉体労働だけが生きる道だと考えていた自分には、
口先一つで生活ができると知った時の
驚きと感動はいまも忘れられない。

紙芝居師を志したのは勤めていた会社が
倒産する一年前、四十八歳の時だった。

すでに紙芝居師は街からほとんど姿を消していたが、
かつて二十歳の時に大阪で偶然出会っていた
紙芝居への潜在意識に火がついたのだ。

最初は祝祭日に知人から道具一式を借り、
家から遠く離れた公園で見よう見まねで上演した。

当時紙芝居師は乞食の一つ上と蔑視され、
家族は私が近所で紙芝居を演ずることを嫌がったからだ。
そんな最中に会社が倒産。

過去二度倒産の憂き目を味わった私にとって
新たな職探しは気が重く、
その反動からかますます紙芝居にのめり込んだ。

だが失業保険が切れる頃になると、
家族の強い反対もあって焦りが募り、
職探しで紙芝居を一週間ほど休んだことがあった。

すると街で私を見つけた子供たちが
しきりに紙芝居をせがんでくる。

いつの間にか、子供たちとの間に仲間意識が芽生えていたのだ。
私の紙芝居を待つ子供たちがいる――。

この瞬間、腹が決まった。


「明日必ず行くから待っとれ!」。


紙芝居屋として生きていこうという
強烈な人生の決断が生まれたのだ。

しかし現実は厳しい。
私の収入が減ったため、妻はパートに、
そして子供二人は高校生になると
バイトに出ざるを得なくなった。

将来への不安が常につきまとい、
それまでの温かい家庭の雰囲気は消え、
殺伐とした空気が漂うようになった。

さらに追い討ちをかけるように、
紙芝居に子供が集まらなくなってきた。

いま思えば紙芝居がマンネリ化していたのだが、
それでも雨さえ降らなければ
毎日、毎日公園へと夢中で出掛けていった。

一月下旬、その日は朝から雪だったが、
午後から急に晴れ間が差すとすぐに街中へ飛び出す。

しかし、目指す市営団地の広場には
雪が積もり誰も集まらない。

いたたまれない気持ちでその場を去ろうとした時
一人の女の子が自転車置き場の隅からそっと現れた。

私の顔をじっと見つめ、


「おっちゃん、水飴ちょうだい」


と百円玉を差し出してきた。

私は自分が惨めでしょうがなかったが
しぶしぶ水飴をつくった。

そしてもう一本水飴を求めたその子に
「おっちゃん、ご飯食べられるんか」と言われた時には、
私のさもしい心が見透かされてしまったように感じ、
逃げるようにその場を後にした。

その子のことが頭から離れぬままに
十日ほど過ぎただろうか。

ふと自分は心のどこかで子供たち相手の商売を
馬鹿にしていたことに気がついた

お菓子を買ってくれるのは大人ではなく子供たちなのだ。
自分たちの仲間だと思って対等な気持ちで
水飴を買ってくれる子供たちは、
私の生活の神様なのだ。

そう閃いた瞬間、心が晴れ晴れとして気持ちが
どんどん前向きになるのを感じた。
そして子供たちが喜んでくれることだけを
四六時中考え続けるようになって、
俄然紙芝居が面白くなってきた。

それからは「村田兆治物語」など
意欲的に新しい紙芝居の題材にも取り組んだ。

今年二月には新作「応答せよはやぶさ」を持って、
毎月一週間、東北三県の復興支援ボランティア紙芝居を実践し、
老人や子供たちに諦めない心の大切さと
生きる勇気や感動を伝えている。

きょうも街のいつもの広場や公園で
拍子木を合図に私の紙芝居が始まる。

辛いことは幾度もあったが、
紙芝居師としての自負心や楽しさと、
溢れる感性を武器にその時その時の道を切り開いてきた。

プロ紙芝居師とは、子供たちとの友情を創造し、
深め合える神聖な職業だ。

そして仕事を通じて人格を磨き高め、
紙芝居道の確立に命を燃やすことが私の生きる道なのである。