交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

 「人格の根っこ」

2012-12-30 00:16:34 | 教育

┌───今日の注目の人───────────────────────┐

        
      「人格の根っこ」

              大平光代(弁護士)

                『致知』2013年1月号
                 特集「不易流行」より

└─────────────────────────────────┘


 現在、ダウン症のお子さんを育てられている
 大平光代さんは、子育てに『論語』を用いているそうです。

 現在は、『論語』に関する本を出されている大平さんが
 そこに込めている思いとは?


  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これは以前、強盗致傷罪で担当した少年の話です。

 彼は小さい頃、お父さんについてタバコ屋さんに行きました。
 その時、五千円札一枚出したところ、
 おつりとして八千円と小銭が返ってきた。


 「お父さん、おつり多いやんか。
  おばちゃん、間違えてはるで」

 と言うと、お父さんは彼を殴りつけ、

 「余計なことを言うな。黙ってたら分からへん」

 と言い放ったそうです。
 ちなみに、お父さんのこの行為は
 つり銭詐欺で刑法上の罪に問われます。
 
 この経験が少年の人格の根っことなって、
 後に彼は万引きを繰り返し、
 最後はひったくりを行って被害者が怪我を負ったために
 「強盗致傷罪」に問われました。
 
 お父さんは
 「おまえには十分に小遣いを与えていたはずだ」
 と怒りをぶちまけていましたが、
 もともとは「バレなければいいんだ」と、
 自分が五千円をごまかしたことがきっかけなのです。
 
 このお父さんも一流企業にお勤めのエリートサラリーマンでしたから、
 もしかすると『論語』の言葉は知っていたかもしれません。

 『論語』の心とは、
 目に見えないものを感じる心だと思います。

 誰が見ていなくても、お天道様が見ている。

 「そうやなぁ、おつり返しに行かなあかんな」
 と言って返していれば、
 この出来事は少年にとってまったく別の人格の根っことなったと思うのです。


尾角光美さん

2012-12-30 00:05:28 | 徳育 人間力

18歳のとき、父は経営するベンチャー企業が倒産して失踪。翌年、母が自殺した。その2週間後、東京から京都の同志社大に進むが、体を壊して休学した。街が華やぎ、学友が帰省する年末、何も食べずに寝続けては一人、死を思った。

状況を変えたのは「死にたいほどつらいんやね」と寄り添ってくれた友人の存在だった。大みそかに自宅へ招いてくれる知人もできた。「私のもらった温かい経験を社会に還元しよう」という思いが企画の出発点になった。

大みそかから元日にかけて「年越しいのちの村」を大阪市天王寺区の應典院(おうてんいん)で開く。多くの人が家族と過ごす年末年始。自殺を考える人や居場所のない人は孤立感が増す。そんな人たちが集って「もう1年がんばってみるか」と思ってもらえたら。みんなで年越しそばを食べたり、書き初めをしたりして、新たな年を楽しく迎える。

自死遺児らを支援する団体「リヴオン」の代表。7月、50代の男性から「死にたい」と電話がかかってきた。話しているうちに男性の名前を間違えた。男性は笑い、「どれくらいぶりに笑えたんやろか」。できることはありませんか、といのちの村の運営に加わってくれた。

春には大学を卒業する。リヴオンは法人化し、東京と京都に事務所を置く。「誰でも孤独になる可能性がある。手を伸ばせば人とつながれる社会であることが大事なんです」

おかくてるみ(27歳)

(朝日新聞2010年12月26日付朝刊「ひと」欄から)


尾角光美(おかく・てるみ=一般社団法人リヴオン代表)

2012-12-29 23:52:24 | 徳育 人間力

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐

    「旗を揚げる」

        尾角光美(おかく・てるみ=一般社団法人リヴオン代表)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘


私が母を失ったのは九年前、十九歳の時でした。

長年、鬱状態が続いていた母はいつも
「死にたい」と繰り返していました。

「あんたなんか生まれてこなければよかった」と
辛辣な言葉を毎日のように浴びせかけられ、
大切な肉親でありながら、
一緒に暮らすのが辛くてしかたがありませんでした。

それでも母を少しでも喜ばせたいと思い、
浪人生活を送りながら内緒でアルバイトをして貯めたお金で、
母の日にバッグをプレゼントしました。

よもやそれが最後のプレゼントになるとは
思いもよりませんでした。

程なく、経営する会社を倒産させた父が失踪。
経済的にも精神的にも負担が過度に重なった末、
母は私が大学に入る二週間前に自ら命を絶ったのです。

以来、私のカレンダーから母の日はなくなりました。

ところが五年前、母の日というのは、
一九〇八年五月十日に母親を亡くしたアメリカの女の子が、
教会で行われた追悼の集いで白いカーネーションを配り、
亡き母親への想いを伝えたことが始まりだと知りました。


その年は、母の日が始まってからちょうど百周年。

私は、それまで心の奥にしまい込んでいた
母への想いを伝えたいと強く思いました。

そして、同じような想いを抱いている人がいるなら
一緒に想いを伝えたいと考え、
母親を亡くされた方々から手紙を募り、
『百一年目の母の日』という本をつくりました。

マスコミで報道されて話題になり、以来毎年刊行しています。

日本ではこの十五年、毎年三万人以上もの人が
自ら命を絶っています。

東日本大震災でも多くの方が突然の死別を経験されました。
それに伴い、大切な人を失った人びとを精神的、
社会的に支えるグリーフサポートの重要性が高まっています。

大切な人を失った悲しみは、一人ひとり異なります。
私の場合、母に対する感情的なわだかまりや、
拭いがたい孤独感など、様ざまな感情が
心の中で複雑に交錯し苦しめられました。

大学にはなんとか入学したものの、
身体をこわして講義への出席もままならなくなりました。

学業復帰への足がかりをいただいたのは、
親を亡くした子供に奨学金貸与を行っている
あしなが育英会でした。

同会が開催したテロ、戦争、病気などによる
遺児たちへのケアの現場で、
悲しみと悲しみが出合ったところから
希望が生まれるのを目の当たりにしました。

二〇〇六年に自殺対策基本法が制定されて以来、
国内の地方自治体が遺族支援に取り組んできました。
その流れの中で、自治体をはじめ、学校、寺院などでの講演、
研修などで全国から呼ばれるようになりました。

年間三万人以上もの方が自ら命を絶ついま、
自殺の問題は決して他人事ではなく、
自分事として考えていきたい。

そしてこの問題が私たちに問い掛けているのは、
自分たちの生き心地について。この生きづらい社会を、
どうすれば生き心地のよい社会にできるかを
ともに考えていくことが、いまを生きる
私たちの役目だということを体験を交えてお話ししました。

二〇一〇年三月、社会起業家を目指す
若者のためのビジネスプランコンペ「edge2009」での
優秀賞受賞をきっかけに、本格的に社会に
グリーフサポートを根づかせていくために、
確実に遺族にサポートが届く仕組みを考えました。

寺院や葬儀社は必ずご遺族と出会います。
そこで、研修で出会った石川県小松市の僧侶の方と
協力して地域にサポートを産み落とすことを目的とした
グリーフサポート連続講座を開催。僧侶、坊守(僧侶の妻)、
葬儀社、一般市民の方が定員を超えるほど参加されました。

自殺遺族にどんな話をすべきか。実は人を導く
僧侶の方々ですら悩んでいらっしゃるのです。

いま求められるのは、遺族が頼れる人の繋がりやサポートの場です。
講座を通じて、去年の冬にグリーフサポートの団体が
二つ発足しました。

かつてお寺は地域と深く結びついていました。
いま日本にはコンビニの二倍にも当たる
七万以上ものお寺があります。

かつてのような地域との絆を取り戻せれば、
もっと生き心地のよい社会になると考え、
「寺ルネッサンス」と銘打って
小松市以外でも働きかけをしています。

グリーフケアで大切なことは、聴く力です。
聴の字は耳+目+心で成り立っており、
自分のすべての注意力を相手に向けること。

受け身でなく能動的な行為であって、
聴くことを通じて相手の痛みや苦しみを
ジャッジせずに少しでも近づくことが重要です。

もう一つ大切なことは、相手のことを気にかけてあげること。
母を失い、自室に籠もって死を思い詰めていた
私の心に光を灯してくれたのが友人のメールでした。

友人は私をむやみに励ましたりすることなく、
ただ「きょうは食べられた?」「眠れた?」と
毎日声を掛け続けてくれました。

一通のメールでもいい。
誰かが自分のことを気にかけてくれている。

その実感が命を繋ぎ止めてくれるのです。

友人のおかげで、私はその後様ざまなご縁に恵まれ、
グリーフケアというライフワークを見出すことができました。

そしていま、いただいたたくさんのご縁は
亡き母からのギフトとして感謝の念を胸に抱いています。

旗を揚げることで繋がることのできる人がいます。
私は、大切な人の死を経験した人の目に
留まるよう高く旗を揚げ、確かに繋がっていくことで、
その喪失から希望を見いだせる社会を実現していきたいと思います。


「草もまた生きている」

2012-12-29 22:56:03 | 教育

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

           「草もまた生きている」

                千玄室(裏千家前家元)
                『致知』2013年1月号
                 特集「不易流行」より

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(復員して)京都に帰ってからの私には、
「死に損ないの自分は胸を張っては歩けない」
「戦友に申し訳ない」という忸怩たる思いが
消えることはありませんでした。

修行のために僧堂へ入り、ある時、
庭の草抜きをしていたんですね。

すると後藤瑞巌(ずいがん)老師が立っておられて
「あんたはいま、どんな気持ちで草を抜いてるんや?」
と聞かれた。

そう言われても、別段何も考えていない。
老師はそのまま黙って行かれたのですが、
後で呼ばれてこう言われたんですね。


「あんたは戦争から生きて帰ってきて、
 忸怩たる思いでいることは分かってる。

 けどな、あんたが抜いてたあの草も生きてるのやで。
 その草をなんとも思わずに抜いてたらダメや。
 生きてる草に“抜かせていただきます”
 という気持ちを持たなあかん」


この言葉を聞いてハッとしました。
生きて帰ってきたことは何も恥ずべきことではない。
生かされて帰ってきたからこそ
仲間の分まで頑張らねばならないのだ。


そう思った時、私は滂沱(ぼうだ)と涙しました。



僧堂の修行は、ある意味で軍隊よりも厳しいものですよ。
軍隊は命令に従って動いていればいいのですが、
僧堂では何一つ指示されない。

だから最初は何をしていいのか皆目分からず、
先輩に聞いても知らん顔をしている……。


結局大徳寺には一年ほどいて、翌年アメリカへ行きましたが、
その後も老師の元へは参禅しました。

私がアメリカへ行くと告げた時、老師は
「なんでアメリカなんぞ行く必要がある?」と言われた。
茶道の普及にまいりますと答えると、
そんなに容易いものじゃないぞと言って渡されたのが

「主人公」

という言葉でした。
禅の公案にある、自分自身をよく見つめ直せという教えですね。

唐代の瑞巌師彦和尚は、自分自身に


「主人公よ」と呼び掛けては、


「惺惺著(せいせいじゃく)」(おい、しっかり目覚めているか?)、


「諾(だく ※正しくは口偏)」(はい、しっかり目覚めています!)

と自問自答したといいます。

向こうの国へ行けばいろいろな人からいろいろなことを言われる。
おまえは居眠りをせず、目と心をはっきり開けておけ。
己に与えられた大きな使命を自覚し、それを全うせよと。
この教えは大変ありがたかったですね。


「100年後に生き残れる企業の共通項」

2012-12-29 22:40:56 | 建て直し

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

       「100年後に生き残れる企業の共通項」

                『致知』2013年1月号
                 特集「不易流行」総リードより

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以前、こういう話を聞いた。

ある人が地方都市に旅行し、市役所の人に
古くからある神社を案内してもらった。

その神社は50年前に修復を行い、
100の会社が協賛、寄付をしてくれた。

さて、50年経ったいま、そのうち何社が
残っていると思われますか、と市役所の人に質問された。

読者の皆さんはどう答えられるだろう。

残ったのは、たった1社である。
それも業態を変えて、残ったのである。

では、100年後に生き残れるのはどれくらいか。
1,000社のうち2,3社が定説である。

生存率0、2,3%。

企業という生命体を維持発展させていくことが
いかに難しいかをこの数字は示している。

その中で何百年にもわたって
存続発展しているところがある。

本号にご登場いただいた
裏千家、虎屋はともに五百年の伝統を有している。
ちなみに日本には200年以上続いている会社が
3,000社ある。
韓国はゼロ、中国は9社だという。

何百年も続く老舗を観察すると、
共通のものがあるように思える。


1つは創業の理念を大事にしていること。

その時代その時代のトップが常に創業の理念に命を吹き込み、
その理念を核に時代の変化を先取りしている

2つは情熱である。
永続企業は社長から社員の末端までが目標に向け、
情熱を共有している。


坂の上の雲  

2012-12-29 21:40:07 | 歴史

秋山好古

俺は、単純であろうとしている。
人生や国家を複雑に考えてゆくことも大事だが、それは他人に任せる。それをせねばならぬ天分や職分を持った人があるだろう。おれはそういう世界におらず、すでに軍人の道を選んでしまっている。軍人というのは、おのれと兵を強くしていざ戦いの場合、この国家を敵国に勝たしめるのが職分だ。ー負ければ軍人ではない

「いくさは、たれにとってもこわい。」と好古はかつて弟の真之に語った。うまれつき勇敢な者というのは一種の変人に過ぎず、その点自分は平凡な者であるからやはり戦場に立てば恐怖が起こるであろう。「そういう自然のおびえを押さえつけて悠々と仕事をさせてゆく者は義務感だけであり、この義務感こそ人間が動物とは異なる高貴な点だ」

「淳! なぜ我が家には茶碗が1つしかないか分かるか?金がないからではないぞ。男子は生涯にたった1つ事をなせばなる。そのためにあえて身辺を単純明快にしとくんじゃ。」

秋山淳五郎真之

「自主自立、一身独立です。 アシは世界の海に身を乗り出したい。海の向こうにはアシの知らんでっかい世界が広がっとる。この目で見たい。この胸で感じたい。」

正岡子規

「戦をもいとわぬ君が船路には、風ふかば吹け、波たたば立て。気張れ・・・・・・淳さん!

伊藤博文

「いまだに高杉さんに怒鳴られとる夢をようみるんじゃ。おかしいじゃろ?夢ん中じゃ、今でも高杉さんの使い走りよ。」

広瀬武夫

「5851万4000円という日本が英国の造船所に払った金は生糸を売った金ではありません。貧しい日本が爪に火をともすようにして貯めたお金です。」

児玉源太郎

「最善を尽くすっちゅう事は、その目で現地を見るちゅう事じゃ!体を酷使するちゅう事じゃ!立て!」


合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ 代表 中土井 鉄信

2012-12-29 21:32:07 | 教育

http://management-brain.co.jp/

 

近代社会がもたらした「学校教育」という弊害

大学では、学校の先生になるために教職を取っていました。
将来の目標は先生になって、非行少年・少女と徹底的に向き合っていこう、
人生について教えようと考えていたのです。
ただし私は、日本の将来を良くしていくためには、
学校はなくすべきだという思いも抱いていました
こういった考えを持つようになったのは、
近代社会と学校教育に関する議論を知ってからです。

近代社会とは、地域社会から教育力を全て奪い、
学校という場所に閉じ込めた社会です。
そして、学校で教えていることが全て正しいという
幻想を抱かせた社会でもあります。
きちんと学校を経ないと、一人前の社会人にはなれない、
そう思わせて「人の選抜」を行いました。
その選抜された人間が国家を動かす仕組みを作り上げたのが、
近代社会なのです。

このような議論を知るまでは、学校教育は良いものだ、
学校の先生は素晴らしい職業だと思っていました。
しかし実は、学校は他律的な人間を育てることが機能としてあると分かったのです。
そして、枠からはみ出してしまう人間は、
いわゆる非行少年・少女になってしまうことも多い。
私はその子供たちと向き合う先生になりたいとは思いましたが、
最終的には学校教育はなくなればよいと考えていました。
わざわざ「学校」として存在する必要はないのです
学校や教育の要素は社会に組み込まれていけばよい。
私は大学2年生の頃から、そう考えてきました。

 

合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ 代表 中土井 鉄信


「武」という漢字は「戈」と「止」からできています。

2012-12-29 21:11:44 | 戦争

「武道」の意味を漢字から考えると・・・

「武」という漢字は「戈」と「止」からできています。

「戈」は矛(ほこ)を示し、両刃の剣に長い柄をつけた武器を意味しています。

「止」は足跡を表わしていて、「止まる」と「進む」両方の意味で使われています。

このことから「武」は、「矛を止める」=「争いを止める」と言う説と、「矛を持って進む」=「抵抗にさからって切り進む」という二つの説があります。


日本語は、その時代によって変化を繰り返してきました。

私個人は、現代の「武道」とは争いを止める役割であってほしいと願い、そうあるべきだと考えています


すべての繁栄は人から始まる   今野華都子  弘法大師空海 

2012-12-29 17:31:02 | 建て直し

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

           「発展繁栄の法則」

                『致知』2010年4月号
                    特集総リードより
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志摩半島にあるそのホテルは、さる著名な経営者が
バブルの最中に計画、三百八十億円を投じて平成四年に完成した。

全室から海が見渡せる設計。
贅を尽くした内装
足を運んだ人は、誰もが「素晴らしい」と歓声を上げる

しかしバブル崩壊後、経営不振が続き、
十年前にホテルは人手に渡った。
新経営陣も経営を軌道に乗せるべく手を尽くしたが、
赤字は年々嵩む一方となった。

仙台で小さなエステを経営していた今野華都子さんに
白羽の矢が立ったのは、そんな時だった。

平成十九年、今野さんは現オーナーに請われて
ホテルの社長に就任した。

今野さんを迎えたのは社員百五十人の冷たい、
あるいは反抗的な視線だった

それまで何人も社長がきては辞めている。
また同じ繰り返し、という雰囲気だった。

今野さんがまず始めたのは、社員一人ひとりの名を呼び、
挨拶することだった。
また、全員と面接し、要望や不満を聞いていった。

数か月が過ぎた。

今野さんは全社員を一堂に集め、言った。

「みんながここで働いているのは、
 私のためでも会社のためでもない。

 大事な人生の時間をこのホテルで生きる、と
 自分で決めたからだよね。

 また、このために会社が悪くなったと
 みんなが思っている不満や要望は、
 私や経営陣が解決することではなく、
 実は自分たちが解決しなければならない問題です」

 そして、今野さんは二つの課題を全員に考えさせた。

「自分は人間としてどう生きたいのか」

「自分がどう働けば素晴らしい会社になるのか

ホテルが変わり始めたのはそれからである。
自分の担当以外はやらないという態度だった社員が、
状況に応じて他部門の仕事を積極的に手伝うようになっていった。

就任二年半、ホテルは経営利益が出るようになった。
全社員の意識の改革が瀕死のホテルをよみがえらせたのである。

今野さんが折に触れ社員に伝えた
「自分を育てる三つのプロセス」というのがある。

一、笑顔

二、ハイと肯定的な返事ができること

三、人の話を肯きながら聞くこと

仕事を受け入れるからこそ自分の能力が出てくるのだから、
仕事を頼まれたらハイと受け入れてやってみよう。
「できません」「やれません」と言ったら、
そこですべての可能性の扉が閉まる。

そして、教えてくれる人の話を肯きながら聞くのが、
自分を育てていく何よりの道なのである。
今野さんはそう言う。

この三つはそのまま、
人生を発展繁栄させるプロセスである。

すべての繁栄は人から始まる。
ひとりの人間が自らの人生を発展繁栄させていくことが、
そのまま組織の発展繁栄に繋がる。

しかも、その発展繁栄の法則は極めてシンプルである。
今野さんの事例はそのことを私たちに教えてくれる。

弘法大師空海の言葉がある。

「物の興廃は必ず人に由る
 人の昇沈は定めて道にあり」


手帳の使い方

2012-12-29 14:05:34 | 徳育 人間力


「鋭きも 鈍きもともに 捨てがたし 錐と槌とに 使い分けなば」

幕末期の日本で最も大きい私塾「咸宜園」(かんぎえん)の
塾主であった儒学者・広瀬淡窓(ひろせたんそう)が詠んだ和歌です。

「人間には人それぞれに個性があり、違った能力があるものである。
 その能力を生かすことこそ大切

といった教育法に感化され「咸宜園」の門を叩いた塾生は4000人を超えたと言われ、
その塾生の中には、靖国神社の銅像として知られる天才参謀・大村益次郎
蘭学者の高野長英、日本初の写真家・上野彦馬など、数多くの有為な人材が輩出されました。

厳しさと優しさを備え、儒教の教えの根幹は「敬天」と捉え、

「天が求める生き方をすれば、必ず良い報いが得られ、
 悪い行いをすれば必ず悪報がある」

という人生観に基づいて、淡窓が考え、実践したのが「万善簿」でした。

「万善簿」とは、

ひとつ善いことをしたら白丸をひとつ。
悪いことをしたときには黒丸をひとつ。

白丸から黒丸を引いて白丸の合計が1万になるのを目指して、
ひたすら善行に励み、悪行を戒めることを「帳簿」につけ、
自らの日々の生活態度を厳しく戒めたといわれています。

54歳から始めた善行を晩年までつけ続け、67歳で見事1万善を達成します。

「人生は習慣の織物」と言われるように淡窓の「万善簿」は、
人物の偉大さと良習慣の密接な関係を示してくれます。

「手帳」のご活用方法として、「万善簿」をつけてみるのは如何でしょうか。


「why?」であり、「think!(考えろ)」です。 「人生を劇的に変えるユダヤの教え」

2012-12-29 13:53:40 | 商い


┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


    「人生を劇的に変えるユダヤの教え」

          星野陽子(翻訳家)

               『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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若い頃の私はどちらかと言えば控えめな性格で、
大人しく、人生に対する姿勢もまるっきり丸腰だったと思います。

しかし、私は変わりました。
私を変えたもの――それは約十年におよぶユダヤ人夫との結婚生活です。


出会いはひょんなことからでした。
当時シティ・バンクに勤めていた私は、
お客様として来店した彼と知り合い、
友人たちを交えて親しくなって交際に発展、
結婚に至りました。

結果的に十年で破局しましたが、
その鮮烈で濃密な時間に身につけた「ユダヤ的思考」が、
現在、約六億円の不動産資産等を築いた
自分のベースになっていると思います。

ユダヤ人には、例えばロスチャイルドや
投資家のジョージ・ソロス、
あるいは映画監督のスティーブン・スピルバーグなど
世界的な成功者が数多くいます。

なぜユダヤ人の多くは事業等で成功し、
富を得ることができるのでしょうか。


まず、彼らはお金に対してネガティブなイメージがありません。
ユダヤ教ではお金は神からの祝福とされていますから、
素直にお金を尊び、手に入れようと努めます。

一方、日本でお金持ちの代表例といえば
時代劇の越後屋。腹黒く、悪事を働き、
最後は成敗されます。

多くは清貧の思想こそが美しく、
お金は「持ち過ぎると身を持ち崩す」
「親族との争いの種になる」など、
一種の心理的ブロックが掛かっています。

富裕層であっても日本人は
「年収は三千万円もあれば十分だ」と言いますが、
ユダヤ人に「これで十分」というリミットはありません。
稼いだお金で他者を助けるという大義があるからです

彼らは収入を得始めた当初から年収の十%を慈善に回します
施しは十倍になって戻ってくるという教えがあるため、
皆、喜んで寄付するのです。

また富を得た人は妬みやバッシングではなく、
尊敬の対象となります

人びとは彼らを訪ね、どうすれば自分も後に続けるかを聞き、
成功者たちも自分の体験や知識を余すところなく教えます。
よって常日頃から「お金に関する会話」が
当たり前に繰り広げられています。


これは私が日本で家を建てた時の話です。
日本の友人たちは「素敵なお家ね」「木の香りが心地よい」
などと言うのに対し、ユダヤ人の友人たちは
「土地はいくら?」「ローンは?」「総額は?」
と聞いてきます。

日本人は失礼な質問だと感じるかもしれませんが、
彼らにとっては有意義な情報交換。
そのくらいオープンなのです。

一般的にユダヤ人の成功の根底には
「タルムード」と呼ばれる教えがあるといわれます。
しかし私はその内容よりも、それを
“自分はどう考えるか”と議論することが、
彼らの成功の下地ではないかと感じています。

彼らは幼少の頃から議論の訓練を
日常的に行ってきているので、
自分と反対の意見を言われて腹が立つということはありません。

むしろ、新しく革新的な考えを好み、
それによってより深く、
熱く議論を戦わせることを楽しみます。
もちろんそれが終われば仲良しに戻ります。

十年の結婚生活でとにかく元夫に言われたことは
「why?」であり、「think!(考えろ)」です

「なぜ日本で贈り物をもらったら半額分を返すのか?」

「風習だから……」

「君はそれが正しいと思うのか。だいたいなぜ半額なのか?」

と、こちらがきゅうきゅうとするほど問い詰められます。

また、すべて戦略を持っています。
夫婦であっても何気ないおしゃべりではなく、
すべてに「考え」がある。

例えば彼が家事をやりたくないとすれば、
それを前提に会話を仕掛けてくるので、
考えなしで受け答えをしていると、
いつの間にか私がせざるを得ない状況になっている。
そんなことがよくありました。

そういった背景には、やはり迫害に遭い、
長い間祖国を失った歴史があるのだと思います。


ある日、テレビで「イスラエル人が二人死亡」
というニュースが流れました。

彼は「これは嘘だ。なぜなら……」
と自分なりの解釈を述べていましたが、
どんな時でも人の意見を鵜呑みにせず、
自分の頭で考え、納得しなければ信じない

仮にそれで自分が命を失うことになっても
すべては自己責任。
逆に言えば、自分の運命を他人に委ねることはしないのです。

離婚後、私はフリーランスで翻訳の仕事をしながら、
投資によって資産をつくりました。

しかし、もともとは特許翻訳者の会社で
翻訳と雑務のアルバイト、
とてもフリーで仕事をする自信はありませんでした。

帰国子女でもなく、特許法に関する知識もなかったからです。
そんな時、私はユダヤの教えを思いました。

自分でリミットを設けない。自分の運命を他人に委ねない。
それで降りかかるリスクは自分で背負おう  。

フリーになると決心し、行動を始めたら
次第に周囲が変わっていきました。

パソコンやコピー機など
仕事に必要な器材一式を譲ってくれる方が現れたり、
家族や友人が子供の面倒をみると申し出てくれるなど、
応援の手を差し伸べてくれるようになったのです。

もしかすると、私たちは積極的にではないにせよ、
「普通に考えれば無理だよね」と
周囲の情報に流されて制限を設け、
受け身で生きているのかもしれません。

自分の運命は自分で切り開く。
その覚悟を決めて、一歩踏み出すだけで
人生は劇的に変わります。

ユダヤの教えは丸腰で平凡だった私の人生を
大きく変えてくれたのでした。


弱き善人では駄目である

2012-12-29 12:42:24 | 徳育 人間力

┌───今日の注目記事───────────────────────┐

           「よい俳句を作る三つの条件」

                『致知』2010年3月号
                 特集「運をつかむ」総リードより
└─────────────────────────────────┘

「功の成るは成るの日に成るに非ず。
 けだし必ず由って起る所あり。
 禍の作るは作る日に作らず。また必ず由って兆す所あり」

蘇老泉の「管仲論」にある言葉である。

人が成功するのは、ある日突然成功するわけではない。
平素の努力の集積によって成功する。
禍が起こるのも、その日に起こるのではない。
前から必ずその萌芽があるということである。

運をつかむのもまた、同じことだろう。

宝くじを当てる。これは運をつかむことだろうか。
棚ぼた式に転がり込む幸運というのは、
得てしてうたかたのごとく消え去るものである。
ことによると身の破滅にもなりかねない。

運をつかむには、運に恵まれるに
ふさわしい体質を作らなければならない。

言い換えれば、運を呼び寄せ、
やってきた運をつかみ取るだけの実力を養わなければならない、
ということである。

そういう意味で忘れられない言葉がある。

よい俳句を作る三つの条件である。
どなたの言葉かは失念したが、初めて目にした時、
胸に深く響くものがあった。

その第一は、強く生きること。

強く生きるとは、「主体的に生きる」ということだろう
状況に振り回されるのではなく、
状況をよりよく変えていく生き方である。
「覚悟を決めて生きる」と言い換えることもできよう

一道をひらいた人は一様に、強く生きた人である。
例えば、江戸後期の儒者、頼山陽は十三歳の正月に、
こういう覚悟を決めている。

「十有三春秋 逝く者はすでに水の如し
 天地始終なく 人生生死あり
 いずくんぞ古人に類して千載青史に列するを得んや」

(もう十三歳になってしまった。
 時間は流れる水のように過ぎていく。

 天地には始めも終わりもないが、人間は必ず死ぬ。
 どうしたら昔の偉い人と並んで
 歴史にその名を留めることができるだろうか)

 小卒で給仕から大学教授になった田中菊雄氏の言葉。

「一生の間にある連続した五年、本当に脇目もふらずに、
 さながら憑かれた人のごとく一つの研究課題に自分のすべてを集中し、
 全精力を一点に究める人があったら、その人は何者かになるだろう」

 こういう信念、姿勢が、強く生きる人格のコア(核)になる。

第二は、深く見る。

強く生きることで初めて視点が定まり、深く見ることができる。
深く見るとは本質を見抜くことである。
状況を見抜くことでもある。ここに知恵が生まれる

第三は、巧みに表す。

巧みに表すことは大事である。
分野を問わず、技術、技巧なくしてよいものは作れない。
だが、それだけではよいものは作れない。

強く生きる信念、深く見る姿勢があって、初めて技巧は生きてくる。

この三条件はそのまま、よい運をつかむ条件である。


「弱さと悪と愚かさとは互いに関連している。
 けだし弱さとは一種の悪であって、弱き善人では駄目である

哲学者、森信三師の言葉である。
運をつかむ道は人格陶冶の道であることを、哲人の言は教えている。


「お母さんから命のバトンタッチ」  鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)

2012-12-29 09:01:37 | 健康 怪我 ダイエット 老後 など

┌───2012年、反響の大きかった記事ベスト3──────────┐

       「お母さんから命のバトンタッチ」

              鎌田實(諏訪中央病院名誉院長)

                 『致知』2012年7月号
                 読者の集いより

└─────────────────────────────────┘

僕が看取った患者さんに、
スキルス胃がんに罹った女性の方がいました。

余命3か月と診断され、
彼女は諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやってきました。

ある日、病室のベランダでお茶を飲みながら話していると、
彼女がこう言ったんです。

「先生、助からないのはもう分かっています。
だけど、少しだけ長生きをさせてください」

彼女はその時、42歳ですからね。
そりゃそうだろうなと思いながらも返事に困って、
黙ってお茶を飲んでいた。すると彼女が、

「子供がいる。子供の卒業式まで生きたい。
 卒業式を母親として見てあげたい」

と言うんです。

9月のことでした。
彼女はあと3か月、12月くらいまでしか生きられない。

でも私は春まで生きて子供の卒業式を見てあげたい、と。

子供のためにという思いが何かを変えたんだと思います。

奇跡は起きました。
春まで生きて、卒業式に出席できた。

こうしたことは科学的にも立証されていて、
例えば希望を持って生きている人のほうが、
がんと闘ってくれるナチュラルキラー細胞が
活性化するという研究も発表されています。

おそらく彼女の場合も、希望が体の中にある
見えない3つのシステム、内分泌、自律神経、免疫を
活性化させたのではないかと思います。

さらに不思議なことが起きました。

彼女には2人のお子さんがいます。
上の子が高校3年で、下の子が高校2年。

せめて上の子の卒業式までは生かしてあげたいと
僕たちは思っていました。

でも彼女は、余命3か月と言われてから、
1年8か月も生きて、2人のお子さんの卒業式を
見てあげることができたんです。

そして、1か月ほどして亡くなりました。

彼女が亡くなった後、娘さんが僕のところへやってきて、
びっくりするような話をしてくれたんです。

僕たち医師は、子供のために生きたいと
言っている彼女の気持ちを大事にしようと思い、
彼女の体調が少しよくなると外出許可を出していました。

「母は家に帰ってくるたびに、
 私たちにお弁当を作ってくれました」

と娘さんは言いました。

彼女が最後の最後に家へ帰った時、
もうその時は立つこともできない状態です。

病院の皆が引き留めたんだけど、どうしても行きたいと。
そこで僕は、

「じゃあ家に布団を敷いて、
 家の空気だけ吸ったら戻っていらっしゃい」

と言って送り出しました。

ところがその日、彼女は家で台所に立ちました。
立てるはずのない者が最後の力を振り絞ってお弁当を作るんですよ。
その時のことを娘さんはこのように話してくれました。

「お母さんが最後に作ってくれたお弁当はおむすびでした。
 そのおむすびを持って、学校に行きました。
 久しぶりのお弁当が嬉しくて、嬉しくて。

 昼の時間になって、お弁当を広げて食べようと思ったら、
 切なくて、切なくて、
 なかなか手に取ることができませんでした」

お母さんの人生は40年ちょっと、とても短い命でした。

でも、命は長さじゃないんですね。

お母さんはお母さんなりに精いっぱい、必死に生きて、
大切なことを子供たちにちゃんとバトンタッチした。

人間は「誰かのために」と思った時に、
希望が生まれてくるし、その希望を持つことによって
免疫力が高まり、生きる力が湧いてくるのではないかと思います。


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2012-12-09 11:51:54 | 教育

┌───今日の注目の人───────────────────────┐

     「心のコブを取り除いた時、本当の幸せが見えてくる」
 
                  ――安藤大作氏の幸福論

                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より

└─────────────────────────────────┘

 ◆  僕は、現代人の自己否定は、
   その人が勝手につくりあげたものだと考えています
   誰かから否定されたわけではないのに、
   自分の意識が「おれは駄目だ」「認められていない」と思ってしまう。

   僕が塾の教育を通してやってきたのもまさに、
   子供たちのこの「心のコブ」に気づかせ、
   そこから抜け出させて「必ずやれる」という確信を
   持たせてあげることでした。

 ◆  人間の心が100としたら、普段意識できるのは5%で、
   95%は無意識の世界です。

   「俺はこんな男だ」「これしか俺にはできない」
   と言っているのはこの5%です。

   ところが、化石のようになった95%を穿(ほじく)り出すと、
   段々自分の思考パターンや可能性が見えてくる。
   おもしろいもので自分を穿り出した分、他人の心も見えるんですね。

 ◆  親と分かち合って繋がりを感じた時に、
      人間は優しくなれるし、万物への愛しみが生まれる。
これが僕の実感です。

      身の回りの友達、同僚、これも確かに大切な絆でしょう。
だけど親や先祖というもう一つのパワーが
      これとクロスすることで人間は無限の幸せが
得られるのではないでしょうか。

 ◆  どんなマイナスの環境に生まれたとしても
「それを変えるために自分は生まれてきた」
    「そんな自分だからできることがある」と思ったら
      すべて感謝、すべてオーケーです。

そこに幸福感、心の安らぎを覚える人が増えていけば、
この国はもっと優しくなり、もっと輝くはずです。

(編集部より)

  安藤大作氏は三重県屈指の学習塾・安藤塾の塾長です。
  小さい時の両親の離婚に端を発する様々な苦悩を
  克服するために目を向けたのが、自らの潜在意識でした。

  誰もが持つ「心のコブ」をいかに取り除くか。
  実体験に基づく安藤氏の言葉はどれも説得力があります。

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http://www.believe.jpn.com/ando/blog/diary.cgi

目の前の人を喜ばすために人は生きている


「なんで生きているのか?」    の答えはそれ。

勉強も仕事も   そのためにやっている


そのことを   教えないと

そのことを   感じないと

一生  本当の喜びは  わからない


本当の   喜びは   自分の生きる意味が   わかること   だから。


人が生きる意味は   目の前の人を    喜ばすこと


生きているとは  生かすこと

そして  生かされること


目の前の人を    喜ばすこと

+++++++++++++++++++++++++

http://www.believe.jpn.com/ando/blog/diary.cgi

時代が気づきを得始めてきた
見えない真理を形として、伝え始める人が増えてきたから。この人たちは実践者だ。

また時代が約十年ちょっと前から世論が「心」を求め始めたから、いち早くそのムードに乗り、先駆的に伝える人が出てきて、輪が広がってることもあろう。この中には実践者もいるが、ただの便乗お調子者もいる。セミナー講師とかしている前に、他人に語る前に自分の実業をまずちゃんとした方がいい人もいる。セミナー講師とかしているが、実業が何かわからないのだ。批判に聞こえたら申し訳ないが、まず実業ありきである。
まず実業ありきが、日本の古来からの考え方。
日本の古来からの考え方で言えば、講師やコンサルは基本的には実業ではない。講師やコンサル、また啓発本の出版は、本来実業の合間に半分ボランティアのような形で行うのが、日本的には美しい
実業さておきで、そちらが実業になるのは誰もが認める余程の限られた好実績を残した人だけで、ポッと出がすることではない。
それが本来の日本の地に足のついた社会だと思う。

今は、世俗にパワーを注いできた世代が、これ以上世俗にパワーを注いでも達成感も得られず、何かを求めて、また世に未来に対する不安と、焦燥感から、幕末のハイテンションの繰り返しのように、ちょっとしたブームに乗るし、それに便乗する人も出ている感じがする。
25年前のバブルとよく似た集団心理が働いている。経済金融から精神世界になっただけ進化したようだが、この手はまた好景気になれば経済金融でハイテンションになる類だ。
真実は時代がどうであれ、騒がず動じず昔からずっとやっている人だ。実業をやってきた人だ

今は時代が不透明だから、皆が「ことば」を欲しがる。しかし、よく見ないといけない。
その人が変わらずやり続けている「実業」を。
そろそろ啓発バブルは終わる。
「実業」という地味ながら青い炎が目立つようになる。
それは、「現場」だ
一番すごい実業とは、
農業や家事、自然の生産と育みを粛々と行うことだと思う。

とはいえ、仕事が複雑化し、細分化し、専門化する昨今、アドバイザーや顧問コンサルは必要だ。
しかし一般啓発系は実業ありきの方がほどほどにやるのが日本的な趣だ。
と個人的に感じている。


たまに啓発を受けたら、
その分実業に向いた方がいいように思います。
啓発、また啓発、またまた啓発では、すべてがバーチャルになるかもしれません。


真実は日常の中にあります。

安藤 大作

http://www.believe.jpn.com/ando/profile.html

安藤 大作(あんどう だいさく)

株式会社Believe代表取締役
社会福祉法人むげんのかのうせい理事長
一般社団法人伊勢YAMATO倶楽部副理事長
社団法人全国学習塾協会副会長
現在、三重県PTA連合会会長、日本PTA全国協議会の本部役員でもある。


「ラーメン店“一蘭”に行列ができるまで」

2012-12-03 20:19:10 | 商い

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


     「ラーメン店“一蘭”に行列ができるまで」


        吉冨学(一蘭社長)

                『致知』2012年12月号
                       致知随想より

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「おまえは商売に向いているから、商売人になれ」。

これが、半年にわたる闘病生活の末、
サラリーマンだった父が残してくれた
最後のメッセージでした。

私は知恵が回るから必ず成功するはずだと、
父は力強く励ましてくれたのです。

商売とは無縁だった当時大学一年生の私に、
商売人としての道を授けてくれたのは、
この父の言葉でした。

そして商売のことは右も左も分からない学生ながら
起業を決意しました。

一軒一軒問屋を回ることから始めた商売、
徐々に本質が分かってきたものの、
苦しい生活が続きました。

大学卒業を間近に控える頃になると、
このままでは留年という状況に追い込まれます。

すがる思いで授業を取っていた英語の先生に
相談を持ちかけると、返ってきたのは
思いがけない言葉でした。

長い人生の中で一年や二年はどうということはないから、
留年してもう一度先生の授業を取りなさいというのです。
そして、こう言うのでした。

「俺が人生を教えちゃる」と。


これが恩師・徳永賢三先生との出会いでした。
以来、熱いハートを持った先生に
マナーから人としての生き方まで、
私の根幹となる大切なことを教えていただいたのです。

当時手掛けていた派遣事業が軌道に乗り、
商売人としての光が見えてきたのも先生のおかげでした。


福岡の片田舎でラーメン屋を営む老夫婦から、
ある相談を持ち掛けられたのはちょうどこの頃でした。

閉店を考えているが店の名前だけでも残したいと、
常連だった私に受け継いでほしいというのです。
店の名前は「一蘭(いちらん)」といいました。

やっと商機を掴みかけた派遣事業でしたが、
その一方で競合他社との差別化が難しく
今後の成長を描けずにいた自分にとって、
直接エンドユーザーであるお客様と関われる
飲食業は魅力的でした。

また、学生時代に切り盛りしていた食堂で培った
ラーメンの味には自信がありました。
やり方次第では世界にいけるかもしれない、
という思いが私を駆り立てたのです。

それまでの経験から、新しい店のイメージづくりは
すぐにでき上がりました。

一つは、お客様にラーメン以外の情報を
遮断することでした。

なぜなら同じラーメンでも、
そこに誰がつくったのかという情報が加わることで、
人の味覚は左右されてしまうからです。

そこでつくり手が味の一つにならないように、
カウンターを仕切りで囲い、
店員も他のお客様も見えない状態にすることで、
純粋に目の前に出てくる一杯のラーメンに
向き合ってもらおうと考えたのです。

また、ラーメンはとんこつ一本に
絞り込むことにしました。

商売の秘訣とは人びとの記憶に
粘りつくイメージをつくることだというのが
過去の失敗から得た私の持論でした。

一蘭はとんこつ一杯にこだわっているというイメージは、
他社との差別化にも有効だと考えたのです。

こうしたアイデアを踏まえ、
平成五年に誕生したとんこつラーメン専門店一蘭。

もとは片田舎のラーメン店が、
いまではチェーン展開を進めて海外にも出店を果たし、
売上も七十億円を超えるまでに成長を遂げました。

もっともすべてが順風満帆だったわけではありません。


いまから十年前のことでした。
突然幹部六名を含めた社員三十名が
雪崩の如く退社していったのです。