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「自家発電能力」
覚張利彦
(がくばり・としひこ=SMIオブジャパン公認エージェンシー
“リバティ福岡”北海道エリア担当・「キャリエール札幌」代表)
『致知』2010年9月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
http://www.chichi.co.jp/monthly/201009_index.html
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2004年、2005年の夏の甲子園大会で
連覇を遂げた駒大苫小牧高校へ、
初めてメンタルトレーニングに伺った時のことである。
野球部員の皆に目標は何かと尋ねたところ
「日本一です」という答えが返ってきた。
私は
「日本一になれる確率は4200分の1しかない。
その確率はたった0・0002%で、
失敗の確率は99・9998%。
やっぱり無理だな、と思った人は?」
と聞くと、全員の手が挙がった。
甲子園に出場すること自体からも遠ざかっていた
2000年当時のことである。
続けて私が
「では日本一ではなく、北海道一になりたいと思ったことは?」
と聞くと、考えたこともないというふうだった。
北海道一にならなければ、当然日本一にはなれない。
また、北海道一になるためには区内一、
その前にはやはり、市内一になる必要がある。
私は彼らに、今年はここまで行くんだという
明確な目標と達成までの期限を決めさせ、それを用紙に記入させた。
高校球児は得てして「夢は大きく、達成は超白昼夢」
という状態になりがちだが、
達成は「超現実的」に考えていかなければならないのである。
私自身がこうした能力開発プログラム「SMI」に出合ったのは、
20年近く前のことだった。
米国のポール・J・マイヤーによって
1960年に創始された当プログラムは、
現在28か国語に翻訳され、世界80か国以上で活用されている。
当時26歳だった私は、薬品会社の営業マンをしていたが、
SMIのスタッフと出会い「夢は何か」と聞かれた時に、
何一つ言葉が出てこなかった。
つまり、自分に夢と目標がないということにすら気付かない、
恐ろしい状態で生きていたのである。
私はそのスタッフから
「夢と目標をセットしなければ、人の能力は絶対に向上していかない。
そしてもし夢を持ったなら、その夢を
“目的”と“目標”に分け、達成までの期限を決めなさい」
とアドバイスを受けた。
言われたとおり、目標と期限を設定して、
それに懸命に取り組むと確実に成果が出始め、
瞬く間に全国トップの売り上げを記録した。
さらにその原理を自分の部下にも使ったところ、
同様にぐんぐんと数字が伸びていったのである。
私はこのプログラムの素晴らしさをより多くの人に伝えたい、
と退職を決意して札幌に代理店を設立。
以来、スピードスケートの清水宏保選手や堀井学選手ら
トップアスリートをはじめ、企業や教育機関などに
プログラムの提供を行ってきた。
私が思うに、ほとんどの人は明確な目標を持っている時、
懸命にそれに取り組む。
しかし本当の苦しみは、その目標を達成した後に
始まるのではないだろうか。
例えば念願の金メダルを手にした途端、ケガや不調に見舞われ、
試合に勝てなくなる五輪選手。
「地域一番店になる」「自社ビルを建てる」と燃えていたが、
その目標を達成した後、目指すべきものが分からなくなり、
行き詰まっている経営者。
その人がいる「現在地」は、本人の成長段階に合わせて
刻々と変化していく。
私が、夢や目標を持つということと同等に大切だと思うのは
「いまの自分の実力を知り、その実力に合った目標を設定できる」
ということ。
世の中で成功し続けられる人というのは、
一様にこの能力を備えた人ではないかと思う。
五輪や世界選手権で金メダルを取り続けている
柔道の谷亮子選手などはその代表的な例だと思うが、
私は以前、こんなやりとりを目にしたことがあった。
2000年のシドニー五輪が始まる直前のことである。
彼女は自転車競技で連続の金メダルを取った
ある外国人選手とテレビ番組で共演していた。
その時、あなたが五輪に出る目的は何かと尋ねられた
谷(当時は田村)選手は
「もちろん金メダルです」
と答えた。五輪選手はその答えを受けて
「それじゃダメですね」
と述べ、こう後を続けたのである。
「私は金メダルを取ることを“目的”にしたことは一度もなく、
金メダルを取ることは、祖国の子供たちに
夢と希望を与えるための“手段”にしかすぎない。
もっと多くの子供たちに夢と希望を持ってもらうために、
私には絶対に金メダルが必要なの。
あなたのように金メダル獲得を目的にすれば、
取ったとしてもそこで終わってしまうでしょう」
この後、谷選手はシドニー五輪で自身初となる金メダルを獲得し、
4年後のアテネ五輪でも、見事、2大会連続となる金メダルを獲得した。
谷選手にあの時、どんな心境の変化があったのかは分からないが、
人は明確な理由に基づいて行動していくと、
必ずよい成果を出すことができる。
それが「セルフモチベーション」や
「自家発電能力」といわれるものである。
日本人はよく、テンションが高い人のことを
「モチベーションが高い」と捉えてしまいがちだが、
モチベーションは明るさや元気さのことを指すのではない。
一見暗い性格で、地味な雰囲気の人でも、
やるべきことが明確で、その目標に向かって
こつこつこつこつ努力を続ける人は、
偉業を成し遂げることができる。
大切なのは、いまの自分の実力に合わせた目標を設定し、
絶えず新鮮なモチベーションをつくり出すことである
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┃□□□ 致知出版社社長・藤尾秀昭の「小さな人生論」
┃□□□
┃□□□ 2012/4/15 致知出版社( 毎月15日配信)
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4月7日、桜が満を持したように一斉に咲き始めた日の早朝、
弊社の経営計画発表大会を開催しました。
『致知』を創刊して34周年を迎える今年、
社長発表の壇上に立つと、しみじみと湧いて来る思いがありましたので、
冒頭にその話をしました。
一つは、生まれた年も場所もまったく違う人間が
ここにこうして集まり、一緒に仕事をしている。
実に奇跡のようなことで、
不思議な縁に手を合わせたいような気持ちになる。
「古来聞き難きは道
天下得難きは同志なり」
とその昔、中江藤樹は共に道を学ぶ仲間のいることを大層喜んでいるが、
その気持ちがよくわかる、という話をしました。
2つ目は、坂村真民先生の言葉を最近よく思い出すということです。
初めてのインタビューの時、先生はこんな話をされたのです。
昔、先生が宇和島で高校の先生をされていた頃の話です。
ある時、生徒を連れて「泣き坂」という大変な坂を上ったことがある。
すると、後ろからついてきた高校3年生の女の子が、
「先生はどうしてこの坂を平気で上っていくんか。
私らは息もできん。
先生は上の方にすすきがきらきらと光っているといわれたが、
どんなに光っとっても、
私らは辛うて、そんなの、見えん」
といった。
先生はそれに対して、
「ああ、そうか。
それはこの山やら木やら坂やら、
そういうものに呼吸を合わせていくから、ちっとも無理をしない。
お前たちはむしゃくしゃしてるから余計、きついんや。
あらゆるものと呼吸を合わせていったら、どんなに苦しい時でも苦しくない。
これはちょっと難しいが、ぼくがいったことだけでも覚えておけ。
呼吸を合わせると、あらゆるものがスムーズにいく。
それを合わさずにいくから病気になったり、不幸になったり、
運命が逆転したりするんや。
鳥は呼吸を合わせていくから三千世界を飛べるんや。
魚も呼吸を合わせて泳いでいるんや」
と答えたといいます。
これは私たちが人生を生きていく上で、非常に大事な話です。
『致知』もあっちで呼吸を乱し、
こっちで呼吸を荒げていたら、34年も続いていません。
遠くまでいくものは静かにいく――といいますが、その通りだと思います。
呼吸が合っているから、静かにいけるのです。
「成功を邪魔するものは結局自分自身である。
世間は誰一人として邪魔はしない」
と松下幸之助氏はいっていますが、
これも同じことをいっているのだと思います。
あらゆるものに呼吸を合わせる、ということを忘れないでいたい。
最後に道元の言葉を紹介しました。
「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、と。
よき人に近づけば覚えざるによき人となるなり」
霧の中を歩んでいると、気がつかないうちに衣がしめっている。
すぐれた人に親しんでいると、
いつの間にか、自分も高められ、すぐれた人になっている、ということです。
この言葉は深く私の心に響いてくるものがあります。
浅学非才(せんがくひさい)の私どもが34年間歩んでこられましたのも、
よき人との出会いがあり、
その薫陶(くんとう)をいただけたおかげ以外の何物でもありません。
大事な原点を忘れず、全社員心を一つにして、
また新たな1年を歩み出したいと思います。
1950年、生みの親に捨てられた1歳の僕は、
今は亡き父、岩次郎にもらわれました。
父は青森県花巻市(現・黒岩市)で、貧農の末っ子として生まれ、
小学校しか出ていません。
18歳で上京し、公営バスなどの運転手で生計を立てます。
バスの車掌だった母のふみと結婚しますが、
東京都杉並区の住まいは、6畳二間と3畳とお勝手でしたが、
当初はお風呂もありませんでした。
ぼくが小学校に上がる前、母が心臓病を患い、入退院を繰り返していましたが、
貧しい人が高度な医療を受けるのは大変な時代でした。
父は、毎日15時間ほど働きましたが、ほとんどが母の入院費に消えていきました。
37歳の時でした。
旅券申請のために取り寄せた戸籍で、
父親の欄に別の名前を見た時、大きな衝撃が走りました。
血のつながっていない父が、ぼくを育ててくれていた・・・
心臓病の母を抱えた あの貧しい暮らしの中で、
「拾ってやった」 とか、恩着せがましい言葉を一度も口にせず、
泣き言も言わず、弱音も吐かず。
父は苦難から逃げませんでした。
苦しい時ほど、その苦しみを横に置いて、誰かのために生きようとしました。
頑張って頑張って、全力投球で、最後は個人タクシーの運転手を
70歳くらいまで務めました。
僕は子どもの頃、もしかしたら閉ざされていたかもしれない未来を
貧乏な父が拾ってくれたことで開くことができました。
ですから、僕も自分にできる範囲で子どもの未来をつなげてあげたいと思っています」
諏訪中央病院:鎌田實先生が語られる父親の人物像、
そして、困っている人を助ける医療の根底には、
「うちみたいな貧乏な家が医者にかかる時、どんな思いでいるか絶対に忘れるな。
弱い人たちを大切にする医者になれ」
といったお父さんの言葉が、強い使命感となり、現在に至っているそうです。
今月の木鶏本部例会には、「致知」2011年11月号にご登場いただきました
鎌田實先生をお迎えします。
「致知」4月号の127頁の誌面でもご紹介させていただいていますが、
ご紹介の場所が変わっており、お気づきでない方もおありでしたので
改めてご案内させていただきます。
【演題】「強くて、温かくて、優しい国、ニッポンを作ろう」
【日時】4月21日(土)14時 ~ 16時(13時30分受付開始)
【場所】京王プラザホテル44階「ハーモニー」
【会費】3,000円
お申込み、詳細は、下記のアドレスをご覧くださいませ。
http://www.chichi.co.jp/event_seminar/3316.html
「苦しい時に自分のことは脇に置いて、人のために何かをすることによって
逆に自分自身の生きる意味というものがみえてくる」
(「致知」2011年11月号:鎌田先生の言葉より)
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「不況期こそ新3K主義で」
成田豊(電通社長)
『致知』1994年5月号
特集「積極一貫」より
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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不況を乗り切るために、広告費、交際費、交通費の
3Kを削る企業が増えているといったことが
新聞に書いてあった。必ずしも事実ではない。
企業によっては、この不況期こそ
積極的に広告費を投入しているところもある。
当時は不況2年目に入ったドイツの実例もあげて、
いろいろPRしました。
広告費は販売促進のための経費であるだけでなく、
企業イメージや商品のブランドを守り、
育てていくという投資的な側面を持っています。
交通費や交際費と一緒にされては困ります。
不況の突破口を開かなければならない。
その牽引車となるのが広告です。
こういう状況では、そんなことはできるはずもない。
慎重になることも大切です。
だが、そのなかでも積極性を失ってはならない、
と思うんです。
積極性を失ったら、不況を突破していく芽を
摘んでしまうことになりかねない。
だから、広告費、交際費、交通費を削る3Kではなく、
新3K主義でいくべきではないか、と提案しているんです。
こういう困難な時期には何をしなければならないか、
ということです。
まず、研究開発です。
研究開発を怠ったら、
新しい商品やサービスは開発できません。
それから、企業の中での教育です。
なんといっても状況を変えていく力の根本は人間です。
こういう時期だからこそ、教育に力を注いで
能力の開発向上を図らなければならない。
それから広告です。
GNPの60%を占める個人消費に元気がなかったら、
不況を克服するなど、とてもおぼつかない。
消費者にアピールすることを怠ってはなりません。
こういう困難な時期こそ研究開発費、
教育費、広告費に重点的に投資して、
力を注いでいくべきだ、というのが新3K主義です。
もっとも、広告会社の社長である私がこれをいうと、
我田引水に取られてしまうんですが(笑)。
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「究極のスープ」
鈴木紋子(湘南教育研修センター副理事長)
『致知』2012年6月号
特集「その位に素して行う」より
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昭和五十年頃、鎌倉の荒れた中学校へ
赴任した時のことです。
皆からゴムまりをひどくぶつけられるなどのいじめに遭い、
しゅんとしている一年生の子がいました。
私は生徒指導担当として
「先生が付いてるから頑張りなさい」と励ましてきましたが、
三年生になるとあまり姿を見掛けなくなりました。
進路相談の行われた十二月、
彼の母親が私の元へ来てこう言いました。
「うちの子は休みが多く、点数が悪いから
どこの高校も受けられないと担任に言われました」
その子はとても育ちのいい子だったのですが、
ある日級友からお菓子を万引きしてこいと命じられました。
学校へ行くとまた何を言いつけられるか分からないから、
次第に足が遠のいてしまったというのです。
自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで行って事情を話した上、
「受験までに必要な勉強の基礎を、
全部私が責任を持って教えておきますから、
受験させていただけませんか」
とお願いし、以来二人三脚で猛勉強の日々が始まりました。
周囲に気づかれないよう暗くなった夜七時頃に彼の家へ出掛け、
英国数の基礎からみっちり三時間教えては
十時半の最終バスで駅へと向かう。
電車を降りるとタクシーは一時間待ちの行列です。
仕方なく夜道を四十五分かけて歩き、
十二時過ぎに帰宅する日々が続きました。
あんまりくたびれるのでバスの中でも眠り込み、
「お客さん、終点ですよ」の声で起こされるのが日課でした。
その甲斐あって彼は高校に無事合格し、
卒業後はイタリア料理店で働くようになりました。
その頃、我が家では主人が胃を全摘し、
肝臓がんも併発するなど、闘病生活で
体はひどく痩せ細っていました。
私は台所でいろいろなスープを作っては
主人に飲ませるなどしていましたが、
私自身も疲労からくるたびたびの目眩に悩まされていました。
前述の教え子が訪ねてきてくれたのは、
そんなある日のことです。
「ご主人様がご病気と聞いて
チーフにスープの作り方を習って持ってきました。
これ一袋で一食分の栄養がとれます」
と、一抱えもあるスープを手渡してくれたのです。
私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、
「……これが本当の神様だわ」
と呟いて、わんわん声を出して泣いてしまいました。
すると、その子がまだ中一だった頃、
「皆にいじめられても頑張るのよ」
と私が肩を叩いて励ましたのと同じように、
「先生、泣かないでください」
と私の背中を叩いて慰めてくれたのです。
その後も彼はスープがなくなる頃になると家を訪ねてくれ、
おかげで余命三か月と言われた主人が、
三年も生き長らえることができました。
私はこのスープを「究極のスープ」と呼んでいますが、
人間同士の世の中がそうしてお互いに
尽くし合ってやっていけたらどんなにかよいだろう、
と思ったことでした。
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「上の人にかわいがってもらうには?」
道場六三郎(銀座ろくさん亭主人)
『致知』2012年4月号
特集「順逆をこえる」より
http://www.chichi.co.jp/feature/3321.html
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その頃(15歳頃)は自分が料理人になるとは
夢にも思わなかったんですが、
僕が出入りしていた旅館のチーフに
「手に職をつけたほうがいい」と言われ、
当時流行っていた「東京ブギウギ」に誘われて東京へ出たんです。
十九歳の時でした。
家を出ていく時、母は
「六ちゃん、人にかわいがってもらえや」
と言いました。親として一番悲しいのはいじめに遭ったり、
人から嫌われたりすることだったんでしょう。
一方、親父は
「石の上にも三年だ。
行ったからには石に齧りついてでも我慢しろ。
決して音を上げるな」
と。また、両親は浄土真宗の信者でもあり、
幼い頃からこんな話をよく聞かせてくれました。
「おまえは自分の境涯を喜ばなければならない。
この世に生まれてきて、
目の見えない子や耳の聞こえない子もいる中で、
おまえには鼻はついている、耳はついている、
五体満足に全部揃っている。
それを喜ばずに何を喜ぶんだ」。
「辛いこと、苦しいことがあっても嘆いてはいけない。
逆境に遭ったら、それは神が与えた試練だと思って
受け止めなさい」
「たとえ逆境の中にいても喜びはある」。
そういう言葉の一つひとつが、
僕の人生において非常に支えになりましたね。
(料理の世界に入ってから)
僕は調理場でもなんでも、
いつもピカピカにしておくのが好きなんです。
例えば鍋が煮こぼれしてガスコンロに汚れがつく。
時間が経つと落とすのが大変だから、
その日のうちに綺麗にしてしまう。
そういうことを朝の三時、四時頃までかかっても必ずやりました。
それで、オヤジさんが来た時に
「お、綺麗やなぁ」と言ってもらえる。
その一言が聞きたくて、もうピカピカにしましたよ。
だからかわいがってもらえたんですね。
それと、毎日市場から魚が入ってくるんですが、
小さい店ですから鯛などは一枚しか回ってこない。
でも僕は若い衆が大勢いる中で、
その一枚を自分でパッと取って捌きました。
そうしないと、他の子に取られてしまいますから。
ただ最初のうちはそういうことを、
嫌だなぁと思っていたんです。
というのも、「いいものは他人様に譲りなさい」と
親に言われて育ってきましたから。
半年ぐらい随分悩んだんですが、
でもそんなことばかりをやっていたら、
自分は負け犬になってしまう。
だから僕も、まだ青いなりに
「仕事は別だ」って思ったんですよ。
仕事だけは鬼にならなけりゃダメだ、と。
そう思って、パッと気持ちを切り替えたんです。
結果的にそういう姿勢が先輩や親方からも認められ、
それからはもう、パッパ、パッパと仕事をやるようになりました。
* *
僕の若い頃には「軍人は要領を本分とすべし」
とよく言われたものです。
要領、要するに段取りでしょうな。
だから要領の悪い奴はダメなんですよ。
そうやって先輩に仕事を教えていただくようにすることが第一。
仕事場の人間関係でも一番大事なのは
人に好かれることで、もっと言えば
「使われやすい人間になれ」
ということでしょうね。
あれをやれ、これをやれと上の人が言いやすい人間になれば、
様々な仕事を経験でき、使われながら
引き立ててもらうこともできるんです。
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「人生のチアリーダー」
佐野有美(さの・あみ=車椅子のアーティスト)
『致知』2012年4月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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「私、チアに入りたいんだけど、一緒に見学に行こうよ」
友人からのこの誘いがすべての始まりでした。
高校に入学し、部活に入る気もなかった私は、
友人に付き添いチアリーディング部の練習を見に行きました。
目に飛び込んできたのは、先輩たちの真剣な眼差し、
全身で楽しんでいる姿、そして輝いている笑顔でした。
それを見た時、
「すごい!! 私も入りたい!!」
という衝動に駆られたのです。
しかし、次の瞬間、
「でも私には無理……」
という気持ちが心を塞いでしまいました。
私には生まれつき手足がほとんどありません。
短い左足の先に三本の指がついているだけ。
病名は「先天性四肢欠損症」。
指が五本揃っていなかったり、
手足がないなどの障害を抱えて生まれてくるというものです。
幼少期から母親の特訓を受け、一人で食事をしたり、
携帯でメールを打ったり、字を書くことや
ピアノを弾くこともできますが、
手足のない私には到底踊ることはできません。
半ば諦めかけていましたが、
「聞いてみないと分かんないよ」という
友人の声に背中を押され、顧問の先生に恐る恐る
「私でも入れますか?」と聞いてみたのです。
すると先生は開口一番、
「あなたのいいところは何?」
と言われました。
思わぬ質問に戸惑いながらも、私が
「笑顔と元気です」
と答えると、
「じゃあ大丈夫。明日からおいで」
と快く受け入れてくださったのです。
手足のない私がチアリーディング部に入ろうと決意したのは、
「笑顔を取り戻したい。笑顔でまた輝きたい」
という一心からでした。
生まれつき積極的で活発だった私は、
いつもクラスのリーダー的存在。
そんな私に転機が訪れたのは、小学校六年生の時でした。
積極的で活発だった半面、気が強く自分勝手な性格でもあり、
次第に友達が離れていってしまったのです。
そんな時、お風呂場で鏡に映った自分の身体を
ふと目にしました。
「えっ、これが私……。気持ち悪い……」
初めて現実を突きつけられた瞬間でした。
孤独感で気持ちが沈んでいたことも重なり、
「よくこんな身体で仲良くしてくれたな。
友達が離れてしまったのは身体のせいなのでは……」
と、障害について深く考えるようになり、
次第に笑顔が消えていきました。
そのまま中学三年間が過ぎ、
いよいよ高校入学という時になって、
「持って生まれた明るさをこのまま失っていいのだろうか。
これは神様から授かったものではないか」
と思うようになり、そんな時に出会ったのが
チアリーディングだったのです。
初めのうちはみんなの踊りを見ているだけで楽しくて、
元気をもらっていました。
しかし、どんどん技を身につけて成長していく
仲間たちとは対照的に、何も変わっていない自分が
いることに気づかされました。
「踊りを見てアドバイスを送って」と言われても、
「踊れない自分が口を出すのは失礼ではないか」
という思いが膨らみ始め、仲間への遠慮から
次第に思っていることを言えなくなってしまったのです。
せっかく見つけた自分の居場所も明るい心も失いかけていました。
「チアを辞めたい。学校も辞めたい……」。
そんな気持ちが芽生え、次第に学校も休みがちになりました。
しかし、私が休んでいる間も、
「明日は来れる?」と、チアの仲間やクラスメイトは
メールをくれていました。
「自分が塞ぎ込んでいるだけ。素直になろう」
そう分かっていながらも、一歩の勇気がなく、
殻を破れずにいる自分がいました。
その後、三年生となった私たちは、
ある時ミーティングを行いました。
最終舞台を前に、お互いの正直な気持ちを
話し合おうということになったのです。
いざ始まると、足腰を痛めていることや学費の問題など……、
いままでまったく知らなかった衝撃的な悩みを
一人ずつ打ち明けていきました。
「みんないっぱい悩んでいるんだ。辛いのは私だけじゃない……」
そして、いよいよ私の番。震える声で私は話し始めました。
「自分は踊れないから……
みんなにうまくアドバイスができなくて……
悪いなって思っちゃって……
みんなに悪いなって……
だから、だから、これ以上みんなに迷惑かけたくなくて……」
続く言葉が見つからないまま、涙だけが流れていきました。
そうすると一人、二人と口を開いて、
「私たち助けられてるんだよ」
「有美も仲間なんだから、うちらに頼ってよ」
と、声をかけてくれたのです。
そして最後、先生の言葉が衝撃的でした。
「もう有美には手足は生えてこない。
でも、有美には口がある。
だったら、自分の気持ちはハッキリ伝えなさい。
有美には有美にしかできない役目がある!!」
これが、私の答えであり、生きる術でした。
チアの仲間や顧問の先生に出会い、
私は自分の使命に気づかされました。
声を通して、私にしか伝えられないメッセージを
届けたいとの思いから、高校卒業の二年後、
二〇一一年六月にCDデビューを果たし、
アーティストとして新たなスタートを切りました。
十二月には日本レコード大賞企画賞をいただくことができたのです。
チアリーダーという言葉には、
「人を勇気づける」という意味があります。
私は誰かが困っていたり、悩んでいたりする時に、
手を差し伸べることはできません。
しかし、声を届けることはできる。
チアリーディング部を引退したいまも、
私は人生のチアリーダーとして、
多くの人に勇気や生きる希望を与えていきたいと思っています。
…………………………………………………………………………………
月刊『致知(ちち)』は、昭和53年の創刊以来、
33年間、いまの時代を生き抜くためのヒントを満載し、
皆さまの人間力・仕事力アップに役立つ記事を
お届けしております。
まだ『致知』をお読みでない方は、
ぜひ定期購読をおすすめします。
⇒ http://www.chichi.co.jp/guide.html
●マザ・テレサ
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私たちのやっていることは僅かな一滴を
大海に投じているようなものです。
ただ、その一滴なくしてこの大海原はないのです
●宮入法廣(刀剣界の頂点に立つ刀剣作家)
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弟子たちには失敗してもいいから
一つの仕事に徹底して
集中するように言っています。
自分で体験を深めていますから、
僕が一言助言すれば、
十のうち八から九までは理解できる。
身体で覚えていない者は、
いくら説明しても一か二しか分かりません。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120404-00000121-san-soci
八尾のNPO 絶滅危機ニッポンバラタナゴ繁殖成功 伝統手法で外来種駆逐
産経新聞 4月4日(水)15時8分配信
このNPOは高校教諭の加納義彦さん(59)が代表を務める「ニッポンバラタナゴ高安研究会」。
大阪の市街地を見渡す高安山(487メートル)西麓の八尾・高安地区では、約300を数える農業用のため池が残り、ニッポンバラタナゴがわずかに生息。これを絶滅から救おうと平成10年、加納さんを中心に同NPOが発足した。
これまで、太陽光発電で池の水を濾過(ろか)させるなど、水質改善に試行錯誤を重ねたが、いずれも失敗。そこでたどり着いたのが「ドビ流し」という手法だった。
ため池の水を農業用水として利用していたころは、農作業を終えた冬に、池から水を抜き、底にたまったドロや土砂を取り除く「池干し」が行われており、ドビ流しとは、傾斜地のため池で行われていた池干しの方法だ。
ため池の用途が利水から治水へと変わったため、池干しは行われなくなったが、腐敗した動植物が池底にヘドロとして堆積すると、ヘドロには窒素やリンが多く含まれており魚の生息に悪影響を与えるため、同NPOは、ヘドロを水とともに池底に設置された栓を抜き、傾斜地の下方にある田畑に流す、昔ながらの「ドビ流し」が池の浄化に有効だと考えた。ドビは、水を流す筒状の樋を意味する土樋(どひ)が語源だ。
ニッポンバラタナゴは別の池で保護した上で、18年からドビ流しを実施。干上がった池底に現れた天敵のブラックバスやアメリカザリガニなどの外来種をわずか3年間で駆逐し、ニッポンバラタナゴを繁殖させることに成功した。
ここ数年はさらに、高安地区にある大阪経済法科大学構内の「ふれあい池」で、ヘドロを抜いた池の底に山の腐葉土を入れて実験。腐葉土は栄養が豊富なことから、ニッポンバラタナゴは21年に1万匹、22年に2万5千匹、23年に4万5千匹と劇的に増加した。
同NPOは「西日本各地で再びニッポンバラタナゴが見られる日がくるかもしれない」と話し、日本の原風景復活に期待を寄せる。日本ユネスコ協会連盟は先月、危機に直面している文化・自然遺産を守る「プロジェクト未来遺産」に、同NPOを大阪府内で初めて登録している。
【用語解説】ニッポンバラタナゴ…かつて西日本全域でみられた日本固有種だが、現在は大阪府八尾市など、関西、四国、九州のごく一部のため池で局所的に生息する。環境省レッドデータブックで最も絶滅の危険がある「絶滅危惧IA類」に指定されている。産卵期は5~6月で、繁殖期のオスの体が、美しいバラ色に染まることが名前の由来。
「生徒の暴言で教諭自殺」…公務災害と逆転認定
2009年に自殺した大分県立高校の男性教諭(当時30歳代)の遺族が請求した公務災害の認定を認めなかった地方公務員災害補償基金県支部の決定について、同支部審査会が決定を覆したうえで、公務災害と認定する裁決をしたことがわかった。3月27日付。
裁決は、生徒からの暴言などによる精神的ストレスが極めて大きかったとして、自殺との因果関係を認めた。同支部は近く認定手続きを行う見通し。同県高校教職員組合は「支部決定が覆るのは珍しい」としている。
組合によると、教諭は08年4月、校内でも荒れているとされるクラスの担任になった。生徒から暴言を浴びせられるなどして約1か月後にはうつ病などと診断され、09年3月に自殺した。
遺族から公務災害の認定請求を受けた県支部は10年12月、生徒からの暴言を認める一方、「それが重なって精神疾患を発症したとまでは認められない」とし、公務災害と認めなかった。
しかし、遺族の審査請求を受け、審査会は「教諭は最も荒れた学級の担任を命じられた被害者。問題を起こす生徒との関わり方を模索し、日々苦悩していた」と判断、支部決定を覆した。
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■「致知随想」ベストセレクション
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「神は細菌に宿る」
中村貴司(リ・クーブ顧問)
『致知』2012年4月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
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数年前、和歌山のある食品工場では、
大手飲料メーカー数社から製品の製造を請け負い、
年間約五千トンもの茶の搾りかすが出ていた。
工場ではその全量を産業廃棄物として扱ってきたが、
時代の流れとともにリサイクル化の必要性が叫ばれ始めた。
担当者はいくつもの業者に生ごみ処理機の導入テストを行い、
堆肥化を図ったそうだが、いずれも排水処理や騒音、
悪臭などの問題に直面し、頭を悩ませていた。
そこで弊社が開発した業務用生ごみ処理機を持参し、
「二十四時間以内に九十%以上が消滅し、
余剰菌床は肥料になります」
と伝えたところ、皆、半信半疑の様子だった。
しかし翌日処理機の中を見て、
「おぉ」と驚きの声が上がったのである。
弊社が開発した生ごみ処理機は、
自然界の土壌から抽出した特定土壌菌を特殊培養して配合した
「クーブ菌」という細菌を用いる。
それによって食品廃棄物を水と炭酸ガスに素早く分解し、
消滅させてしまうのである。
野菜くずなどであれば、ほんの数時間で分解消滅ができる。
現在、滋賀県のもやし工場や鳥取県の
大手食品スーパーなどに弊社の大型機が導入されるなど、
全国からも少しずつ問い合わせをいただくようになった。
これまでも生ごみ処理機を製造していたメーカーは
多くあったが、導入後に悪臭などの諸問題が発生し、
結局一過性のブームに終わってしまった。
その理由は、開発者が微生物というものの世界を
あまりにも知らな過ぎたことにあるだろう。
私が環境問題に取り組み始めたのは、
三菱重工業に勤務していた昭和四十六年頃、
三十代前半のことだった。
その数年前より日本では公害が社会問題となり、
公害対策基本法や水質汚濁防止法など様々な法律が生まれ、
大企業には専門の管理者を置くことが義務付けられた。
私も新たにそうした部署に配属となり、
微生物などの研究をしていたが、
その後に偶然出会ったのが河野良平という技術者だった。
彼もまた生ごみ処理機を開発するにあたり、
悪臭等の問題に頭を悩ませていたが、
微生物の世界についてはまったくの素人だった。
そこで私がきちんと説明をしていくと、
河野氏もなるほどそうかと合点がいったようだった。
人間の性格が一人ひとり皆違うように、
細菌もそれぞれ異なる性質を持っている。
また、人の体調が毎日変わるように、
細菌の体質も日々変化している。
それほど繊細な対象を扱っているにもかかわらず、
その研究が十分になされないまま
処理機の開発がスタートしてしまったため、
思うような結果が得られなかったのである。
環境の世界は、どれか一つの分野を
専門的に勉強すればよいというものではない。
例えば私は環境に関連した国家資格を二十以上持っているが、
自分の勉強したものが少しずつでも脳の中に残っていると、
次の時代に何がキーワードとなるかを知る
大きな手がかりとなる。
これからは、微生物がどのように
我われに関わってくるかといったことをきちんと検証し、
いかに産業に生かしていくかが大切で、
その主たるものの一つが生ごみ処理機ではないかと私は思う。
江戸時代、江戸の街はパリと同じく百万都市といわれた。
しかしそれぞれの街の生活様式は随分と違う。
なかでも廃棄物、特に屎尿に関しては顕著である。
パリではあちこちで用を足す人が絶えず、
こんな悪臭が出てはたまらないという理由で下水道が整備された。
一方の日本はこうである。
徳川家康は百万の人間を食べさせていくために、
疲弊していた関東ロームの土地に作物をつくることを考える。
家康は屎尿をいかに有価物に変えるかを考え、
屎尿を腐敗させて土に還元することで土壌を豊かにし、
そこに作物を植え、人々の食料を確保しようとした。
一説によると、人間の腸内には約百種類の菌と、
百兆個もの腸内細菌が存在するという。
祖母は私の幼い頃、
「便所は人間にとって神聖な場所や。
そこを出てくる時はちゃんと頭を下げて出てこいよ」
とよく話していた。
そのおかげで私は幼い頃から、
微生物に対する敬虔な気持ちを持つことができたのだと思う。
ある方の話によると、大便の中にあるのはほとんどが生菌で、
完全に分解できないものはわずか三%ほどしかないのだという。
そういう様々な菌の助けを借りて
人間の体が維持されている。
生ごみ処理機においても、攪拌機の中の環境を整え、
活力ある細菌の居場所をつくってあげることが
何より大事になってくるのではないかと確信している。
いま世の中には、多くの生ごみ処理機が
倉庫に眠ったままになってしまっていると聞く。
我われのクーブ菌を有効活用していただくことによって、
その処理機に再び生命を与えることができれば、
おそらくこの産業は飛躍的に伸びていく。
それが地球環境の保全へと繋がっていけば、
開発者としてこれに勝る喜びはない。
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