大学入学と同時に、学生課紹介の住家に「間借り」した。住所は東京都練馬区北大泉であり、近くに東映の撮影所があった。部屋は二階の四畳半一間。食事付きの「下宿」ではなかったものの、風呂だけは自由に入ることができた。家主のN氏は地裁の裁判官であり、大学の先輩でもあった。
しかし、この家にはもう一人「間借人」がいた。筆者が入学した年に同じ大学を卒業したM先輩だ。「司法試験受験勉強」のため郷里には戻らず、東京に残っていた。この先輩の郷里こそ、NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台となった岩手県の久慈市だった。
N邸の二階には、筆者の「四畳半」とM先輩の「六畳」しかなかった。いずれも「和室」であり、郷里から遠く離れて一人暮らしをする青年にとって、畳の部屋は落ち着きと安らぎとを与えてくれた。
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もちろん、パソコンも携帯電話もない1968年。「東京オリンピック」の4年後であり、この年の10月に「メキシコオリンピック」が開かれた。筆者の部屋にテレビはなく、ラジオは持っていたものの何かを聴いたという記憶はない。それは隣の部屋のM先輩も同じだった。
孤独で過酷な勉強を強いられる司法試験受験生。テレビやラジオなど無縁というもの。ひたすら勉強……の日々であったようだ。近所に喫茶店もなければ、気分転換に散策するようなコースもなかった。
勉強の疲れを癒す方法も場所もない退屈な郊外の住宅街。しかも、地方出身で同じ大学法学部の「卒業生」と「新入生」の男二人――。となれば、読者各位は想像できるに違いない。……そう、M先輩は、週に2、3回は筆者の部屋にやってきた。ときには2日、3日と連続することもあった。部屋まで来ないまでも、壁越しに話かけて来ることもたびたびだった。
M先輩が筆者の部屋に来るとき、それは「法律論」を展開することだった。それもいつしか、ちびりちびりと共に「ウィスキー」を“飲みながら”の講義となった。といって、「酔う」というほど飲むこともなかったし、「法律論」以外の話をしたという記憶もあまりない。二人とも真面目……、というより不器用だったのだろう。それでも下戸に近かった筆者は、この先輩によって「アルコール」に対する遅々たる進歩を見せることとなる。
「法律論」が熱を帯びると、M先輩の口から例の“東北弁(今思えば、「久慈の方言」ということになるのだろう)”が交じった言いまわしが出て来た。
『……刑法犯に該当したからってェ、全部が全部、有罪ってことにはならねえだべェ……』
だが「じぇじぇ」という感嘆詞を耳にしたことはない。(続く)