運命の作用というものはわかりませんけれど、
分からないままに、
これが人によってみな違うものだということはいえると思います。
ちょうど人間の顔かたちが、一人として同じものがないように、運命の働き方は人によってみな違うと思うのです。
たぜ違うのかといっても、これは人間の顔かたちが、
人によってみな違うのと同じことで、天地自然の理にもとづいてそうなっているのです。
すなわち、自然の理が人間にそう運命を与え方をしていると思うのです。
運命が違うということは、他人と同じ歩み方をする必要はないということです。
また同じ歩み方をしょうとするすることは、ムダなことだということです。
だからある人が、一つの道で成功したからといって、
他の人がこれと同じ道を歩んで成功しょうと考えても、
それはできないことだと思います。
いやむしろそう考えることは、その人にとって不幸なことだと思います。
なぜかといいますと、その人にとっては、ほかに成功するような道が与えられているからなのです。
たとえば生まれつき非常に声のよい人と、また悪い人とがあります。
そこでよい声に生まれついた人が、
立派な声楽家を志すのはよろしいが、悪い人がこの人と同じ道を歩もうとするのは間違いです。
声の悪い人は、声楽家にはなれないかもしれないが、
たとえば絵が非常にうまく画家になれるという場合もあるのです。
だから、みんなそれぞれの道を、
それぞれにせいいっぱい歩んでいけばよいと思うのです。
他人の歩み方を見て、そこから教えを得ることはよろしいが、
他人の歩み方をそのまま真似する必要はないと思うのです。
自分の道を一生懸命歩めばよいと思うのです。
それがその人の成功への道だと思うのです。
もちろん、それぞれの道といっても、それがどんなものか、それは分かりません。
運命の内容は、さきにも言いましたように分からないからです。
ただ分からないけれども、
人の運命はみな違って与えられているということ、
これだけははっきりしているのですから、
この点をお互いによく認識しておきたいと思うのです。
そうすれば、お互いにムダな努力は避けることができるようになるでしょう。
それでは、
この運命に対して、どう対処すればよいかということが、
つぎに問題になってくると思います。
これはちょっと言葉では、こうしなさいと言い表わせないのではないかと思います。
ただ、いままでにお話ししましたように、運命というものは存在する、
しかしその内容は分からない、そして分からないけれども、人によってそれはみな違うということを、
まず率直に認めることが大切ではないかと思います。
すなわち以上お話しした運命観に、
率直に立つことができましたら、
お互いにそれぞれの運命に対処する道は、それぞれに自然に会得できるようになると思うのです。
ちょっと考えればむずかしいことのように思えますが、心を虚にして、率直に自分のなすべきことを考えたならば、
運命に対処する道はおのずから分かってくるのではないかと思うのです。
世間ではよく、
運命は服従すべきものではなく、開拓すべきものだといわれます。
これはまことに結構な考え方だと思います。
しかし、この言葉をそのままに直訳して受け取りますと、
無理をして、かえって運命を生かされないことになるかもしれません。
ですから、運命を開拓するという考え方もよろしいけれど、
これは、運命に上手に乗るといったほうがよいのではないかと思います。