かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー ③高村勣

2020年06月02日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

(この小文は昨年、ロバアト・オウエン協会で行った報告を編集したもの)

 

 高村 勣 (日本生協連第5代会長)

  ―事業経営に強いリーダーとして

 

1、生協の近代化、発展をめざして

 学徒動員、生協の再建へ

 石黒武重が戦前の上級官吏、終戦時の政界の経験を経て生協に関わるようになったのは49歳の時であり、同様に中林貞男が新聞記者と産業報国会の経験をへて生協に転身したのは38歳の時で、その後それぞれその経験を活かして生協運動でリーダーシップを発揮した。中林のあとを継いで日本生協連の第5代会長となった高村勣ははじめから生協一筋の“生協人間”であり、終戦直後の混乱期から80年代の発展期まで生協の第一線で活躍した実践者であり、リーダーだった。

 高村勣は1923(大正12)年に大阪で生まれ、神戸商科大(現神戸大)に入学、途中陸軍に入隊、宮崎で終戦、復学し、46年に卒業した。終戦直後の混乱期に卒業した高村は親しい友人の父親だった当時の灘購買組合の組合長・田中俊介さん(日本生協連第2代会長)に誘われて灘購買組合(現コープこうべ)に就職した。当時の仕事は「廃墟のなかの掘立小屋に住む多くの組合員にもう一度生協に結集して『明日の食い物を確保しよう』と呼びかけるオルグ」であり、「雑炊をすすり古軍靴をすり減らしながら」生協の再建のため動き回ったという。安い給料も遅欠配といったなかでかなりの数いた大卒仲間は殆んど離職していった。そんななかで、組合長の田中もそうであったが職場の上司もクリスチャンであり、賀川豊彦の話を聞く機会もあり、高村は48年に受洗した。

 スーパーの導入と経営近代化

 当時の生協の供給事業は戦前からの御用聞き制度で行われており、高村はその支部長から商品担当、業務部の責任者など各分野の経験をつみ、1957年には若い幹部候補としてICAセミナーに派遣された。コペンハーゲンでのセミナーのあとヨーロッパ各国の生協を視察した高村はスーパーマーケット店舗の実態を知り、それの導入による生協事業の近代化を図るべきと考えた。スーパーマーケットについて書かれた本は英文のものしかない時代で、高村はその原書を読んだりレジスター会社のNCRや東京の紀伊国屋などに学び、61年、くみあいマーケット芦屋店の出店を成功させた。すでに神戸ではダイエーが主婦の店ダイエーを出店しており、生協のスーパー出店はあわせて流通革命の端緒となるものであった。翌62年、灘生協は神戸生協と合併、灘神戸生協となり「マンモス生協誕生」とマスコミに騒がれた。

 日本生協連で機関誌の編集担当だった私は63年、当時、店舗運営部の課長兼住吉店店長の高村を取材したが、高村は9店舗のくみあいマーケットの統括者として「ピンポン玉」といわれるほどに活躍していた。高村はスーパーマーケットの考え方から商品、店舗の運営・管理の各分野につて実践的な指導を熱心に行い、その指導は「高村学校」と呼ばれ、職員のなかでの信頼は高かった。当時、高村は「生協は流通界の刺身のツマでなく主流になるかまえでスーパー化を軸に経営改善を図るべきだ」と抱負を述べていたが、灘神戸生協以外の生協は流通界に無視される弱小な存在だった。

 1975年、専務理事になった高村は店舗事業の拡大と合わせグループ購入(共同購入)の導入、御用聞き制度の廃止と供給業態の近代化をはかり、3か年計画の策定で総合的、長期的に生協の進路をきめることとした。3次にわたる3か年計画の中では「心豊かな暮らしと地域社会の創造」のスローガンのもと地域への貢献策が追求された。その中には神戸市との「緊急時の生活物資確保のための協定」など、その後多くの生協が取り組む課題の先駆けがいくつもあった。組合員組織や理事会運営などの改革も「大規模化に合わせた民主的運営」のため進められた。

 高村は1983年に組合長となり現場の第一線から退くが、兵庫生協連会長や国民生活審議会委員などの仕事と国際的にはICA中央委員になり、ストックホルム生協との姉妹提携、同生協とドイツ・ドルトムント生協、コープこうべの「世界3大生協シンポジュウム」の開催など活動の場を広げた。日本生協連との関係では81年から副会長を務めていたが、85年、中林に代わって会長に選出された。

 

2、日本生協連会長として

 生協規制の嵐のなかで

 60年代後半から70年代に全国各地で誕生した市民生協群は80年代に飛躍的に成長、発展し、全国の組合員は100万人を超え事業高も1兆9000億円という規模になっていた。供給事業は共同購入から店舗重視に変わりつつあり、その出店に脅威を感じた小売商団体から生協規制の動きが強まっていた。その動きを受けて自民党の中に生協対策委員会が設置され、そこで員外利用禁止など生協法改悪が議論された。

 厚生省は全国生協の員外利用実態調査を行い、86年に有識者による「生協のあり方懇談会」を設置し、高村はそのメンバーになった。日本生協連は東京・晴海で生協規制反対全国組合員総決起集会を開いたが、そこには全国から1万4000人が集まり生協規制の不当性を訴えた。員外利用の実態は商業者が主張するほどになく、逆に規制反対の運動の中で生協組織が強化拡大する状況であり、「あり方懇」も生協の社会的役割に期待する内容であったことから、規制の動きは終息に向かった。「あり方懇」で商業者代表と激しい議論を続けた高村は「『あり方懇』は『ありがた懇』になった」と評価した。

  ICA東京大会の成功

 高村は前任の中林から「事業が拡大した日本生協連には事業が分かる会長が必要」と説得されたが、たしかに中央会的機能だけだった時代と違い、会員の要求も取り扱い比重の高いコープ商品を軸に日本生協連への要求は事業に関することが多かった。高村は「会員生協に役立つ連合会としての体質改善」を会長としての役割と考えた。

 日本生協連は87年からの第4次中計の「日本生協連のあり方」で「会員・組合員を基礎に置いた運営と活動」をうたい、中央会系機能と事業機能のコストや会費のあり方、理事会や常勤役員問題、商品力強化と事業改革など分野ごとの改革を進めた。それらの日本生協連のあり方改革は90年、内館晟専務体制となり本格的に進められることになった。高村は「常駐できない私は、事業経営がわかり遂行能力のある専務役を専任でき、(中林に要請された)責任を全うできた。」と述べている。そして高村は「会長としてやったこと」として生協規制・「あり方懇」とあわせICA東京大会など国際活動を取り上げている。

 ICA東京大会が開かれる前にベーク報告「協同組合の基本的価値」を受けて日本生協連では高村会長を委員長とする委員会で「日本における協同組合の基本的価値」を検討し、その中間報告の論議がコープこうべをはじめ全国の各生協や県連で開催された。92年にはじめてアジア、東京で開催されたICA大会には83か国と海外の1,100人を超える参加があり、全体会と生協など各分野の会合が持たれた。高村は全体会で基本的価値「参加、自立、公開、協同、社会的貢献」は日本の生協運動の価値として支持すると述べ、生協委員会では「組合員活動と店舗事業について」報告した。生協委員会では斎藤も日本生協連常務として「組合員への情報、教育活動」の報告をしたが、高村会長の店舗事業の報告の方に多くの質問、意見が出された。

 

 コモ・ジャパン―店舗近代化のために

 若い高村が多くを学んだイギリス、フランス、ドイツの生協は、日本の生協が本格的な発展をはじめた70~80年代に経営破綻し多くが解散していった。店舗事業で苦戦している日本の生協の将来をその3国から学ぶ必要があると考えた高村は、90年、店舗事業に力を入れている9つの拠点的な生協のトップに呼びかけ、欧州生協視察団を呼びかけ実行した。帰国後、高村の「拠点生協による事業連帯組織結成に向けて」のアピールに賛同した9生協の参加で「日本生協店舗近代化機構」(COMO japan)が発足した。コープこうべを中心とする任意組織であったが、日本生協連会長が呼びかけて結成した組織であり、日本生協連総会では「大単協のエゴ。中小の切り捨て」などの批判が出たが、高村はそのようなことではなく、この連帯の成果は生協全体の利益になるものだと主張した。

 そのコモ・ジャパンは店舗業態、運営ノウハウ、商品開発、人材育成などで交流と実践を続け、96年には日本生協連の内部に組み込まれた。しかし、人材育成などコープこうべの現場での実践を伴う機能は引き続き「コモテックこうべ」として、コープこうべの協力の下に置かれ、そこで育った幹部職員が各生協の店舗事業の発展のために力を尽くすこととなった。

 高村はICA東京大会の翌93年6月の総会で会長を同じコープこうべ出身の竹本成徳と交代し、その後は社会福祉関係組織などで地域活動を続けた。

 

3、実践的なリーダーだった“生協人間”

 

 学徒出陣と敗戦の経験をして廃墟のなかで再建をはかる生協に入った高村は賀川豊彦などの影響をうけ生協運動を生涯の仕事と決意し、「生協人間」と言われる人生を送った。再建時の苦しい経験やヨーロッパ生協の発展ぶりから学び店舗の近代化=生協経営の近代化をめざすことを重視し、コープこうべが日本を代表する生協に発展することに貢献した。日本生協連の会長就任時は生協規制の嵐を克服することが当面の課題であったが、基本課題は急速な成長のなかで岐路にあった日本生協連や会員生協の事業連帯や店舗をはじめとする事業経営のあり方だった。日本生協連の改革はトップ人事などで進め、生協間の連帯は自主性を重んじたが、コモ・ジャパンのように実践的な指導もおこなった。

 高村はそれまでの日本生協連会長と違い生協の現場あがりのリーダーであり、生協がその理念を生かすためには事業経営の健全な発展が必要と考え、強調した。一方、その高村は生協規制論者に生協の消費者問題、環境、福祉などでの社会貢献論で反論し、ICA東京大会前後には「協同組合の基本的価値」問題など、生協の理念、あり方の論議を熱心に推進した。

 高村は「リーダーとして賀川のようなカリスマ性は全くなく、雄弁でもない」と言っていたが、誠実な人柄と実践的な指導で「高村学校」と言われたように優れたリーダー、教育者だった。コープこうべの部内報に書き続けた随想集「生協人間」には生協のことだけでなく戦争や平和などへの想いも述べられており、「生協経営論」(1993年コープ出版)と「いま生協に求められるリーダーシップとは」(1997年コープ出版)には自身の経験を踏まえ後輩の生協のリーダーへの期待が述べられていた。これらの著書をとおしてその影響を受けた人も多いと思われる。

(注、参考文献は「生協人間」など前掲著書ほか)

高村勣略歴

1923(大12)年 大阪市生まれ

1941年 神戸商科大学予科入学、途中学徒出陣 46年 同大学経済学部卒業

1946年 灘購買利用組合勤務 48年キリスト教入信 支部、経理部、従業員組合など

1957年 ICAセミナー(コペンハーゲン)に参加、59年店舗経営部長代理 1961年 指導課長兼くみあいマーケット住吉店店長、65年アメリカのスーパー視察

1969年 常務理事 75年 専務理事 81年日本生協連副会長 83年 組合長理事

1985年 日本生協連会長、経済審議会委員など 86年厚生省「生協のあり方懇談会」委員 90年コモ・ジャパン代表幹事、92年ICA東京大会 

1993年 日本生協連会長・コープこうべ理事長を退任

(1994年勲二等瑞宝章授与)

2015年 召天 91歳 

 

高村さんの思い出=中国土産の“書”のこと>

 

 高村さんとは日本生協連の会長になら  れる前年、1984年の中国・上海物流調査団でご一緒し、そのお人柄に親しく接しさせていただいた。日本生協連が所沢にシステム化した大型物流センターを造ったのは82年で、それまでになだコープやコープかながわは先進的なDCを持っており、中国の合作総社の代表はそれらを視察して、ぜひ日本のリーダーに来中して指導してほしいとの要請があり、それを受けての訪中であった。高村さんを団長に灘から2人、神奈川から1人、日本生協連から私の計5人が北京経由で上海に行った。

 我々を迎えたのは中国政府の商業部長で、日本的に言えば商業省の大臣であり、調査対象の物流は上海駅の貨物部門であった。社会主義中国の合作社は農業の生産にも流通にもかかわっているので国営の鉄道貨物の拠点である上海駅に深いかかわりがあることは理解できなくはなかったが、直接そのような国家プロジェクトにかかわることとは理解していなかった代表団は戸惑った。商業部長は、団長の高村さん(日本生協連副会長)に歓迎の挨拶をするとすぐに、立派な硯と筆、芳名帳を差し出し署名を求めた。高村さんは毛筆の署名などしたことがないと戸惑われたようであったが、部長は中国では大切なしきたりなのでと頭を下げ、高村さんは署名した。

 上海に行って駅の幹部から貨物の集荷、保管、配送などの実体と改革の考え、課題を聞き、そこでも驚かされることは多かった。当時の中国の貨物列車は全国でもっとも発達している上海駅でも、各方面からの登り下りの確定的な時刻表がなく、流通量も在庫量も把握が正確には困難、その荷捌きの作業は人海戦術で非効率だった。日本の生協DCの全自動のレーンの荷捌きの速さなどに驚いた、日本のようにコンピューターシステムを使い近代化したい、しかし、労働者の首切りはできない、どうしたらいいかといった難題だった。高村さんは基本的な考え方を述べ、実践的なやり取りは同行の若手が作業チームで行った。高村さんは中国の社会・経済の遅れ、ゆがみとそれを無視した発展への強い意欲の矛盾といったことに内心驚いたようであるが、その状況を理解し、真摯に対応された。

 その高村さんに中国側は書道道具―端渓の硯と筆を記念品として贈り、「また是非来ていただきたい、その折は立派な署名を期待しています」と笑いながら述べた。高村さんはその挨拶を嫌味ととらず、その硯と筆が気に入ったので、これを契機に書の勉強をすると挨拶された。

 私は父が書道家だったこともあり中国・端渓の硯は高価なものといったケチな知識があったため、数年後「あの硯はいかがですか」と伺った。高村さんは中国で約束した通り「書道は先生について勉強している」と云われた。そんな経過があり、私は日本生協連の最後の仕事であった「現代日本生協運動史」の執筆・編纂作業がおわり、出版する本の表題は高村名誉会長に揮毫をお願いすることにした。当時の会長・竹本成徳さんの達筆さは知っていたが、その竹本会長の賛同もあり、高村さんに引き受けていただいた。

(写真は2002年に出版された「現代日本生協運動史」と、そのお礼に神戸の六甲アイランドのご自宅に伺った時のもの。高村さんはいつもの散策コースでジョギング姿でした。)

 高村さんは生協の第一線を引かれてから福祉分野など、地元での諸活動で多忙でしたが、書だけでなく、親しい後輩の布藤明良さん(元日本生協連常務)などと写真を趣味とし、カメラをもって風景撮影に出かけ、作品展を開くほど腕を上げました。そのように何事にも前向きで、「雲の上には青空がある」をモットーにされていました。(斎藤)

 

追記>竹本成徳さんのこと

 ここに掲載した「賀川豊彦につぐ3人のリーダー」は昨年ロバアト・オウエン協会の研究会で報告したもので、それが載った協会の「年報」が手元に届き、それを竹本さんに読んでいただくため送ろうとしているところに「竹本元会長4月1日逝去」の訃報が入りました。

 私が日本生協連に入った1960年に全国生協労協が結成され、初代議長に神戸生協従業員組合の竹本さんが就任された。労協のことなどよくわからなかったが、その結成大会の事務を手伝ったのが竹本さんを知った初めであり、その後、日本生協連会長としてお世話になり、退職後も久友会の場はじめ個人的にも大変お世話になりました。

 竹本さんは広島の被爆者であり、私は生協の反核平和の取り組みで広島や長崎の行動でご一緒したこともあり、数年前に出したブックレット「生協の歴史から戦争と平和を学ぶ」には「戦後70年におもう」の一文を載せさせてもらっています。最近はお電話すると「被爆の語り部としてはもう動けなくなった」と、体調があまりよくないとは話していましたが、急逝されるとは思ってもいませんでした。3人の方のことを書いたので、竹本さんについても書きたいなと思いつつ書けないでいます。短い偲ぶ文といったものになるかと思いますが、書いたらこのブログに載せるので、10日後くらいにまた覗いてみてください。

 コロナの外出自粛が解けたので、少しづつスケッチも再開、このブログにも載せていくつもりです。

 

 

 


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1 コメント

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ご報告 (布藤明良)
2020-06-04 10:20:00
竹本さんのこと拝見しました。
現在「偲ぶ会」を計画していますが、コロナの影響から、一周忌の来年3月~4月に「感謝の会」として如何かと話し合っている所です。生協創立100年を迎え、賀川記念館の協力も得て感謝の会で話し合えたらとの要望も出ています。PCアドレスが消え、このコメントに入れたことにご容赦を。        布藤明良。
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