goo blog サービス終了のお知らせ 

かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

絵と写真で想う‐ヒロシマ・ナガサキ―続

2024年08月08日 | スケッチ、油絵、写真

前回に続き、ナガサキについて書こうと考えたが、長崎での適当な絵や写真が見つからないので、このヒロシマの絵のことなどを紹介する。

前回、初めて原水禁日本大会に参加、広島、長崎を訪ねてから66年になると書いたが、66年にわたり反核平和の活動に関わってきたということではない。当時の大学生協連は「平和と民主主義の擁護」は謳っていたが、具体的に原水爆禁止運動の取り組みを提起してはおらず、全国理事会のあとで5人の学生理事が長崎、広島の被爆地を訪ねたのは個人的なものだった。その後、日本生協連で働くことになったが、平和活動とはかかわりはなかった。

 それが、1977年、日本生協連が他の市民団体などとともに原水禁運動の統一を成功させ、78年の国連軍縮特別総会に向けた署名などを全国の生協に呼びかけると、それが当時大学生協の支援の延長で地域生協(戸山ハイツ生協→都民生協)の役員になっていた私の課題の一つになった。急遽、原爆被爆の実態や被爆者問題などの学習が始まったが、驚いたことに組合員の理解は早く「命と暮らしを守る」といっている生協だから当然のこととして署名活動もカンパに取り組んだ。新組合員の獲得、新事業の拡大など専従幹部も組合員リーダーも多忙で、私が生協の理念や歴史から平和活動の必要性を説明することもなかったが、取り組みは一気に広がった。

その後、東京都生協連の役員になってからは第5福竜丸のある平和島からの平和行進で先頭に立つことなど暑い夏は平和活動一色となった。それは、1981に日本生協連に戻ってからも、肩書や責任の軽重はあったが10数年は続いた。組合員活動を担当する部長とか常務理事の肩書の時代は、3月のビキニデーや8月のヒロシマ・ナガサキ行動への参加は必須だった。6日のヒロシマ行動を終え、そのまま9日のナガサキ行動に向かうこともたびたびあり、現地の皆さんとの打ち合わせ、交流のほかに写真撮影やスケッチもすることがあった。

 その絵がすこし役に立ったと思ったのは1995年、核兵器は人道法上違法と訴えた「世界法廷運動」でオランダ・ハーグに行き、さらにフランスの核実験抗議のためパリに行った時である。国際司法裁判所へ330万筆の要請署名を渡し、法廷傍聴(写真)のあと被団協の山口仙二さんを代表にした10名ほどがパリに行き、パリ政府代表に要請書を渡し、街頭宣伝(写真)をした。

パリ街頭での宣伝活動や記者会見のあと、その私たちの活動に協力いただいたパリの平和活動家の皆さんと交流、夕食会を行った。その折に、私のつたない「原爆ドーム」の絵を代表の方に差し上げた(写真下)。写真中央で通訳をされているのが、このパリ行動で大変お世話になった美保シボさん。パリ在住の美保さんはご主人が教職員組合の幹部で平和活動家であり、美保さんは千羽鶴の佐々木貞子さんのことを海外に紹介するなど、日本に来ると反核運動に参加しており私も旧知だった。フランス語も英語も不自由でその後の皆さんと交流出来ていないのが残念。

反戦平和のためには絵画も音楽も、あらゆる文化が役立つし必要だと思う。2016年のヒロシマでの日本生協連・虹の広場で広島市立基町高校の生徒の原爆絵画展を見た(写真下3枚)。生徒たちが原爆被災者の話を聞きながらその様子を油彩画にしたもので、その絵と多くの時間をかけての取り組みの様子を聞き、感動した。感動を与えるような絵を描きたいが、2016年いらいコロナ禍と高齢で広島などには行けないでいる(前回書いたように田中煕巳さんには君はまだ若いと叱られるが。)基町高校の生徒のように、皆さんが何らかのかたちで戦争は嫌、平和が好きと表明されることを望みます。

 

 


絵と写真で想うーヒロシマ・ナガサキ

2024年08月06日 | スケッチ、油絵、写真

被爆79年の6日、34万4306人となった広島の原爆死没者に「安らかに眠ってください」とテレビの前で祈った。そして、初めて現地に行った時の「過ちは繰り返しませんから」と誓った気持ちを思い起こし、初心に帰って考えてみようと古い写真やスケッチを探してみた。そこで再確認したのはヒロシマ・ナガサキとの関りは生協との関りと同じく、66年になることだった。

学生時代に早大生協に関わり、1958年の8月に東京大学で開催された大学生協連全国総会で大学生協連の常務理に選出された。その総会直後に第4回原水禁日本大会が早稲田大学の記念講堂で開催され、私と一緒に大学生協連常務理事になった北大生協の河村征治さん(のちコープさっぽろ理事長)がその原水禁大会に顔をみせた(写真向かって左)。総会後に札幌に帰る前に早大生協を訪問し、たまたま原水禁日本大会で会うことになった、という記憶である。

その年の11月、全国理事会が九州の宮崎大であり、河村さんなど東日本から行った数人は同期の常務理事・石田静男さん(のちエフコープ理事長)の鹿児島大生協を訪問、長崎、広島を回って帰ることになった。往復とも夜行鈍行の汽車旅なので、上手くいったら長崎大の学生寮にでも泊めてもらおうと、まず長崎の被爆地に向かった。写真のように「原爆落下中心地」の碑(写真後ろ)は立っていたが、まだ公園としての整備は不十分だった。北村西望の平和記念像を含む平和公園も隣接していたはずであるが分からず、浦上天主堂を廻り、長崎大学に行った。(写真前列左・河村さん。右東北大の小室満男さん(卒業後、東北大生協専務))

長崎大では自治会の役員に生協づくりの話をしたが、宿はダメで、夜行で広島へ向かった。

広島では平和公園の整備が進んでおり平和祈念碑に前で「過ちは繰り返しません」の誓いを立て、写真にあるように建設間もない「原爆の子の像」などを見て回った。この像は千羽鶴で知られる佐々木貞子さんなど被爆死した子供たちの霊を慰めるためこの年・58年5月に完成したものだった。

 この小旅行が私の長崎、広島の初訪問であった。一緒だった5人はまだ誰も生協に残るとは語らず、自分もそんな気がない66年前だった。翌69年には東北大であった全国理事会に参加、小室さんと同期の相馬健二さんや専従常務理事の石川誠一さん(のちさいたまコープ理事長)にもお会いし交流した。夏には、北海道の親戚に遊びに行った折に北大生協の河村さんと会い、専務の野崎弘明さん(のち日本生協連常務理事)にも会って親切にしていただいた。常務の真鍋さん(のち札幌市民生協創立、専務)は大学村で教職員向けの店舗事業に取り組んでいた。

 以上が66年前の大学生協とヒロシマ・ナガサキの思い出であるが、当時は考えていなかった生協への就職が現実となり、反核平和の活動にも関りが続くことになった。そして、最近、66年前の大学生協の同期の方に反核平和の活動で大変お世話になることになった。写真の日本被団協代表理事の田中煕巳さんです(写真は大学生協9条の会での講演)。

 田中さんは長崎で被爆、東大生協の職員として働き、理科大の学生として生協設立に関わり、1958年の大学生協連総会で監事に選出された。当時の大学生協は貧乏団体で、全国理事会を地方で開催しながらもその旅費は出身単協負担だった。理科大生協は小単協で田中さんは監事だったこともあり、地方開催の理事会に出席することもなかったようで、学生時代の交流はなかった。たまたま、大学生協連の事業委員会の責任者として58年度選出理事で私の日本生協連事業部時代の上司だった島根善太郎さんが東大生協出身であり共通の上司であった縁で平成に入ってから交流が始まり、今回は私のブックレット「生協の歴史から戦争と平和を学ぶ」の改訂新版に特別寄稿をいただいた。

 田中さんは大学生協連の学生役員として私と同期ですが、生協職員として働いていた分歳上で92歳です。しかし、この5月にもピースボートに1か月乗船し、被爆者の語り部として活動する元気者で「また、ピースボートに乗る、斎藤さんどうですか」と言っています。田中さんを想うと「66年間頑張った」などととても言えない。

このブックレットには表紙をはじめ、文中にも私のヒロシマの絵が載っています。