昭和24年(1949)(54齢)
ですから、天地の恵みは、すでに限りなく与えられているのだということを、お互いにに十分に認識していなければなりません。
恵みはすでに与えられているのですから、ある宗教を信じているからといって特別に与えられるものではないのであります。
この認識が、迷信を避ける第一の道であり、また正しい信仰への第一歩になると思うのであります。
さて、このように天地の恵みがすでに限りなく与えられているとしましても、
この与えられ方が人によって違うのかどうかということが、
つぎの問題になります。
もしも宇宙根源の力が、ある人間には深い恵みを与え、他の人間には罰を与えるというように、
個々の意識をもって臨んでおられるのだと考えますと、
ここから非常に大きな迷信が生まれてくるのであります。
つまり、あの人間は三べんお参りしたから特別な恵みを与え、
この人間は一ぺんも参らないから罰を与えてやるというふうに、
神様や仏様が何か特別の意識といいますか、
愛情の念をもって臨んでおられると考えますと、
これは真実をはなはだしくゆがめてしまうことになるのであります。
天地の恵みは、このような姿で与えられているのではないと思います。
三べんお参りしょうが一ぺんだけお参りしょうが、宇宙根源の力は、そんなことにかかわりなく、
燦々として天地の恵みを降り注いでいるのであります。(中略)
宇宙根源の力は、善人悪人の区別なく、賢者愚者の区別なく、すべての人間に平等にその恵みを与えているのであります。
われわれ人間のように、ある一つの意欲をもって与えようとしているのではなく、
まったく無心の姿において、燦々としてその恵みを降り注いでいると思うのであります。
もっとも、無心であるとは申しましても、あるいはその奥に、人間に対する深い愛がひそんでいるかもしれません。
しかしながらその恵みが、あまりにも広大であるために、
とうていわれわれ人間の小さな意識では、宇宙根源の力の意志を判定することはできないと思うのであります。
それほど大きいのであります。
ところが、今までの宗教の教化の方法を顧みますと、どうも神様を信ずる者だけを神は助けてくださるのだ、というふうな説き方をしているように思われのであります。
この宗教に帰依する者だけに、何か特別のご利益があるのだと言うのであります。
そして仏罰だとか神罰だとか言って、人間に恐怖心を与え、
これによって信仰に導いていこうとしているのであります。
もちろんこういう方法のほうが早く信仰に導けるかもしれません。
また、どうせ信仰に導けばよいのだから方便として使ってもいいではないかと思われるかもしれません。
しかしながら、この方便が方便だけで終わればよいのですが、なかなかそうはいかないのであります。
方便と真実とが混同されてしまって、
ついには信ずべからざるものを信じてみたり、正しくないものを正しいと見たり、
いろんな迷信や迷いを起こして、その結果、生活を乱すことがはなはだ多いと思うのであります。
この意味において、今までのある種の宗教のあり方は、功罪相半ばすると思うのであります。
すなわち、方便の効果があったと言えばあったのですが、しかしその方便からまた大きな弊害が生まれてきていると思うのであります。
そこでこういった弊害を避け、お互いに迷信に陥らないようにするためには、
天地の恵みは無心の姿において、すべての人間に平等に与えられているということを、
この際はっきり認識し直さなければならないと思うのであります。
天地の恵みは平等であり、無心である。
これが正しい信仰に入る第二の要点であります。
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