思い出の銀杏の木
この銀杏の大木がある寺(金井町泉の本光寺)が、小学5年から高校まで居たわが”実家”。
(お寺は宗教法人のものであり、なにか”実家”と言い難いが)。
この銀杏の木は中ほどに四方に大きな枝が分かれており、そこに縄をはり莚を敷くとハンモックになった。
中学生のころから暑い夏はよくそこに登り、本を読んで過ごした。
50数年まえの我が家には扇風機もなかった。
今回は100歳を超えた母の介護のための帰省であったが、その母がどうしてもこの木の下で草むしりがしたいというので草むしりをしながらのスケッチとなった。
参考までに
この絵は08年1月にこのブログに載せたもの。右の大木が銀杏。
画風は変わったが、上手になったと言えるのだろうか?
朱鷺には会えなかった
インターネットで8月22日の「朱鷺情報」をみると島内では加茂湖周辺で2羽、羽茂周辺で2羽、本土で新潟市、黒部市などで4羽確認とのこと。
幼馴染の情報ではわが金井地区の田んぼにも飛来したそうだが、どうも朱鷺は金北山のある大佐渡よりも低い山がつながる小佐渡のほうが好きなよう。
さらに雌鳥はその小佐渡のむこうの本土が好きなようで、いまは黒部市にまで行っているという。
この絵を描いていた時、田んぼから飛び立つ鳥に「朱鷺か」と期待したが、青鷺だった。
最近はコウノトリが飛来したという。
友人は「朱鷺が本土に行ったのでコウノトリが慰めにきてくれたのだろう」という。
佐渡の山ろくの水田でとれた米はうまい。最近は朱鷺のためにもと無農薬米などが増え、生協などでの取り扱いも多い。
この絵の手前は名物「おけさ柿」。この柿が赤くなる9月末、今度は20羽ほどの朱鷺が放鳥されるとのこと。
a href="http://art.blogmura.com/">
夏の金北山
夏の佐渡のスケッチとなれば、やはり海の風景ーーとしたかったが、今回の帰省では一度も海に行けなかった。
実は101歳の母の介護の手伝いもあって一年ぶりに帰省したので、遠出はできず、わが故郷(金井町泉)の村落風景となった。
佐渡が島は北の金北山(1172m)を主峰とする山々と南の700m級の山々とそれにはさまれた平野でなりたっている。
わが故郷はその金北山の麓にある。
子供のころにはあちこちにあった藁ぶき屋根はもう姿がなく、この絵の農家などが古い方。
東京郊外で見かけるものとおなじような新築家屋も少数だが出現し、周りの自然とアンマッチでなにか落ち着かない。
平和の鐘
平和公園ではかって「原爆の子の像」をスケッチしたことがあるが、この日はさだ子と折鶴をテーマにしたその像の前は子供たちをふくめ大勢の人でスケッチなど無理だった。
この「平和の鐘」のまわりにもこの絵の数倍の人が集まっていた。
10年ぶりの平和公園の印象は外国の方が多いことであったが、鐘をつこうと待っているひとに外人が多かった。
広島市内には「原爆の絵碑」が1号から9号まである。
原画の数では37枚になるようであるが、いずれも被爆者が被爆の悲惨な記憶と平和への願いを込めて描いたものである。
それらの「絵碑」は原爆の語り部になっている。私のスケッチには悲惨さなどないが、平和への願いは込めつつ描いたつもりである。
灯籠流し
原爆の日の夜、夜空に浮かび上がった原爆ドームと元安川での灯籠流し。
遺族はじめ大勢の平和を願う人達によって流された灯籠は折からの上げ潮のためなかなか下流に流れない。
原爆ドームのまわりから離れようとしない灯籠ーー。
それは久しぶりに会った家族や仲間と離れたくない、あの日、そしてその後亡くなった被爆者の無念さにちがいないと思えた。
前回のスケッチにある飾り付けた船。
<今回の広島訪問、「虹のひろば」のことなどは共同ブログ「コラボ・コープOB」 (http://collabo70.blog60.fc2.com/)に感想文を「嘉璋」の名前でのせています。関心があれば覗いてください>
原爆ドーム
10年ぶりに8月の広島に行った。
8月5日は久しぶりに生協の平和企画「虹のひろば」に参加。
6日は平和祈念式典に参加。5万人といわれた式典参加者が散会したあと、平和公園でスケッチ2枚。
スケッチの最中に祭り衣装に飾った男性たちが漕ぐ船が元安川の原爆ドームの前を何回か回漕した。
平和を祈念しての行事のようであったが、そのことについて地元の人に聞きそびれた。
「虹の広場」
日本生協連と広島生協連共催の「虹の広場」は平和記念公園にちかいグリーンアリーナで開催されていた。
山下日生協会長の挨拶、来賓の秋葉広島市長の挨拶はともにオバマアメリカ大統領のプラハ演説をうけ、永年の悲願である核廃絶に向けての期待と決意を述べたものであった。
つづく「はだしのゲン」作者・中沢啓治さんの被爆の証言には改めて「原爆ー核兵器は廃絶されるためにのみ存在する」非人間的な存在だと痛感させられた。