交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

感謝の種からは感謝の人生

2012-11-17 10:25:27 | 徳育 人間力

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


     「九十五歳の回想 ~人生は蒔いた種のとおりに~」


        折小野清則
       (おりこの・きよのり=折小野農園代表者)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

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鹿児島県薩摩郡さつま町の山間に
「折小野(おりこの)ひがん花ロード」という道があります。

毎年秋のお彼岸の頃になると、
約四キロにわたり道の両側にひがん花が一斉に咲き誇ります。

もともとこの道は舗装されていない山道でした。

いまから十五年前に立派なコンクリートの道をつくっていただき、
当時八十歳だった私は何らかの感謝の思いを伝えたいと思いました。
そこで生命力と繁殖力の強いひがん花の球根を
人知れず植えていきました。

一つずつ、一尺(約三十センチ)置きに。
最初の年は誰も気づきませんでした。
二年が経ち、三年が経った頃、村の人たちが

「なんであの道の両脇に
 あんなにたくさんのひがん花が咲くんだろう?」

「誰がやったんだ?」

と話題になっておりました。私の近隣の方が、

「そういえば、清則さんが毎朝暗いうちから出掛けていた」

という話から、私が植えていたことが知れることとなりました。

いつしか噂は広まり、季節になると
遠方からわざわざ見に訪れる方もいるそうです。

現在は下草の手入れなどは町役場が行ってくれて、
「折小野ひがん花ロード」という大きな看板もつくってくれました。
九十五年間懸命に生きてきて、このように皆さまに
喜んでいただけることが何より誇らしく思います。


私は大正六年、この集落で農家を営む
折小野栄の長男として生まれました。

私も農家になるものとばかり思っていましたが、
十五歳の時に人生の大きな転機が訪れました。
地元からシンガポールに出て、漁業で成功された「南海の虎」
こと永福虎さんが私の中学校に講演にいらしたのです。


講演終了後、校長室に呼ばれました。

先生はこう言いました。


「折小野君、君は外国に行きたくはないか」


なぜ私が呼ばれたのかは分かりませんが、私はすぐに
「はい、行ってみたいです」と答えました。

永福さんは
「外国に行ったら十年は帰れないぞ。それでもいいのか」
とおっしゃるので、「はい、構いません」と申しました。

外国に行ったら何かいいことがあるように思ったのです。

いまにして思えば、両親はよくぞ長男の私を異国へ出したものです。
現代ではシンガポールも飛行機ですぐでしょうが、
当時、田舎に住む両親にとって月の世界へ送り出すような
感覚だったのではないでしょうか。

シンガポールでは二年間は事務所の手伝いをしましたが、
三年目からは志願して漁船に乗り、赤道を越えて
南シナ海やインド洋にも行きました。

その後、新たにできた製氷所のチーフエンジニアとして
働いていた時、大東亜戦争が勃発したのです。

当時シンガポールは英国領でしたから、私たちは捕虜となって、
灼熱の国インドの収容所へと送られました。
食料はない、連日四十度を超す暑さで、
毎日二~三人の日本人が死んでいきました。

この収容所には子供もおりました。
最初は一緒に連れられてきた先生が教えていましたが、
昭和十七年に第一次交換船によって帰国された方が多く、
その選にもれた子女は教育を受けられないままでした。

キャンプ内でただぶらぶらと過ごす子供たちは遊ぶことにすら
情熱を失った様子でした。このままではいけない。
二十代前半だった私は文学青年だったこともあり、
先生に推挙されました。


「日本の子供たちに負けるな」を合言葉に、灼熱の中、
必死で勉強し合ったことが昨日のように思い返されます。

敗戦を迎えた時が私の人生で一番の危機であったかと思います。
敗戦を伝えに磯貝陸軍中将と沢田連隊長がお見えになり、
私は悲しみのあまり自殺したいと思いました。

ところが「あの二人は偽者で、本当は日本は勝っているはずだ」と
言い出す者が現れ、賛同する者も多く、
子供たちに敗戦と伝えた私たちも襲撃され大怪我をする始末。

犯人を出すようにという厳しい命令も聞かず、暴動化し、
鎮圧するために、向こうの兵士が五十名ほど入ってきました。

「日本は勝っているのだから、銃を撃つはずがない」

棒を持って向かっていった人たちは、たちどころに撃たれました。
私にもその血しぶきが飛んでくるほど間近で十七名が死にました。

そこで奇跡的に助かり、板子一枚下は
地獄の船で日本へ帰国。敗戦直後の地元で貧しい中で農業に従事。

同時に女性ばかりだった生命保険の仕事もやり、
鹿児島県一になったこともありました。

山間の集落なので水田には向かず、
皆が苦しんでおりましたので、思い切って新たに山を開墾し、
ミカン畑に切り替えたこともございます。

その間、十七歳だった長男を水死で失い、ひどく落胆しましたが、
翌年次男が誕生するということもありました。

これまでの人生、いつ死んでもおかしくなかったのに
不思議と九十五歳の今日まで生かされてきました。

思いがけないことの連続でしたが、
しかし蒔かぬ種は生えぬよう、


諦めの種からは諦めの人生、
希望の種からは希望の人生、
感謝の種からは感謝の人生になるのだと思います



私が植えたひがん花は時期が来たら必ず花を咲かせます。
その花が、私がこの生の役目を終えた後も
村の人たちの心を和ませることができたら、幸せに思います


リッツ・カールトンでは九十九度と百度の違いを意識しているんですね

2012-11-17 10:11:30 | 商い

┌───今日の注目の人───────────────────────┐


     「百度と九十九度の違いを意識する」


               高野登(人とホスピタリティ研究所主宰)

                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
    
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最初に齋藤泉さんの存在を知ったのは
僕がまだリッツ・カールトンにいた頃でした。

山形新幹線で驚異的な売り上げを誇る乗務員がいると。
しかも二か月更新のパート契約の立場だという記事を週刊誌で見て、
「こういう仕事の仕方をされている人がいるんだ」と。

リッツ・カールトンで我われが考えている立ち位置と
似ているなと思って興味があったんです。


リッツ・カールトンでは九十九度と百度の違いを
意識しているんですね。

九十九度は熱いお湯だけれども、
あと一度上がって百度になると蒸気になって、
蒸気機関車を動かす力が出る。

しかし、九十九度ではまだ液体だから蒸気機関車は動かせない。
この一度の違いを意識しながら仕事をすることが、
リッツ・カールトンの仕事の流儀でした。

だから最初に齋藤さんの記事を読んだ時、
この人は百度だと思った。

百度の仕事とは、誰もがしている仕事を、
誰も考えないレベルで考え、
懸命に汗を流さないと見えてこない世界です


業即信仰

2012-11-17 10:04:03 | 商い

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


     「業即信仰」


        米倉満(理容「米倉」社長)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

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私の祖父・米倉近が弱冠二十二歳で
理容「米倉」を開業したのは大正七年のことでした。

後に近の義父となる後藤米吉は、
当時西洋理髪の本場といわれた英国で理容技術を習得し、
「三笠館」という理髪店を開業した人物でした。

その義父と同じ理容の道を志し、日本橋に店を構える
「篠原理髪店」に祖父が弟子入りしたのは、年の頃十三歳。
両親と別れての暮らしはさぞ寂しかったことでしょう。

しかし、一人前になるまで家には戻らないと修業に専念し、
二十一歳になるまでの八年間一度も
親と顔を合わせることはありませんでした。

独立開業する際には、修業中に祖父の腕を見込んだ
名士たちの後押しもあって、
築地の精養軒ホテルの一角という一等地で開業。

関東大震災で店が焼失したことで、
銀座の中央通に移りましたが、
「米倉」は一流のお客様を相手にして、
満足させる銀座の床屋だという矜持が祖父の力の源でした。

実際、店には日本画家の伊東深水氏、作曲家の山田耕筰(こうさく)氏や、
陶芸家の川喜田半泥子(かわきた・はんでいし)氏をはじめ、
個性溢れる一流のお客様が顔を連ねる理容店として賑わい、
今日に至るまで多くの名士の方に親しまれてきました。

その中には松下電器(現パナソニック)の
創業者・松下幸之助氏もいらっしゃいましたが、
かつて松下氏はほとんど容貌を気にされず、
頭髪もぞんざいだったそうです。

ある時、そんな松下氏と初めてお会いする機会があった祖父は、
即座に


「あなたはあなたの顔を粗末にしているが
  これは商品を汚くしているのと同じだ。

 会社を代表するあなたがこんなことでは会社の商品も売れません。
 散髪のためだけに時間をつくるというような心掛けがなければ、
 とても大を成さない」


と言い放ったといいますから大したものです。

もちろん祖父の言葉に悪意は微塵もなく、
むしろ自らの仕事に対する誇りから生まれたものといえるでしょう。

仕事に打ち込む中でお客様を満足させたいという
姿勢を貫いてきたからこそ、経営の神様に対しても
思いの丈をぶつけることができたのだと思います。


「誠にもっとも千万で、至言なるかな」


と口にした松下氏は、祖父の言葉に意気を感じられたのでしょう。
祖父との出会いを機に身だしなみにも気を使われるようになり、
「米倉」をご贔屓くださるようになったのです。

私が理容師としてまだ駆け出しの頃、
祖父の鞄持ちとして熊本県の阿蘇まで赴いたことがありました。

現地では松下電器の代理店を集めた年に一度の大会が開催されており、
祖父はそこに招かれたのでした。


宿泊先でのことです。

二人きりになった晩、祖父は堰を切ったように
自らの歩みを語り始めました。

既に晩年を迎えていた祖父は、
特別に私に伝えたいという思いがあったのでしょう。
その中にはこんな話がありました。


祖父の母は大変信仰心の厚い方で、


「おまえの守り本尊は観音様であるから、
 毎月十八日はお参りに行きなさい」


と言われた祖父は母の言いつけをよく守っていました。
ところがある月の十八日の朝、祖父は寝坊をしてしまい、
慌ててお参りを済ませるも開店時間に間に合わないことがありました。

ちょうどその時分に店を訪れた松竹の大谷竹次郎氏は
祖父の不在を知り、後日改めて来店された際、
開口一番こう聞かれました。


「君は何か自信をなくしたことでもあるのか」と。



祖父が驚いて聞き直すと、大谷氏は
観音様にお参りに行くことそれ自体はよいが、
開店中に主人が留守とはどういうことか。

お客様に不自由をさせて、ご利益などあるだろうかと懇々と諭され、
最後に


「客商売は、客が店の信者なのだ」


とおっしゃったそうです。

祖父は我が身を恥じたといいます。
お客様を差し置いて観音様をいくら拝んでも、

ご利益などあろうものかと。そして理容業という生業に打ち込むことが、
そのまま信仰になりうるのだという確信を得たのでした。


業即信仰。


祖父はこの時の教訓をこの四文字に込めたのです。


このことに関連して、世の中にある無数の業には、
それ自体に良し悪しがあるわけではなく、
その業を行う者の人格のいかんによって良し悪しが決まる。

それゆえに理容師は、理容の技術を磨き高めることはもちろん、
教養を身につけ、お客様と誠実に相対する中で、
理容師的人格を高めることの大切さも訓えられました


また祖父は、日頃から


「毎日が開業日」


と口癖のように言っていたことを思い出します。
店というのは古くなると惰性に流れだらしなくなるから、
毎日が開業日のように新鮮な気持ちで場を清めれば、
自然と仕事に励む気分が湧き上がってくるというのです。

理容「米倉」は四年前に創業九十周年を迎え、
その間祖父の業に対する信仰心の如き思いは
父、叔父を経て四代目である私へと受け継がれてきました。


業を高めることが、そのまま自己を高めることになる――。


これが理容師として、四十年間歩み続けてきた私の実感です。

業即信仰という祖父の祈るような仕事に対する姿勢を胸に、
理容師として生涯を全うできるよう
これからも一途に歩み続けたいと思います。


人は答えを得た時に成長するのではなく、疑問を持つことができた時に成長する。

2012-11-17 09:42:01 | 商い

┌───今日の注目の人───────────────────────┐



         天才建築家・ガウディの遺志を継承する
           彫刻家・外尾悦郎氏の幸福論


                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より


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 ◆ この34年間、思い返せばいろいろなことがありましたが、
   私がいつも自分自身に言い聞かせてきた言葉がありましてね。

  「いまがその時、その時がいま」というんですが、
   本当にやりたいと思っていることがいつか来るだろう、
   その瞬間に大事な時が来るだろうと思っていても、
   いま真剣に目の前のことをやらない人には決して訪れない。
 
   憧れているその瞬間こそ、実はいまであり、
   だからこそ常に真剣に、命懸けで生きなければいけないと思うんです。



 ◆ 人は答えを得た時に成長するのではなく、
   疑問を持つことができた時に成長する。



 ◆ 仕事をしていく上では「やろう」という気持ちが何よりも大切で、
   完璧に条件が揃っていたら逆にやる気が失せる。
   たやすくできるんじゃないか、という甘えが出てしまうからです。



 ◆ 本来は生きているということ自体、命懸けだと思うんです。
   戦争の真っただ中で明日の命も知れない人が、
   いま自分は生きていると感じる。

   病で余命を宣告された人が、
   きょうこの瞬間に最も生きていると感じる。

   つまり、死に近い人ほど生きていることを強く感じるわけで、
   要は死んでもこの仕事をやり遂げる覚悟が
   あるかどうかだと思うんです。



 ◆  当たり前のことを単に当たり前だと言って済ませている人は、
   まだ子供で未熟です。それを今回の震災が教えてくれました。

   本当に大切なものは、失った時にしか気づかない。
   それを失う前に気づくのが大人だろうと思うんです。


作家・五木寛之氏の幸福論

2012-11-17 08:58:31 | 徳育 人間力

┌───今日の注目の人───────────────────────┐



         作家・五木寛之氏の幸福論


                『致知』2012年12月号
                 特集「大人の幸福論」より


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 免疫学の世界的権威だった多田富雄さんと生前にお話をした時、
  医学は3年で一変する。3年前の教科書は通用しないくらいの
  勢いでどんどん進歩しているとおっしゃっていました。

  そんな時代に古い知識でくどくど言ってても仕方がない。
  もっと動的に物事を見なければダメだし、
  幸福論にしても永遠の幸福論なんてないんです。



 ◆コップに残った水を、まだ3割も残っていると考えるか、
  もう3割しか残っていないと考えるかという話があるでしょう。
  そしてまだ3割も残っていると考えるほうが
  ポジティブでいいんだと。
 
  だけど、あと3割しか残っていないという現実を
  きちっと勇気を持って見定めることも大事です。



 ◆喜び上手というのはとても大事です。
  だけど同時に悲しみ上手も大事なんです。



 ◆ちゃんと悲しむということは、
  笑うことと同じように大事なことなんです。
  ただ笑うだけじゃ無意味ですよ。涙も流さないとダメ。



 ◆フランクルは強制収容所の中で、一日に一回ジョークを言って、
お互いに笑おうと決意してそれを実践したといいます。
それはとても大事なことです。

しかし、人の見ていないところで彼がどれだけ涙を流していたか。
  そこを見逃してはダメです。
  喜ぶことも、悲しむことも、両方大事なんです


看護の心と技術 紙屋克子(筑波大学名誉教授)

2012-11-17 08:32:15 | 徳育 人間力

 回復困難と言われ続けてきた
   意識障碍の患者さんを
   独自に開発したプログラムによって
   劇的に回復へと導いている紙屋克子さん。

   看護の心と技術を駆使し、
   医師からも見放された人たちの人生に
   希望の光を灯している紙屋さんの
   インタビュー記事の一部をご紹介します。


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    「患者さんのベッドサイドに立つ資格」



      紙屋克子(筑波大学名誉教授)


              『致知』2012年11月号
               特集「一念、道を拓く」より


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卒業後はまだ新しい領域だった脳神経外科を選びました。

半年くらい過ぎたある日、私は経管流動食
(意識障碍などで口から食事のできない患者さんに
管を通して胃に栄養食を入れる)
を取り替えるために病室を順番に回っていました。

最後の部屋に入ると、脳腫瘍の術後、
意識が回復しない27歳の患者さんのベッドサイドに、
私と同年代の若い奥さんが3歳の女の子を抱き、
5歳の男の子の手を引いて立っていました。

私が作業を終えたちょうどその時、その人が


「こんなのは治してもらったことになりません!」


と、本当に激しい口調でおっしゃったのです。

私はご家族の悲痛な叫びを初めて聞き、
大変な衝撃を受けました。

その当時は、意識に障碍のある人の命を維持することにも
大変な努力が必要だったものですから、
一所懸命頑張っていた仕事に対して、
そんなことを言われるとは思いもよりませんでした。


「確かに命は助けてもらった。
でも他人である看護師さんと妻の私を区別できないこの人、
 二人の子供が“お父さん”と呼んでいるのに応えないこの人を、
 家族の一員として受け入れて、私たちはこれから
 どんな人生を歩んでいったらいいんですか」って……。


脳腫瘍を摘出して命を助けたのは医師です。

でも彼女にとっての「治る」という意味は、
自分のところに夫が帰ってくることであり、
二人の子供に父親が帰ってくることだったのです。

私たち専門職が考える治療のゴールと、
ご家族の考える健康のゴールには
随分大きなギャップがあるのだと気づかされました。



その時、私は初めて看護本来の役割は何か。

何をすべき人間として、医師とは異なる資格を持って
患者さんのベッドサイドに立っているのかと考えたのです。


すると、彼女の発言の中にヒントがあって、
命を助けたのが医師ならば、
看護師の役割はこの家族のもとに夫と父親を帰すこと。

仕事をしたり学校に行ったり、
そういう役割を持つ存在として、
その人を社会と家族のもとに帰すのが
看護の仕事だと思い至ったのです。
 


大国の脅しに屈することなく戦った若き指導者

2012-11-17 08:21:04 | 歴史


◆ 大国の脅しに屈することなく戦った若き指導者・北条時宗
 
 いまから800年ほど昔、
 日本への侵略を目論む超大国・蒙古のおどしに対して、
 毅然とした態度で立ち向かった若き指導者がいました。
 その若者の名は北条時宗、まだ17歳の青年でした。


    *     * 

「蒙古来襲の国難に立ち向かった鎌倉幕府の執権」 
 北条時宗(1251~1284年)


◎文永の役
 文永五年(1268)、
 蒙古(もうこ ※元)の国書を携えた高麗(こうらい)の使いが大宰府に現れます。
 既に中国北部と朝鮮半島の高麗を支配下においていた元は、
 表向きは友好を求めますが、
 その使者の来訪は明らかに我が国への軍事的恫喝(どうかつ)でした。
 18歳の時宗が執権職に就いたのは正にこの年です。

 使いはその後もたびたび来訪し、朝廷、幕府はそのつど評定を重ねましたが、
 あえて返書を送らぬまま、
 九州に所領のある御家人(ごけにん)たちに異国警護を急がせます。
 そして遂に文永11年10月、高麗軍と合わせて3万人の元軍は、
 900艘(そう)の船に分乗してまず対馬(つしま)を襲いました。
 
 対馬の守護代である宗助国(そうすけくに)は68歳の老将ですが、
 直ちに大宰府と壱岐に急使を送った後、80騎余りで大軍に立ち向かいました。
 昔も今も国境最前線のこの島で、
 最後の1騎まで奮戦しましたが半日持ちこたえるのが精一杯でした

 上陸した元の兵たちは
「民家を焼き略奪殺戮(さつりく)を恣(ほしいまま)にし、
 婦女子を捕えて掌(て)に穴を穿(うが)ち、
 その穴を綱で貫いて船べりに数珠(じゅず)つなぎにした」
 と彼らの記録(『元史』)に記しています。

 続いて壱岐(いき)が攻撃されました。
 ここの守護代の平景隆(たいらのかげたか)は、
 対馬からの一報を得て大宰府へ援軍を要請し、
 100騎ほどで島内の樋詰(ひづめ)城に立て籠もって防戦しました。
 島民も続々と籠城に加わり一晩は凌(しの)ぎますが、
 やがて全滅してしまいました。


 こうしていよいよ10月20日(新暦の11月26日)に、
 元軍は博多湾西部から上陸し、
 先陣が博多に向かって赤坂(現在の福岡城址)まで迫って来ました。

 この合戦の様子は『蒙古襲来(もうこしゅうらい)絵詞(えことば)』に活写されています。
 その『絵詞』によると、
 御家人たちは大宰少弐(だざいのしょうに)の武藤景資(むとうかげすけ)を大将として
 博多の海辺側に集結し、
 景資は元軍がさらに博多に攻め寄せるのを待って迎え撃つようにと命令を下しました。
 
 この戦況は近年の研究で明らかになって来ました。
 それによると、10月20日中に少なくとも2度の合戦が行われ、
 日本軍が元軍を撃退し、百道(ももち)の海(博多湾)に追い落としたとのことです。
 大宰府攻略という目標は達せず、
「味方の体制が整わず、又矢が尽きた」(『元史』)ため船に戻った元軍は、
 その夜半に吹き荒れた暴風に押し流され一斉に退却してしまいます。


◎弘安の役
 文永(ぶんえい)の役の翌年に、
 鎌倉にやって来た元の使いを時宗は斬首(ざんしゅ)に処しました。
 そして再び来寇(らいこう)するに違いない元軍に備えて水軍を整備し、
 九州沿岸の防備を固めました。
 特に博多湾岸沿いに石築地(いしついじ)を築いた「元寇防塁(ぼうるい)」は、
 今日まで一部を留めて往時を偲ぶことが出来ます。

 やがて弘安(こうあん)4年(1281)、
 元の皇帝フビライは元軍、旧南宋軍、高麗軍合わせて4400艘、
 14万人の大軍を二手に分けて送り込んで来ました。
 弘安の役です。

 そのうち東路軍は志賀島(しかのしま)に上陸し、
 我が軍と激戦を繰り広げます。
 その後、長崎県鷹島(たかしま)に待機中だった江南軍と合流して
 総攻撃の機会を窺ううちに、
 閏(うるう)7月1日(新暦の8月23日)の大型台風によって
 壊滅的な打撃を受けてしまいます。

 二次にわたる元寇は、
 鎌倉幕府の政治、外交姿勢と九州御家人たちの奮戦に加え、
 暴風雨や台風という自然現象の後押しもあってはねのけることが出来ました。
 そしてこの自然現象はやがて「神風(かみかぜ)」と呼ばれるようになります。


◎時宗の人となり
 このように2度の国難を打破した鎌倉幕府の最高リーダーが時宗ですが、
 その事績を伝える資料は驚くほど少なく、本人の言葉もあまり残っていません。
 弘安の役後3年足らず、34歳の若さで急死しており、
 正に元寇撃退のために生を享(う)けたかの如(ごと)くです。

 元を迎え撃つ弘安4年の正月に、
 禅の師無学(むがく)祖元(そげん)が書して渡したという
「煩悩する莫(なか)れ」(一説では「妄想する莫れ」)はよく知られていますが、
 その祖元が時宗の葬儀で語った法語の一部を、次に掲げておきましょう。


【偉人をしのぶ言葉】
 訳――
 母に孝養を尽し、
 君に忠節を尽し、
 民には恵みの心を以って治め、
 参禅して深く悟る処がある。
 20年間天下の権を握っても
 喜怒を表に出すことが無くいつも沈着である。
 元寇を瞬(またた)く間に追い払ってもそれを自慢する様子もない
 (『仏光国師語録』四より)

 ――『日本の偉人100人(下)』より


【母性こそ人を幸せにし、国を豊かにする】より

2012-11-16 22:20:40 | 教育

サンケイの【夕焼けエッセイ】に掲載された、
大阪府岸和田市の西川和子さん(78歳)のお話です。

*****************************

私は子供に恵まれなかった。
結婚して15年目に縁があって、義弟の次男を養子として迎えることになった。
生まれて20日目の赤ちゃんを胸に抱き、
馴れない手でミルクを飲ませ、おむつを替えた。

その後も無事に育ってくれて、桜の咲く小学校に入学した。
運動会や保護懇談会にも出席し、親としての喜びを体験させてくれた。

担任の先生は、
「彼が結婚するまで、養子であることを知らせずに成長してほしいと思います」
と言ってくれた。

大学受験の時には深海の魚のように重圧を感じて心配したけど
「桜咲く」結果で心から喜んだ。

その息子は今、39歳を迎え、小学校5年生と2年生の娘の父親として
一生懸命に頑張っている。

私の夫は5年前に世を去り、一人暮らしの私を会社帰りに毎日訪ねてくれる。
「お母さん元気か?寒いから気いつけや」と一言。
私は心を込めて一杯のコーヒーをいれ、息子に黙って差し出す。

13年前息子が結婚する時に、意を決して養子であることを告げた。
突然のことに息子は愕然となり、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。

しかし一晩明けた朝、

「お母さん、昨夜いろいろ考えたけど、僕はやっぱりお母さんの息子だよ。
 今まで通りだよ」

とにっこり笑った。

寒い日も雨の日も毎晩訪ねてくれる息子を玄関まで見送りながら、
その後ろ姿に「ありがとう。年老いた私には、あなたの家族が生きる支えだよ」
と胸いっぱいの感謝を込めて手を合わす。明日もまた頑張ろう。

*********************************

感動をもって読み終え、その時に思い出したのが「致知」12月号の28頁で紹介されている
内田美智子さんの記事でした。

・・・・・・・・・・【母性こそ人を幸せにし、国を豊かにする】より・・・・・・・・・

自分の目の前に子どもがいるという状況を当たり前だと思わないでほしいんです。

自分が子どもを授かったこと、
子どもが「ママ、大好き」と言ってまとわりついてくることは、
奇跡と奇跡が重なり合ってそこに存在するのだと知ってほしいと思うんですね。
 
そのことを知らせるために、私は死産をした一人のお母さんの話をするんです。

そのお母さんは、出産予定日の前日に胎動がないというので来院されました。
急いでエコーで調べたら、すでに赤ちゃんの心臓は止まっていました。
胎内で亡くなった赤ちゃんは異物に変わります。

早く出さないとお母さんの体に異常が起こってきます。
でも、産んでもなんの喜びもない赤ちゃんを産むのは大変なことなんです。

普段なら私たち助産師は、陣痛が5時間でも10時間でも、
ずっと付き合ってお母さんの腰をさすって
「頑張りぃ。元気な赤ちゃんに会えるから頑張りぃ」
と励ましますが、死産をするお母さんにはかける言葉がありません。

赤ちゃんが元気に生まれてきた時の分娩室は賑やかですが、死産のときは本当に静かです。
しーんとした中に、お母さんの泣く声だけが響くんですよ。

そのお母さんは分娩室で胸に抱いた後、「一晩抱っこして寝ていいですか」と言いました。
明日にはお葬式をしないといけない。
せめて今晩一晩だけでも抱っこしていたいというのです。

私たちは「いいですよ」と言って、赤ちゃんにきれいな服を着せて、
お母さんの部屋に連れていきました。

その日の夜、看護師が様子を見に行くと、
お母さんは月明かりに照らされてベッドの上に座り、子どもを抱いていました。

「大丈夫ですか」と声をかけると、「いまね、この子におっぱいあげていたんですよ」
と答えました。
よく見ると、お母さんはじわっと零れてくるお乳を指で掬って、
赤ちゃんの口元まで運んでいたのです。

死産であっても、胎盤が外れた瞬間にホルモンの働きでお乳が出始めます。
死産したお母さんの場合、お乳が張らないような薬を飲ませて止めますが、
すぐには止まりません。

そのお母さんも、赤ちゃんを抱いていたらじわっとお乳が滲んできたので、
それを飲ませようとしていたのです。
飲ませてあげたかったのでしょうね。

死産の子であっても、お母さんにとって子どもは宝物なんです。
生きている子ならなおさらです。

一晩中泣きやまなかったりすると「ああ、うるさいな」と思うかもしれませんが、
それこそ母親にとって最高に幸せなことなんですよ。

母親学級でこういう話をすると、涙を流すお母さんがたくさんいます。
でも、その涙は浄化の涙で、自分に授かった命を慈しもうという気持ちに変わります。

「そんな辛い思いをしながら子どもを産む人がいるのなら私も頑張ろう」
「お乳を飲ませるのは幸せなことなんだな」
と前向きになって、母性のスイッチが入るんですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

母親の無償の愛は、子どもに必ず伝わります。

その愛を受け止め、感謝の心を育むことがこれからの日本を豊かにしていくことに繋がります。

産みの親、育ての親と、たとえ形は違っても、
いま・ここにある命のありがたさに感謝しながら生きていくことが
親への恩返し、自分自身の幸福に繋がることかと・・・・

致知出版社    小笠原節子


凡事徹底 「人は感謝するから幸せになる」

2012-11-16 21:01:53 | 凡事徹底

┌───随想ベストセレクション───────────────────┐


     「人は感謝するから幸せになる」


        鎌田善政(鎌田建設社長)

                『致知』2012年11月号
                       致知随想より

└─────────────────────────────────┘


鹿児島県霧島市にある鎌田建設の敷地内に
「凡事徹底」の文字が刻まれた石碑ができたのは、
二〇〇二年九月。

以前から経営者としての指針となる言葉を
刻んだ碑が欲しいと念願していた私は、
師と仰ぐイエローハット創業者・鍵山秀三郎先生にお願いして
その座右の銘であるこの言葉を揮毫していただきたいと考えました。

幸い鍵山先生にも快諾いただき、上京してお借りした書は、
亡きお兄様の筆によるものとのことでした。

碑が無事完成し、私は入魂式を行うために
友人の僧侶を招きました。

すると彼は石碑を眺めながら


「理由は分からないが、この文字の力に体が思わず反応する」


と言うのです。

不思議に思った彼は、書の達人として
有名な堀智範大僧正(京都・元仁和寺門跡)に
碑の写真を送って鑑定を依頼。

間もなく書を讃える内容の返事が届きました。


「凡の字はバランスを取るのが難しく、
 どうしても縦長になりがちです。

 ところがこの凡の字は横にどっしりと広がっています。
 この字を書いたのはおそらく商売をなさっている方でしょう。
 商売が末広がりであるように祈りを込められたのだと思います」


私は早速鍵山先生にお電話をして、このことをお伝えしました。
すると先生は喜ばれ、あの訥々とした口調で
お兄様の思い出を語り始められました。

その話を聞きながら、私は感動のあまり受話器を握る手が震え、
堀和尚の言葉の意味が心に深く浸透していくのを感じたのです。

先生のお兄様は学校の教師をされていました。
長屋のようなところで、生涯を慎ましく生きられたそうです。

先生の事業がまだ軌道に乗る前、資金繰りに困って
お父様の遺産を処分しなくてはならない事態が起きた時、
「父の遺産を秀三郎に」という一言で、
きょうだいを納得させられたのがお兄様でした。

イエローハットが増資する時には僅かな給料の中から出資し、
他界された時には手持ちの株は
二十数億円の価値になっていたといいます。

しかし、お兄様の息子さんは


「これは秀三郎からの預かりものだ、
 というのが父の口癖でしたから」


と一円も受け取らず、すべての株券を鍵山先生に渡されたのです。

兄はそれくらい私に愛情を注ぎ、
仕事を心配してくれていたのですね」と、
感慨深そうに電話での話を結ばれました。

凡事徹底という四文字には、
弟の成功と幸せを願う兄の無心の祈りが込められていたのです。

当社にとってこの石碑は単なる石碑に止まらない
守り神そのものであり、私もこの碑を拝んでは
お客様や社員の幸せを願い、経営者の誓いを
新たにするのを日課にしています。


いまから四十五年前、小さなガソリンスタンドから出発した当社は
現在、建設会社のほか、住宅会社、石油販売、カー用品店、
福祉施設など十一法人、従業員数四百名からなる
企業グループに成長を遂げました。

もちろん、私一人の力ではありません。
人との縁が思わぬ縁を招いて少しずつ業容が拡大し、
気がつくと、今日まで歩んできていたというのが偽らざる実感です。

この間、実に多くの方に支えていただきましたが、
最も影響を受けたのはやはり鍵山先生でした。

十九年前に先生とご縁をいただくまで、
恥ずかしながら私は目の前の利益を追い求めてばかりいました。

しかし、大企業のトップでありながら、
作業服姿で黙々と道端の草を取り、便器を磨き続ける
先生の風貌に接した途端、価値観は百八十度転換しました。

「こんな方がこの世の中にいたのか」と。
先生は無言のまま私という人間を変えてしまわれたのです。

私はすぐに鍵山先生が主宰される「掃除に学ぶ会」に入会し、
社にも取り入れました。その効果はてきめんでした。

日々、ともに掃除に汗する中で社員間のコミュニケーションが深まり、
人間関係は円滑になり、仕事のトラブルも少なくなりました。
さらによき縁が次々に舞い込み、今日のグループ経営が
できあがっていったように思います。


鍵山先生へのご恩を思う時、私の胸には
亡き父の思い出が鮮烈に甦ってきます。

父は特攻隊を志願した一人でした。

ある時、二人の戦友が

「もし君が生き残ったら、両親のことを頼む」

と父に言い残して基地のある鹿児島の出水を飛び立ち、
沖縄の地で果てました。
飛び立った僅か六時間後に戦争が終わるとも知らずに……。

父は二人との約束を果たすために戦後、
老人福祉施設を建設しました。

父の施設運営に懸ける思いは尋常ではなく、
身内がいない入所者は理事長の父自ら保証人となり、
施設で亡くなった後は自ら骨を拾い、
墓を建てるほどの熱の入れようでした。

そこには損得勘定を抜きにお年寄りの幸せに
人生を捧げる父の姿がありました。


「あの世の極楽より、この世の極楽を実現したい」


というのが父の一貫した思いで、
その根底にあったのは亡き戦友の願いに応えたいという
一念だったに違いありません。

施設運営は私が引き継ぎましたが、
その父が生前いつも私に話していたのが


「人間は感謝するから幸せなんだぞ。
 幸せだから感謝するんじゃないぞ」


という言葉でした。
この言葉はいまも人生の支えです。

他の幸せを願い、懸命に人生を歩まれた鍵山先生と我が父。
これからも二人の教えを胸に、企業活動を通して
社会に貢献していきたいと思います。
 
 


気働

2012-11-03 17:22:31 | 商い

┌───今日の注目の人───────────────────────┐



     日本に「ザ・リッツ・カールトン・ホテル」と
     ホスピタリティの概念を根づかせた
     伝説のホテルマン・高野 登 氏の名言


                『致知』2012年11月号
                 特集「一念、道を拓く」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html


└─────────────────────────────────┘


 ◆  99℃は熱いお湯だけれども、あと1℃上がって100℃になると、
   蒸気になって、蒸気機関車を動かす力が出る。
   しかし、99℃ではまだ液体だから蒸気機関車は動かせない。
   この1℃の違いを意識しながら仕事をすることが、
   リッツ・カールトンの仕事の流儀でした



 ◆  「想像力に翼をつけないと夢には届かない」
    という言葉があるのですが、
    やっぱり夢に届くには想像力を働かせるしかないと思うんです



 ◆  やっぱり男はね、気を働かせられないとダメなんですね。
   僕は気遣いと気働きは違うと思っているんです。
   女性は細やかな気遣い、心配りが大切ですが、男がするのは気働き。
   木下藤吉郎(豊臣秀吉)が織田信長の草履を温めていたのは、
   気遣いじゃない。あれはしたたかな気働きです



 ◆  リッツ・カールトンがいま評価されている理由は、
   そういう日常の小さなこと、
   日本人として当たり前のことをやり続けて、
   自分たちの当たり前のレベルを上げていっているという、
   それだけなんです。
   それだけで感性は磨かれていきます。



 ◆  目の前のことに
   これ以上ないほどに真剣に取り組めば必ず道は拓けるし、
   自分が思いもよらなかった場所に運ばれていく


中村久子の生き方

2012-11-03 17:16:49 | 徳育 人間力

http://drumscotom.blog29.fc2.com/blog-entry-928.html

 

【こころの薬30】 中村久子の生き方

いまの日本は、100年に一度の危機といわれ、
暗いニュースばかり流されて、
自分の責任でもないのに、つらい境遇におかれていると感じている方が、
さらに、これから日を追って増えてくるかもしれません。

そこで年頭にあたって、すこしでも元気が出るように
中村久子さんの強い強い生き方をご紹介しようと思います。
ちょっと長くなりますが、最後までお付き合いくだされば幸いです。


ある ある ある 
みんな ある
さわやかな 秋の朝


これは中村久子さんが40歳のときに書いた詩の一節です。
「ある ある ある」とは、何が「ある」というのでしょうか?

それは彼女の生き方と大きく関係しているのです。

中村久子さんは、わずか4歳のときに両手両足を切断し、
7歳で父親を失い貧乏の中で、「ない、ない、ない」ずくしの生活を余儀なくされます。
しかし20歳で、見世物小屋の住み込み芸人となって
国の援助を1円たりとも受けずに、明るくたくましく生き抜いた方です。

晩年、その生き方に感銘する人が増え
まわりから「先生」と呼ばれ、天皇陛下に拝謁するような存在になります。
1968年に72歳で亡くなられたのですが、没後40年、
いまとなっては、彼女について知る人は少ないようです。
2008_1012 中村久子 005 12cm
(↑裁縫をする中村久子。「だるま娘」の芸名で見世物小屋で裁縫する姿を見せていた)

中村久子(以下敬称略)は、明治30年に岐阜高山の畳職人の長女として生まれた。
両親は裕福ではなくても、結婚11年ぶりにさずかった久子を可愛がって育てたという。
ところが3歳のとき、突発性脱疽にかかり、命を守るために4歳で両手両足を切断。
7歳のとき、久子を必死で守ってきた父が病死。母の実家で育てられることになる。
しかし両手両足がないために小学校入学もままならない。

生活のために再婚した母あやは、
「何か一生食べていけるものを身につけてやらねば」と決心する。
(以下は黒瀬昇次郎「中村久子の生涯」春秋社1989刊より、一部引用)

母あやは11歳になった久子に、着物の「ほどきもの」を言いつけた。
「どうやってほどくんですか?」途方にくれて母に聞いても、
「自分で考えてやりなさい」ととりつくしまがない。
「人間は働くために生まれてくる。できないとは何事か」と。

一本の留め糸を切るのにも気の遠くなるほどの時間に、久子はかんしゃくを起こす。
しかし母は容赦なく「やればできる」とハサミを指のないまるい手にのせた。
悪戦苦闘が何日もつづいて、ついに口にくわえたハサミで留め糸をパチンと切った。
「わあ、切れた!」涙が頬を流れた。
一人で「ほどきもの」ができる。大きな喜びだった。
自分の力の発見であった。

すると母は、
「女の子はお針がいちばん大事じゃ。なんとか、あんたも針がもてたらいいのに」
「そうだ、私の大事なお人形に着物をぬって着せてあげたい!」
お針を口で使う稽古をしようと、久子の心がはずんだ。
針の穴に糸をどう通すか、運針、結び玉をどうむすぶか、久子の工夫は毎日つづく。
「手なし、足なしに何ができるものか」周囲の心ないひやかしにも、決して屈しなかった。
そしてとうとうつばでベトベトになった小さな着物を縫いあげた。

それから7年、18歳の久子は、女物の袷(あわせ)を2日足らずでしあげるようになり
編み物は一日に毛糸8オンスは楽勝となっていたのだ。
2008_1012 中村久子 002 12cm
(↑久子が縫った人形の前で。写真はいずれも黒瀬昇次郎「中村久子の生涯」から)

両手両足がないのに器用に裁縫をこなす久子に、
当時の見世物小屋の興行師たちが目をつけた。
そして久子20歳のとき、小屋住み込みの芸人となる。
久子の芸は、好奇の目で集まった客の前で、
裁縫する姿や切り紙細工を見せることだった。
いまならスカウトだが、当時は前金で年季をしばる身売りだ。

後妻となった母、そして前夫の子という自分の立場を考えての、
自立するためのやむをえない決断であったろう。
当時(大正3年頃)でも、生活困窮者や身体障害者には
「扶助料」という国家の最低保障があった。
しかし久子は受給を拒んだ

「お上の扶助料が将来の自立のための資金になるのならいいが、
自立の見通しもたっていないままズルズルいただくなら、甘えから抜け出せなくなる」
なんとか自分の力で生きてみせる!と心に決めたと、後に出版した自伝に書いている。
親戚には警察署長もいれば教員もいて猛反対をしたが、自立の意思は堅かった。

「だるま娘」という芸名で、見世物小屋の芸人生活が始まると、
客の野次にポッと頬を赤らめ、どことなく品のある芸に人気が出て、
全国や台湾満州まで巡業するようになる。

そして24歳、身売りの年季が明ける年に大きな出来事が3つおこる。
ひとつは母あやの死去であり、
ひとつは、婦人雑誌の懸賞「前半生を語る」に応募、
一座が寝静まってから、口にくわえたペンで書いた原稿用紙80枚が一等当選する。
久子が見世物小屋の賎(いや)しい芸人ではなかったことを示すエピソードのひとつだ。
そして、このことが晩年の久子を大きく変えることになる。
さらにひとつは結婚である。
相手は何かとお世話をしてくれた実直な男、中谷雄三だった。
しかし雄三とは3年で死別するが、二人の子どもをもうける。

年季が空け自由の身になった久子は「久子一座」を率いたり、
他の興行師と組んで、2人の子どもに高等教育をするため46歳まで全国巡業をつづける。
その間に、前記の雄三の他に結婚を3回するが、病死、離婚で別れ、
9歳年下の中村敏雄と4度目の結婚、生涯を共にする。

46歳で芸人をやめた久子は、一等入選「半生記」の縁から、講演依頼が次第に増えて
夫の敏雄と次女の富子におんぶされながら全国を回るようになる。
「宿命に勝つ」「生きる力を求めて」「私の越えて来た道」を出版。
ヘレンケラーとも3度会談、
「日本のヘレンケラー、不自由を知らぬ明朗で強い二児の母」
「不具の女が口でつくった人形に感激の涙」などと大きく報道された。
以来、ラジオ番組で厚生大臣や宗教家などと対談したり活動の場が広がっていく。

65歳のときに、身体障害者の模範として厚生大臣賞受賞。
そして宮中に参内し天皇陛下からお言葉を賜る。

宮中参内のときの思い出を、久子はこう話している。
「若いときに扶助料というお金をいただかなくてほんとうに良かった、
としみじみ思いました。
そのお金いただいてもし使っていたら、天皇皇后両陛下の前に出ましても、
お顔をまともに仰ぐことはできなかったと思います。
”いただかんでよかった”
(たとえ世間から見下されるような)見世物小屋の住人でも、
働かしてもらったことは大きな幸せだった」と。

1968年72歳のとき脳溢血で倒れ自宅で死去。
両手両足がなくても、国の補助をうけず、明るくたくましく生き抜いた生涯であった。

健常者のわれわれ、
もって瞑すべしとはこのことでしょうか?

*お時間のある方、

冒頭の詩の全文と
「中村久子の生涯」の著者、黒瀬昇次郎氏について…「ある ある ある」

さわやかな
秋の朝

「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える
良人がある

「はーい」とゆう
娘がおる

歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う

短いけれど
指のない

まるい
つよい手が
何でもしてくれる

断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある

ある ある ある

みんなある
さわやかな
秋の朝

「私の越えて来た道」1955刊より

 かつて来日したヘレン・ケラーが対面後、「私より不幸で、私より偉大な人」と

2012-11-03 17:07:29 | 徳育 人間力


   かつて来日したヘレン・ケラーが対面後、
   「私より不幸で、私より偉大な人」と口にした
   彼女の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。



┌─────────────────────────────────┐

      

      「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」


                       中村久子


              『致知』2012年11月号
               特集「総リード」より


└─────────────────────────────────┘


その少女の足に突然の激痛が走ったのは3歳の冬である。
病院での診断は突発性脱疽。肉が焼け骨が腐る難病で、
切断しないと命が危ないという。

診断通りだった。
それから間もなく、少女の左手が5本の指をつけたまま、
手首からボロっともげ落ちた。

悲嘆の底で両親は手術を決意する。
少女は両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から切り落とされた。
少女は達磨娘と言われるようになった。

少女7歳の時に父が死亡。

そして9歳になった頃、
それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が一変する。
猛烈な訓練を始めるのだ。

手足のない少女に着物を与え、



「ほどいてみよ」


「鋏の使い方を考えよ」


「針に糸を通してみよ」。



できないとご飯を食べさせてもらえない。

少女は必死だった。
小刀を口にくわえて鉛筆を削る。
口で字を書く。
歯と唇を動かし肘から先がない腕に挟んだ針に糸を通す。
その糸を舌でクルッと回し玉結びにする。

文字通りの血が滲む努力。
それができるようになったのは12歳の終わり頃だった。

ある時、近所の幼友達に人形の着物を縫ってやった。
その着物は唾でベトベトだった。

それでも幼友達は大喜びだったが、
その母親は「汚い」と川に放り捨てた。

それを聞いた少女は、
「いつかは濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。
少女が濡れていない単衣一枚を仕立て上げたのは、15歳の時だった。

この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。


その人の名は中村久子。
後年、彼女はこう述べている。


「両手両足を切り落とされたこの体こそが、
  人間としてどう生きるかを教えてくれた
 最高最大の先生であった」


 そしてこう断言する。


「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」


親孝行 

2012-11-03 16:59:57 | 教育

90歳にしていまなお、人の道を説き続けておられる
 大阪市内にある淨信寺の副住職、西端春枝さん。
 受刑者からタクシーの運転手まで縁ある人びとにやさしく語りかける、
 その慈愛に満ちたお話の一部をご紹介します。



┌───今日の注目の人───────────────────────┐



       「偲ぶ心が親孝行」


          西端 春枝(真宗大谷派淨信寺副住職)


                『致知』2012年11月号
                 連載「生涯現役」より
      http://www.chichi.co.jp/monthly/201211_index.html


└─────────────────────────────────┘


 最近はタクシーを使うことが増えましてね。
 その時にはできるだけ運転手さんに話し掛けるようにしているんです。
 怖そうな人は別だけど(笑)。

 この前も「あんた、お母さんいてはるの」とお聞きすると、
 小学校の頃に亡くなったと言うんですよ。

 でも具体的に何月何日だったかは覚えていないし、
 ある運転手さんは両親の命日を知らない。
 中にはお兄さんと喧嘩して家を飛び出したから、
 どこのお寺さんに行けばいいのか分からないという。

 こういう人たちに出くわすと、
 もう黙っていられないから
 身を乗り出して説教が始まるんですよ(笑)。

 彼らはいつも車で走っているので、お寺の前を通ったら、
 ちょっとでも頭を下げるようにと言うんです。
 それだけでもいいって。

 でもね、そうすれば、自然とお母さんのことを思い出したり、
 心の中でお父さんに話し掛けられるようになるんです。
 そうやってご自身が亡くなるまで、
 折に触れて親のことを偲ぶことも親孝行なんですよ。

 そしてこのような話をしながら、
  私自身もまた自分の親のことを偲んでいる。


 ある運転手さんが私と話し込んで、
 つい道を間違えてしまって遠回りしたことがありました。
 彼はしきりに謝りましたが、
 それよりも私は「遠回り」というのが懐かしいなと思ってね。

 なぜかと言えば、子供の頃に母親から
 「はよ帰っておいで」と言われていたんだけど、
 機嫌が悪くて遠回りして帰ったことがあったんです。
 つまらないことして、親を困らせてね。

 そんな懐かしい母との思い出を、
 思わぬ人の言葉で思い出せるんです。


  父は親孝行なんて、親が生きている間に
 満足にできているなんて思うな、と言っておりました。
 親が子を思う心の半分も、お返しなんぞできるものではないと。

 だから昔の人はお盆の時に、墓石を洗いながら
 こんな詩を思い浮かべていたんです。


「父母(ちちはは)の背を流せし如く墓洗う」


 いま生きていれば一遍でも背中を流してあげるのにな、
 と思う時にはもう親はいないんですね。
 だからせめて父母の背中を流すつもりで墓石を洗う。

 こうやって一つひとつの出来事を通じて、
 私たちは亡き親を偲ぶことができるんですね。


望郷

2012-11-03 16:16:20 | 戦争

【プロローグ   すべてはこうして始まった 】 より

51年間のソ連抑留生活から解放されて、私が祖国日本に戻ってきたのは
1997年3月24日のことでした。
そして、51年の間、私の帰りを待ち続けてくれていた妻の久子と
一人娘の久美子との再会を果たしたのです。(中略)

私の手元には今でも大切にしている一枚の風景写真があります。
かの地で知り合い、37年もの間、
日本人スパイというぬれぎぬを着せられた私を守り通してくれた
ロシア人女性クラウディアが、日本に帰国する私の荷物に
そっと忍び込ませた写真です。

その写真の裏には、一編の詩が綴られています。
死ぬまでロシアで一緒に、という気持ちでいた私を、
日本で半世紀も私の帰りを待ち続けていた妻のもとに
送り返すにあたってクラウディアが書いた別れの詩です。

**************************

「ときどき、思い出してください。
 ロシアを、プログレス村を・・・

 私たちは、思いもよらない人生での出逢いをしました。
 似通った運命が私たちを引き寄せたのでした。
 教会で結婚式を挙げずとも、誠実の誓いを行わずとも、
 私たちの人生は誠実で、そして神聖でした。
 私たちの暮らしは、決して裕福でも贅沢でもありませんでした。
 私たちの人生は、常に恐怖のもとで過ぎ去っていったのでした。

どうか、あんな疑いが二度と繰り返されないように。
どうか、年老うるまで安らかに生き永らえますようにと、
長い間、朝夕、祈っていたのでした。

一切の責任は戦争にあるのです。

私は、心からあなたを理解しておりました。
ご両親や弟妹、たった生後一年余りで別れた娘さんや奥さんがいる祖国を、
恋しく思うあなたの心のうちを・・・。

私たちは、こまごまとしたそのすべてを思い浮かべて、
涙とともにいつも思い出話は尽きませんでした。
食事の時間も忘れて身を砕くようにして、ただ一心不乱に働きましたね。

そして、長い年月が流れました。
私たちはようやく、その人たちが健在であることを知ったのでした。
娘さんやお孫さんたち、それに年老いた奥さんが一途にあなたの帰りを
待ち焦がれていることを・・・。

いま、年老いたあなたが多くの病を抱えて、一切が失われたようだった
祖国へやっと帰っていくのです。
奥さんや娘さん、お孫さんたち、弟妹、友人たちが待っている祖国へと・・・。

もはや私たちは、再び会うことはないでしょう。
これも私たちの運命なのです。

他人の不幸の上に私だけの幸福を築き上げることは、
私にはどうしてもできません。
あなたが再び肉親の愛情に包まれて、祖国にいるという嬉しい思いで、
私は生きていきます。

私のことは心配しないでください。
私は自分の祖国に残って生きていきます。
私は孤児です。
ですから、私は忍耐強く、勇敢に生きていきます。

私たちは、このように運命づけられていたのでした。
37年あまりの年月をあなたと共に暮らせたこと、
捧げた愛が無駄ではなかったこと、
私はこの喜びで生きていきます。

涙を見せずに、お別れしましょう。
過去において、もし私に何か不十分なことがあったとしても、
あなたは一切を許してくださると思います。
あなただけは、この私を理解してくださると信じています。
私が誠実な妻であり、心からの友であったことを……。

あなたたちの限りない幸せと長寿を、
心から祈り続けることをお許しください。

1997年3月21日 クラウディアより

 親愛なる彌三郎さんへ

*****************************

過酷な人生を強いられ、二つの国、二つの愛に生きた蜂谷さんは、

「祖国から受けた恵み、受けた恩に対しては、お応えしなければならない。
 大きな借りを抱えたまま、あの世に行くわけにはいかない。

 そのためにも、生きて、この祖国の土の上に自分の足で立ち、
 今日を迎えたというこの大きな感激、この大きな喜び、
 言葉では言い表せない感謝の気持ちをなんとかして若い世代の人たちに伝えたい。

 命の尊さというものについて知らせていきたい。

 それが戦後の焼け野原から大きく発展した日本再建に
 1本の杭も打ち込むことが出来なかった私の、せめてもの恩返しであると考えているのです」

 

http://shop.chichi.co.jp/item_detail.command?item_cd=977