┌───今週の一冊────────────────────────┐
『体温を上げる料理教室』
若杉友子(野草料理研究家)
定価1,470円(税込)
→ http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=932
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◆病気の原因は食歴(いままで何を食べてきたか)にある
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若杉ばあちゃんは
70歳を過ぎた現在も眼鏡をせずに新聞を読み、
スクワットも70回はできるというほど元気。
普段は緑に囲まれた山村で、
野草料理や日本の伝統料理を中心に
自給自足に近い生活を送っています。
それとともに、
全国から人が集まる人気の料理教室も開催し、
正しい食生活を世の中に広めるための
活動にも力を注がれています。
そんな若杉ばあちゃんの料理教室と講演会がまとめられた
本書には、
「病気の原因は食歴(いままで何を食べてきたか)にある」
として、間違った食の常識や、
陰陽に基づいた正しい食事のあり方などが
分かりやすく説かれています。
* *
●今日の朝食は何を食べた?
お菓子やインスタント食品はどう?
一度振り返ってみてちょうだい。
なんとなく調子が悪い人、
アレルギーの人、
もっと重い病気になっている人、
その原因は間違いなく「食歴」にあるはずです。
●お茶と味噌汁とご飯という
日本の伝統的な食事に戻せばいいんです。
昔から続いてきた伝統的な食習慣をやめた結果として、
赤ちゃんから老人までが
病気をするようになったんでしょう。
真理は簡単。
あんまり簡単すぎてわからなくなっているんだから、
おかしな話なんですよ。
●食物には「酸っぱい、苦い、甘い、辛い、塩辛い」の
5つの味があると言ったけれど、
これらはそれぞれ次のような役割があるんですよ。
まず、酸は肝臓を元気にしてくれます。
次に、苦味は心臓を元気にします。
甘味は脾(ひ)臓を元気にします。
辛味は肺を元気にしてくれます。
最後の塩辛さというのは腎臓を元気にします。
1300年の歴史の中で2人目という偉業を成した凄い人がいます。
その偉業・人物とは・・・
奈良県吉野山の金峯山寺蔵王堂から、大峯山までの
往復48キロ、高低差1300m以上の山道を16時間かけて一日で往復し、
9年の歳月をかけて48,000キロを歩くという厳しい千日回峰行を満行。
さらにその翌年には、「断食、断水、不眠、不臥」を9日間続けるという、
四無行を満行。
という、超人的修行を満行した凄い人物とは、
仙台市の慈眼寺住職:塩沼亮潤氏です。
千日回峰行には、ただ一つの厳しい掟があります。
いったん入行したら高熱が出ても、足の骨を折ろうとも、
途中で止めることは絶対に許されません。
止める時は腰の短刀で腹を切るか、
腰に巻いている死出紐で首をくくるかという命がけの行です。
弊社から発刊された「人生生涯小僧のこころ」には、
39度5分を超える高熱や、足や膝などの肉体的苦痛、
そして、次々に襲ってくる自然の驚異に立ち向かいながら、
時には死と背中合わせの体験の中から、様々な気づきが紹介されています。
「行をするのではなく、行をさせていただくという気持ちで
大自然を受け入れ、一体となって『謙虚』『素直』と
心で唱えながら歩くことにより、怪我や痛みがなくなっていった」
「あと一日で満行というその夜、なかなか寝付かれぬ中、
吉野山に小僧として入山した19歳の頃を思い出し、
明日満行を果たし、『大行満大阿闍梨』という称号をいただくよりも、
『人生生涯小僧のこころ』であるほうがもっと素晴らしいことだと思い
平穏な心で満行することができた」
など、過酷な行を通じて、自然への畏敬と感謝、
そして周りの人々への感謝の思いが【行日誌】に記されており、
いろんな言葉に触れる中で、尊い説法を聞いているような感覚を覚えました。
弊社ホームページで本日(27日)から
「塩沼亮潤大阿闍梨の今週のことば 」が連載スタートしました。
小僧のこころを持ち続けながら、里の行に励まれる塩沼亮潤氏の日常のお姿と、
心に響く言葉に出会っていただけたらと・・・
http://www.chichi.co.jp/essay/shionuma/quotation1.html
┌───感動する『致知』の話────────────────────┐
「石巻から甲子園へ届けた思い」
松本嘉次(宮城県石巻工業高等学校硬式野球部監督)
『致知』2012年7月号
致知随想より
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「宣誓。東日本大震災から1年、日本は復興の真っ最中です。
被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、
いまも当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
悲しみに暮れている方がたくさんいます」
2012年春、21世紀枠で
初のセンバツ甲子園出場を果たした石巻工業。
主将の阿部翔人が行った選手宣誓は、
部員たちがこの1年間のいろいろな思いを白板に書き込み、
その言葉をまとめて作り上げたものである。
監督の私が最後に清書をした時には、
様々な思いが去来し、思わず目頭が熱くなった。
2011年3月11日、石巻市沿岸部を襲った巨大津波により、
我が校の校舎とグラウンドは1,7メートルの浸水をした。
5日間水は引かず、残ったのはヘドロと瓦礫の山。
野球部員は市民800人とともに校舎へ避難したが、
選手の7割は自宅に被害を受け、親族を亡くした者もいた。
当日私は水に浸かりながら周囲の人の救助などに当たった。
3日後、学校を出てからはその間、
昼夜を問わず復旧作業に当たる人の姿をたくさん目にした。
最初に考えたのは、子供がいつまでも
避難所や自宅にいたままだと、親たちも動きがとりづらい。
子供たちに生活のリズムをつくってやることで、
そのリズムが元に戻れば大人たちの生活も
元どおりになるだろうということだった。
そこで思いついた言葉が
「あきらめない街、石巻!! その力に俺たちはなる!!」
である。
選手を集めたのは被災後まもない22日のことだったが、
「野球やりたいか」と聞くと全員が力強く頷いた。
「じゃあ学校再開の4月21日には瓦礫一つない校舎にしよう」
と発破を掛け、皆1日も休むことなく
瓦礫やヘドロの片づけに当たった。
その間、他校の野球部員や近所の方々、
海外の救助隊なども駆けつけてくださり、
錆びついた金属バットなどに代わる道具の支援も
全国からいただいた。
おかげで被災から40日後には
無事練習を再開することができ、
野球ができることのありがたみを実感した。
私は宮城県内の高校で15年野球部長を務め、
3年前、当校の監督に就任したが、選手たちにはいつも
「当たり前が当たり前と思うな。
人が嫌がることを進んでできる人間になれ」
と言い続けてきた。
高校を卒業して世の中に出れば、
ほとんどの仕事は雑用と雑用との組み合わせで
成り立っていることが分かる。
その雑用を嫌がらずに自らやる癖をつけておけば、
社会に出ても必ず役に立つ人間になれるという
信念が私にはある。
ただ今回の震災で、我われは当たり前のことなど
何一つないことを思い知った。
野球はバットとボールとグローブさえあればできる
といわれるが、まず、やる場所がなければ
何も始めることはできないのだ。
1か月以上のブランクはあったものの、
夏の宮城県予選ではベスト16。
秋の県大会の最中には台風で付近の川が溢れ、
グラウンドが再び浸水する被害にも見舞われたが、
秋季宮城大会で準優勝し、初の東北大会に進出した。
センバツ甲子園の21世紀枠は、
各都道府県の秋季大会でベスト8入りした高校を対象に、
困難の克服やマナーの規範などが評価される出場枠だが、
そうした点を認めていただけたのは光栄なことだった。
ただ、被災地からの出場とあって世間からの注目は高く、
選手たちが背負っているものは非常に大きいと感じた。
そこで私は野球に対する指示や戦略は一切伝えず、
ただ「ありがとう」ということだけを考えろと言った。
甲子園に出られることに対しても、
野球のできる状況をつくってくださった
周りの人に対してもそう。それ以外は何も考えなくてよいと。
大会では鹿児島の強豪・神村学園と当たり初戦敗退したものの、
一時は4点差をはね返すなど、選手が一丸となり
最後まで諦めないプレーを見せてくれた。
試合後には相手チームのスタンドからも
「また夏に戻ってこいよ」と大きな声援をいただき、
全国からいまも多くの励ましのメッセージが届いている。
これまでの指導経験を踏まえて私がつくづく感じるのは、
「動けば変わる」ということである。
被災後、石巻地区でグラウンドの掃除を始めたのは
我われが最初で、練習再開に踏み切ったのも当校が一番早かった。
こんな状態の中で本当に野球などしていて
よいのだろうかとも思ったが、保護者の方からも
「先生、早く練習をやってけろ。
子供たちの野球を見るのが一番の楽しみだったから」
と声を掛けていただき、再開させた。
するとそれまで自粛していた周りの高校も、
挙って練習を始めるようになったのである。
今回の被災では本当に多くの方々にお世話になった。
それに対する感謝の気持ちをなんらかの形でお返しするとともに、
これからの世の中をつくる担い手を
生活指導を通して育てていけたらと考えている。
なお、冒頭に紹介した選手宣誓は次のように続く。
「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは
苦しくて辛いことです。
しかし、日本が一つになり、
その苦難を乗り越えることができれば、
その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。
だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。
見せましょう、日本の底力、絆を」
まだ10代の若者たちが、それぞれの悲しみを胸に秘め、
日本全国へ届けた渾身のメッセージだった。
「トンチンカン夫婦」 まど・みちお
満91歳のボケじじいの私と
満84歳のボケばばあの女房とはこの頃
毎日競争でトンチンカンをやり合っている
私が片足に2枚かさねてはいたまま
もう片方の靴下が見つからないと騒ぐと
彼女は米も入れてない炊飯器に
スイッチ入れてごはんですようと私をよぶ
おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに
笑いは絶えずこれぞ天の恵みと
図にのって二人ははしゃぎ
明日はまたどんな珍しいトンチンカンを
お恵みいただけるかと胸ふくらませている
厚かましくも天まで仰ぎ見て・・・
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
ぞうさん
ぞうさん
だあれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ
一人でも応援してくれる人がいれば |
萩本欽一氏の心に響く言葉より… http://www.pakuti.com/kokoro/120618.htm
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背中のかみさま |
菅原里佳さんの、心に響く言葉より… その日はとても暑くて、買い物に出かけてショッピングセンターにつくと、 店内も蒸し暑くて、あわてて6ヶ月の息子のシャツをぬがせようとしたけれど、 いつも通り、息子は泣きわめき、なかなかうまくいかずあせっていた。 いつもいつも息子は泣いていて、よその赤ちゃんと比べても仕方ないけど、私も落ち込んでいた。 夫も長期出張で、たった一人の子育て。 はじめての子育ては、ツライことばかりに思えた。 切ない気持とあせる気持で必死にぬがせようとする私の後ろから、 「がんばれがんばれ、お母さん。 僕は今しゃべれないし、何もできないけど、すぐに大きくなって、お母さんのお手伝いをするから、 今は僕をよろしくね」 という声が…。 ふりかえると、優しい笑顔でにっこりしながら去っていくおばあさんの姿。 涙が出てしまい、お礼も言えなくて。 でも、何か救われた気がして、その日から、子育てでツライ時、1人で落ちこみそうな時は、 あの「背中のかみさま」の声を思い出してみる。 笑える。 背すじがしゃんとする。 私はまだ大丈夫。 ありがとう、「背中のかみさま」 また、会いたいです。 “北海道札幌市 菅原里佳”(39歳) 『思わず泣けるいい話』河出書房新社 昨今、育児ノイローゼと言う言葉をよく聞く。 核家族がすすみ、まわりに相談する人も、 手伝いをしてくれる親族もいない母親が増えたことも原因の一つだ。 ソニー創業者の井深大氏は、 「育児くらい崇高で素晴らしい仕事はない」と言った。 まさに、その通りだが、同時に育児くらい大変な仕事もない。 体力を使い、エネルギーも使い尽くす、ある程度若くなければできない仕事でもある。 育児を終えた人は、「あの頃は、二度と戻ってこない至福の時間だった」、と思うことがある。 子供が、何の疑いもなく、全力で親のもとに飛び込んでくる瞬間。 手をつないでくれる瞬間。 抱っこして、という瞬間。 生涯に二度とない最高のプレゼントをくれるからこそ、親は頑張れる。 小さな子供は… 今は、なにもできないけど、いつか必ず親を助けてくれる。 |
小才は、縁に出合って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を生かさず
大才は、袖すり合った縁をも生かす
これは、徳川将軍家の剣の指南役、「柳生家」の有名な家訓だ。
まさに、愚かな人間は、この縁の重要性に気づかない。
だが、多くの成功者たちは、若い頃からお世話になった、恩人や師のことを忘れない。
それは…
中学の先生だったり、高校や大学の監督だったり、職場での先輩や社長、
そして、ふとしたきっかけで出会った人生の師匠のことだ。
縁を大切にする人は、何年経っても、自宅まで挨拶に行ったり、
折にふれ何かを贈ったりするような気遣いをする。
縁に気づき、袖すりあうご縁を大切にする人でありたい。
命令形でなく質問形に |
松本幸夫氏の心に響く言葉より…
|
オヒョイさん |
医師の鎌田實氏の心に響く言葉より…
|
あいつはいいヤツだ |
萩本欽一氏の心に響く言葉より… 僕のところから出て、何かをつかんだ子というのはみんな、受け取り方、 つまり気持ちの持ち方がいいの。 だからやっぱりすべては性格だよ。 オーディションではみんなうまく演技して、何とか受かろうとする。 そこは一生懸命努力したやつが受かるの。 だけど、努力して受かったやつがそのまま芸能界でやっていけるかっていうと、そうではない。 芸能界ではうまいからって使われることはほとんどないよ。 昔は実力の世界なんて言われてたけど、もう古い言葉。 今は性格なの。 だから、僕が教えてるのは、 「演技は努力しなくていい。性格を努力しろ」って。 僕は長いことテレビやってて、「あいつはうまいから使おう」なんて話、聞いたことない。 一番使われるのは、「あいつはいいヤツだから使おう」っていう、この言葉が多いんですもん。 だとすると、演技なんかより性格を磨いたほうがいいよ。 『ユーモアで行こう!』KKロングセラーズ 性格がいい人は、人から可愛がられる。 可愛げのある人だ。 可愛げがなければ、上から引き立てられることはない。 これは、芸能界に限らず、実業の世界、スポーツの世界でも同じだ。 上司や、社長、監督から引きがなければ、どんなに技術があろうと、 実力があろうと、上に行くことはできない。 可愛げのある人は、素直な人、気遣いのできる人、人の喜ぶことをするのが好きな人だ。 その逆の、自分のことだけしか考えない自己中心的な人は、 可愛げがなくて、性格が悪い、ということだ。 多くの人は、頭を磨くことに汲々(きゅうきゅう)として、性格を磨くことを忘れている。 「あいつはいいヤツだ」、と言われる人でありたい。 |
人の役に立ったり、人に親切にするには、人の気持が分からなければできない。
どうしたらもっと人が喜ぶだろう、相手の気持や身体が楽になるだろう、と考える「利他の心」だ。
利他の心とは、自分の損得より、人の喜びを優先させること。
健康と幸福は、「お先にどうぞ」と言った回数で決まる、という。
小さな親切を積み重ね、健康で幸せな人生をおくりたい。
欠点を恥じることはない |
商業界主幹であった倉本長治氏の心に響く言葉より… 『欠点なき店よりも特徴ある店を』 この言葉は、わが商業界同人成瀬義一先生の日頃の名言の一つである。 人間にも完全な人格者というのは無い。 お互いに諸々(もろもろ)の欠点を背負って生きているのだが、商店においても同様である。 その欠点を恥じることはない。 むしろ恥ずべきは何等これといって特徴のない姿である。 商店がお客を惹き付ける魅力はことごとくこの特徴のいかんによるのであって、 ソレがどんな特徴でもよいから、他店と断然違うという独自の性格を打ち樹てよ。 値段ではヒケをとらぬとか、常に眼新しい品が揃っているとか、 店そのもののムードが、他店とは異なるとかいう風なものでよい。 その特徴が店の欠点である場合にさえ、小売店というものは、 ソレを繁昌の要素とすることが出来るからである。 『損得より先に善悪を考えよう』商業界 行徳哲男師はこう語る。 破格な生き方をした人間には味がある。 こういう人間がいなくなったことも、現代人が元気を失っているゆえんである。 「短所数うべきあらば第一級の人物」(春日潜庵) 幕末の儒者である春日潜庵は、 「欠点が数え切れないほどある人こそが、第一等の人物である」と言った。 寝小便たれ、泣き虫、気が弱い、薄のろ、挨拶もろくにできない、 と子どもの頃に言われたのは坂本龍馬だ。 村の連中から、ろくでなし、ホラばかり吹く、お調子者、無学、臆病、と言われたのは中国の劉邦だ。 しかし、龍馬にしても劉邦にしても、とにかく人に好かれ、無類の可愛げがあったという。 また、彼らが座に加わると、「そこが一瞬にして明るくなった」、と言われる天性の魅力を持っていた。 短所を気にするより、長所を伸ばし、誰にも負けない自分の得意技を身につけたい。 |
龍を見たことがありますか? |
ブータンのペマ・ギャルポ氏の心に響く言葉より…
|
『小さなサトリ』河出書房新社
無能唱元師は、「幸せ」とは、心身が「弛緩(しかん)」(リラックス)している状態であり、
「不幸」とは、過度にこわばった緊張が弛緩しないでいる状態だ、と言う。
人から管理されたり、コントロールされているときは、緊張が続いている。
人は、自ら決定し、自発的に動くと、限りないエネルギーが湧いてくる。
やらされていると感じたり、義務だと思ってやっていると、それがストレスとなり元気は出てこない。
世界最長寿と認定された、泉重千代さんは、「長生きの秘訣は?」と問われ
「酒とタバコ」と答えた話は有名だ。
また、「どういうタイプの女性が好きですか?」との質問に、「年上の女かのぉ」 と答えたそうだ。
『人を動かす』創元社
誰かが失敗をして、その間違いを指摘し、非難したとしても、
その人は、「そうするより他に仕方がなかった」というだろう。
人から責められれば責められるほど、人はガードを固くして、
自己正当化を計り、間違いは決して認めない。
「盗人にも三分の理」のことわざのように、どんなに筋の通らないことでも、
それなりの理屈はつけられるものだ。
誰かを非難しても、決して、自ら反省したり、行動を改めたりすることはない。
人は感情の動物であって、論理で動くことは決してない。
「人を裁くな…人の裁きを受けるのがいやなら」
人を非難したくなったら、リンカーンのこの言葉を思いだしたい.