昭和36年(1961) (66才)
言葉は多少違いますけれども、昔の日本には武士道精神というものがあって、
一時、武士道精神が世を支配したのであります。
この武士道精神にもいろいろありますが、結局、
そういう武士道の教えるところは、やってはならんということです。
簡単です。
やらなければいかんときに、命が惜しいとか損やというようなことを言うたら、
武士道に反するんです。
やらなければいかんときには、自分の利害、一身というものを無にして、やらねばならんという使命感に立つてやるというのが武士道である。
また、いかにわが身の面目がつぶれても、
やってはならんときには、それはやらないようにする。
あいつは卑怯者と言われても、
やってはならんことは、何と言われてもこれはやらない、というのが武士道精神である。
単に利害関係、面目によって、事を決するのではないのです。
面目とか利害ということを超越して、ものの真実に直面して事を決する。
事の真実によって事を決するんだから、ある場合、世論のほうが誤っておるときには、
世論の攻撃をこうむる。
そのあげくには自分の身も捨てるということになる。
それでもその真実のためには、自分がやろうということが、
武士道の精神であります。
それによって日本は非常に大きな人間的成果をあげた時代があると思うのです。
今は是非善悪を、全部、利害得失によって決定するかの感があります。
これは人間として、たいへんな問題だと思うのです。
人間がもし利害関係のみによって是非善悪を決定するなら、
これは動物とあまり変わらんと思います。
しかし人間は、パンによって動く場合もあるが、
パンによって動かないような高い尊いものも同時にもっておるというところに、
人間の尊さというものがある。
さういうようなことをあらゆる角度から決定したものが、
日本武士道精神だと私は思うのです。
松下電器の経営も、いい意味の武士道精神の経営でなくてはならんと思うのです。
儲かるからやるとか、儲からないからやらないということのみ終始しない。
儲かっていくからやるという場合も、
正当な場合にはそれでよろしい。
しかしある場合には、儲からなくてもやらなくてはならんという場合がある。