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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

校正者の目

2019-09-26 20:11:16 | 逗子 鎌倉 それぞれ

この講演会の「資料集」作製の最終段階で少しお手伝いしています。主に原稿の校正的なことですが、素人とプロの違いを教えられました。

この文中に一字間違った漢字がありました、私も他の人も気づきませんでしたが校正の仕事をやっていた人が指摘しました。

逗子市小坪の住吉城址に関する記述で15ヶ所「住吉」と書かれていますが、その「10」の住吉の吉が別字です、これについて『新潮 日本語漢字辞典』に、

吉野家は確かに、

 吉田茂の署名では、なるほど……、

 

吉兆も、成る程なるほど……、

ところがわが町のお店は、

吉田茂の署名も「吉田」になっているものもありますので……。

それにしても校正者の目の違い、眼光紙背に徹しています。


歴史は地中にひそむ。

2019-09-20 23:39:38 | 逗子 鎌倉 それぞれ

昨日の住吉城址に関連した史跡としてこちらを、

北に鎌倉駅、南が逗子駅で海側の住吉城址の背中の山のなかに「名越切通」と「大切岸」があります。

一昨日講演会の件で教育委員会に顔を出した際、受付にあったこのチラシ、

今日のタイトルとのことでは、

読みにくいので書き写しです、

切岸とは、山城などで敵の侵入を防ぐ人工的な崖のことです。大切岸は、 長さ800m以上にわたって高さ3-10mにもなる切り立った崖が尾根に沿って連続しています。

従来、鎌倉幕府が三浦一族からの攻撃に備えるために、切通の整備と一体のものとして築いた、鎌倉時代前期の防衛遺構だと言われてきました。しかし発掘調査を行ったところ、現状の断崖は四角い板状の石材を切り出す作業を大規模に行った結果、最終的に城壁のような形で掘り残されたもの、つまり石切り場の跡だということが確認されました。

石切りが行われた時期ははっきり判りませんが、宝永4年(1707年)に噴火した富士山の火山灰が上に堆積していたので、石切り作業はおおむねそれ以前に終了しています。一方、14~15世紀の鎌倉では、建物基礎や溝の護岸、井戸枠などに周辺の山から切り出した石材が盛んに用いられていますので、ここで大規模に石切りが行われたのも、その頃が中心ではないかと考えられます。

この結果のみをもって、大切岸に鎌倉を防御する目的は一切なかったと即断することはできませんが、従来の通説を再検討する必要に迫られています。なお、お猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮が、この付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に因むものです。

従来の「防衛遺構」と考えられていたが「石切作業場遺構」だったというわけです。
 
さらにこちらも、

こちらも書き写して、

いわゆる「鎌倉七ロ」で、切通路そのものを対象とした発掘調査は、名越切通以外では行われていません。

平成12年度に第1切通部分で通路を構断するトレンチ調査が行なわれました(調査主体:神奈川県教育委員会、(財)かながわ考古学財団)。その結果、現在私たちが歩いている路面の下60cmまでの間にすくなくとも4回、道路を補修した痕跡が確認され、最下層の岩盤削り出しの路面上からは18世紀後半以降に作られた焼物の破片が出土しました。つまり、現在のルートの下に残っている最も古い道は、江戸時代に使われていたものだということです。

平成16年度、同じく第1切通部分の崩落防止工事に伴う通行路付替えに先立って、部分的な発掘調査を実施したところ、切通路のもっとも狭まった部分の幅は現在約90cmですが、 かつては約270cm以上あったことがわかりました。それ以外の部分についても、現在の道幅の倍以上広かったと推定されます。

以上のことから、名越切通の第一切通部分は、江戸時代の後半には現在よりも幅の広い道路でしたが、それ以降、数度の大地震等で崖が崩落して埋まり、その都度かさ上げしながら道幅を狭めつつ復旧し使われてきたものと考えられます。

 
   以前この道を通り、なるほどこの狭さでは大軍が押し寄せることは出来ぬ、鎌倉防衛の役割に納得!していたものでした。数百年前のことでも目の前の「現実」をもって組み立てる、イヤハヤ歴史観です。

ここにも歴史の面白さ、深さに引き込む渦を感じます。

二つの住吉城址

2019-09-19 23:28:12 | 逗子 鎌倉 それぞれ

午前中から夕方まで、28日のこの講演会のことで過ごしました、

講師の伊藤さんのレジメの最初、

ここには「小坪の住吉城」とは書かれていません、「相模住吉城」それも「再検討」とあります。相模国には住吉城といわれる城址が二つあります、逗子市小坪と平塚市。

こちらが逗子市小坪で、

平塚市はこっち、

さて講師はどういう話をするのでしょうか、28日のお楽しみです。

雨の残った16日に小坪住吉城址を見てきました

台風に吹き落とされた木の枝が石段にかぶさっています、

踏み越えてあがると、

この「住吉城址」と書かれた金属板がこちらでは、

城巡りを楽しんでいる人のネット情報です、いつ頃写したものか分かりません。この「案内板」を誰が書いたか個人か団体か、いつ書いたか分かりません。

分からないことが渦を巻いて歴史の奥深くヘと引き込むのです、なかなか抗うことが難しい渦です。   


逗子市と日置市を結ぶ縁ー六代御前。

2018-10-14 23:56:46 | 逗子 鎌倉 それぞれ

昨日の逗子に於ける歴史講演会、

最初に鹿児島県日置市からおいで頂いた清浄寺のご住職の中江さんのお話、

寺に祀ってある六代御前木像の由来など熱っぽく話されました、

神武寺の76代住職に当たる土屋慈恭氏は、一昨年は「神武寺」を、昨年は「逗子と六代御前」、今回はその「2」として神武寺が毎年7月26日の六代御前墓前祭に別当として法要を執り行ってきたことなどを興味深く話されました。

続いて琵琶奏者荒尾努氏による平曲「祇園精舎」「六代被斬(きられ)」「那須与一」を聴かせてもらいました。

      

昨年の「逗子と六代御前」は準備には関わることができましたが、当日の一週間ほど前から寝こみ参加できませんでした。それ以前の講演会も受付等に当たっていたり、会場が満席で入れないこともあって今回はじめて、会場係という役でもあり最初から終わりまで聴くことができました。

今年の7月26日の「六代御前墓前祭」に参加できたこともあり、大変勉強になった講演会であり、琵琶演奏も墓前祭でも聴きましたが沢山の人と聴くといっそう心に残るものでした。

より印象的なのは鹿児島の日置市から来られた清浄寺ご住職中江氏のお話でした。清浄寺は大河ドラマの「西郷どん」にも大きな役割をする小松帯刀の小松家の菩提寺でもあります。

「てんがらもんラジオ」の縁に加えて更に鹿児島が近くなったようです。


「卑弥呼を知っていますか」

2018-01-19 21:38:10 | 逗子 鎌倉 それぞれ

  このタイトルは、先日行われたミニ講演会のもので私が欠席したのでレジメだけでも欲しいと送ってもらったレジメの題です。       

  卑弥呼と言えば、と書き出せば「邪馬台国はどこにあった?」と連想ゲーム的に出てくるのですが、まずはこれでしょう。

  「魏志倭人伝」、この文字情報を手掛かりに、考古資料に裏付けられながら「邪馬台国はどこにあった?」の “国民的関心” が寄せられてきました。「どこに?」の問題に関してレジメを送ってくれたYさんに次のようなメールを送信しました。

10日のレジメありがとうございました。

以前、卑弥呼に関連して邪馬台国が日本のどこにあったか?

大きく分けると北九州説と畿内説になるのですが、これは日本列島にいつ頃どこに統一国家が形成されたのか、という事に繋がっている問題だという指摘を読んだことが頭にあって、単なる場所問題ではない日本史のなかの最重要問題に入るだろう、と考えていました。

 その意味で今回卑弥呼を取り上げてもらって、あらためて考える機会になったと思います。それに次回が「古道」だということです、これはヤマトタケル伝説につながる大和政権の東征に関連している問題でしょう。

それと併せて長柄桜山古墳の時代的地域的位置付けも、かなり関心を引きます。その意味で先日のAさんと会長にお供しながら「古道散策」ができなかったのは残念でした。次回には是非参加せねばと思っています。」

 このメール内容の一部ですが、大和政権という形で関東から九州の大部分を支配する統一国家が形成された時期は? に直接繋がる問題でもあります。それは三浦半島の根っこに造られた長柄桜山古墳の位置する時代背景の中身でもあるはずです。

   併せて、いま読みすすめているている『乱(らん)』と「西郷どん」との繋がりも感じています。
  海音寺潮五郎の『史伝 西郷隆盛』で、海音寺は、
【一般には、維新運動は尊王思想によっておこったと考えられていた。これがあやまりであることは言うまでもない。(略)
   維新運動の本質は国家統一運動であった。維新運動が世界近世史の一環として世界史的意義のあるのは、このためである。】
と書いています。

   これを読んだ時、不破哲三さんが野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』について語っていたこの部分を思い出しました。

【 幕末変革論の躍動的な展開】の見出しで、
【 明治維新論も興味深いものです。たとえば「尊王攘夷」というスローガンが革命的スローガンとしてどういう意味をもったか。幕府打倒運動に、「全国民的統一」の色合いを持たせるうえで、「攘夷」はある時期まで決定的な意味をもったなど、躍動的な分析が展開されています。】
 
    卑弥呼から野呂栄太郎それに海音寺潮五郎まで、不破哲三さんも持ち出しての話になってまとまりがつかなくなりました。もう少し言うと、古代日本の成立による古代国家の時代、鎌倉幕府から徳川幕府の封建国家の時代、明治維新はそれを崩壊させて資本主義国家・日本にしました。
   さて、こう書いてきますと「これはマルクスやエンゲルスの言う奴隷制、封建制、資本制と社会が発展するという階級史観ではないか」との声を感じます。私もそう思います、そうなると次に来るのは「ポスト資本主義」社会、21世紀の世界はその視界を持つことを求めています。

鹿児島・大隅半島と逗子を結ぶ物語。

2017-08-20 20:58:27 | 逗子 鎌倉 それぞれ

以前、鹿児島・ 薩摩藩と鎌倉を結ぶ縁があることを知ったり、真田幸村のものといわれる墓が鹿児島の地にあったりして、かなり遠方の地も長い歴史のなかで様々な繋がりがあるのが面白いと思ったものです。

史実はもちろん言い伝えも含めて人々の願い思いがどこにあるかを知ることも歴史の一面でしょう。今度は鹿児島の大隅半島最南端の佐多岬です。逗子の「六代御前」のことを調べてる方が『佐多岬』という本を紹介されました。野田千尋さんという鹿児島の郷土史家の書かれたもので、六代御前・平高清に関することではこのようなことが書かれているそうです、

 一般に平氏の血筋は高清の処刑によって絶えた、ということになっているますがそれは違う、禰寝(ねじめ)家として大隅地方で根を張っていたということです。

逗子市の重要文化財としては、

 佐多岬とは、赤い風船の所です、

 本土の最南端だそうです、