かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

思い出スケッチ・パリーセーヌ河畔、モンマルトル

2022年02月23日 | スケッチ、油絵、写真

 ピレネー・南仏の旅の最終日はパリ。夕刻まで自由行動で、ご一行は福田さん、大友さんを含め定番の観光コースへ。私は安藤君とルーブル美術館へ。ところが入場券売り場には長い列、何か特別企画らしいが言葉が不自由でわかない。時間がもったいないと考え、モンマルトルの丘に向かう。サクレ・クール寺院からパリの街をながめ、テルトル広場でスケッチ。午後、地下鉄でルーブル美術館の近くの駅に降りたが、セーヌ河畔を歩くうちに立派な絵を見るよりも自分でスケッチがしたくなった。テルトル広場の絵かきたちの雰囲気が大きく影響していた。

 (下)モンマルトルのテルトル広場は土産物屋のテントや自分の絵を売るあるいは似顔絵を描く絵描きなどで賑わっていた。その様子を絵にできそうな喫茶店の店先に席を見つけ、恥ずかしそうにスケッチを始めた。が、誰も気にする人はいなかった。絵の椅子に座った似顔絵かきは日本人のようだった。

 セーヌ河畔ではルーブル美術館のある岸辺から反対側のオルセー美術館のある岸辺を望んでスケッチした。ここでは散策する人たちも多いので、覗き込まれても恥ずかしくないよう少し丁寧に描くよう心掛けた。モンマルトルもセーヌ河畔も多くのすぐれた画家が絵筆をとったところであり、ここで描いた証拠にと写真も撮ってもらった。しかし、さすがに恥ずかしてこの写真を公開するのは、15年後の今回が初めてである。

       パリには生協の現役のころに何回か来ており、まだフランスの生協が元気だった83年に日本生協連の中林貞男会長と鶴岡の佐藤日出夫理事長、横浜の岩山信理事長、京都の横関武理事長などのお供をしてこのセーヌ河の下流にあったフランス生協連合会を訪問したことが思い出された。

(下)ピレネー・南仏の旅でのスケッチは時間がない中でバタバタ描いたものなので、帰宅すると描き直したくなり、何枚か写真を見ながら描き直した。モンサンミッシェルの絵はバスで撮った写真から。アルルの円形競技場の絵はスケッチ(前出)をもとに油彩にした。この旅のあとから絵にかける時間がぐんと多くなった。

 

 

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思い出スケッチ・南仏-カルカソンヌ、アルル、アビニヨン

2022年02月22日 | スケッチ、油絵、写真

 ピレネーのガバルニー渓谷ハイキングのあと城壁都市カルカソンヌへ。広大な城壁都市を見学し、その出入口になっているコンタル城を出て皆さんがお土産を買ったりしている間にスケッチ(下)。外からのカルカソンヌの全景はラフスケッチはしたが、後で写真を見て描き直した。

 続いてプロバンス地方のアルルとアビニヨンに行った。アルルではホテルの窓から様子が分からないままスケッチした(下)。ゴッホゆかりの跳ね橋やレストラン、病院をバスで回ったが、スケッチの暇はなかった。絵にしたいと思った円形闘技場もあれこれ写真を撮ったが、時間がなく絵はあとで描いた。

このスケッチとカルカソンヌの城壁は帰国後に油彩にした。水彩も勉強し直さなくてはと思ったが、石造りの古城やレンガ造りの街は油彩で描きたくなった。

 

 アビニヨンではローヌ河の対岸から歌で有名なアビニヨン橋(上)と旧法王庁の建物群が望まれ、スケッチができた。このあとモンサンミッシェルを観光し、パリへ向かったが、モンサンミッシェルは雨でスケッチはできなかった。

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思い出スケッチーピレネー南仏の旅

2022年02月20日 | スケッチ、油絵、写真

前回、加藤先生の絵の紹介で自分もピレネー・南仏の旅でスケッチしたと書いたら、それを紹介せよと言われた。そこで、十数年まえの思い出のスケッチを紹介することにした。その第1回目は2007年に行った[ピレネー・南仏の旅]で、メンバーは埼玉の大友弘已夫妻の山好き仲間だった。招待参加は私と元日本生協連専務の福田さんと元東京都生協連の安藤さん。パリから南フランス西北部のピレネーの山麓の街コトウレに入り、ピレネー国立公園の最高峰ビニュマール山(3300m)を望む峠(2200m)までのハイキング。80歳の福田さんとスケッチが目的の私はその途中のコープ湖まで。そこでのスケッチはボールペンと水彩。

上)ビニュマール山のスケッチ  下)左から福田、安藤、斎藤。コープ湖にて

その翌日はガルバ二―大渓谷のハイキング。円形劇場型の巨大な谷に滝が落ちる。元気な福田さんは皆さんと渓谷ハイキング。私はスケッチを楽しんだ(下)。

福田繁さんとはその後もご自宅に伺い生協とご自分の歴史をうかがうなどの機会があったが、2019年に逝去された。常勤者が10人ほどの日本生協連時代から60年もお付き合いいただいたが、この旅は特に忘れられない思い出である。大友弘已さんは大学生協の仲間であり、同じ時期に地域生協づくりに取り組み、最後は日本生協連でもご一緒した。大友夫人とも早大生協でご縁があり、この旅のあともイタリアや中国への旅でご一緒し、楽しませていただいた。その大友さんも福田さんに続き2020年に亡くなられたので、これらのスケッチはお二人の思い出スケッチでもある。

 

 

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先生の絵2ーサンセバスチャンの橋の袂で

2022年02月16日 | スケッチ、油絵、写真

 高校時代の絵画の先生のあとは現在、水彩スケッチの指導をいただいている先生の絵です。高校の伊藤先生からは木炭での石膏像のデッサンから水彩、油彩と3年間学んだが、先生が得意の油彩の時間が最も多かった。そのため東京に出てきてからも学生時代に時々描くのは油絵だった。ただ、生協の仕事が忙しくなると水彩スケッチが多くなり、年金生活に入ると「野外で、グループで」という条件から水彩が中心になった。しかし、絵具をゴテゴテ塗る油彩に馴染んだ私は水彩は最初から学び直す必要があった。朝日カルチャーで網干啓四郎先生からダーマ―ト・淡彩画を学び、現在はこの絵を描かれた加藤正三郎先生のサークルに入り学んでいる。

 この加藤先生の絵はスペインのサンセバスチャンの橋の袂でのスケッチで、昨年秋の個展で展示された作品を妻が気に入り購入した。サンセバスチャンはスペインの東北部でフランスに接している観光地で、先生の個展には南フランスの風景画も出展されていた。私も故大友弘已さんのグループと”南仏・ピレネーの旅”にいったおり、南仏では何点か風景スケッチを描いた。ピレネーの山は描いたが、スペインには行けなかった。私の作品を知っている妻がこの絵を欲しくなったのは少し悔しいが、いいセンスだと感心した。

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先生の絵ー佐渡・金北山

2022年02月13日 | スケッチ、油絵、写真

 寒さとコロナ禍のため野外スケッチは2か月ほど休んでいる。数年前に描いた油彩の気になっていた部分の手入れなどが最近の作業。その作業中に初めて油彩を教えていただいた高校美術部の伊藤政二先生の絵をあらためて見つめ直した。この油彩画は金銀が出た佐渡が島のシンボル・金北山を私の実家がある国仲平野から描いたもの(金北山は1200M弱だが海抜ゼロの平野部からはそれ以上に高く見える)。この絵の山脈の左端の相川町に今、世界文化遺産の登録をめぐって話題になっている佐渡金山がある。佐渡金山には過酷な労働現場を維持するため江戸時代には罪人だけでなく「無罪の無宿者」が百年間に1900人ちかく送り込まれたという。その理不尽な人狩りと地底の労働と暮らしは歴史書にも小説にも書かれている。しかし、朝鮮を植民地にしてからの半島の人々に対する過酷な扱いの実態は戦後まで隠ぺいされており、私も詳しくは知らなかった。当然のことながら、負の部分を隠しての文化遺産=欺瞞遺産は許されない。

 伊藤先生は同じ高校で書道の先生をしていた私の父と親しかったが、父が亡くなって数年後に亡くなられた。高校で同窓の相川町出身のHさんは佐渡金山の遺構をテーマにした油彩を毎年、女流画家協会展に出品しており、上野の都美術館でお会いし絵のこと故郷のことを話すのが楽しかった。彼女も協会展に出展をやめ、ここ数年音信不通になってしまった。私には幼いころは金北山は関東の皆さんの富士山と同じで晴れやかで誇らしい山だった。今は少し寂しそうにも見える懐かしい山である。

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50年前の学生運動ー暴力のもたらしたもの

2022年02月03日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

 学生時代から親しくさせていただいている先輩の稲川和夫さん(元ならコープ理事長。元早大生協幹部職員)から手紙をいただいた。メールやフェースブックを覗くより手紙の手書きの文章はうれしい。ただ、今回の手紙は、50年前に大学生協関西地連事務局長であった稲川さんを手こずらせた過激派学生のその後のことを「抵抗と絶望の狭間」という本で知り驚いたということで、長文だった。それは稲川さんたちの論争相手であった彼ら=塩見孝也(京大)や森恒夫(大阪市大)が上京し、赤軍派や連合赤軍のリーダーとして過激な行動を繰り返し、内ゲバで多くの仲間を殺し、あさま山荘事件などを起こしたことを嘆き、批判するものでした。

 関西地連傘下の大学生協が彼ら過激派の暴力のもとで混迷、困難下にあったころ、東京の大学生協は彼らの直接介入は許さなかったが、全共闘運動のあとのあらたな暴力集団、革マル派や中核派(当時、新左翼は5流13派と言われたが私には違いは分からないし、分かる人もいなかった)が台頭し、彼らの暴力行為は生協の活動や事業にも大きな影響を与えていた。私が早大生協の専務になった1969年春は全共闘による安田講堂攻防戦がおわり、東大が入試をやめた春でした。大学立法反対を掲げ革マル派などが「無期限バリケードスト」を唱えるなか、生協はそのような挑発的行動に反対し、大学の教員・職員組合や院生協議会など7団体と集会や署名運動に取り組んだ。暴力反対を主張する生協に対する革マル派の嫌がらせは、70年春には生協の加入受付をしているアルバイターを拉致、暴行するにいたった。そのため、革マル支配下にあった文学部での加入受付や総代選挙などの行事には私をふくめ背広姿の大人が立ち会うといった対応をした。70年10月、文学部の学生・山村正明君が革マルの暴力に抗議する遺書を残し、文学部に隣接する穴八幡境内で自殺した(私は文学部出身のため当時から彼を「君」づけで話したし、後述の川口君も同様です。後輩を愛おしく思うためと理解を)。学生の反暴力、反革マルの声は強まったが、彼らそれを巧妙に交わして大学当局の一部まで抱え込み全学的に支配を広げていった。そして72年11月、革マル派は文学部学生・川口大三郎君を虐殺、東大病院の近くに放棄する事件を起こした。その事件とその後の暴力反対、革マル派追放のための取り組みを書いたのが「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅、文芸春秋)で、稲川さんに示唆されて読みました。当時、私は早大専務と東京事業連合専務を兼任し、地域生協支援の活動も本格化していたので、この事件を「けしからん」と思ったものの学生諸君と深い論議をすることはなかったので、新たに知ったことが多かった。

「彼は早稲田で死んだ」の筆者・樋田さんは川口君の1年下の1年生であったが、暴力を排除した自主、自立の自治会を確立するためノンセクトの学生として新執行部の委員長になり、2年間にわたり懸命の努力をし、全学的に暴力反対の大きなうねりを作った。しかし、自身も彼らにつかまり鉄パイプでリンチを受け、入院。退院後、仲間に守られ登校するが革マルの襲撃を受け続け、ついに運動から手を引くことになる。それらのいきさつ、考え悩んだことも正直に書かれている。筆者は革マルにつかまらないように用心しながら通学、卒業し朝日新聞の記者になり、阪神支局の赤報隊事件に遭遇、その犯人捜しの仕事も続けた。そのことも書かれているこの本は、貴重な体験談であり、よく取材されたルポルタージュであり、正確な一つの社会運動史であり、暴力と非暴力、非寛容と寛容という筆者の哲学の書でもあると思われた。(なお、この本には反暴力の新自治会を発足させるとき執行部に革マルに「民青」と思われる人が入るのはセクト間抗争という口実になると考え立候補を辞退てもらったと書いている。その中には今、私と絵の会や9条の会で一緒の人もいるが、コロナ禍で話せないでいるので、ここで名前を出すのは遠慮した。)

 私は学生時代の体験から60年安保のころの思い出と合わせ読んだ「薔薇雨(1960年6月)」や「未完の時代・1960年代の記録」については,かってこのブログにも紹介を載せたが、その後も60年代以降の学生運動に関する書物はいろいろ出ている。それらをよく読んではいないが、私は全共闘運動を含め新左翼と言われる人たちの運動は暴力を是認し、それを行使したために学生運動をはじめ日本社会の変革を目指す諸運動にマイナスの影響を与え、学生も若い労働者も「運動」や「組織」から遠ざけることになったことが「総括」されていないのが問題だと考えています。人々を殺害したり、諸運動を妨害しただけでなく、社会の健全な前進を阻害し、今の混迷と停滞の日本を作った要因の一つではないかと思っているがどうでしょうか。

 

 

 

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