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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

文学の方法

2015-07-02 21:51:54 | 読んだ本
川本皓嗣/小林康夫[編] 1996年 東京大学出版会
「知の三部作」につづく、駒場=東大の教科書。
>大学の知の現状を問い、そこで確実に教えられるべきものが何かを問い、そしてその問いを通じて大学の知を外へ開くと同時に、その知の地平を浮かび上がらせるという『知の技法』のプログラムが、ここでは、文学研究という領域において試みられています。(あとがきから)
ということで、なぜに文学と思うんだけど、まあそもそも文学ってなんだってことも考えなきゃいけない。
>「文学」とは、なにか「文学」と言いうる本質的なことがあって「文学」と認定されているのではなく、国や言語文化圏の中で、恣意的な約束事として決められているだけなのです。(III文学とその外部から)
なんて言われてますが。
そういえば、私は、ガキのころから本読むの好きだったし、文学部とか行くんだろうなと漠然と思ってたんだけど、やっぱ進路決めるころになって、文学は文学部入らなくても勉強できるだろ、って気になって別のほうに行った。一般教養としての文学ってのも(どれもおもしろくなさそうだったので)取ってない。
あらためて、本書のあとがき読んでたら、
>身近な学生たちを見ていると、たとえばある作家が好きだから研究すると決めてみたものの、結局、いつまでたってもその最初の「好きだ」という境地から脱出できないことがあります。
なんて一文に出っくわした。さらに、
>(略)研究というものは、すべて多かれ少なかれ公共的なものです。自分がこう思う、こう感じるというだけでは駄目で、そこで語られることが、文化のある公共的な地平の上にのっていなければならない。国境を越えた公共的な地平がそこで開かれていなければならない。
なんていうのを見ると、うーん、実際、社会で役に立つ、使わなければいけないのは、そういうものなんだよなーと思う。
学校で学んだこと、何の役に立つの?なんて言ってるうちは、その学び方が間違ってんだよねー。
(学校でトレーニングされてないな、と感じさせられる若者をみると、そう思ったりしちゃう。)
いまさら大学のテキスト読んでもしょうがない気もするけど、やっぱ、そういうこと再確認するのはおもしろいんで、たまには触れるのもいいかなという気がした。
個別に何がどうしたというものもないが。
あ、でも、夏目漱石の書いたものってのは、やっぱ奥が深いなと感心させられるものがあった。
(「「帝国」というネットワーク」で『三四郎』をとりあげている。)
コンテンツは以下のとおり。
序―文学研究とは何か
I―テクストの読解
「テクストとは何か?」
「謎解きから発見へ」
「テクストと文体」
「「わたし」と語り手」
「葡萄の樹の下で」
「七五調のリズム論」
II―書くこと・読むことのダイナミズム
「近未来のヴァーチャル・テクスト空間」
「「空白箇所」の機能変換」
「ことばと欲望」
「草稿を読む」
「エクリチュールと〈インターコース〉」
III―文学とその外部
「「無力な叫び」の戦い」
「逸脱する精神」
「『ドラキュラ』の文化研究」
「ベンヤミンと時間」
「「帝国」というネットワーク」
あとがき

どうでもいいけど、この本、電車の行き帰りで読むのにカバンのなか入れて持ち運んでたら、なんだかとても重い感じがした。
いまキッチンのハカリで量ったら、336ページで、460グラムある。なにと比べたらいいのかわからないけど。
きのうのマンガは235ページで370グラム。1ページあたりだったら、そっちのほうが重いか。ぢゃあ、ただ単にページ数の問題か。
それにしても論文なんで、文字ギッチリで、読むのに時間かかんだよね。それで重く感じるのかも?
とにかく、持ち重りがする本です、私にとっては。
コメント
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