かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

川遊びー落合川

2023年06月27日 | スケッチ、油絵、写真

 先週の土曜日、グループMの皆さんと東久留米市の落合川へスケッチに行った。東久留米には小平霊園の林の沼を水源とする黒目川があり、東久留米に入るとその湧き水は「昭和の名水百選」に選ばれている。黒目川の東を流れる落合川は地図で見ると市内の滝山団地のはずれから始まり、いくつかの湧水が一気に川になっており、広い範囲が「落合川と南沢湧水群」として「平成の名水百選」に選ばれている。黒目川は自宅から歩いて行けるところで、落合川も自転車なら近いので、これまで何回かスケッチしているが、コロナ禍以来久しぶりだった。

 湧水の清流なので子供の水遊びには最高。描いたのは「いこいの水辺」で、反対側の散策路から。梅雨明けの土曜日ということで草原も水辺も親子連れで賑やかだったが、絵にはそんなに人物は描けなかった。

子供たちに聞くとエビは取れるが魚は捕まらないという。東久留米駅西口から15分ほどの住宅地なので、子供の数が多く、とても魚はかなわない感じ。カルガモの親子の行列を見たが、バードウォッチングの大人がカメラでカワセミなどを追っかけるのは、この下流である。

下は南沢水辺公園の近くの橋の近く。子供たちは石を積んで堰を作り、何とか泳げる水場にしようとがんばっていた。落合川はここから2キロほど先で黒目川と合流するが、合流地点の公園など描きたいところは多い。

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スケッチー新宿御苑で

2023年05月31日 | スケッチ、油絵、写真

風景水彩スケッチの会で新宿御苑に行った。これまで描いたことのない散策路の奥にある池で、黄緑の紅葉の木と咲き始めたばかりのアジサイに魅かれて描いた。この日本庭園風の散策路をふくめ新宿御苑は、靖国神社の森の中同様に外国人の散策姿が多かった。緑のなかから一歩でると新宿3丁目から歌舞伎町へと賑やかな繁華街である。この人たちにはどう映るのだろうと思いつつ描いた。

ーーーーーーーーーー              ----

6月7日から「グループM作品展」が国分寺駅近くの司画廊で開かれます。今回は例年より多く4点出展しています。お立ちより頂ければ幸いです。(上記の作品は関係ありません。)

 

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スケッチ・北の丸公園

2023年05月20日 | スケッチ、油絵、写真

ブログに載せるのが遅れたが、先月、土曜スケッチの皆さんと行った皇居隣接の北の丸公園のスケッチ。日本武道館があるので多くの人に知られる公園だが、私にとっては特別な思い出の場所である。

江戸城の北の丸であったこの地には明治7年に日本陸軍最初の歩兵連隊である近衛連隊が設立され、西南の役から日清・日露戦争,太平洋戦争での敗戦まで、最も天皇に忠実な軍隊の駐屯地であった。戦後、その近衛連隊の旧兵舎に文部省が学生などの支援ため学徒援護会をつくり、東京学生会館を開設し、住とアルバイト等の支援をした。戦後の困難期に設立された全国大学生協連も学徒援護会の事務所がある旧近衛第1連隊兵舎の2階に入っており、私は1958年に大学生協連の常任理事になってから2年ほどそこに通っていた。まだ、大学生協の数も少なく、出身の早大生協をふくめほとんどが学生が専務をふくめ役員として運営していた時代で、大学生協連も専務と事務職員1人で、私と東大駒場生協出身の学生Y君がほぼ毎日顔を出し、あれこれ会員生協の世話と運動の指導(?)をしていた。

 大学生協連の事務所があった2階の部屋には、入ると壁に鉄砲を掛けておく銃床がまだ残っていた。ここに若い近衛兵が寝泊まりし、いざというときは銃床にある鉄砲を肩に飛び出していったのだと考え、西南戦争いらい70年を超える戦争について考えさせられた。そこは私にとって戦争遺跡と言える場だったが、それが東京オリンピックを境にする60年代に大変身し、今は池や人工の滝もある公園になっている。

田安門から入り武道館の先のレストハウスの近くに「近衛歩兵第1連隊記念碑」があり、少し先に「第2連隊記念碑」がある。それらの兵舎の一部が貧しい学生のための宿舎・学生会館となり、その片隅に東京学生会館生協の売店があった。その売店の10円牛乳と同じ10円のコッペパンが私の昼食だった。

公園のはずれの千鳥ヶ淵が見えるところまで登ると昔の面影が残っている。学生時代にもこの辺から対岸のビルを描いたスケッチが残っているが、もうそんな古いビルはどこにもない。

 

乾門のある公園のはずれに赤レンガの近代美術館の別館(工芸館)がある。これが旧近衛師団司令部庁である。記憶では旧第2連隊の兵舎もレンガ造りだったが、こんなに立派ではなかった。天皇の親衛隊、近衛師団司令部のビルなので造りも手入れも良かったのであろう。貴重な戦争の歴史を語る「戦跡」と言えないだろうか。

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スケッチ―新緑の八国山ー2

2023年04月29日 | 絵画

西武新宿線の西武園駅から八国山緑地公園に上る傾斜地にはしゃれた住宅が並んでいる。この絵はその一画。

散策には八国山の森があり、子どもには西武遊園地があり、暇があれば西武球場が、金があれば西武園ゴルフが目のまえに見える近さである。小平からも近いが、球場もゴルフ場も1度行っただけで、何度も訪ねているのはスケッチのための多摩湖周辺である。秋の狭山丘陵も素敵なので紅葉のころまた行きたい。

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スケッチ新緑の八国山

2023年04月24日 | スケッチ、油絵、写真

「風景水彩スケッチの会」の皆さんと八国山緑地公園にスケッチに行った。西武新宿線東村山駅から乗り換え1駅の西武園駅で降りるとすぐ。西武遊園地やこの公園で楽しむための駅で、すぐ近くの多摩湖駅にはスケッチで何回も来ているがここの駅は初めて。八国山のふもとにある北山公園は菖蒲で有名で、スケッチでこの北山の林を描いたこともある。多摩湖・狭山湖のある狭山丘陵は古くからの都民のハイキングコースであり、私も学生時代から何度も来ており、小平市で育った子供や孫は自分の庭のように自転車やバイクで遊びにきている。

しかし、この林の中で新緑を描くのは初めて。八国山のすぐ西にトトロの森37号地があり、北にはトトロの森2号地がある。ともに埼玉県所沢市であるが、有志の方たちのカンパと労力で緑の森が確保され残っている。かってはそれらの小さな貴重な森を訪ね、スケッチに残そうと考えたこともあるが、今やその体力がない。

描いたのは2023年4月12日。年を間違えるとは歳ですね。

下の写真のしゃれた家の絵は次に載せます。

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桃とコブシのある農家の畑

2023年03月18日 | スケッチ、油絵、写真

”風景・水彩スケッチの会”の皆さんと清瀬市の金山公園にスケッチにいった。小平からわりに近い場所なのに初めてで、綾瀬川に隣接する公園は桜はまだつぼみだったので、ちかくの農家の畑でこんな絵を描いた。手前の枯れ草はコスモスで、農家が無料で花畑をサービスしているのだという。今はコブシと桃や梅の花があり、わずかだが訪ねる人もあった。桃の木畑の先には観音像の姿もあったが、そのことを訊ねるにも周りに人の姿はなかった。

金山公園は遊水地につながり、綾瀬川ともつながっていて広い。私の好きなコブシだけでなく

黄色い花の木(サンシュユ)もあった。木陰で読書する女性の姿もあり、久しぶりに桜のしたで騒ぐ風景とのちがう春を見た。東京にもいいところはたくさんある。

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コブシ咲くー春がきた

2023年03月11日 | スケッチ、油絵、写真

幼いころ、春が来たと感じたのは桜の前のコブシの白い花からだった。音痴なので歌は歌えないが北島三郎が歌う”コブシ咲く”の歌詞と一緒に、雪解けあとの北国の山里風景が浮かんでくる。幸い東京の田舎・小平の我が家の近くには立派なコブシの木があり、毎年楽しんでいる。その一つ、徒歩で20分の泉蔵院に行った。小平村は玉川上水が出来て、そこからの用水がひかれ開拓が進んだと言われるが、わが集落の大沼田村が開拓された18世紀半ばに青梅村の寺院から分社して設立されたのが泉蔵院。鐘撞き堂があり、私も転居してしばらくは大晦日には除夜の鐘と甘酒を楽しんだが、最近は月1くらいの散策先になっている。コブシに負けず、白いツバキの花も私のお気に入りだ。

泉蔵院の隣の旧家の屋敷のコブシも、少し離れたところの第十一小学校のコブシものびのびと空に広がっていた。ちなみに我が家の白モクレンはまだつぼみで開花は4,5日後の様子です。。

 

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スケッチ・桃の花と梅林

2023年03月03日 | スケッチ、油絵、写真

先月末の虹遊会の例会で、皆さんは桃の節句にちなんで桃の花やひな人形などを描いた。私は都合で人形を描く時間がなく、桃の花だけになった。

今日は現物の桃の花を見ようと自転車で近くの滝山団地のはずれにある桃の木畑に行った。まだ開花した木は少なかった。そこで満開の梅をと見ようと新小金井街道を西武新宿線の路線近くまで戻った。この小平6中の通学路にある梅林は広く、校舎の近くは大木が花盛り。校舎から離れると梅の実を収穫する背の低い梅林になっているが、生徒がいない通学路には休息して花を楽しんでいるタクシーなどが止まっていた。

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現在を「戦前」にしないために

2023年01月31日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

日本生協連の役員OB/OG組織の「久友会だより」の表紙に私の絵を使っていただいています。12月号には寄稿文「「ロシアのウクライナ侵略戦争と日本の『戦前』」も載せていただきました。現在の日本を「戦前」にしたくないとの思いからの一文です。

<投稿>
 ロシアのウクライナ侵略戦争と日本の「戦前」                                             斎藤嘉璋
 はじめに
私はロシアによるウクライナ侵略戦争が起きてから、これまで生協の歴史と戦争について語り、書いてきた立場からいくつかの原稿や講演を依頼され、書いたり話したりしてきました。ここでは、協同組合連帯機構・JCAの研究誌「にじ」秋季号「特集・戦争と協同組合」に載せた「戦争と平和と生協」とオウエン協会で10月に報告した「生協の平和活動の歴史と教訓」(同協会の年報に載る予定)の内容の一端を紹介させていただきます。
ウクライナ戦争については日本生協連はじめ各生協がロシアに対し抗議、直ちに停戦を求めるとともにウクライナの避難民などへの支援カンパなどを進めています。
国民の多くはこの戦争が一刻も早く終わり、このような戦争が地球上から無くなることを願っています。
一方で、この理不尽なプーチンの侵略行為と同様な事態が日本周辺でも起きるのではと、日本の安全保障をめぐり、平和外交ではなく軍事強化で対応しようとする動きが強まっています。このようななかで一部の生協ではあらためて組合員をふくめ戦争と平和に関する学習会などの取り組みが進められているようですが、私は久友会の皆さんがそのような動きを支援されることを期待して、この一文を皆さんの参考になればと投稿するものです。なお、くらしと協同の研究所の「くらしと協同」夏号に「戦争と人権―ロシアのウクライナ戦争に思う」を載せていますので、人権に関心のある方は同誌特集をお読みいただければ幸いです。

ウクライナ戦争と満州事変・日中戦争
 ロシアのプーチンによるウクライナへの軍事侵攻には、なぜ21世紀の今こんな理不尽なことが起きるのかと驚きました。理不尽ということでは「大量破壊兵器の貯蔵」を理由に国連決議も得られないまま2003年にアメリカが行ったイラク侵攻も、大量破壊兵器が見つからなかったことなど捏造・虚偽による国際法違反の侵略でしたが、契機となった9・11同時多発テロの流れがあり、あまり驚きませんでした。私がウクライナを含むロシア周辺国のNATOへの加入の動きなどがプーチンとロシアに大きな脅威を与えていたといった情勢にも疎かったため衝撃的だった面もありますが、多くの人が私同様にショックだったと思います。
 私はまず、クリミアを併合し、さらに「自衛のため」という勝手な理屈をつけてのプーチンの「特別軍事作戦」に対し、朝鮮を併合しさらに満州「事変」から日中戦争へと進んだかっての日本のことを思い起こしました。プーチンの「軍事作戦」は日本が「事変」といったのが侵略戦争の開始であったと同じように、首都キーウへの軍事侵攻や民間人のいる建物への爆撃などは侵略戦争そのもので、その欺瞞と非人道性はすぐに明らかになりました。かっての大戦から日本はじめ世界の諸国民が学び国連憲章などにまとめられた原則が、国連安保理のロシアによって公然と破られたので、世界の多くの人々が驚き、怒りを覚えたのは当然でした。
また私は、日中戦争からの15年戦争、その戦争の準備、遂行のなかで弾圧され多大な犠牲を強いられた当時の生協のことを思い起しました。日本の多くの人々は、ロシアのプーチンによる軍事侵攻による無差別で非人道的な一般人への爆撃や暴行に怒りを覚えています。それは、かっての日本がやったことであり、家を焼かれ逃げ惑うウクライナの人々の姿は朝鮮や中国の人々の姿だと、さらに暗い気持ちになった人もいたと思います。プーチンのロシアはひどい、しかしそれはかっての日本もやったことだと怒りとともに反省ももって戦争というものを考えた人も少なくないと思います。
 しかし、今の日本ではそのように考えるのではなく、近年緊張関係がつづいている中国や北朝鮮をロシアの姿にダブらせて、日本に対する軍事侵攻の発生を想定し、それに対応するための防衛力強化、憲法改正などを含め“戦争をする国”への転換を進める考えと動きが強まっています。安倍内閣による憲法違反の集団的自衛権の容認と安保法制の施行のあと防衛力強化を促進してきた勢力は、ウクライナ情勢を追い風に敵基地攻撃能力や防衛費の2%への倍増などを推し進めようとしています。
そのような動きに対し、私は当時「全国非戦同盟」を結成し、軍備増強や戦争鼓舞などに反対した賀川豊彦など生協のリーダーたちのことを思い起こしています。

賀川らの「全国非戦同盟」と関消連の取り組み


大正期に労働組合・友愛会のリーダーだった賀川豊彦は大阪で労働者生協・共益社の設立を支援し、神戸で神戸消費組合と灘購買組合の設立(1921年)を支援しました。その賀川は関東大震災の被災者支援で上京し東京を活動の拠点にし、東京学生消費組合の設立(1926年)や被災地での江東消費組合の設立(1927年)を指導・支援しました。
そのころ、大正末から昭和にかけて治安警察法が治安維持法に変わり、特高警察の設置強化がされるなど生協をふくめ労働運動などに対する弾圧が強化され、対外的には第1次山東出兵(1927年)が行われるなど戦争の危機が迫っていました。
そのような大陸での侵略戦争の遂行、国内でのファシズム的動きに対し、賀川豊彦は1928(昭3)年、全国非戦同盟を結成し「①あらゆる戦争と軍備、②帝国主義的侵略の政治、経済、③侵略鼓舞、弱小民族圧迫」の3つに反対することを主張しました。この非戦同盟には大正デモクラシーの旗手で家庭購買組合(1919年設立)の組合長の吉野作造や早大教授で東京学消設立に協力した安部磯雄が顧問として協力しました。
労働者生協の連合体・関東消費組合連盟(関消連)は、この翌年1929年の国際協同組合デーのデモンストレーションのスローガンに「帝国主義戦争反対」を掲げました。しかし、当時は改悪された治安維持法で国体(天皇制)に反対する団体結社は認めず、個人も違反すれば極刑とされ、共産党などは反戦活動以前にその存在自体が弾圧される状況でした。関消連は翌年も一部の労組や農民組合の人たちが結成した「反ファッショ民衆大会」に参加しますがすぐに弾圧されており、戦争反対の運動が社会的に広がることはありませんでした。賀川の「非戦同盟」の訴えも運動としては広がらず、政治に反映されませんでした。
関消連は自治体ごとに保有していた米の払下げを求める「米よこせ」運動を各地で成功させ、組織を拡大して「日本消費組合連盟」の結成をみるなど発展しますが、幹部の一斉検挙などの弾圧が続き、1938年には解散させられます。戦争を進める政府にとって危険とみなされた東京学消も1936年早稲田支部、最後に40年の東大赤門支部が特高の弾圧で解散させられます。
「非戦同盟」を提唱した賀川は反戦思想容疑で大戦開戦前年の1940年に東京・松沢教会で検挙・拘留され、43年には神戸と東京で憲兵隊の取り調べを受けました。吉野作造は軍部に「国賊」といわれ右翼に狙われたため、生協本部に変装して通ったそうです。日本が脱退した国際連盟の事務局次長を務め、賀川が1931年に設立した東京医療生協の組合長であった新渡戸稲造は賀川の反戦平和に協力的で「軍閥が日本を滅ぼす」と主張したため軍部や右翼からの非難攻撃が続きました。

  賀川らの主張と現在の日本

 賀川らの「非戦同盟」結成の3年後に日本は満州事変、日中戦争と15年戦争に入っていきます。その主張は生かされなかったのですが、それは3年後の事態とその後の日本を見据えたものでした。その主張の第1は「あらゆる戦争と軍備」に反対でした。賀川はその理念から戦争は許せないものであり、金融恐慌で経済不安が広がっている時でもあり、軍備に金をかけることも許せなかった。第2の「帝国主義的侵略の政治、経済」への反対は、日清、日露戦争以来の日本の政治と経済の体質への批判であり、第3の「侵略の鼓舞、弱小民族圧迫」は国粋主義、民族主義の政治宣伝や社会風潮への警告でした。
 今、ウクライナ情勢を卑劣にも「追い風」にして、日本をかってのような戦争をする国にしようとする動きは賀川や関消連のリーダーたちが必死に抵抗した昭和初期の「戦前」に似ています。今を「戦前」にすることは大きな犠牲のもと非戦の平和憲法を持つ私達には許されないことだと思います。自民党や政府、好戦論者が主張している「軍事力には軍事力で」の考えは双方が常により以上の軍事力を持とうとする「安全保障のジレンマ」と言われているものであり、税金を使って軍需産業を喜ばせるだけで、平和を守ることにはなりません。
「反撃能力」「敵基地攻撃能力」保有論は、「専守防衛の立場を守る」と言ってもかっての日本の不当な侵略や真珠湾の奇襲攻撃を知る中国などには通じるとは思えません。互いに緊張をあおり、防衛の名のもとの戦争(プーチンもそう主張している)になれば、自由に移動する基地から長短で自在に動くミサイルが飛び交い双方の国の人々は多くの命と暮らしを失い、双方の国土が荒廃した後で共に敗者になる、そんな悲劇を私は想像します。現実的に考えると日本がかかわる「双方」にはアメリカと中国という核大国が入るので、ロシアとウクライナの戦争どころでない大戦となるので、私には想像もできません。
 「核の共有」なども論外です。ウクライナがそうであるように核兵器を持たない日本にも数多くの原発があり、原発が被爆すれば広島・長崎以上の惨事は防ぎようがありません。プーチンの核の脅しのなかで、核兵器禁止条約に署名あるいは批准する国が増えていることは人類の叡智であり、被爆地広島出身の日本の首相こそが学ぶべきことです。
「核の共有」論をふくめ、軍事力を高め、日本がいつでも戦争ができる国になるように進めている政治家などは、そのことが逆に国家間の緊張を高めていることや外交を強め緊張を解く努力をしないことについて説明もしません。安倍首相の時に憲法違反の安保法制を制定して以降、岸田首相が現在進めようとしている防衛大綱など防衛3文書の見直し内容は明らかに憲法9条に反する内容なのに、国会論議など無視して進められています。ウクライナ戦争だけでなく北朝鮮のミサイル問題などに国民が不安と怒りを覚えている状況を追い風に、政府は今「防衛力に関する有識者会議」などを利用して軍備の拡大、防衛費の2%への倍加など戦争をする国造りに懸命です。国会や国民の議論を避ける政治手法は憲法無視の「戦前」を思わせるものです。

 現在を「戦前」にしないために

 私が寄稿した「にじ」の特集には東大の神野直彦名誉教授が「再び『戦争の時代』にしないためにー戦争を回避するための協同組合の使命」を寄稿しています。そこでは日本の私たちが今「戦争責任」の前の「戦前責任」を問われていると書き、協同組合として果たすべき責任、役割を述べています。私は前の戦争には幼年期でしたが、敗戦と戦後の混乱期を知っている者として、最近の情勢から「戦前責任」を感じています。岸田首相はじめ政治家や好戦的なリーダーたち、その多くは「戦争責任」は取りたくないが戦争準備ならいいだろうと考えている人たちに「戦前責任」をとらせるにはどうしたらいいだろうか。賀川らのような先輩に叱られないようにお互いに考えたいと思います。
前記の「にじ」の特集に載った日本生協連の天野さんのウクライナの協同組合に関する論文は本誌に転載されていますが、その天野論文に関連して私はオウエン協会での報告で私なりの解釈、感想を話しています。ここでは生協の国際的な交流の必要性についてだけ述べます。
国家間の紛争を戦争でなく友好と平和に収めるには国民同士の多様な交流があることがなによりだと思います。幸い協同組合は消費者、生産者、労働者あるいは学生など各層の組織として各国にあり、ICAという長い歴史を持つ国際組織があり、アジア支部といった地方ごとの組織もあります。
日本生協連は1950年代からICA総会で被爆の実相と原水爆禁止のアピールをし、90年代には全国の生協が各国の協同組合に被爆パネルを送るなど、国連への対応と合わせて反核平和の活動を国際的に広める取り組みをしてきました。終戦50周年の活動としてはかって日本が侵攻した韓国などアジア諸国に「平和の旅」として組合員代表を送り、戦跡を訪ね市民同士で交流することなどもしました。
今回、ウクライナの生協とその組合員は戦争下において大変な苦労をされており、日本生協連はそれに対する支援などにも取り組んでいるようですが、組合員にとっても生協同士の連帯は有意義だと思います。私はブックレット「生協の歴史から戦争と平和」が翻訳出版されるなど、韓国の生協とは親しいのですが北朝鮮のことは分かりません。中国には現役時代に合作社に招かれ交流していますが現状は知りません。国家間で困難がある場合も協同組合など民間の諸組織同士の交流・友好が平和の基礎であり、その強化が期待されます。
ロシアの協同組合中央会は残念なことにプーチンを支持する声明を出し、ICA総会ではロシアの協同組合を除名せよとの要求も出たが、ICAはそれには応じなかったと天野論文にはありあります。日本が日中戦争に入ったころ、イギリスなどの生協が日本製の商品ボイコット運動をし、それに反発し産業組合中央会はICAを脱退しました。しかし、関消連などは反戦をスローガンで頑張っていたので、私は今のロシアの生協にもこの戦争に反対の生協や人々がいると期待しています。
**
戦争か平和か、決めるのはそれぞれの国民、一般の市民であるべきです。そのような人々の組織である協同組合にはICAの指導のもと平和と民主主義の理念と伝統があり、日本の生協にも「平和とよりよい生活のために」の活動が継続されています。久友会の皆さんの中には憲法9条を守る会などで活動している方も少なくありませんし、私も微力ながら東京の仲間と取り組んでいます。現憲法のもと平和と民主主義が守られてきた「戦後」を続け、その憲法が無視さらに改悪されて新しい戦争の「戦前」にならないようにしなければなりません。
現役の生協の役職員、組合員はウクライナの人々を励し、戦争をやめさせるととも日本の平和のために様々な取り組みを行っています。ともに頑張りたいと思います。

 

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サンタとメタセコイアーー今年最後の2枚

2022年12月23日 | スケッチ、油絵、写真

虹遊会の12月例会でサンタの絵を描いた。メンバーはお借りしている東京都生協連の会議室でクリスマスの飾りつけを楽しみ、童心に帰って作画。例年だとクリスマスに便乗して一杯やるのだが、コロナが活発化したのでパーティーはなし。このサンタの絵はラインで孫たちに送ったが、プレゼントを持たないサンタには何も反応なし。(上の孫は大学生だからーー下はラインはまだ使えないか?)

 

 

2枚目はグループMで行った蚕糸公園のメタセコイアのある風景。メトロの東高円寺駅からすぐのこの公園は大学生協連会館への通り道になっているので、私にはなじみの公園。虹遊会は毎年、大学生協会館のロビーで作品展を開催させてもらっていたが、コロナ禍となり開催できないでいる。来年は開催できることを祈っています。

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中野・もみじ山公園スケッチ

2022年12月02日 | スケッチ、油絵、写真

 ちょっと掲載が遅れたが、11月の虹遊会の仲間とのスケッチ。中央線沿線の住民に親しまれている中野ゼロホールがこの公園の北がわにあり、上京するとすぐに中野の兄の下宿に居候した私はそれが中野区公会堂といわれたころから、この公園と一緒に存在は知っていた。虹遊会は東京都生協連の会館がコロナで使えなかった昨年はゼロホールに併設の絵画工作室を使ったので、昨秋のスケッチもこの公園だった。今回は公園の入口でゼロホールと併設の区立図書館の一部を入れて描いた。区の広報の方が私たちのスケッチ姿を写真に撮り、区報に載せるかもしれないと言っていたが、区民でない私はその区報は見ていない。

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スケッチー御岳渓谷2

2022年11月13日 | スケッチ、油絵、写真

青梅線の御岳駅を出て御岳渓谷の途中でスケッチを始めたのが10時半、スケッチを1枚描いておにぎりを食べ、写真を撮りながら歩いて2枚目を描いて13時半に集合場所の澤乃井園ガーデンに到着。小沢酒造の澤乃井を一杯いただくのが楽しみだったが、ここから沢井駅までの長い坂道のことを考えて酒はやめた。

御岳駅から近い紅葉の多いところはライトアップもしているようだが、

途中の散策路は狭く、写真撮影も場所を譲り合っていた。

対岸は若者でないと降りられない箇所が多く、キャンプ姿も見られた。

我々の終点の澤乃井園はほぼ満席。”紅葉狩り”の宴会の人たちもいた。

 

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スケッチー御嶽渓谷

2022年11月12日 | スケッチ、油絵、写真

昨日、グループMの皆さんと奥多摩の御岳渓谷でスケッチをした。青梅線の御岳駅から沢井駅までの多摩川沿いの約2キロの散策路。スケッチには何回か来ており、御岳橋の上流や玉堂美術館の周辺は描いたことがあるので、今回は沢井駅のちかくの下流で描くことにした。

写真のように横だと紅葉が多かったが河の流れを入れて縦の絵にした。

渓谷の両岸は紅葉の盛りで、スマホとカメラを手にする人が多かった。

対岸の玉堂美術館まえの銀杏の黄色は輝いていた。

 

 

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初秋の入間川

2022年11月08日 | スケッチ、油絵、写真

先月下旬に埼玉の入間川にスケッチに行った。入間川はバーベキューなどで賑わう飯能河原が人気だが、その川下の西武池袋線の仏子駅に近い中橋から描いた。左手の土手の桜は花時はさぞ素晴らしいと思われたが、来春の花時にしきに来られるかかどうか。元加治駅から仏子駅まで河川敷に降りたり上がったりして歩き、脚に歳を覚える一日だった。

写真に電車の姿がないのが寂しい。

下は、先に紹介した熱海スケッチ旅行の折の作品の3枚目。

 

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熱海港のヨットハーバー

2022年10月25日 | スケッチ、油絵、写真

スケッチ旅行での熱海港のヨットハーバー。ヨットは昔ちゃちなもので遊んだことがあるだけで、立派なヨットの構造はわからないので、きちんと描こうとすると時間が予想以上にかかる。前に葉山の海岸で帆を張って走るヨットを描いたときは楽しかったが、今回は沖に帆は見えなかった。

帰宅して現像した写真を見ると絵とはかなり違う。位置も違うが、気に入らないもの描きづらいものは描いてない。

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