経営の最適化を徹底的に追求し継続的な増益体質を構築する
仙石 通泰 株式会社三技協 取締役社長
聞き手/徳田 英幸 慶應義塾大学環境情報学部長・教授
新たなビジネスモデルを次々につくる
徳田 仙石さんは、1967年に慶應の商学部を卒業されています。在学中は柔道部に在籍されたそうですね。
仙石 本来なら65年卒業のはずでした。その年の春に、アメリカで一番多く五輪選手を輩出しているカリフォルニア州立サンホセ大学の柔道のコーチが「来ないか」と呼んでくれたんです。果樹園の真ん中のようなところで、柔道をしながらアルバイトで学費を稼いで学校にも通い勉強しました。
徳田 サンホセ州立大学に留学されていたのですね。ソニーに入られたのはどのような経緯だったのですか。
仙石 親父としてはほかに入れたい会社があったのですが、どうも堅苦しそうなので拒みまして(笑)。ちょうどソニーが銀座にソニービルを建てているときで、そこで2週間ほど夜警のアルバイトをしたんです。夜、警備をしていると、井深さんや盛田さんが外国人などを連れて来るわけです。そうすると、「誰か通訳できないか。そこの学生どうだ」と言われて、引き受けているうちに顔見知りになりまして、こういうオープンな人がやっている会社がいいと。それと、サンホセに留学していたときに味わった雰囲気を、ソニーのビルの中に感じたんですね。それで「この会社に入りたい」と強く思うようになりました。推薦人として井深、盛田といった名前があるものだから面接まで受けさせないといけないということで、面接まではいったのですが、実は一度落ちています。「なぜこんな人たちと知り合いなのか」と面接官に聞かれ、「夜警のアルバイトで知り合った」と答えたら、「そんなことか」と。で、落ちた後にお偉いさんのところに行って、「何で入れてくれないんだ」と直談判しまして(笑)。入社が決まったのが、12月でした。
徳田 そのへんはまさにアメリカのカルチャーですね(笑)。入社後に配属されたのが、ソニープラザということですね。
仙石 創設期ですから、学校を出たばかりで品揃えから何からすべてやりました。それを手始めに、ソニーらしさはエレクトロニクスだけではないということで、新事業開発に23年間携わりました。ソニーコーポレーション・オブ・アメリカに7年ほどいたのも、その一環ですね。帰国後にソニートレーディングに行き、そして家電の国内マーケティングの仕事をしまして、それからソニープラザに役員として戻って、小物の全国販売網を構築する仕事を手がけました。キャラクターライセンスやアスレチックテープの輸入販売など、エレクトロニクス分野以外で僕がつくったビジネスモデルは誰よりも多いのではないでしょうか。楽しくてしょうがなかったですね。
「見える化」で価値観を変える
徳田 お父様が創業された三技協に入られたのが、1990年。以後、マイクロ波や衛星通信、移動体通信にかかわる各種設備の施工や現地調整などが中心だった御社の業務を、総合的なITエンジニアリングサービス企業に育てあげるよう尽力されましたね。
仙石 うちの親父も、社員も、いつまでも下請けのままではいけないという思いはあったのですが、どうすれば脱却できるかわからなかった。ダサくしているほうが男らしい、ツッパっているほうが高く売れる、という感じでしたから、価値観をガラッと変えてもらう必要がありました。とかくエンジニアには、映画の「鉄道員(ぽっぽや)」みたいな、蛸壺のような人生が美しいという文化が根づいてしまっていた。しかし、広告業界も流通業界も、ソニーのようなところも、そうではないわけです。多様化ということをテーマに経営を進めていました。セリカが出たころから「これからは多様化の時代である」と社会では叫ばれていたんですね。しかし、いまだにそうなのですが、世のエンジニアには新しいパラダイムに対する抵抗感が強くあるものです。本当にそれでいいのかと聞くと、ほとんどの人間がわからないと言う。だからこそ、僕のような立場の者が新しい価値観を持たせてあげることが必要だと思っています。世の中のエンジニアをより豊かにするためにも。
徳田 そこで行われたのがオプティマイゼーション、つまり経営の最適化ですね。
仙石 何をやってもいいような雰囲気のソニーから来てみると、何もやってはいけないような業界に感じました。これは何とかしなければいけないなと。例えば衛星の地上局のオプティマイゼーションとか、マイクロのオプティマイゼーションに取り組みました。そうすると、仕事は倍ぐらいに増えましたが、やがてインフラが一段落してしまうと、別のタイプの仕事になってしまう。先行した投資も無駄になってしまうわけですが、ちょうど国際会計基準の導入時期ということもあって、3年かけて減収増益の体質をつくりました。
徳田 すばらしいですね。
仙石 どうやったかというと、「見える化」しかなかったわけです。R&Dベースの会社ではありませんから、これからも持続的に発展していくためには、徹底して「見える化」、つまり「情報の共有化」を図ることが必要でした。そこで開発したのが、「Cyber Manual」というシステムです。具体的に言いますと、徹底的に仕事をバラす、データベース化する、それを経営のプラットフォームとして活用し、さらに連続展開と革新の連鎖を続ける構造にする、ということです。もちろんそれぞれの段階で課題が生じますから、今でも格闘していますが。
徳田 ジョブ・マニュアルが企業の中で、しかもノウハウまで文書化されているというのは、非常にユニークですね。
仙石 さらに言えば、マニュアルが固定化していません。仕事の分解・解析・再設計を頻繁に行っています。ですから、例えばジョブローテーションで本部長が交代するときも引継書がまったくいりません。
柔道、留学、そしてソニーで培ったセンス
徳田 御社自身が経験されたオプティマイゼーションを、現在ではサービスとして提供されていますが、顧客のニーズを先取りしてアグレッシブな経営をされるのはアメリカ生活を含めてソニーで培ったセンスなのでしょうか。
仙石 そうかもしれませんね。横浜の元町がなぜトレンドが早かったかというと、外国人がたくさんいるからです。やはり外国から来た人はどこかあか抜けている。ありがたいことに、柔道をやっていたときも、遠征で外国に行かされたり、あるいは日本にやって来た外国の選手団の面倒を見たり試合をする機会がありましたので。
徳田 SFC、あるいは慶應の学生に期待されることをお聞かせください。
仙石 おそらく誰にでも部分最適と全体最適の狭間で悩むときが来ると思います。そこで、若い人、特に慶應の学生には、ダイナミックに動ける力を期待したいですね。
通泰
(せんごく・みちやす) 1967年慶應義塾大学商学部卒業、ソニー株式会社入社。ソニーコーポレーション・オブ・アメリカ勤務、ソニープラザ取締役を経て、90年、株式会社三技協入社。92年より現職。「社内企業変身運動」「構創塾」など、ユニークな手法で企業改革を推進し、独自の業務分析手法を開発してきた。
徳田 英幸
(とくだ・ひでゆき) 慶應義塾大学環境情報学部長・教授。慶應義塾大学大学院工学研究科修士課程修了、ウォータールー大学計算機科学科博士課程修了。主著に「ディジタルメディア革命」(共著)などがある
http://sfc-forum.sfc.keio.ac.jp/forumnews/news82/forumnews82-3.html