昭和44年(1969)(74歳)
こういうような物騒な世相というものを考えてみますと、
はたしてこれが人間の真の姿なのかどうか、過去は戦争につぐ戦争であったけれども、それは過去の姿であって、
だんだんと文化がすすんで、人間が月の面を歩くという状態になってきたんだから、もう地上の人間生活には平和が来て目もよさそうなものだ、
高度な文化生活というものが考えられるんじゃないかと思うのであります。
しかし事実はそうではなく、むしろ闘争が激しくなってきている。
なぜそういうふうなことが起こるのであろうことかということでありますが、
私は結局、人間の偉大さというものを見失っているところから来ていると思うんですね。
宗教は人間の幸せのために存在する、学問もまたそのとおりであります。
いっさいは人間が主である。
神の教えを説くにいたしましても、主体は人間である。
人間の幸せのために神の教えを説くのである。
人間の幸せを進めるために宗教があるんだと考えられるのであります。
ですからいつの場合でも、人間は主体とならなればならない。
人間が主座に立たなくてはならない。
ところが人間が下僕になり、人間の主座というものが変わってきたというところに、いま申しましたような過ちがくり返されてきているんじゃないかという感じがするんです。
これは非常に大事なことでもあると思うんですね。
私ども会社の経営をやっていくにつきましては、やはり社会観・人生観というものをきわめて重要なこととして考えねばならんことは、これはいうまでもございません。
経営から生まれてくる所産というものは、人々の幸せになるものでなければならない。
人々の幸せにならないことはしてはならないと思うのであります。
人間が経営の下僕になることは許されない。
人間のために経営が存するのである。
絶えずこういうふうに考えねばならんと思うんです 。
宗教の教えを行う方々にしましても、初めは人間のために、ということではあったんだろうと思います。
お釈迦様の説法にいたしましても、
人々の不幸を見て幸せな人生が送れるようにということでいろいろとお考えになって、
人間の道というものをお教えになった。
人間をいちばん大事にして中心にして、そしてその人間の歩む道はかなくあるべしというふうに研究なさったんだろうと思うんです。
そうしてのちに教団というものができたわけですね。
ですから、教団もまた人間を中心としたものでなくちゃならん。
教団のために人間が下僕になってはならないと私は思うんです。
それは全部が全部そうではありませんが、ともすれば人間は教団の下僕であるというような錯覚に陥っている。
そういうところに、大きな災いというものが起こってくるんだと思うんであります。
今日新しい思想がだんだん生まれてまいります。
その思想によって、よりよき人間生活というものが探求されるということは、あってしかりやと思うし、
またなくてはならんと思います。
しかし、人間が思想の下僕になってはならないと思うんです。
ところが今日、思想のためにいかに多くの人々が残虐なめに遭ってきているか、
それは皆さんご承知のとおりであります。
これは、こと志と違うわけですね。
そういうことからしましても、われわれ今、
大いに考えねばならないときに来ているのではないかと感じがします。
人間を下僕にしてはならないということを、
はっきりとわれわれの人生観に、社会観に、もつようにしなくてはならないという感じがすんわけであります。