喪中葉書。賀状の売出も近ずいてきました。一昨日二枚昨日一枚と喪中葉書も届きはじめます。知人のOさんからは弟さんが亡くなったのでと、75歳とありました。Oさんは確か私と同じ歳だったと思います......
昨日「喪中はがき」に触れてつぶやいきましたら1年前も同じようなことをつぶやいていました。そこで今年は賀状を書くことがないので、俳句で「賀状書く」ことにします。季語としての「賀状書く」にはこんな解説がされています。
《 十二月の忙しい日々のなかで、少しづつ時間をつくって賀状を書く。印刷にしろ、絵や版画にしろ、相手を思い、記憶を辿りながら丁寧に賀状を書くのは、元日に届く賀状を読む喜びを知る民族の血のゆえか。単に賀状といえば、新年の季語となる》『角川 俳句大歳時記 冬』
この解説を書き写しながら、別の歳時記*ですがこんな句がありました。
*第三書館刊『ザ・俳句 十万人歳時記 冬』
パソコンのインクも補充賀状書く 青木千賀子
この句でも「書く」と詠むのでしょうか。
パソコンのインクも補充賀状刷る でも通じますが俳句とすればやはり「書く」と記すんでしょう、「賀状書く」という一対で季語になっているのですから。俳句が実景を詠むものでなく季語を詠む、ことの証でしょう。
賀状書く蛸足配線かたはらに 松浦なつ子
蛸足の一本はパソコンに繋がっているように見えてきます。
畳の上に這いまわる配線、これでは
踏み場なき程にならべて賀状書き 安藤志津子
とはならないのです、
墨の乾くまで何枚も賀状が並べられている畳の景です。
これもそんな景です
賀状書きならべていよよ古畳 浦野芳南(河出文庫『新歳時記 冬』
こんな句、
賀状書き減りし数だけ物思ふ 川原勉(『ザ・俳句 十万人歳時記 冬』
そういえば97歳で亡くなった義父の名簿帳はほとんどが消し線が引かれていました。それでも亡くなった年にも賀状を書いていました。
わが身でいえば80歳近くになって賀状が増える、出す数も貰う数も、これは有難いことで生きていく幅が広がっていることだろうと思います。来年の今頃もはじめて出す人貰う人を頭に描けるようになりたいものです。