碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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アサヒ芸能の「島田紳助」特集記事でコメント

2012年10月22日 | メディアでのコメント・論評

アサヒ芸能が、3週連続で「島田紳助」特集を組んできた。

最新号が、その最終回で、私も取材を受け、コメントしています。


電撃引退から1年の激流
島田紳助の「爪痕」(下)

記事の冒頭は、田原総一朗さんが語る島田紳助。ちなみに田原さんは「紳助の引退」には一貫して反対の立場だ。

次がジャーナリストの大谷昭弘さんで、「メディアも当局の動向に呼応した。こういうやり方には賛成できない。そういう意味では本当に気の毒」と語る。

そして、“「タレントキャスター」の功罪”という中見出しが入り、私のコメントとなる。

日本最初の独立系制作会社のテレビマンユニオンで番組制作に携わった後、大学でメディア論を講じてきた、碓井広義・上智大学教授の見方はかなり辛辣だ。

「あの引退会見で覚えているのは、引退の花道に望んだ際の大芝居ぶりですね。言い分としては、本来は謹慎で済むものを、あえて引退の道を選んだと。そして、それを『美学』という言葉で表現した。後輩に身を以て示すのだと。

ところが、仮に芸能界にい続けても、イメージダウンの逆風が渦巻くのは当の本人が一番よく分かっている。だから、散り際のイメージ作りを切腹の介錯になぞらえる形で演出したということ。だが果たして、そんなきれいゴトなんでしょうか」

つまり、そこには本人なりの計算と打算があったはず、というのだ。

「実際、紳助さんがいなくなって(テレビ局は)どうでしょう。申し訳ないけど、特に変わったこともない。つまり、番組の中身自体がしっかりしていれば、視聴者は見続けるということです。

引退の前後には、いなくなったら大変という空気がありましたが、実は、紳助さんがそういうイメージ作りをするのが巧みだっただけで、また、周りもその方が楽だったんでしょう。

テレビというものは皆で作るもので、最初は看板としてのタレント性が必要でも、ある力学で番組が動き始めると、際立ったタレントはむしろ害にすらなりかねないんです」

また、紳助が始めたタレントキャスターの功罪についても手厳しい。

「社会に対する関心を視聴者に植え付ける呼び水となったという意味では、ニュース・報道番組の垣根を下げたと言えるでしょう。

その一方で、本来はプロフェッショナルが担うべきTVジャーナリズムの価値も下げてしまったのではないでしょうか。紳助さん以後、キャスターの『役』を演じる人が前面に出るようになり、『キャスター』の信頼度が揺らいできた」





・・・・この後、記事は「紳助は、テレビ報道が過渡期を迎えていた時期に登場した“時代のあだ花”だったのかもしれない」と続く。

また、芸能ジャーナリストの佐々木博之さんが「テレビの中のタレントが一人いなくなっただけで、代わりが必ず出て、大きな変化が起こるってことないんですよ」と語っている。

その後、再び私のコメント・・・

結局、島田紳助とは何だったのか。前出、碓井広義教授の定義がどうやら当てはまりそうだ。

「芸人のステップアップの一つのモデルを体現した存在だったのではないでしょうか。ただのヤンキーの兄ちゃんが、笑いを武器に世間に打って出る。そして、つい最近もスギちゃんが高飛び込みでケガをしましたが、ああいった外ロケで体をを張って笑いを取る芸人から、スタジオでロケVTRを見て笑っていられる芸人になり、次は、司会者としてそれを動かす存在、そして、そのさらに上に報道の世界があり、と。

彼の好きな言葉が『天下を取る』だったことからも分かるように、成り上がり者の典型だった。才能はあったし、先を読む感覚もあった。ところが、『視聴率男』と呼ばれ、天下を取ったと思った辺りから、裸の王様になってしまったということでしょう」



・・・・そして、記事全体のまとめは以下の通りだ。

類まれなるプロデュース力と天性の嗅覚で、テレビ業界の天下を取った島田紳助。その栄華もまた一瞬にして消え去ってしまった。

(アサヒ芸能 2012.10.25号)



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