交野市立第3中学校 卒業生のブログ

中高年の

皆さ~ん  お元気ですか~?

人間は成功した理由で失敗する。

2012-01-28 12:45:09 | 建て直し

「創造的自己否定」      本名正二(プロントコーポレーション社長)
 
   『致知』2000年3月号「致知随想」   ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
 ………………………………………………………………………………………………
 
人間は成功した理由で失敗する。
 
極端なことをいうようだが、
このすさまじい変化の時代に経営に携わる私は、
そのことを肌身で感じている。
 
過去にいくら素晴らしい成功を収めていても、
いまはそれが通用するとは限らない。
むしろその体験が、そのまま失敗の要因ともなり得る。
 
過去の成功体験を否定し、変革に挑戦する勇気を持たなければ、
あっという間に時代に取り残されてしまうのである。
 
かつて、テニスラケットでシェア50%を誇る有力メーカーがあった。
ある時期その市場に、当時としては“邪道”のグラスファイバーで
ラケットを製造する新興メーカーが登場した。
 
しかし有力メーカーはその新しい動向にまったく関心を示さず、
従来の素材に固執し続けた。
結果的にシェアは急落し、いまやその社名の記憶すら定かでない。
 
昭和62年にプロントコーポレーションの社長に就任する前、
私は、親会社サントリーの業態開発部で新しいスタイルの
飲食店の開発に取り組んでいた。
 
新しい店を成功させる方法はいくつかあるが、
業種全体が不振の場合の施策として、
お客さまが満足していない要素を集めて
その逆をやるというのがある。
 
メニュー、価格、内外装、BGM等々、
不振の要因は様々である。
 
興味深いのは、不振店のオーナーが
それを自覚しつつも改めようとしないことである。
 
なぜか。
そのスタイルでかつて成功したことがあるからである
そのスタイルがもう通用しないと認めることは、
それまでの努力の否定につながるからである
 
時代の変化を乗り越えて成功を持統させるためには、
絶えず進化・創造し続けなければならない。
そのためには、いい意味での破壊、
すなわち“創造的自己否定”が必要である。
 
しかし、破壊と創造という相反する行為を
同時に実行していくことは至難の業である。
ここに経営の難しさがある。
 
私が、プロントという新しい業態の店を手がけたのは、
ちょうどバブルの絶頂期。
地価は高騰し、飲食店経営で利益を出すことは困難を極めた。
 
そこで、一つの店に昼はベーカリーカフェ、
夜はダイニングバーという二つの顔を持たせ、
昼夜フルに稼働させることで、高い家賃でも
利益を出せる店づくりに挑戦したのである。
 
それまでにも喫茶店が夜アルコール類を出したり、
スナックが昼にランチを提供するなど、一つの店で
売り上げの二毛作を狙うところはあったが、
どうしても本業の片手間という印象を免れず、
確固たる利益に結びつかなかった。
 
これに対してプロントは、昼夜のメリハリを明確にし、
それぞれに本物を追求したところに新しさがあった。
それがお客さまの支持を集め、おかげさまで
バブルの絶頂から崩壊への激動期にも、
継続して業績を拡大することができたのである。
 
しかし、この成功に安住してはおれない。
私には危機感がある。
店舗の増加でプロント全体の売り上げは
前年比108%と上向いてはいるが、
これは決して成功の尺度にはならない。
 
むしろこれまでに出店した一店一店が
各地域でどれだけお客さまに愛されているか、
それを示す既存店の売上前年比こそ重視しなければならない。
その尺度ではあいにく98~99%。
 
外食業界全体から見ると良い数字だが、
1、2%のお客さまからは見放されている事実を
認識する必要がある。
 
創造的自己否定の必要性を感じる部分に、
店舗デザインがある。
プロントのデザインはグリーンが基調色となっている。
 
創業当初は、これが強烈なインパクトを生み
業績に寄与してきた
 
ところが、時代の変化と共に街並みも変わり、
当初のようなインパクトはもう期待できなくなってきたのである
 
この状況下でこれまでの成功体験に固執し
 

「わが店のグリーンは素晴らしいでしょう」
 

と、同じ色調を押し通していったらどうだろうか。
おそらく、いずれお客さまからそっぽを
向かれるときが来るに違いない
 
このため当社では、すでに新しいスタイルの実験店を通じて、
今後の方向を見定めつつある。
変化に対応する新発想を生み出す上で
大切なことの一つは、「体験」である。
 
頭のなかだけで考えたアイデアは、
これからは通用しなくなってくると思う。
 
どれだけ感性が磨かれるような体験をしたか、
どれだけ本物に触れる体験をしてきたか。
その蓄積がものをいうと思う。
 
もう一つには「遊び心」である。
ことにサービス業に関していえば、
頭がコチコチの真面目人間よりも、
心のハンドルに遊びのある人間のほうが
いい仕事ができると思う。
 
遊び心ある人間の発言は、
他とひと味違ってユニークである。
その言葉はたいてい耳に痛いものだが、
会社はそれを受け止めるだけの度量がなければ伸びない。
 
会社を変えるのは、人と違った発想のできる
ユニークな人間なのである。
短期間に急成長を遂げてきた当社だが、
五年前、その勢いが初めて鈍化した
 
ハードの面でいくら検討してもその要因が見えてこない。
行き着いたのは、見えない部分。
すなわち、心や人間力であった。
 
店の急激な伸びに見合った成長を、そこで働く社員が
十分に遂げていなかったことを痛感した。
そのときから私は、社員の心の教育、
人間力の教育に取り組み始めたのである
これは当社にとって、ひとつの創造的自己否定といえるかも
知れない。
 
いま痛感するのは、もはや机上の戦略戦術だけで通用する
時代ではないということである
もてなしや満足感といった目に見えない部分、
心や人間力の充実がますます重要になってくると確信している
 
その確信のもと、社員の心の教育、
人間的な教育に一層力を注ぎ、
これからも末永く皆さまに愛される
お店づくりを目指してゆきたい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

●定期購読のお申し込みはこちら ⇒ http://www.chichi.co.jp/guide.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 


代受苦者

2012-01-28 10:46:29 | 徳育 人間力

………………………………………………………………………………………………
 
◆目が見えないことが、いつしか「苦しみ」ではなくなっていた
 
  (株式会社アソウ・ヒューマニーセンター勤務 浦田理恵さん)
 
………………………………………………………………………………………………
 

皆さん、こんにちは。
 
私は九州の福岡からきました、
アソウヒューマニーセンターの浦田理恵と申します。
皆さん、お分かりにならないかもしれませんが、
実は私は視覚に障害があります。
 
活字を見ることも、相手の表情を見ることもできません。
 

私が視力を失ったのは、教職の免許を取るために
福岡の専門学校に通っていた20歳の時でした。
 
卒業を間近に控えた頃、網膜色素変性症と診断され、
僅か3か月で左目の視力を失い、
右目もわずかに光を感じるくらいまで
低下してしまったのです。
 
何もできなくなった自分が生きている意味があるのだろうか。
 
いろいろと悩み苦しみ、どん底にまで落ち込みました。
独り暮らしをしていた私は
誰とも会わずに家の中に引きこもり、
熊本の両親にも友達にも真実を伝えられないまま、
一年半が過ぎていきました。
 

失明したことを思い切って家族に伝える決心をしたのは、
数年ぶりに熊本に帰省した時でした。
 
駅の改札口まで迎えに来てくれた母は、
私のぎこちない仕草を見て
最初はふざけていると思ったそうです。
 

「お母さん、私はもう何も見えん」。
 

近寄ってきた母にそう率直に打ち明けると、
母はその場で泣き崩れてしまいました。
 

でも、この時、自分の思いを一気に吐き出せたことが、
一つのステップになったと思っています。
 

私がどんな状態になっても絶対に見捨てずに
温かく包み込んでくれる家族がいるのが
どれほどありがたいかを、しみじみと感じたからです。
 

人生に絶望していた私が、現在、前向きに頑張れるのは
この安心感のお陰です。
 

さて、前置きが長くなりましたが、
私は縁あって2年半前、
ヘルスキーパーとしてアソウヒューマニーセンターに入社しました。
その一方、女子ゴールボール競技のアスリートとして
厳しい練習に励む毎日を過ごしています。
 

当社で社内木鶏会がスタートしたのは昨年の11月でした。
最初
 

「木鶏会をやるから朝7時に集合ね」
 

と上司から言われた時は、
まるで他人ごとのように聞いていました。
 

私が所属するシーズアスリートには視覚障害者が4人いますが、
活字を普段目にすることのない私たちにとって、
木鶏会への参加はないものと考えていたのです。


しかし、上司や周りの社員の方々が私たちの成長を考えて、
何とか一緒にできないかと、
忙しい中時間を作って『致知』を読んできかせてくれたり、
PCにおとしてメールで送って音声ソフトで読ませたりと、
できる方法を一緒に考えてくれました。
 

できない理由を並べて甘えるのではなく、
一つでもできる方法を考え、トライすることが
成長の第一歩であると教えていただいたのは、
とてもありがたいことでした。


木鶏会に参加することで、
普段情報が入りにくい私は多くの刺激を受けています。
『致知』7月号の中では
「代受苦者(だいじゅくしゃ)」といういうワードに出会いました。
 

「災難や苦しみを自分の代わりとなって受けてくれる人」
 
という意味で、本来どこで起きてもおかしくはなかった
3月11日の大震災を、
東日本の方々が私たちの代わりに受けてくれた。
そう思うととても他人ごととは思えませんでした。


その時の話し合いの中で、ある方が私に向かって言われました。
 

「浦田さん、私の代わりに見えない不自由さを
 感じてくれてありがとう」
 

そう言われて私はあることに気づきました。
最初は見えなくなって怖くて不安で悔しくて
どうしようもない日々を過ごしていた私が、
沢山の温かな励ましや、ハード面・ソフト面のサポートのお陰で、
今は見えないことを忘れてしまうほど
毎日笑顔で過ごさせていただいていたのです。

周りの真心でいつしか目が見えないことが
「苦しみ」ではなくなっていたのです。
 

このようにお互いに支え合う仲間がいるのは
本当にありがたいことです。
木鶏会では普段同じ職場にいても
あまり話したことがない人とも
コミュニケーションがとれます。
 

その人の名前と声を一致させることに加え、
自分にはなかった考え方に出会い、
仕事でもプライベートにおいても
当事者意識を持っていかに自分の行動レベルに
落とし込んでいくかのヒントを得ることができます。
 
そして、何よりも、参加者同士がお互いに共感しあい
一体感を感じることができるのが
素晴らしいと感じています。
 

私はアスリートとして昨年のアジア大会女子ゴールボール競技で
銀メダルを獲得し、ロンドンパラリンピックへの出場権を
手にすることができました。
 
これからの練習が勝負です。
その意味で私にとって月1回の木鶏会は、
自分の気持ちをリセットし、
やる気を高める大切な場となっています。
 

社内木鶏の美点凝視の精神により私も笑顔、みんなも笑顔。
笑顔のキャンドルサービスが会社中、
そして日本中に広がっていったら、
どんなに素敵な社会になるだろう。
 
そんな夢を描きながら、
これからも前向きに頑張っていきたいと思います。
 

本日はご清聴いただき、ありがとうございました。
 

……………………………………………………………………………………
●社内木鶏会に興味を持たれた方・詳細をお知りたい方は
 こちらまでお気軽にお問い合わせください。
 

◆TEL:03-3796-2112(致知出版社営業部)


「いった豆でない限り、かならず芽が出るときがくるんだから」

2012-01-28 10:35:19 | 徳育 人間力

  「人生のダブルヘッダー」      郡司ななえ(鍼灸士)
 
   『致知』1998年7月号「致知随想」    ※肩書きは『致知』掲載当時のものです
 

…………………………………………………………………………………………………
 
私の目が見えなくなったのは二十七歳のときだった。
激しい痛みをともなって、徐々に視界がぼやけていった。
視力の低下が著しく入院を余儀なくされたときには、
とうとう「べーチェットさん」にかなわなくなったのかと思って、
悔しくて悔しくて仕方がなかった。
 
厚生省指定の難病の一つであるべーチェット病だと診断されたのは、
高校三年生のときだった。
体育の時間にクラス全員で列を組んで
マラソンをしていたときのことである。
 
突然、足に劇痛が走った。
こらえきれずに転倒した。
 
足の腫れがひかずに病院でいろいろな検査を受けていくうちに、
ベーチェット病だと診断された。
 
病名がわかっても、どんな障害が出てくるかということは、
その時点ではまだわかっていなかった。
 
体に宿ってしまった病と仲良くしようと、
私は「ベーチェットさん」と名づけて、
なだめすかして十年あまりを平和に過ごしてきた。
 
新潟から東京に出てきて、建築会社でOLをしていた。
この平凡な生活が、ずっと続くのではないかと思っていた。
 
いや、そう願い続けることで、病気を克服できると信じていたかった。
ところが、「ベーチェットさん」はそんなに優しくなかった。
目の痛み、全身を襲う倦怠感、増していく内服薬、
注射、度重なる手術……。
 
難題を押しつけるだけ押しつけておいて、
一向によくなる気配は見えない。
それどころか、ますます窮地に追い詰めていく
あまりの意地の悪さに、ほとほと疲れ果ててしまった。
 
十か月あまりの入院の末に、退院することになった。
回復したからではない。
濃い乳白色の世界は、もう微動だにしなかった。
 
心配して、上京してきた母の腕につかまって、
週に一度だけ薬をもらいに病院へ通った。
 
外界との接触はそれだけだった。
テレビやラジオの音を耳にするのも煩わしくて仕方がなかった。
 
私にとって見える世界が失われたことは、
世界が失われたことに等しかった。
ただただ、ベッドの上に縮こまって、何も考えたくなかった。
 
一年六か月の間、私の巣ごもりは続いた。
その間、母が私を守る防波堤になってくれた。
「がんばりなさい」とか「そろそろ再起をはかったら」
などといったことは一言も言わなかった。
 

「いった豆でない限り、かならず芽が出るときがくるんだから」。
 

母が繰り返し言ったのはその一言だけだった。
 
そんな生きているのか、死んでいるのかわからないような
私の魂を呼び戻すきっかけとなったのは、
大宅壮一さんがお書きになった『婦人公論』の一文だった。
 

「野球の試合にダブルヘッダーがあるように、
 人生にもダブルヘッダーはある。
 最初の試合で負けたからといって、悲観することはない。
 
 一回戦に素晴らしい試合をすることができたのならば、
 その試合が素晴らしかった分だけ、
 惨敗して悔しい思いをしたならば、
 悔しかった分だけ二回戦にかければいい。
 
 その二回戦は、それまでにどれだけウォーミングアップを
 してきたかによって勝敗が決まってくる」
 
 
私の二回戦はこれから始まるのだと思った。
一回戦とは違って、目の見えない私で戦わなければいけない。
 
だが、一年半というもの、二回戦を戦う準備をさせてもらった。
もうウォーミングアップは十分だと思った。
いてもたってもいられない気持ちで
東京都の福祉局に電話をかけ、戸山町にある
心身障害者福祉センターを紹介してもらった。
 
目が見えなくなって、何から始めたらいいのかわからない
私にとって、まず最初に必要なのは
一人で歩けるようになることと、
点字を読めるようになることだった。
 
やっと外界と接触する心の準備のできた私を後押しするように、
電話で相談にのってくださった先生がおっしゃった。
 

「あなたは運のいい人ですね。
 ちょうど視覚障害者向けのカリキュラムにあきが
 出たところなのですよ。
 
 明日いらしてください。
 明日来られなければ、他の人に順番をまわしてしまいますからね」
 
 
舞い込んできた幸先のよさに喜び勇んで、
新しい人生を出発することになった。
 
そんな私の二回戦の試合模様が、
先に『ベルナのしっぽ』という一冊の本にまとまった。
 
結婚して、子供を産み、盲導犬とともに暮らす
奮闘ぶりが描かれている。
大竹しのぶさん主演のドラマとして、
フジテレビでも取り上げていただいた。
 
こうして、あの空白の一年半から立ち直ってみて思うのは、
生きる勇気を失わない限り、私たちは
たいていの困難を乗り越えていくことができるということである。
不幸のどん底にいるときには、どこまでも奈落の底に
落ちていくのではないかと思えてくる。
 
だが、それをこらえてじっと痛みを耐えていれば、
かならず明るい光は見えてくる。
 
その一つひとつの困難を乗り越えていくことが
生きるということなのではないかと思う。
 
そして、一試合目がうまくいかなくても、
人生にはときに二試合目が巡ってくる。
そのためのウォーミングアップを続けていくことこそが、
次の一歩を踏み出すためにもっとも大切なことなのだと思う。
 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

●定期購読のお申し込みはこちら ⇒ http://www.chichi.co.jp/guide.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~