今、日本では思想の自由が許されております。
また、信教の自由も許されております。
なぜ思想の自由が許されるかというというとですね、思想の自由を許すことによって、いくつかの思想というものが日本に生まれてくる。
そして、その思想がそれぞれ一面の真理をもつている、一つの特色をもつている。
その特色を論議しあつて、そしてそれぞれを生かして総体としてよりよき道を生み出すために、私は思想の自由というものが許されているの思うんです。
今の日本では、思想の自由が許されているという姿はどう現われているかというと、
全部が平行線で、喧嘩をして、一日ですむ議案に十日もかけて能率を減退させるという姿なんです。
思想の自由はそういうことのために許されているんじゃないと私は思うんであります。
それならば、思想の自由は許さんほうがいい。
社会主義のように一つの思想をもつて実施したほうが事が速いと思うんです。
しかし一つの思想であれば、決して進歩発展というものはありえない。
資本主義だけをもつてやっても決して進歩しない。
いろいろな思想があつて、それぞれその一部を生かしあつて初めて、
繁栄の動きというものが生まれてくるのだと思います。
そこに思想の自由を許す価値があるんやと思うんです。
宗教もまたしかりと思うんです。
宗教が今650あります。
新興宗教を集めると650あります。その650の宗教がお互いに切磋琢磨して繁栄していく。
そして、お互いが力を尽くして多くの人々を助けあつていく。
そこに国民の幸せが生まれてくると思うんです。
それを信教の自由が許されるからといって、教団どうしが喧嘩してつぶしあいするというようなことでは、
信教の自由を許す意味は全然ないと、私は思うんです。
しかし、われわれ自身がすでに、みずからとらわれて、自分は正しいんだという殻をかぶって他を誹謗するということをしておるんやないか。
もしそういうことがあれば、商工業者としても発展を傷つけるものだという感じがいたします。
今、日本の真の繁栄のために国民が考えねばならない、
そして各自が各自の責任を遂行し、併せて他を顧みて、必要であれば忠言を呈して、手を握って国家の共存繁栄を図らねばならんという時期が到来していると思うんであります。
� 昭和41年(1966) 守口商工会議所 臨時議員総会(72歳)