交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

第一次南極越冬隊長・西堀榮三郎氏の薫陶を受けた北陸ミサワホーム会長・林敦氏のお話をご紹介します。

2012-06-24 09:02:55 | 建て直し


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       「西堀榮三郎先生の遺言」


              林敦(北陸ミサワホーム会長)

                 『致知』2012年7月号
                  特集「将の資格」より

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西堀榮三郎先生とは晩年の15年をご一緒させていただき、
亡くなる1週間前に病室でお会いしたのが最後でしたね。

当時先生はかなり弱っておられて、
看護師さんからは面会時間は5分だけだと
厳しく言いつけられました。

先生が話してくださったのは、
ヒマラヤ登山隊の総隊長を務められた時のことでした。
頂上からの眺望を生放送することが予定されていたのですが、
あいにく空は雲に覆われていたそうです。

ところが放送直前になってサーッと視界が開けた。


「人はこれを天佑と言うが、絶対に天佑ではない」。


先生はそう言われました。
隊を組んだネパール人や中国人、
そして日本人とが共同の目標を持って、
一所懸命やった結果だったのだと。

話は途切れることなく5分どころか1時間半にもおよび、
その間看護師さんの制止にも耳を傾けようとはされませんでした。


結局この話が遺言となりました。
先生がおっしゃりたかったのは、
人間というのはそれぞれの意識がバラバラのうちはダメで、
共同の目標に忠誠を誓うようになれば
事は成せるということだったのだと思います。

先生はこれを「異質の協力」とも表現されていました。
人は皆性格も違うし考え方も違う。
その異質なもの同士を束ねるのが、
共同の目標という錦の御旗であると。


「人の喜びをもって、我が嘉(よろこ)びとする」。


これは我が社の経営理念、つまり共同の目標です。
この言葉は私が先生と初めてお会いした際にいただいた言葉で、
これ以外にはないという思いで錦の御旗として掲げてまいりました。

そしてこの経営理念のもと、営業スタイルを180度転換し、
既存のお客様に喜んでいただくことを
一つひとつ実践していきました。

その積み重ねが次々と紹介に繋がり、
他のグループ会社が苦戦する中、
着実に業績を伸ばしていくことができたのです。

これからもこの共同の目標を決して忘れるなということを、
先生は遺言として残してくださったのだと私は思っています。


「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」

2012-06-20 22:39:42 | 徳育 人間力

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■「致知随想」ベストセレクション
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  「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」


              山川宏治(東京都多摩動物公園主任飼育員)

               『致知』2007年5月号「致知随想」
               ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
       http://www.chichi.co.jp/monthly/200705_index.html


…………………………………………………………
■「殺人ゾウ」の汚名
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた
東京・井の頭自然文化園に、
今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。

彼女の名前は「はな子」。
私が生まれる以前の昭和24年に、
戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。

当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない
小さくかわいい彼女は、
子どもたちの大歓声で迎えられました。

遠い南の国、タイからやって来たはな子は
たちまち上野動物園のアイドルとなりました。
ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、
はな子は思いがけない事故を起こします。
深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、
その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。


「殺人ゾウ」──。


皆からそう呼ばれるようになったはな子は、
暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、
身動きひとつ取れなくなりました。

餌をほとんど口にしなくなり、
背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、
かわいく優しかった目は人間不信で
ギラギラしたものに変わってしまいました。

飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を
希望する者は誰もいなくなりました。
空席になっていたはな子の飼育係に、
当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた
私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。
それからはな子と父の30年間が始まりました。


「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」


と睨みつけてくるはな子に怯むことなく、
父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、
着任して4日後には1か月以上
繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。

そこには

「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、
「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」

という気持ちがあったのでしょう。

父はいつもはな子のそばにいました。
出勤してまずゾウ舎に向かう。
朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、
外へ出るおめかしをしてあげる。

それから兼任している他の動物たちの世話をし、
休憩もとらずに、暇を見つけては
バナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。
話し掛け、触れる……。

「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、
その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、
はな子の楯になりました。

そんな父の思いが通じたのか、
徐々に父の手を舐めるほど心を開き、
元の体重に戻りつつありました。

ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、
はな子は餌を食べることができなくなりました。
自然界では歯がなくなることは死を意味します。
なんとか食べさせなければという、
父の試行錯誤の毎日が始まりました。

どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。
考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど
100キロ近くの餌を細かく刻み、
丸めたものをはな子に差し出しました。

それまで何も食べようとしなかったはな子は、
喜んで口にしました。
食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。
それを苦と思わず、いつでも必要とする時に
そばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。

定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れず
はな子に寄り添ってきました。
自分の身体ががんという病に
蝕まれていることにも気づかずに……。

はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。
後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。

動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に
一度も会いに行きませんでした。



■亡き父と語り合う
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

思えば父の最期の5年間は、
はな子の飼育に完全燃焼した後の
余熱のような期間だったと思います。

飼育員としての父の人生は、
はな子のためにあったと言っていいかもしれません。

残念なことに、私には父と一緒に遊んだ思い出がありません。
キャッチボールすらしたことがないのです。
家にじっとしていることもなく、
自分の子どもよりゾウと一緒にいる父に、
「なんだ、この親父」と
反感を持つこともありました。

ところが家庭を顧みずに働く父と同じ道は
絶対に歩まないと思っていたはずの私が、
気がつけば飼育員としての道を歩いています。

高校卒業後、都庁に入り動物園に配属になった私は、
父が亡くなった後にあのはな子の担当になったのです。

それまでは父と比べられるのがいやで、
父の話題を意識的に避けていた私でしたが、
はな子と接していくうちにゾウの心、
そして私の知らなかった父の姿に出会いました。 

人間との信頼関係が壊れ、敵意をむき出しにした
ゾウに再び人間への信頼を取り戻す。

その難しい仕事のために、
父はいつもはな子に寄り添い、
愛情深く話し掛けていたのです。

だからこそ、はな子はこちらの働きかけに
素直に応えてくれるようになったのだと思います。

一人息子とはほとんど話もせず、
いったい何を考え、何を思って生きてきたのか、
生前はさっぱり分かりませんでしたが、
はな子を通じて初めて亡き父と語り合えた気がします。

私は「父が心を開かせたはな子をもう1度スターに」と、
お客様が直接おやつをあげるなど、
それまでタブーとされてきた
はな子との触れ合いの機会を設けました。

父、そして私の見てきた
本来の優しいはな子の姿を多くの方々に
知ってほしかったのです。

人々の笑顔に包まれたはな子の姿を
父にも見てほしいと思います。


「マザー・テレサの生き方が教えてくれたこと」より

2012-06-20 22:32:39 | 徳育 人間力


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       「マザー・テレサへの質問」
      
       
          
        五十嵐薫(一般社団法人ピュア・ハート協会理事長)



             『致知』2012年5月号
              「マザー・テレサの生き方が教えてくれたこと」より
         http://www.chichi.co.jp/monthly/201205_pickup.html#pick2

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かつてある新聞記者がマザー・テレサに
こんな質問をしたそうです。


「あなたがたったいま死にかけている人を
助けて何になるのですか? 

 この人は必ず死ぬのですから、
 そんなことをしても世の中は変わらないのではないのですか」


と。マザー・テレサは毅然としてこう答えられました。


「私たちは社会を変えようとしているのではありません。
 いま、目の前に餓えている人がいたら、
 その人の餓えを満たしてあげる。
 ただそれだけでいいのです。

 確かに、そのこと自体で世の中は変わらないでしょう。
 でも、目の前に渇いている人がいれば、
 その渇きを満たすために私たちはそのいのちに仕えていくのです」


彼女は別の場所ではこうも言っています。


「私たちのやっていることは僅かな一滴を
 大海に投じているようなものです。
 ただ、その一滴なくしてこの大海原はないのです」。


私たちのレインボー・ホーム
(五十嵐氏がインドに設立した孤児たちの家)もそうありたいのです。

人は「インドで僅か十人、二十人の親のない子供たちを
助けてどうなるのですか。

世界にはもっとたくさんの孤児がいるのに」と言うかもしれません。
しかし、目の前で「寂しい」と泣いている子供たちがいるのです。
それは私たちにとってかけがえのないいのちであり、
自分自身なのです。

そのいのちをそっと抱きしめてあげるだけでよいのです。

ボランティアとは、自発的に無償で他に奉仕することを
意味するのですが、その奥には


「人間は他のいのちに仕えるとき、
 自分のいのちが最も輝く」


という、生命の法則を実践で知ることに意味があると思います。
 


到着地で整備士に座席を分解してもらって,やっとペンダントが見つかったんです。

2012-06-20 22:26:30 | 徳育 人間力

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       「空の上でお客様から学んだこと」
      
       
          三枝理枝子(ANAラーニング研修事業部講師)


             『致知』2012年5月号
              連載「第一線で活躍する女性」より


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入社2年目に転機が待ち受けていました。
八丈島から帰りのプロペラ機に搭乗していた時のことです。

機内が大きく揺れた際に、男性のお客様が手にしていた
ペンダントが座席の間に落ちて取れなくなってしまいました。

どうしても見つからないので、
到着地で整備士に座席を分解してもらって、
やっとペンダントが見つかったんです。

そうしたらそのお客様の目からぼろぼろと
涙が溢れ出てきたので、驚いてしまったことがありました。


実はその方の息子さんが1年前に就職祝いの旅で訪れた
八丈島で交通事故に遭って亡くなられていて、
そのペンダントは息子さんの大事な形見だったのです。

しかもそれだけではなくて、その息子さんは
自動車会社に就職が決まっていて、
ご両親は息子のつなぎ姿を楽しみにされていたそうです。

そして、ペンダントを探しに来たのは
若いつなぎ姿の整備士だった。

これはきっと息子が自分の姿を見せようと
したのだと思ったら気持ちが落ち着いて、
初めて息子の死を受け入れることができたと
涙ながらにおっしゃられたのです。

私はこの話をお聞きしていた時に、
大きな衝撃を受けました。
この方のために何もして差し上げることができなかったのだと。


もしそのペンダントを落とされなかったら、
その方はきっと悲しみに包まれたまま
降りていかれたことでしょう。

航空会社の仕事はお客様を目的地まで安全に、
かつ定刻どおりにお届けすることが一番の目的です。

でもそれだけではなく、何かで悩まれている方に、
たとえ、それが一見して分からなくても
そっと心を寄り添わせて、
少しでも気持ちが楽になっていただいたり、
元気になっていただくのも大事な仕事なんだな、
と気がついたんです。

大変難しいことではあります。
でも、何気ない会話からヒントが出てくることもありますから、
現役で飛んでいる時にはいつもお客様への
小まめなお声がけを心掛けていました。
 


 「徳は孤ならず、必ず隣有り」 安岡定子

2012-06-19 14:39:09 | 教育

┌───覚えておきたい古典の言葉──────────────────┐


    「徳は孤ならず、必ず隣有り」


       安岡定子(安岡活学塾 銀座・寺子屋こども論語塾専任講師)

          『致知』2012年7月号
           連載「子供に語り継ぎたい『論語』の言葉」より


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祖父の『青年の大成』(致知出版社)を読むと、
人間には「本質的要素」と「属性」の2つがあるとした上で、
次のように述べた一節があります。


「人間たることにおいて、何が最も大切であるか。
 これを無くしたら人間ではなくなる、というものは何か。
 これはやっぱり徳だ、徳性だ。

 徳性さえあれば、才智、芸能はいらない。
 否、いらないのじゃない。
 徳性があれば、それらしき才智・芸能は必ず出来る」


私は若い頃にこの本を読んだ時、
そこまではっきり言い切っていいものかと
疑問を持ったこともありました。

しかし、いまでは本当にそのとおりだと
確信するようになりました。

論語塾の子供たちに徳や仁の大切さを話していると、

「徳や仁があれば人間はそれでいいのですか。
 日頃の勉強は必要ないのですか」

という質問を受けることがありますが、
徳と知識・技能は決して別々の関係ではありません。

相手を思いやったり、人間的に少しでも
向上しようという意欲は大切な徳です。


「自分はこのままではいけない」
「あんな素敵な人になりたいな」
と思うと、知識や技能を身につけずにはいられませんし、
自主性や自立性も芽生えてくるでしょう。

祖父が
「徳性さえあれば、それらしき才智・芸能は必ず出来る」
と言っているのも、そういうことではないでしょうか。

正しい思いを貫く大切さ 儒学は机上の学問ではなく、
実践の学問です。

ですから子供たちには


「いまやるべき正しいことはこれだと判断したら、
 ちょっと恥ずかしいと思っても、自信がなくても、
 勇気を奮って頑張ってやってみることが大切ですね

 思ったことを行動に移した時、
 初めて『論語』の言葉が身近になり、
 生活に活かされたことになりますね」


と説明しています。

しかし、実際に思いを行動に移した場合、
自分の行動を正しく理解してもらえるとは限りません。
例えば、決めたことをひたむきに真面目に
やろうと決意した途端、

「少しは手を抜いてもいいじゃないか」
「あなたは融通がきかないね」

と笑われてしまうこともあるでしょう。
そういう時、相手に同調して自分の意思を曲げてしまうか、
正しいと思ったことを貫くことができるか。
そのどちらを選ぶかはとても大切なポイントです。

そして、迷った時に思い出していただきたいのが、
今回ご紹介する「徳は孤ならず、必ず隣有り」です。


孔子先生は

「徳を身につけた人は、ひとりぼっちにはならない。
 近くに住んで親しんでくれる人がきっと現れるものだ」


とおっしゃっているのです。


つまり、自分が正しいと思うことをやろうと思うと、
一時的には皆に理解されないことがあるかもしれないけれども、
意思を貫いていくことで、
「私もそう思っていたんだ」「凄いね」
と言ってくれる友達が必ず現れて応援してくれるということです。


亀田信介@亀田総合病院

2012-06-16 21:35:31 | 建て直し

http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/list/list20120614.html

 

 

2012年6月14日放送

 

全国から患者続々の超人気病院
患者も医師も大満足のワケ…革新経営で医療の危機を救う

ゲスト
亀田メディカルセンター
院長 亀田信介(かめだ・しんすけ)氏

都心から車でも特急でも2時間はかかる千葉県南部の鴨川市に、1日平均3000人もの外来患者がやって来る亀田メディカルセンター。33もの診療科を持ち、救急救命センターもあるこの病院は、大学病院を除く私立病院としては最大規模。しかも病院ランキングで常に上位に食い込む人気ぶりで、地元住民のみならず日本中から患者がやって来る。一体何がそんなにすごいのか?
医療の未来に強烈な危機感を持つ亀田。巨大地域病院の挑戦に迫る。

全国から患者続々…超人気病院の秘密!

亀田メディカルセンターを一躍有名にしたのは、高い医療の質だけではない。病院とは思えない極上サービスの徹底追求にある。全病室がオーシャンビューの個室、病院食も14種類のメニューから選択可能、院内にはお酒が飲めるレストランありビューティーサロンあり…。それらを貫くのは、院長の亀田の強い信念。「病院というのは誰も長くは居たくない場所。だからこそ最高のサービスが必要なんです」。“患者のため”を追求してきたら今の病院になった、という。
決して便利な立地とはいえないこの病院に、1日平均3000人もの外来患者がやって来る。その結果、全国の病院の6割が赤字経営に苦しむ中、黒字経営を成し遂げているのだ。

患者のために、医療スタッフの満足を高める組織を作れ!!

亀田は、病院にとっての顧客は、患者(外部顧客)だけではなく、医療スタッフ(内部顧客)もまたそうであるという考え方に立つ。「医療スタッフの満足を上げなければ、良い医療はできない」と亀田。
8年前から亀田総合病院で働く、田中美千裕(みちひろ)医師。最新の設備やスタッフを取り揃えるからと亀田に口説かれ、永住も考えていたスイスのチューリッヒ大学からやってきた。田中は、最先端の脳のカテーテル手術の腕を持つ。「手術室の設計から機器の購入まで、すべて任せてくれた。外科医としてはこの上ない幸せなこと」と語る。
また、若い医師や看護師などにはキャリアアッププログラムや研修プログラムを実施して、満足度を上げている。一風変わった“満足度向上術”には、「職員の部活動支援」というのもある。プライベートを充実できば、仕事も一生懸命取り組むはず、というわけだ。
医師、看護師がベストを尽くせる環境を提供する。これが亀田流の病院経営術だ。

「10年後に重大な危機…」医療崩壊に地域から挑む

亀田は、隣の館山市にある病院の経営支援に乗り出した。救急医療が経営を圧迫、閉鎖の危機にあった地域病院だ。亀田には強い危機感がある。「これから団塊の世代が高齢化し、首都圏では医療が足りない事態が起こる。いま手を打たなければ間に合わない」。
医療にいま何が起ころうとしているのか、スタジオで村上龍が迫る。

【ゲストプロフィール】

1956年、千葉県生まれ。
岩手医科大学医学部卒、整形外科医。
順天堂大学医学部付属病院、東京大学医学部附属病院を経て、88年に実家の亀田総合病院 副院長、91年より院長に。亀田家は江戸時代から11代、350年続く医師一家。3人の兄弟も医師。

村上龍の編集後記

医療界において、「亀田」の先進性と合理性は突出している。ホテルのようなコンシェルジェ・サービス、快適な病室、それに国際的に活躍するドクターのヘッドハンティングばかりが話題になるが、それらはすべて、徹底的に患者のことを考え、そのために自らの医療スタッフを徹底的に大切にするという、危機感に裏打ちされた「亀田哲学」の具体化の一つに過ぎない。
番組後半で亀田先生が指摘されたとおり、我が国の医療、特に東京圏の今後は、崖っぷちにある。「亀田」は、行政に依存せず、地域と医療の連携を実現しようとしている。崩壊寸前の医療界に、まるで暗黒の海を照らす灯台のように、一条(ひとすじ)の希望の光を灯している。

一条の確かな希望 村上龍

ブレない信念が必要

2012-06-15 22:19:14 | 建て直し

┌───きょうの名言────────────────────────┐


  私は、自我を捨て、他者のために存在しよう
    という思いに支えられています。
それによって私は、自己を超えた存在となるのです。



        ロブサン・センゲ(チベット亡命政府首相)

                『致知』2012年7月号
                  特集「将の資格」より
   http://www.chichi.co.jp/monthly/201207_pickup.html#pick2

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チベットはいま、中国内のチベット自治区と、
ダライ・ラマ法王の樹立した亡命政府に
二分化を余儀なくされています。

ロブサン・センゲ氏は、
昨年の選挙でチベット亡命政府の首相に就任。
不当な弾圧支配からの解放と自治という
難題に取り組んでいます。

もともとは手違いから首相の候補者に
名前が挙がったというセンゲ氏。

誰一人頼る人もなく、多くの重大な決断を
次々と下さなければならない将の条件として、
まず、ブレない信念が必要だと主張。
チベットの人民とチベットの大義のために
最善を尽くしていると確信を持って言えることが
大事だと力説しています。

そしてもう1つ、センゲ氏を支えているのが、
上掲の思いです。
これは身近な仕事の体験に照らしてみると
非常に共感を覚えます。

いくら抽象的なお題目や体裁のいい言葉を並べ立てても、
そこに具体的な行動が伴わなければ、
仲間の信頼も成果も得ることができないでしょう。
また、1つひとつの行動も、
自分本位のエゴにもとづいて行っているうちは
たいしたことは成せないものです。

センゲ氏の言葉は、
自我を捨て、目の前の仕事に無心で取り組むことの大切さを、
教えてくれます。
その姿勢を貫いていると、天は思いもよらぬプレゼントを
与えてくれるのかもしれません。

センゲ氏のご健闘と、チベットの皆さんの幸せを、
願ってやみません。


命の授業  腰塚さん @錦糸町

2012-06-11 22:15:48 | 徳育 人間力

「何があってもずーっと一緒にいるから」と言ってくれる奥さん…


「代われるものなら代わってあげたい」と言うお母さん…


「腰塚さんの辛さは本当には分ってあげられないけど、私に出来ることは何でもしますから、我慢しないで言ってくださいね…」と声をかけてくれた看護師さん…


回復をひたすら信じ、心温まる激励を送り続けてくれた学校の生徒や同僚の先生たちでした。

 

http://inochi-jyugyo.com/dreammaker

腰塚さんのサイトです。

 


ならぬことはならぬものです

2012-06-11 21:36:48 | 教育

┌───偉人に学ぶ────────────────────────┐


  柴五郎(しば・ごろう)という人物をご存じだろうか。
  日露戦争において日本が歴史的勝利を収めるきっかけをつくり、
  当時、欧米列強の間でその名は鳴り響いていた。


        山下康博(中経出版専任講師)

                『致知』2012年7月号
                  特集「将の資格」より

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山下康博氏にご紹介いただいた柴五郎は、
1900年に清国で起こった義和団の乱で、
現地に駐留していた各国高官や避難民を、
見事なリーダーシップで守り抜き各国から絶賛。
後に陸軍大将にまで上り詰めた人物です。

義和団の乱での功績がもとで日英同盟が結ばれ、
それが日露戦争の勝利に結びついたといいます。

日露戦争の勝利で列強による植民地支配を免れた
歴史的価値を考えれば、
柴五郎の功績は計り知れません。

わずかな手勢、しかも足並みの揃わない各国の兵を、
有事に際して見事に統率した柴五郎の人間力の源には、
幼少期に受けた会津藩の教育があると
山下氏は説いています。

会津の藩校・日新館では、
「什(じゅう)の掟」という教えが実施されていました。

1,年長者の言うことにそむいてはなりませぬ
1,年長者にはおじぎをせねばなりませぬ
1,うそをついてはなりませぬ
1,ひきょうなふるまいをしてはなりませぬ
1,弱いものをいじめてはなりませぬ
1,戸外でものを食べてはなりませぬ
1,戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。

最後の項目以外は、
いまの社会にも通用する普遍的な人間のあり方といえます。

そして教えの最後には、
「ならぬことはならぬものです」
との一文が添えられています。
人心の乱れが著しい昨今ですが、
幼い頃からこうした人間としての基本を、
理屈抜きで浸透させることの大切さを、
実感させられます。


試合に出ていない子の力がいかに大切か

2012-06-11 21:33:22 | 建て直し

┌───今月の『致知』ハイライト──────────────────┐


     センバツ甲子園決勝前日秘話


        西谷浩一(大阪桐蔭高校硬式野球部監督)

                『致知』2012年7月号
                  特集「将の資格」より

└─────────────────────────────────┘


私がここ最近変わったなと思うのは、
メンバーから外れた子たちが
非常によくやってくれるチームになった、ということですね。

10年ほど前までは夏のメンバー発表が終われば、
そこから外れた子は寮を出るのが決まりだったんです。
メンバーから外れて気持ちも少し切れているだろうから
彼らは家から通わせるようにしようと。

ところが、私が監督になって3年目の時、
皆が寝静まってからキャプテンが相談に来たんです。

「メンバー発表が終わっても、
  3年生全員を寮に残してほしい」と。


私は内心凄く嬉しかったんですが、理由を尋ねると


「監督はいつも、1つのボールに皆が同じ思いになれ、
“一球同心”と言われているのに、
 メンバー外の三年生が寮を出たらお互いに溝ができてしまう。
 一球同心が本物にならないと思います」


と言ってくれたんですね。


夏のメンバー発表をする時には、
背番号をつけてやれなかった子たちが
ベンチ裏でワンワン泣いているんです。

でも次の日には彼らのほうから
「チームのために何かやらせてほしい」と
自ら言ってきてくれるようになった。

そして打撃投手をしてくれたりするんですが、
私が一番してもらいたいのが相手チームの偵察なんですね。

1、2年生より3年生のほうが野球をよく知っているから、
絶対にいい分析ができる。
ただメンバーから外れた3年生に
それを頼むのは非常に酷なことなんです。


その彼らが「偵察にも行きます」と
自分から言ってくれるようになり、
そこから何かが変わってきた。

3年生の外れた仲間たちが撮りに行ったとなると、
メンバーもいい加減には見られなくなる。
そうしたことで合宿所自体の雰囲気が変わってきました。

今回の甲子園では、決勝戦が1日雨で流れたんです。
メンバーはその日、室内練習場で練習をしますが、
宿舎に残っている3年生は部屋で寛いでいてもいい。

ところがその彼らが、決勝で当たる光星学院の
一回戦から準決勝までのビデオ4本を全部見直して、
一からデータを取ってくれたんですね。

はい。初めに、負傷した四番の子の話をしましたが、
その代わりに入った子が実は全然打てていなかったんです。
でも分析の結果、ワンストライクツーボールという
カウントになると、8割以上の確率でスライダーを
投げてくるというデータが取れていた。

そして翌日、1イニング目に彼の打席で
そのケースが訪れたんですよね。

私は頭にデータがあったので、
スライダーのサインを出した。

そうしたら彼も「分かってるぞ」という顔をしたんです(笑)。
私もスライダー来い、スライダー来い、と念じていたんですが、
やってきた球が本当にスライダーで、
それを打ったらホームランで……。

だからあれは本当にメンバー以外の子たちが
打たせてくれたホームランで、
スタンドにいる子たちも凄く喜んでいた。

たぶん彼らもスライダー来い、スライダー来い、
と思っていたんでしょうね。

だから試合に出ていない子の力がいかに大切か、
その子たちの力が関わってきた時に、
チームは本当の力を発揮するんだなと改めて感じましたね。


成功志向の人たちがよく言うような・・・・・ではなくて。

2012-06-11 20:20:35 | 商い

┌───きょうの名言────────────────────────┐


  成功志向の人たちがよく言うような、
  「目標達成のために」とか
  「世の中で認められるために」
  っていうことではなくて、
  「ああ、私はこれをするために生まれてきたんだな」
  という天命のようなもの。

  それも決して重たい使命じゃなくて、
  自分が心の底から喜びを感じることのできる天命。
  それがなんなのかを自分に問いかけて、
  感じることが大切だと思います。


     國分利江子(アメリカNY州政府認定マッサージセラピスト)

                『致知』2012年7月号
                  特集「将の資格」より

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3つの承認

1、存在の承認

2、行動の容認

3、結果の承認


 


長野市内で断トツの業績を誇る中央タクシーの創業者

2012-06-06 21:34:59 | 商い

  長野市内で断トツの業績を誇る
   中央タクシーの創業者で、会長の
   宇都宮恒久氏のお話をご紹介します。
   
    
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       「お客様が先、利益は後」
      
       
          宇都宮恒久(中央タクシー会長)


             『致知』2012年3月号
              特集「常に前進」より

                  ※肩書は『致知』掲載当時です

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MKタクシー創業者の青木定雄オーナーとの出会いです。
創業して1、2か月たった頃、友人から
凄いタクシー会社があると聞いてビックリしまして、
アポイントも取らずに夜行列車を乗り継いで京都に行ったんです。

京都駅からMKタクシーに乗って本社まで伺ったんですが、
早速驚いたのが、助手席の安全枕に
「お客様へのお願い」とありましてね、
次の4つを怠った乗務員には運賃を払わないでくださいとあるんです。



・「ありがとうございます」と挨拶をします。


・「MKの○○です」と社員名を明らかにします。


・「どちらまでですか」と行き先を確認します。


・「ありがとうございました。お忘れ物はございませんか」
  とお礼を言います。



感服しながら本社に着いたのですが、
やはりオーナーはご不在で翌朝3、40分なら時間を取れると。
その日は市内で何度もMKの車に乗り、
行き届いたサービスにつくづく感服しました。

翌朝お会いするとオーナーは開口一番
「君、年はいくつだ?」と聞かれました。
28歳で、まだ10台しか車を持っていないと申し上げると、
「そうか、実は私も32歳で始めた時はやっぱり10台だったんだ」
とたちまち話が弾んで、3、40分の面会予定が
3、4時間になったんです(笑)。

以来30年、青木オーナーを師匠と思い定めて
毎月のように通い詰め、頑張れ、頑張れと
励まし続けていただきました。


その青木オーナーからある時、
今度こんなことをやるんだと紹介されたのが
空港便だったのです。

数人乗りのジャンボタクシーで
お客様をご自宅から空港までお送りするサービスで、
素晴らしい業績を上げている。
ぜひ君もやりなさいと。

ところが地元の松本空港では便数、乗車率ともに
低くてとても採算が合わない。

諦めかけたところでパッと浮かんだのが、
成田空港だったんです。

すぐに長野から成田まで走ってみると、3時間半で着きました。
これならいけるということで、価格を
JRより安い8500円に設定し、24時間受付、
1名様からでもお送りするということで立ち上げたんです。


【記者:1名でも採算は合うのですか?】


1名の時は難しくても、トータルでは利益が上がるのです。
けれども当初はほとんど引き合いがなく、
やればやるほど赤字が積み上がりました。

3、4か月も続くと、やめたほうがいいかなと迷い始めたんです。



そんな時に出合ったのが宅急便の生みの親・ヤマト運輸の
小倉昌男さんの本でした。

宅急便も最初は5年間も赤字が続いたそうです。
しかし、それでも必ず逆転をすると信念を貫いて、
ついに翌日配送のシステムを確立したとのことでした。

その話に意を強くして、もう少し粘ってみようと思い直したわけです。



その小倉さんが赤字の時に言い続けたのが、



「サービスが先で利益は後」



ということでした。
それに感動して当社も



「お客様が先、利益は後」



という理念を掲げるようになったのです。


おかげさまで空港便は半年後に黒字転換し、
いまでは毎日35台、ハイシーズンには
45台くらい走らせています。

ご注文数では1日350件にも上ります。
新潟エリアにも1日70台くらい走らせ、
空港便は売り上げの6割を占める事業の柱になりました。


勝つこと

2012-06-04 22:12:18 | 建て直し

┌───きょうの名言────────────────────────┐


  勝つことだけがすべてじゃないと言われる
  指導者もおられますが、
   勝利に執着してこそ大きな前進があると思うし、
   そうでなければ指導者も選手も
  進化していかないと思いますね。


        本田裕一郎(流通経済大学柏付属高校サッカー部監督)

                『致知』2012年7月号
                  特集「将の資格」より

└─────────────────────────────────┘
 


「何を」学ぶかということは重要ではない。重要なのは「学び方」を学ぶこと。

2012-06-03 22:28:20 | 徳育 人間力

http://www.city.tanabe.lg.jp/hisho/columns/22-4-28.html

 

市長のコラム

このページに関するお問合せ先 田辺市 秘書課 TEL 0739-26-9910

市長のコラム

~学び方~

  少し大げさに思われるかも知れませんが、最近読んだ本によって30余年来抱いていた疑問が解けた気分になりました。
 30年余りも前ですから10代後半の頃です。昭和の名僧と称される高僧と生活を共にする機会に恵まれました。機会に恵まれたと言えば聞こえはいいですが、そうせざるを得なかったと言えなくも無く、その経緯について今回は省略します。
 ある日、老師を空港までお送りした時のことです。帰り際に、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と、折りたたんだ小さな紙を一つ手渡してくれました。一人になってから開けてみると、“なんと”千円札が一枚入っていたのです。頼りない記憶をたどっても、その頃のうどん一杯の値段がどれ程だったか、明確な答えは見つかりませんが、千円とは比較にならないくらい安かったことは間違いありません。
 それから暫らくして、再び老師をお送りする機会がありました。帰り際です。前回の場面を再現するように、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と手渡されたのは同じ包み紙でした。正直なところ少し期待をしていた私は、「ありがとうございます。」の言葉にもいつになく力が入っていたように記憶しています。一人になるとすぐ、ラッキーなお小遣いを確認する為急いで袋を開けました。すると“なんと”(あの時と同じ“なんと”ですが)今度は袋の中身が違います。“なんと”入っていたのは百円硬貨一枚だけでした。
 言うまでもなく、この日からが私の悩みの始まりです。「老師はこのことで、私に何かを教えてくれているに違いない。」「それにしても、千円と百円の違いは何を意味するのだろう?」「私にはハイレベル過ぎて理解ができないのかもしれない。」「どうしたらこの教えを理解できるのだろう?」答えを見つけることができない私は、「老師は単にお金を入れ間違えたのだろうか?」と考えることさえありました。自問自答の年月が経過する中、「‘千円’とか‘百円’とか、ましてや‘うどん’とかに囚われることを已めよ。‘ご苦労さん’、‘ありがとうございます’を大切にしなさい。」老師の教えはこのように解釈できるのではないか、と思うようになりました。「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」、そんなに的外れな答えではないと、それまでそう思っていました。
 ところが最近、この問いを解く文章に出会いました。少し長くなりますが、端折ることなくそのまま紹介します。


  これまで教育論で何度も引きましたけれど、太公望の式略奥義(おうぎ)の伝授についてのエピソードが『鞍馬天狗』と『帳良(ちょうりょう』という能楽の二曲に採録されています。これは中世の日本人の「学び」というメカニズムについての洞察の深さを示す好個の適例だと思います。
 帳良というのは劉邦(りゅうほう)の股肱(ここう)の臣として漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公(こうせきこう)という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)をおとす。「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。それだけ。不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。
 『張良』の師弟論についてはこれまで何度か書いたことがありますけれど、もう一度おさらいさせてください。教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。
 張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるメッセージだ」とふつうは考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します(別に謡本にそう書いてあるわけではありません。私の想像)。
 沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意を会得された。
 瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修業を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。

 長い引用になりました。「腑に落ちる」とは正にこのことです。永年の疑問が晴れた理由をよくご理解いただけたと思います。もちろん私は、この逸話に登場する「張良」におよぶ者ではありません。その証拠に、張良は二度目の沓を履かせた瞬間に「兵法極意」を会得したのに対し私は30年余りの間、老師の意図を明確に理解できずにいたのです。しかしながら、瞬時に理解できなかったことで、永年その問いを持ち続けることができたと考えれば、むしろプラスに働いたということもできます。
 今にして思えば「黄石公」の様な人に身をもって触れる機会を得られたことは、この上ない貴重な経験であり、その後の考え方に大きな影響を受けたことだけは間違いのないところです。

田辺市長 真砂 充敏平成22年4月28日