交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

「その過程に幸せがある」  松下幸之助

2012-01-09 23:45:13 | 徳育 人間力

「私は額に汗して働いて、 そして将来に希望を持っていくというその姿、

 そういうかたちにこそ、 本当の喜びがあるんではないかと思うんです」

「多少の苦難を味わいつつ歩んで希望をもっているあいだが、

 ほんとうの人生であり、 そこにほんとうの味わいがある」


スシが好きな人にはスシを食べさす、酒の好きな者には酒飲ますということです

2012-01-09 23:27:50 | 商い

幸之助68歳

スシが嫌いな者に 「スシ食え」
と言うたかて、言われたほうが困りますわ
、実際いうと。


だからスシが好きな人にはスシを食べさす、

酒の好きな者には酒飲ますということです


反対をやってはいけない

しかし、酒もある一定の分量をすぎたならば弊害がありますよ、

スシでもうまいとあんまり食いすぎたら胃が悪くなりますよということだけは、

お互いに注意しあわなくてはならない。

けれども、それぞれの個性、特性というものを生かすようにお互いが協力しあうということが、私は原則としなくてはならないと思います。

皆さんが勤務をなさる上においても、


また友人とつきあう上においても、やはりそういうことが考えられると思います。

会社の発展でも、個人の発展でも、

大きくは国の発展でも、やはりそれぞれみんなが自分の適性を見いだして、

自分の適性に生きるということが大事である。

そういうようなことが多くできる個人、会社、国というものが発展するんだと考えられるわけです。


信長と光秀と秀吉

2012-01-09 23:09:10 | 徳育 人間力

松下幸之助(68才)昭和38年


信長という人は、非常に粗暴な大将である。 
非常に力強いところがありますが、また一面に非常に乱暴である。

粗暴である。
 
まあそういうようなきらいのある人である。
その信長に光秀は嫌われるようになった。

にもかかわらず秀吉は、信長に終始一貫して愛されている。

 どこに違いがあったんだろうということであります。

私は、この問題についてちょっと感じたことがあるんです。

それを皆さんに申しあげようと思いますが、光秀は秀吉に比べて学問があるといわれた人であります。

また非常に勉強した人である。 そして律犠な人である。

非常に正義感の強い人である、いいかえると、融通のきかん人である、

というのが、光秀の一つの性格だろうと思います。

したがって、闊達であるとからいたくであるという点は、多少私は少ないだろうと思います。

この二人が、主人の信長にどういうような態度で接したかということですね

秀吉は、うちの主人信長という人は偉い男やなあと、こう思うんですね

だからそのまま率直に共鳴するわけです

あんたは偉いですなあ」と言うたらだれでも腹立ちませんわ、実際いうとね。

「そうか、そんなにおれは偉いか」

あんたは偉うおます」というようなもんですな。(笑)

「まあ一杯酒飲め」というようなものです。

 

ところが光秀はどう言うたか。
 
光秀もそういう点は分からんこともないだろうと思いますが、
 
光秀の性格上、忠言したわけです。

主人の信長は天下をまさに取らんとする人である

だから、今までは力で、策略で、ここまでのし上がってきたけれども、
これからは徳をもってやらんといかん

やがて将軍にもなる人であるから、もっと徳ということを考えてもらいたい

もっと情け深くやらんといかん

それが主人信長のために非常に大事なことである。

それを忠言するのが臣たる者の務めやと、 こう光秀は思ったんでしょう

まあ実際のところは聞いてへんから分からんですけれども。(笑)

それで、そのとおりやったわけですわ。

「もうあなたはここまで成功されて、やがて天下を取るんだから、今までみたいに打つたり蹴ったりして暴れずに、少しおとなしくしなさい。  そうしたら、さらに徳があなたに備わって、よりよいあなたになるんだ」と、

こういうように光秀は言うわけです。

いわば諫言というやつですわな。

そうすると、 
そうか、いや、おまえはいいこと言うてくれた。ほんとうにおまえの言うとおりや
言うような信長であったら問題ないんですな

ところが信長はそうは言わん。

生意気なこと言うな」と、こうなるんですな、信長は。

「しゃらくさいこと言うな」 ということですわ。

「賢そうにおれに意見するとは何ごとや。だいたいおまえが50万石の大名になったのは、おれのおかげやないか」ということになりますわ。

徳をもてとか何とか、しゃらくさいこと言うな」というので、だんだんと憎んできたわけです。

光秀にしてみたら自分は信長を侮辱するんでも何でもないほんとうに誠心誠意、そういうようにしてもらうことによって信長はもっと偉くなり、早く天下が取れる

そうすれば一般万民の幸せになるんだというように考えていたのかもしれない。

ところがそのことが非常に、逆鱗にふれたわけである

ここが面白いところですな。

いいこと言うて叱られるということはソロバンに合わんわけですな。

秀吉はそんなことは言わんのですね。

そこに光秀と秀吉の違いが出てきたわけですね。 だから、なにも光秀は悪い人やない。

悪い人やないけれども、信長にそんなこと言うてもあかんのですわ

信長のそういう粗暴さが、彼をして天下をまさに取らんというところまで仕事をされたんである。

光秀の言うようなことが分かり、そういうことを頭へ入れ、

そうか、おまえの言うとおりや」と言うような尋常一様の人であれば

尾張一国の殿様で終わったかもしれない

しかし、 彼は非常に剛勇闊達であった。

まじめな少々の意見ぐらいは、ほんとうのところ知っていたかもわからない。

信長がそういうような人であるということを、秀吉は見抜いていたんだと思うんです。

 このおやじさんに何を言うても頭に入らない

 むしろおだてておいたほうがいいんだ。 そうしたほうが、信長の性に合うんだ

性に合うから、信長は力が出るんだ

力が出たから天下を取らんとするまで成功したんだ

またそれがためにおれが今日あるんだ

それで勘定がきちっと合うんです。(笑)

だから、らざる忠義だてするよりも、

ほんとうにこの人の手となり足となって働いてあげたらそれでいいんだ。

なまじっか意見するよりも、

働いてあげることがいちばんいいんだというように、秀吉は考えたんだろうと思うんです。

これが秀吉の偉いところやないかと思います。

相手をちゃんと見て、物事を判断するわけですね

光秀はいい人であるし律犠な人ですから、信長に意見をすることが臣の道やと思った

信長の本質を見抜かず、一般常識によって、光秀は事を決しょうとしたわけです。

これが正しいことと思ったんです。

ところが、人間というものは、ここにおられる皆さんを見ても、 顔がみな違いますわね。

だいたい顔のまん中に鼻があって、その上に目があって、 ついている位置はあまり変わりませんわね。 そやけど全部違うでしょう、ほんとうは。

顔のような、目に見えるものでも違うんです
 
ましてその心組みというものは千変万化、同じものやありません

一般常識をもって人を律することはとてもできない。

信長には非常に欠点がある。

けれども、見方によればその欠点が彼の長所になって、

あれだけの仕事をやったわけです。


これが松下電器の商法といえば商法であった。

2012-01-09 22:44:41 | 商い

電器屋さんへ行って、 「こういうものをつくりました。 これはなんぼで買ってもらいたい」 と言うんじゃなくして

 「なんぼで売ったらいいんでしょうか」と、

 そういうことを問屋さんの主人公なり番頭さんに会って、そして教えてもらいつつやってきたわけです。

今日の松下電器は、つくったものは原価なんぼである、

そして、

これをどういうふうに宣伝し、どういうふうに販売したらいい、

小売屋さんにはどういうことを訴えたらいい、

問屋さんにはどういうようなことを話して、問屋さんの小売りはどのくらいであったらいいというようなことまでも、

われわれが、あらかじめ判定いたしまして、
 
それを申し上げてご得心願うというような状態になっております。

しかし、当初はその反対であった。

先方で値段をつけてもらって、
 
先方で、これくらいだったらいいだろうと、

こういうことを教えてもらいつい1年間はやったわけであります。

17回に続く。

それで、そのときに私が会得したものは、結局、真実を訴えるということでした

自分こういうようにやった。 原価はこのくらいについている」というような話をすることによって、

「それであれなんぼに売ったらいいんじゃないか。なんぼで買うてあげよう。

 そうしたら儲かるやないか。きみとこそれでやっていけるかどうか」ということを、問屋さんの主人公が言うてくれる、

 そういうことで商売をやっていったわけです。

 それですから、

 そういうことには素人であるけれども、真実を話すことによって通っていったということであります

 これが松下電器の商法といえば商法であった。 


飯田史彦著「松下幸之助に学ぶ人生論」

2012-01-09 22:18:36 | 商い

☆私が驚いたのは、幸之助さんが

 「指導者として適任ではない上司も存在する」ということを、入社式で、新入社員に白状しているのです。

 しかも、「そうでない場合が私はむしろ多いと思う」とまで、言っている。

 平凡な経営者なら

 「当社には立派な上司ばかりですので、どうぞご安心ください」と述べるところを、

 適切な上司ばかりではないので、自分で思案しながら努力してほしい」と、

 逆説的な「お願い」へと昇華させていく価値転換の話術に、私は目を見張ってしまいました。

 

☆「名人になれ!!」と命令されたら、

 我々のような凡人はみな「そんなこと無理です」と しょんぼりしてしまう。

 「名人になることの難しさはよく承知しているから せめて上手になってくれ」という言い方で頼まれたら、

 わかりました、それでよろしければ できるところまでやります」と どうにか答えるだけの勇気が出てくる。

 

☆「地味で良いから、着実に仕事を積み重ねながら  

  お客様のニーズ(要望)に的確に応えていこう  というのが幸之助さんの考えです。

☆われわれは産業のスポーツマンである。

  オリンピック選手を見習い、  苦痛よりも生きがいを感じるよう。  

  「よりよきものを作って、それを顧客に提供し、  そして国民生活をより高くしていくことに  

  お互いが選手たらんとしておるのであります。」 と使命感を強調している点に、

  「社員の皆さん、どうかご納得いただきたい」という 切なる願いがうかがえます。

 

☆目の前の状況がいかに行き詰っても、にこやかに

 「きょう頭にないこともあした頭に浮かんでくる 

  あした頭にないことでも、あさっては頭に浮かんでくる」と。

 平凡に「苦しいけど頑張りましょう」という言い方ではない。

 優れた経営者は、まさに、このように社員に対して、

 無尽蔵の希望、限りない勇気を与えることのできる人

 そして、経営者のみならず、「優れた親」、「優れた教師」、「優れた政治家 など、

  人の上に立つすべての者に求められる、必須条件。

 


夜泣きうどん屋の主人だったら

2012-01-09 22:03:57 | 商い

きょうの味はどうですか」ときく。

自分はいいと思うけど、お客さんはどういう風に感じているだろう?

こういうことは当然聞くべきだと思

 

それを訊かない夜泣きうどん屋の主人であれば、

それは非常に自分の商売を無視している。蔑視していると思うのです。

 

熱心であれば当然そうなるだろうと思います。このような意識で仕事をすれば

皆さんの頭から何が生まれるかというと、想像もできない偉大な力が生まれてくる

 と思うのであります。

(松下幸之助 68歳 昭和38年)

 


工夫をはらわずして、まんじゅう屋が成功したというためしはありません

2012-01-09 21:15:27 | 商い

昭和22年(1947)5月12日PHP研究所 所員への講話 (52歳)

ある町にまんじゅう屋をつくるというときに、

このまんじゅう屋さんの成功したいという願いが

相当強いものでなければ、成功はしないのであります

 
まずまんじゅうをつくって店に並べる。 
しかしそれだけではいけない。

店へ出すと同時に、その町のありとあらゆるまんじゅう屋の前を通って

よそのまんじゅうはどういうような大きさか

どういう色艶をしているか、どういう陳列のしかたをしているかとかを見てみる。

そして、一度よその品物を買って、自分のところのものと食べ比べてみる。

その場合、自分で食べたのではやはりひいきがありますから、

自分のまんじゅうのほうがうまいと考えるかもしれない。

あるいは逆に心配のあまり、人のまんじゅうがうまいと考えるかもしれない。

それで第三者に食べてもらう。

自分のものだ、よそのものだと言わずに、

二つとも自分でつくったのだが、どちらがおいしいか食べてみてください」と、

 まんじゅうの好きな、味を比較的よく知っている人に批判してもらう。

すると、おれのより人がつくったもののほうがうまいのだな、

それではいけないというようなことになって、そこに興味をもってさらに次々と工夫を凝らす


同じ5銭で買うのならば、むこうのまんじゅうを買いに行こうではないか

と言って、ニ町(一町は約109メートル)や 三町遠くても書いに来てくれるようになる。

それでこそ、そのまんじゅう屋さんは成功するわけであります。

そういうように、一つの町のまんじゅう屋をやって成功するにもそれだけの努力がなければならない。

そういう工夫をはらわずして、まんじゅう屋が成功したというためしはありません。


幸之助94歳 最後まで相手を思いやる

2012-01-09 20:48:45 | 徳育 人間力
明治27年(1894年)11月27日に生まれた幸之助さんが
94年の生涯を閉じたのは、平成元年(1989年)4月27日でした。
 
その2年前ほど前から声帯の萎縮で声がほとん出せない状態で、
うなずくのが精一杯でした。
 
病室に自筆で『忍耐』と書いた額を掛けていましたので、
婦長が「”忍耐”でがんばってくださいね」と声をかけたときも、”うん”とうなずいていました。
 
最後まで幸之助さんの治療にあたったのは、松下記念病院の院長でした。
 
4月6日のこと、幸之助さんが高熱を出し、レントゲンを撮ると気管支炎でした。
 
11日には呼吸困難が現れるようになり、気管にタンがたまるようになり、
チューブを入れて吸引を繰り返すようになりました。
 
4月20日、院長が気管にたまったたんをチューブで吸いだす際に、
これから管をのどに入れます。ご辛抱ください」声をかけました。
 
 
いやいや、お願いするのは私です。」 低くかすれた声で答えました。
 
これが幸之助さんの最後の言葉でした。
 
「あのひと言は終生忘れることができません
 
苦しい病の床にありながらも相手を思いやる。
 
松下さんのすべてを物語っている言葉だったと思います。」こう院長は語っています。
 
 幸之助さんの法名は『光雲院釋眞幸』です。
真々庵「根源社」の前で

幸之助69歳(昭和39年)熱海会談

2012-01-09 16:13:20 | 徳育 人間力

幸之助のべ13時間以上壇上に立ち苦情や要望に耳を傾けた

とうとう最終日になっても苦情は尽きない。結論も出せない。

そこで、

「3日間、十分にいいあったのだから、もう理屈をいうのはやめましょう。

よくよく反省してみると、結局は松下電器が悪かった、この一言につきます。

これからは心を入れ替えて出直しますので、どうか協力してください。」と

祈るように訴え絶句した。

閉会にあたり、「共存共栄」の色紙を一人ひとりに手渡した。

その後、営業本部長の仕事を代行した。


幸之助 45歳  昭和15年  「一般国民のことを思えばわが社伝統の平和産業も重要である。」と訴えた

2012-01-09 15:27:34 | 商い

昭和12年、日華事変勃発。厳しい統制と物資不足で、

言語に絶する苦しい経営を強いられる。

松下電器も例外ではなかった。

昭和13年、戦争遂行に向けて原材資材と物資品目の統制が始まる。

昭和15年、初めての経営方針発表会で、

「国策遂行のために全力をあげて協力をしなければならないが、

一般国民のことを思えばわが社伝統の平和産業も重要である。」と訴えた

昭和15年、「優良品製作総動員運動」提唱、不良品絶滅に取り組んだ。

昭和17年、「品質劣化防止の通達」を出し、品質維持のための全員の

一層の奮闘努力を要望している。


4百4病の病より貧ほどつらいものはない

2012-01-09 14:54:37 | 商い

幸之助 37歳 (昭和7年)

 

宗教:悩んでいる人を救い、安心を与え、人生に幸福をもたらす聖なる事業。

経営:人間生活に必要な物資を生産する聖なる事業。

 

昔から”4百4病の病より貧ほどつらいものはない”という諺がある。

我々はその貧乏をなくすために、刻苦勉励(こっくべんれい)、生産に継ぐ生産で、

この世に物資を豊富に生み出す尊い使命がある。

 

2ヶ月を店員を招集した際、

「産業人の使命は貧乏の克服である。

そのためには物資の生産に次ぐ生産をもって、富を増大しなければならない。

水道の水は価あるものであるが、

通行人がこれを飲んだとしても咎められはしない

それは量が多く、価格があまりにも安いからだ。

産業人の使命も、水道の水のごとく、

物資を安価無尽蔵たらしめることである。」

 

この真の使命感を達成するために、

建設時代10年、活動時代10年、社会貢献時代5年

あわせて25年を1節とし、これを10回繰り返す。

250年計画を提案した。


松下幸之助  特許を買収し無料で公開

2012-01-09 14:46:00 | 徳育 人間力

松下幸之助 36歳

昭和7年、ラジオの重要部分の特許をある発明家が所有し、

設計する上で大きな障害になっていたことを憂慮(ゆうりょ)し、

幸之助はこの特許を買収、しかも同業メーカーが自由に使えるように

無償で公開した。

これにより松下は業界全体の発展に大きな貢献を果たしたとして

評判になり、世の賞賛を受けた。


松下幸之助  未曾有の不況を乗り切る

2012-01-09 14:26:49 | 徳育 人間力

35歳(昭和4年~5年  1929年~1930年)

昭和2年の金融恐慌に追い討ちをかけるように

昭和4年ウォール街の株価暴落を契機に世界恐慌が勃発。

松下電器も倉庫は在庫でいっぱいになった。

そのころ幸之助は体調を崩し自宅療養の身であった。

枕元に幹部が来て、従業員を半減するしかないと進言。

それを聞いたときに、打開の道が閃いた。

生産は半減するが、従業員を解雇してはならない。給与も全額支給する。

その代わり店員は休日を返上して販売に全力をあげること」と指示した。

この方針は全従業員に快哉(かいさい)をもって迎えられ、

祖に実行に一致団結した結果、2ヵ月後にはストックは一掃され、

それどころか、フル生産に入るほどの活況に転じた。