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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

北條氏規、小田原合戦と逗子神武寺。

2016-08-17 20:48:33 | 逗子 鎌倉 それぞれ

10月30日の逗子の「神武寺を知ろう」、

(クリックすると拡大されます)

に向けての準備のひとつに小冊子作りがすすんでいます。

   今日の午前中はその集まりで、小冊子の第1稿の検討でした。

   そのなかに北条氏規(うじのり)に関係する部分があり氏規を通じて、逗子の神武寺や沼間地域が「真田丸」から沼田とか強いて言えば上田にも繋げられると思い歴史の記憶として面白いと感じたわけです。

   北条氏規は「真田丸」で高嶋政伸さんが怪演した北条氏政の弟で当主・氏直の叔父にあたる人です。この氏規について『新稿 三浦半島通史』に

【 三浦半島では北条一門の氏規が、三崎を守備していた。氏規から自分の家臣に、(天正)十八年(1590)正月、次のような陣触れを出した。「われわれの被官(家臣)は、皆三崎あるいは小田原城へ移動することになったので、妻子・郎党と兵粮(ひょうろう)と荷物を城中に運び込み、小屋掛をして合戦の準備をせよ」とある。これを読めば、北条方は当初から籠城作戦だったことがわかる。

   ところが、別の面では総力戦でもあった。天正十八年三月、三浦半島逗子(現逗子市内)の人びとに対し、「町人・諸商人・諸細工人に至るまで、あるいは弓・鑓(やり)、あるいは鉄砲・小旗以下の支度を致し」、命令次第に合戦をせよ、その働きにより褒美を取らすと公言した。この地域にこのような命令が出されたのは、あるいは、本当に商人や細工をする人びとが集住していたためかもしれない。】とあります。

さらに神武寺に関して別の箇所ですが、

【 他方、寺社も大きな影響を被った。天正十八年七月七日には、三浦半島北部の神武寺(現逗子市沼間)が合戦のために焼失し、薬師堂のみ残ったという。】とあります。

この氏規という武将は北條家では外交面を担当していたようです。(wikipedia参照)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北条氏規 

   関連のインターネット情報には氏規は秀吉に会い、秀吉に北條氏政か氏直を上洛させるためには「沼田領土問題の解決が必要」と話し、「真田丸」で前面に出てくる沼田城そこから名胡桃城事件の糸口をつくったとことが史実として紹介されています。

  こうしてみると北條氏規という武将を通じて、逗子・神武寺が沼田・真田丸・上田とkaeruの頭のなかでつながるのは歴史の面白さというべきでしょう。


祭と孫と「真田丸」と、ごちゃごちゃ日。

2016-08-14 23:51:43 | 逗子 鎌倉 それぞれ

  昨夜はなんで遅くまで起きていたのか、寝ようとしたら隣に孫が寝ていて、その隣には孫の父親、我が家の長男が寝ているのです。お盆に来て泊まることになっていたのでした。

  それで今朝、起きたのが9時近く、これは大変!祭の寄付集めの行動開始が9時、朝飯抜きで車を息子に頼みどうやら間に合わせてもらいました。毎年のことですが、同じ団地を歩いて変化がわかります、空き家が増えているし、車置き場が空きになっています。同時に新築も目立ちました。表に出てこない変化の積み重ねが一年間のなかで現れるます。

  そんなこんなのなか、石垣市の高校生の孫が来月学校の物理の部会の勉強会を兼ねた研究旅行で東京にやってくると我が家の婆さん役が言いました。娘からメールが入ったそうです。物理など日頃縁のないことです、会った時少しは話に相槌を打ちたいものだと、それなりに買ってあった中学生用の理科の本を読みだしたりしていましたら、時間が経って「真田丸」。

   タイトルの「応酬」とは「運動法則の第3法則」に通じるのではないかと、孫に話せば笑われるようなことを思いつつ見終わって、せめて「作用・反作用の法則」に例えれば家康側と三成の関係は「作用反作用の関係」だというくらいのことは言ってみたい、と又俄か中学生になって翌日寸前になりました。


「UIET三浦半島」などの奮闘。

2016-07-11 22:02:01 | 逗子 鎌倉 それぞれ

日本共産党の神奈川選挙区あさか由香さん、残念ながら次点でした。

しかし、三浦半島関係でみますと、

葉山町 2,384 / 逗子市 4,189 / 鎌倉市 12,401 / 横須賀市 19,941

三浦市の結果が見つかりませんので「UIET三浦半島」全体が確認できませんが、以上の4自治体では全て4位で当選圏に入っています。

時津さんはじめ、多くの方々の奮闘の結果だと思います、この力を次につなげなければと思います、本当にご苦労様でした。


鎌倉は大船駅近くで……。

2016-07-08 22:41:59 | 逗子 鎌倉 それぞれ

これは一昨日の話、もう旧聞に属すると言わないで読んでください。

句会の主宰が手術後も順調で二ヶ月空きがありましたので3ヶ月目の句会でした。私の句の出来が悪かったので俳句の話は後にして、主宰の快気祝いの集まりの後のことだけ。

快気祝いは大船駅近くで、その後二次会へ男性だけ五人、1人が案内してくれた店が満員、それならばと2対3に分かれた2の方に私、飲屋街は全く不案内で相棒に付いていくしかありません。

入ったお店で貰ったのが、これです。

真面目なお店でしたの証でもありますが、このチラシを見て持っていた私の方のチラシをママさんと相棒に渡しました、これです。

先日紹介したばかりの勉強会の案内です。今日もその資料づくりで半日過ごしました。「 進める会」の会員さんが書いてきた原稿の清書を兼ねてタブレットで文字情報にする役割です。寝転んでできるのでやらせてもらっています。楽をしながら勉強できるという有難い役です。

逗子の古い歴史は鎌倉との関係でみる、近世は?江戸との関係でしょう。近代現代は海軍基地及び米軍基地横須賀との関係です。この3日には「逗子市独立記念特別講演会」が開かれました、これです。

ある町のこんにちまでの歴史のなかに町の現状の本当の姿があります。歴史的理解を軽く見ては現状を深く知ることはできないでしょう。現状を深く知らずして現状を深く変えることもできないでしょう。

趣味としての歴史から自分の立ち位置を確実にする歴史認識へ向かいたいものです。


言葉を足して。

2015-05-27 21:14:14 | 逗子 鎌倉 それぞれ

  昨日「あと一枚」といったのがこの写真で、鎌倉観光の草分けともいうべき人物とは水戸光圀です。

 水戸光圀は黄門様として有名ではありますが、史実としては全国はもちろん他藩にも赴いたという記録はありません。この鎌倉での史跡調査が唯一だそうです。

 1674年(延宝2)四月に水戸を発って五月二日、金沢称名寺の調査から始まりました。それを皮切りに正味6日間の調査で百七十八ヶ所、その内容は詳細を極め寺や屋敷はもとより町、村、山、川、谷、浜、坂、すべてに及んでいます。

 沢庵和尚が鎌倉入りをしたのは水戸光圀の約四十年前で1633年のことです。その目的は鎌倉五山への巡礼と参拝にありました。吉田松陰の鎌倉訪問は伯父が鎌倉の瑞泉寺住職であったこともあり四度にわたっていますが、激動する時代の波頭に立って鎌倉の地に潮水を払い落とすかの訪れでした。

(この部分は『かまくら切通しストーリー』堤 治郎・かまくら春秋社、に拠ります。)

 

 現在年間2300万人の観光で賑わい江ノ電は1600万人の乗客を集めています。しかし、番組ではその江ノ電が一時極秘で廃線を計画していたことを映していました、それがこの場面です。

 その危機を一本のテレビドラマが救いました。1976年から77年にかけて放映された「俺たちの朝」、主人公達が江ノ電極楽寺近くに住んでいるという設定によりこの駅周辺をはじめ若者が鎌倉観光の担い手になってきました。

  

 鎌倉は一日にして成らず、ということでしょう。


言葉足らず。

2015-05-26 20:02:54 | 逗子 鎌倉 それぞれ

 タイトルを言葉足らずとしたのは理由(わけ)あることでして昨日は本人が思考停止、今日はパソコンが接続機能停止という有様、スマホ頼りでは言葉足らずになるでしょう、という言い訳めいた前口上です。写真はクリクックで拡大されます。


 これは江の島から鎌倉へ向う古地図で画面に「極楽寺切通し」が示されています。いつ頃の地図か、番組の中で江戸時代の茶屋だった建物が紹介されてた時広げられていましたから当時のものでしょう。

 上の画面の「極楽寺切通し」を中にして画面左が当時の鎌倉市内に当たることを示しています。

 

 描かれているのは鎌倉大仏です、確かタモリさんが余り上手くないな、と言ってましたが素人が覚えに書いたものでしょうか。

 大仏さんです。与謝野晶子が

鎌倉や御佛なれど釈迦牟尼は

     美男におはす夏木立かな

 と詠んだ美男顔の代表です。

 大仏は露座の大仏としても有名ですが、始めから露座であったわけではない証拠がこの礎石です。大きな柱を支えていたのでしょす。今は見物人の腰掛けになってます。

 

 江ノ電は市内の一部が路面電車になっています。一昔前は当たり前でしたが今では珍しいでしょう。

 その電車を店舗にしているお店が紹介されていました。何やら由来のある車両で案内の人が説明していましたが、耳が悪くよく聞き取れませんでした。江ノ電の龍口寺停留所の近くです。

 

 昨日の写真についてはつぶやき終了です。あと1枚あったと思ったのですがありません。それはある歴史上の人物で後の鎌倉観光に大きな役割をした人です、クイズです。

 それは次の三人のうちの誰でしょう?

 沢庵和尚 水戸光圀 吉田松陰

 答は明日に、言葉足らず、でした。

 


いざ!鎌倉から。

2015-05-23 22:57:32 | 逗子 鎌倉 それぞれ

 タ食のあと立ち上った私のズポンを内の奥さんが引く、「なに?」と聞くと、

テレビを見ろという形の指、画面にはタモリさんと若い女性が海辺を歩いて

います、これでした。

 急いで新聞のTV欄をみると神奈川県鎌倉市を歩く後編のテーマは

「観光」。江戸時代の絵図を手に、大仏や名所旧跡を訪ねる。明治以降

の観光に大きく貢献した「江ノ電」の魅力にも迫るとあリました。

 これは座りなおして見ねばなりません。

 でも後編ということは先週が前篇だったということ、そして今夜が江ノ電

だから先週は鎌倉駅方面だったのでしょう。それで前回の小町通りの背

景が見えてきましたが、それはこちらの話です。

 

 江戸時代西から来る人びとの動きは、江の島に泊まり鎌倉に入るということだった

そうです。そのためには極楽寺の切り通しを抜けていかねばなりません。

当時はかなり急な坂で、こんな感じだったと、

 これは映された2枚目で、更に高い地面を堀り下げてきたのです。

その跡がこの写真の石段です段の無い部分が二か所見えます、

大きく二回堀り下げられたのです。

タモリさん、このあと「いざ、キャバクラ!」って言う人もいる、としゃべって、

案内の方(写真左、長谷寺の人)に「タモリさん、まだお昼なんで、と言われて

いました。 ところで鎌倉にキャバクラがあるのでしょうか、夜の鎌倉のイメージ

がわきません。

 

 あと何枚かの写真をとり込んでの話は明日にします。


言の葉を添えて。

2015-05-20 15:52:42 | 逗子 鎌倉 それぞれ

昨日のつづきです、写真がやっと入りましたので言葉は明日に。

その明日が今日です、言葉を文字にして「つぶやき」とします。

小さい写真はクリックで大きくなります、では……。

 

 小町通り、食べ歩き天国といわれています、老いも若きも背中に翼をつけた

天使の気分で通りの中ほどにある教会に入って……?

 神を信じる人も信じない人も「食ベる」ことは共通しています。仏さまもキリスト

さまも食ベて生涯を終えました。人の口は言葉をおぼえる前に食ぺることをお

ぼえました。

 「ぬれせん」は歯が悪くてもしゃぶっていればいいのです。

         

 「ぬれせん」の右「鎌倉御坊」にはこの写真をつけ加えます。この店は最近

ですが本店は沼津で30年以上だそうです、試食したら甘いもの好きの口

に合いましたので「kaeru夫人ー袋買うの図」です。

 小町通りにこられたら試食してみて下さい、お茶がつくともっといいのですが。

 

 

 ワイコマさんのコメントにありましように、甘納豆と豆菓子です、別々の店

だった思います。落花生の煮豆・甘納豆(左)とコンソメピーとショコラピー(右)

です。菓子の試食に気を取られてchidoriさんのコメントにありました漬物屋

さんに気付きませんでした、次の機会にと思います。

          

 

 お腹の話の小町通りから心の話の寿福寺に向いました。

この写真、左が大仏(おさらぎ)次郎の墓、右が高浜虚子で、

 

下がその墓碑です。

     

 寿福寺の境内の井戸、手押し井戸があり、掌に受けて飲んでみました。

やはり美味い、真夏に飲んだら腹にしみこむでしょう。

 私たち夫婦の年代が生活のなかでこういう井戸を使った最期でしょうか。

「てんがらもん」で井戸端会議と言っても分からぬ様になってくるでしょう。

 

 この住所表記は、

  この隧道の手前で  

「扇ガ谷ー丁目12」で下の写真の表記は「扇ガ谷ー丁目13」です。

「トンネルをぬけると1番違った」のです。 

 

 家にもどりお茶をいれ「鎌倉御坊」を食べました、

   終り。