「会わずの別れ」は芭蕉が会うことを期していた俳人一笑に亡くなられ会うことも叶わなかったという話でした。今朝、上田の中学の同級生からの電話は、「はっちゃんが亡くなった」という連絡です。
「はっちゃん」は「甲子」の「甲」を「はつ」と読ませるのです。以前賀状の端に「甲」を「はつ」と読むのは「甲乙丙丁」の最初にあるからですか?と尋ねたことがあったのですが、その年あたりから同級会にも出てこなくなり、賀状も来なくなっていました。
同級生の話で、「誰にも会わない」ということで、癌を病んだということ以外状況がわからず、自宅にいるということは分かっていたものの今朝の訃報を聞くことになってしまいました。
もう三十年くらい前、東京・新宿で一緒に活動していたご婦人がやはり癌に倒れ入院しているということなので、知らせてくれた人に入院先を聞いたら、彼女も親族以外とは一切会わない、との話でした。そういえば、同じ仕事場での仲間も会えずの墓参りになったのですが、彼女も自分のことは死んでから知らせて欲しいと親族に頼んでいたとのことでした。
神話のイザナキとイザナミの物語は黄泉の国へ死んだ妻のイザナミを訪ねて行ったイザナキに「~わたしを決して見てはいけません」と言います。しかし、見てしまいます。そこには蛆虫がたかった姿がありました。驚き逃げ帰るイザナキへ「よくも私に恥をかかせたな!」と怒るイザナミの声が響きます。
人の生活を個人単位でみた時、その芯にあるものは自尊心であろうと思います。それを傷つけたくない、傷つけられたくないという思いが「会わない」「会いたくない」「知らせるな」「見るな」という表現になっているのです。それが傷つけられたとき「恥をかかされた」ということになります。
人間がひとり一人かけがえのない絶対的存在であるということが全ての事・物の前提です。そしてその一人のなかに宿る自尊心はその人の精神的活動が集約され、その人の個性の芯になっているものと思います。
さて、この「自尊心」をcomが産み出す製品が持つことができるのでしょうか?
なるほど、また味わいのある考えに触れました。
入院も知らせず、亡くなっても100日の法要にやっと知ることができた友人Kさん。
残されたご主人の話をお聞きしても、まだ腑に落ちない部分がありました。
自尊心・誰にもあるけれど、死を迎える前にそれがどのように働くのか、乏しい私の頭では見当がつかなかったのですが、兄様のお話に少しわかったような気がします。
しかしのこされるものにとっては また違う角度からの個人との別れ決別があるのでは?
本人が望むようにしてあげるのが最上の別れ――今エンデイングノートが話題になっていますが、そのためにもそれらの作業も元気なうちにと言われています。
てんがらもんでもいちど ゲストを迎えてお話しいただきましたが、今またお願いしています。話題になり始めてかなり経過しているので、どのように広がり、ノートがかかれているのかを探ったうえで お話します。とのお返事でした。
話題が少しづれましたが、
最後の1行は良くわかりません。
違うのでしょうか・・・○○さんには今のこの自分の姿を
見せたくない・・みて欲しくない ならば見舞いも・・
いろんな手段・・お手紙とか、メールとか、そんな半端な
考え方ではないでしょうが・・自尊心と尊厳死が
つい重なって見えてしまいます
例えば介護の現場でロボットが動いている時代になっていますが、本格的に作業するということなると、ロボット自身
相手の感情を理解することになるでしょう。その前提はロボット自身が感情をもつようになると思います。その芯には相手の自尊心への理解が必要になるでしょう。
それはロボットが自尊心をもつこと意味すると思います。
そういうロボットをつくれるか、という意味です。
しょうか。生まれてくる時は生まれ方を選べないが、生涯
を通じて身に付けた最終的な能力のひとつでしょう。