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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

観る前に見る。

2014-01-19 18:04:58 | 本のひと言

  これは今日の「赤旗」テレビ欄での「黒い福音」の紹介です。

 実はまたまたPCの接続がダメになり、借りたPCで送信なのですが、これが古くて

Kキーが機能せずそのつど「手書き」入力をしています。

 それで、これをもって内容と評価の紹介に替えます。

 


『黒い福音』、作家の目ペンの力。

2014-01-17 22:01:28 | 本のひと言

 ≪本編は昭和34年3月に起こった、いわゆるスチュワーデス殺人事件に

もとづいて、著者一流の推理と解決を提示したものである。≫

 新潮文庫の『黒い福音』の「解説」はこう書き出しています。

 3月10日早朝、東京杉並区の川で女性の死体を発見、27歳の英国海外

航空の日本人スチュワーデスで他殺でした。容疑線上に残ったのがカソリッ

ク教会の神父。二、三回出頭して取り調べていた矢先、この神父が帰国して

しまいます。

≪松本氏はこの事件に深い関心を覚えた。事件の資料を収集し、犯行現場

にも出向くほどの熱意を示した。カトリック教団の壁に閉じ籠って、進んで疑惑

を晴らそうとしない閉鎖権威主義と、事件の核心に迫りながら、もう一歩の追

及のできなかった警視庁側の弱気、それは日本の国際的な立場が極めて弱

かったことに起因するのだが、この二つが氏に真相究明を促し、作品にする

ことにより、臭いものに蓋をする実態に、思いきってメスを振ったものである。≫

 この作品は、その年の11月3日号の週刊誌に掲載がはじめられ、翌年の10

月25日号まで連載されました。

 

 当時、清張の連載中の小説は、『影の地帯』、『黄色い風土』、『霧の旗』、『波の

塔』、『わるいやつら』、『球形の荒野』、『歪んだ複写ーー税務署殺人事件』、『高

校殺人事件』などでした。(『人間 ・松本清張』 福岡隆著)

 福岡隆さんに関して、辻井喬氏の『私の松本清張論』の「年表」でこう記してい

ます。

≪執筆量の限界を試してみようと思い、積極的に仕事をする。その結果、この年

(1959年・昭和34)なかば以後書痙(しょけい・字を書こうとすると手が硬直して

動かなくなる病気)にかかる。そのために原稿は口述、清書されたものに加筆す

るという方法をとり、速記者福岡隆を約9年間にわたって専属とした。≫

「辻井喬」については http://ja.wikipedia.org/wiki/堤清二

 

 辻井さんはこの本のなかで、

≪清張文学の影響は、読者に世の中の動きを分析できる力を与えること、それが

文学の社会的力であることを示しました。≫と述べておられます。

 

 19日のTV番組については http://www.tv-asahi.co.jp/fukuin/


見逃せないこの2本、TVのこと。

2014-01-16 21:37:19 | 本のひと言

 「本のひと言」というより「TVのひと言」になるかも知れませんが、TVドラマ

の原作が「清張もの」ですから「本」にしました。

 最近めっきりTVを見なくなりました。定番の朝ドラの「ごちそうさん」にその

前のBS「ちりとてちん」と夜7時「ちゅらさん」はしっかり見ていますが、あとは

新しい「黒田官兵衛」の第1回だけ、いや先日NHKの「超常現象」の第1日目、

面白く全部見てしまいました、特に「生まれ変わり」は注目しました。

 

 さて、見逃せないというのはNHKではなく、テレビ朝日の18日、19日 2夜

連続「開局55周年記念」番組、戦後未解決事件を題材とした松本清張作品。

第1夜「三億円事件」 TV番組としての紹介は

ここで、 http://www.tv-asahi.co.jp/sanokuen/

清張の作品としては新潮文庫の短編集 『水の肌』 におさめられています。

文庫の「解説」に次のように書かれています。

≪~ そして、初歩段階の捜査の中に、空白地帯のあることを指摘し、その見

落としの理由をもさぐっている。

 作中にあるつぎの部分――

 「事件が起こってから満7年*に近づき、これまで投入した捜査人員は延べ

約12万人(最終発表では延べ17万1520人)、捜査費用は被害額の三億円

の3倍にも達しているというのに、これはおどろくべき初歩的な手落ちであった。

日本の警察は世界一捜査能力にすぐれているとの定評であるが、しかし、ある

いは有能者にしばしばみられる精神的空隙かもしれないと思った」

 というやや皮肉な言葉は、この事件捜査に関する作者の批判だともいえる。

 作者は事件の経過を再検討し、自殺した青年と、その周辺の人々に光をあて

ている。現実に迷宮入りのまま、一応捜査本部は解散され、その後あらたな情

報にも接しない現在、松本清張の推理も小説として読むほかないが、この作品

は三億円事件の影の部分を私たちにおしえてくれる。≫

 * 『小説 三億円事件』は「週刊朝日」に昭和50年12月に掲載されました。

 この「解説」は文芸評論家の尾崎秀樹(ほつき)によって、昭和57年に書かれた

もののうち該当作品に関する部分です。

 

 第2夜「黒い福音」、については明日にします。


期待される6年6カ月先、83歳。

2014-01-13 18:31:47 | 本のひと言

 この全文は今日の「しんぶん赤旗」の「潮流」です。(ゴシックはkaeru)

二十歳の門出を祝う日に、あるおばあちゃんの話を一つ。名前は上中別府(かみなかべっぷ)チエさん。昨年暮れ、自身の経験をまとめた『83歳の女子高生球児』(主婦の友社)を出版しました▼ごく普通の人生が一変したのは、夫を亡くした2年後のこと。76歳で「英語を学びたい」と一念発起。夜間中学に通い始めたのです。毎日が必死、でも新鮮でした。新しいことを知る喜びに目覚め、「もっと勉強がしたい」▼定時制高校にも進学します。中学、高校とも周りは孫より若い。でも、「年齢のことをついつい忘れてしまう」。すぐに溶け込めるのは、わけ隔てない人柄ゆえです▼3年生のある日、野球部に誘われ入部を決意します。家族を慌てさせつつ、“日本一、人生経験豊富な高校球児”が誕生します。チームメートから贈られた赤いグラブを手に県大会で一度だけレフトを守り、決勝では伝令も務めました▼戦中生まれのチエさん。子どもの頃、戦争と貧しさから勉強できなかった悔しさが、ずっと胸の奥にあったとか。その悔恨の念と、みずみずしい挑戦心が、まぶしい83歳の大本にある気がします。「人生は、何歳からでも、どんな環境からも新しいことを始められる。勇気をもって行動を起こせば」。重みがつまった言葉とともに今春、卒業を迎えます▼晴れの日を迎えた新成人。行く手は、山もあり谷もあり。ときには迷ったり、立ち止まったり。そんなとき人生の大先輩の生きざまが先を照らし、勇気をくれます。チエさんのように。

上中別府さんのユニホーム姿は http://matome.naver.jp/odai/2137248335860607001 で。

本については http://www.amazon.co.jp/83歳の女子高生球児-ゆうゆうBOOKS-上中別府-チエ/dp/4072922447 

薩摩おこじょの先輩です。

 

 こうなるとkaeruの83歳も期待されるというもので、77歳でPCを学びたい、と言いだすかも知れません。

「接続」と「切断」の基本を知りたいとか、「世界をつなげブログの輪」を追求してみたいとか、新学期にむけて。


「しんぶん 赤旗」記者・高野功氏のこと。

2014-01-08 18:41:16 | 本のひと言

 今日の「赤旗」に最近行なわれた日本共産党とベトナム共産党の理論会

議での日本共産党の不破団長の報告(上)が掲載されています。全文は

ここで(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-08/

2014010807_01_0.html )読めますが、文中に今日のタイトルに関

する部分がありましたので、その部分を。

≪(1966年2月)日本共産党とベトナムの党が本格的な会議をやったのは、

これが初めてです。(お互いの党に通訳できる同志がいないので、中国語を

介しての二重通訳でした。会議が終わって)宮本同志(日本側団長)とホー・

チミン同志(当時ベトナム国元首)と両党の今後のことをいろいろ相談し、そ

の中では、双方で直接自国語で通訳できるような学生を養成しあおうじゃな

いかということも含まれていました。≫

 

 その養成に応じた一人が当時東京港区の電気メーカーの職場で活動し

ていた高野功氏でした。この高野氏を思い出せてくれたのが昨日のこの

ブログ、http://blog.goo.ne.jp/setoti1940/e/6e7ad5c559031b

76e3a076c8ce63e0e7#comment-list です。是非見て頂きたい、

読んでいただきたいと思います。 チトセさんのアオザイ姿も歌う姿と歌詞も。

 ここではkaeruのコメントの一部を載せておきます。

1979年ベトナムで当時ベトナム・中国間の国境での
戦争で、取材していた「赤旗」記者の高野功氏が中国
軍の射撃で殺されました。彼は港区時代の仲間で、奥
さんが上田の高校を出た人でした。


 さて、この本は表紙に見られるように「ベトナム戦争で亡くなったジャーナ

リストの妻たちの語る記録です。(『わが夫、還らず』砂書房 2000年5月刊)

 

 6人の妻たちの記録のあと、報道カメラマンの石川文洋さんがこう書かれ

ています。

 ≪いくつかの資料をあわせると私の計算では氏名が分かっているだけで

取材中に尊い生命を失ったジャーナリストは172名。 最初の犠牲者は19

54年3月13日、第1次インドシナ戦争を撮影中、ベトナム北部、ラオスとの

国境に近いディエンビエンフーのフランス軍基地内で砲弾を受けたフランス

人カメラマン、レイモン・アルチノフ。最後となったのは1979年3月7日、ベト

ナム北部ランソン省で中越戦争を取材中、中国兵の狙撃に遭った赤旗特派

員の高野功。≫

 最後に石川さんが書かれている国別の犠牲者数。

アメリカ22、カンボジア22、フランス19、日本15、シンガポール3、イギリ

ス2、西ドイツ2、韓国、オランダ、カナダ、インド、アルゼンチン、スイス、各1、

ベトナム人はベトナム共和国(南ベトナム)側4、北ベトナム、解放戦線側72。

 

 この優れた同志のことを思い出させる切っ掛けになった昨日のチトセさん

のブログに感謝します。 そして、こういう「出会い」もブログで「つぶやき」つづ

け、なにかと読み見つづけてきた「効果」かと思います。

 終わりに、この本の「高野功」の章の〆に高野氏の妻・高野(旧姓 本道)美

智子さんについて書かれていることを紹介しておきます。

≪今、美智子はもう一度福祉の勉強をしたいという。自分の両親をみていると

老人介護のありかたもよりはっきりした形で見えてくる。また一日の大半を子ど

もと二人きりで過ごす娘を見れば、若い孤独な母親に対して地域と密着した保

育がどのような役割を果たすべきかということも見えてくる。美智子は自分でな

ければできないことを今また始めようとしている。≫


森浩一さんの苦言 続続。

2013-09-08 19:06:57 | 本のひと言

 吉野ヶ里遺跡で復元された建物は、

本当に弥生時代に存在したものなのか

 「吉野ヶ里遺跡などでも、巨大な見世物的施設をつくることがは

やっているが、復元されたような建物が確かに弥生時代にあった

といえるのか、ぼくには答えられません。考古学でわかるのは建

物の地下に食い込んだ部分だけですから、あとは推定にすぎませ

ん。昭和三十年代、四十年代の文化庁は、~史跡はできるかぎり

手を加えないで、自然の状態のまま残すということに徹底していた。

宮崎県の西都原古墳群に行けばわかりますが、博物館は谷間の

目立たないところに建てている。だからあそこでは、古墳時代の雰

囲気に浸ることができる。それが原則だったのです。

 十五年ぐらい前、文化庁の若い技師が「西都原でも県会議員など

から、いろいろ施設をつくれとの要望が出てきますが、史跡というの

はできるだけ手を加えないところに値打ちがあるんです」としゃべって

いた。文化庁にもしっかりした人がいるなと、安心していたのですが、

日本が不況に落ち込んで、お金をつぎ込んで、学問的に確かな根拠

に基づいているとはいえない見世物的な施設を、どんどんつくるように

変わってしまった。」

 「平城京の地下にトンネルを掘って京奈良道路を通す計画が、皆が

知らないうちにいつのまにか進んでいることです。~考古学協会をは

じめとする学会には何の事前連絡もなく決められてしまっている。おそ

らく官僚のトップクラスだけで決定したものだとにらんでいます。

 町人学者の精神で、ただひたすら好きだからということで取り組む者

が多数だった考古学が、いつの間にかその魂を失い、官僚の独走す

るようになってしまった。いやな時代になったものです。」

 「ぼくの到達点の一つは、“考古学は地域に勇気を与える” ということ

です。そのように考え、ぼくは、関東学や東海学の創造に励んでいます。

若い研究者の積極的な参加をのぞんでやみません。」


森浩一さんの苦言 続。

2013-09-07 21:14:00 | 本のひと言

 以下、★印は聞き手の部分。 ≪≫内が森さんの答部分です、どちらも要約

しています。

 ★「捏造事件」により日本の前・中期石器の遺跡は壊滅状態となり、このよう

な事態を招いてしまった考古学界に対する視線は厳しいが、

≪考古学者全体の責任といわれるとつらい。日本における旧石器研究というの

は、考古学界の中でも孤立している。旧石器だけで、他の分野に関心を示さない

人が多い≫

≪旧石器の年代判定には地質学が重要ですが、旧石器の研究者で地質学を専

門的に勉強したという者を聞いたことがない≫

≪重要なのは、学会での藤村氏の発表は単独でななく、すべて二人から五人の

専門研究者との共同発表だったこと。連名で発表したということは、専門家が保

証したということです。捏造に気づかずに共同発表した者の責任は大きい。ところ

が、傍観者の立場でテレビでコメントをしている者もいる。これでは、協会の自浄作

用はどうなっているのかと問われても仕方がない。≫

★捏造の最初は座散木遺跡からだと、藤村氏は告白しています。この「発見」が日

本に前期旧石器時代があったかどうかの論争にピリオドを打ったと、当時宮城県立

東北歴史資料館に勤務していた岡村道雄氏が語っています。 同氏はその後文化

庁主任文化財調査官になっています。

≪最初に捏造が起きた座散木の当初から藤村氏と現場を共にし、本物と認めてきた

岡村氏の責任は重大です。学界や世間の雰囲気としては、文化庁主任調査官の岡

村氏が付いているのだから大丈夫と受け止めてきた。

 藤村氏を褒めちぎってきた岡村氏が、捏造を調査する(一斗内松葉山遺跡検証発

掘の)指導機関に名を連ねるなど、世間一般には通用するはずがありません。≫

★民間団体の東北旧石器文化研究所の活動に注目してきたのですが……。

≪考古学は町人の学問だ、ただしぼくのいう学問上の町人とは、真理の追究や自分

の知識形成に金銭やマスコミでの名声を求めることなく没入できるひとです。藤村氏

とは似て非なるものです。≫

★森さんが長年続けてきた朝日カルチャーセンターの「1年間の考古学の成果をふり

返る」を2001年で止められということですが。

≪年齢的なこともありますが、考古学界の体質が悪い方に激変してしまって……。

 飛鳥池遺跡は、奈良県が万葉ミュージュアムを建設するために、奈良国立文化財研

究所が発掘し、すごい遺跡であることがわかってきた。ところが徹底的に掘ってしまって、

遺跡の遺跡、元遺跡があったところになってしまった。遺跡は全部掘ってしまってはいけ

ないのです。ユネスコ憲章で、将来、学問が進歩したときの検証に備えて一部を手つか

ずで残そうと、国際的な取り決めがあります。≫

 

 すこし長くなりました、「吉野ケ里遺跡」については明日に。


森浩一さんの苦言、「旧石器捏造事件」など。

2013-09-06 21:11:15 | 本のひと言

 最初に、森さんと言ってみたり森先生と呼んだりしますが、その時の気分

で呼び方が替わり、今日は森さん、です。 どういう気分かというと、「さすが

森さん!」、というのは片づけをしていましたら、「旧石器捏造事件」に対す

る森さんのインタビューが出てきたのです。

 雑誌「論座」2002年2月号のインタビュー部分11頁を切り離して、雑誌

の表紙にホチキス留めをしてありました。 この事件は毎日新聞が2000年

11月5日の紙面で報じた考古学界を揺るがす大事件でした。

 当日の1面の大見出し≪旧石器発掘ねつ造 宮城・上高森遺跡 調査

団長の藤村氏 自ら埋める「魔がさした」認める 北海道の遺跡でも」≫と

続くのですが、事件の概略はWikiで「旧石器捏造事件」などを参照にして下

さい。

 

 この事件には少なからず関心があったので、実は森さんはこれに関してどう

いう意見をもっておられたのだろうと思っていたのです。これもkaeruの物覚え

の悪さの証明になるわけですが、自分で森インタビューを読み、切り取ってお

きながら、まったく忘れていました。

 インタビューの大見出しを紹介します。

 “魂を失う考古学界” 「旧石器捏造事件」から吉野ヶ里遺跡まで

捏造発覚から1年余り。長らく口を閉ざしてきた考古学界の重鎮が、この

問題を皮切りに、昨今の考古学界の変貌ぶりについて苦言を呈する。

とのリードではじまっています。

 ここには考古学界のあり方、問題点、学界の責任と専門研究者の責任など。

こんな指摘が心に残ります。

「藤村氏が前夜か早朝に石器を埋めると、見かけ上の遺構ができるわけです。

普通の考古学者なら、掘り出したときの土の感触でそれがわからないがずはな

い。ぼくは、遺物が出土したときの観察の鋭さとその情報こそが考古学の命だ、

遺物は遺跡の中においてこそはじめて学問的な価値を持つという遺跡学が考古

学の基本だと主張しつづけています。藤村氏の “発見” にかかわった旧石器研究

者たちは、考古学の基礎的訓練と目配りに欠けていたというしかいいようながい」

 

 当時、新聞テレビなどを通じて知らされる 「全国各地での(藤村氏による)前期

旧石器の発掘」 に疑うことなく驚き、なにか凄いことが起きているのだ!と思い込

んでいた、多分大勢のなかの一人であったkaeruとしては、専門家に対する見方

や報道のありかたについても学びとっていかなければならない「事件」だと思います。

 森さんの 「苦言」 について明日も続けて紹介します。


聞いていました、森先生の講演 。

2013-08-29 20:29:41 | 本のひと言

 『敗者の古代史』 その3 ではなく、書名でいえば 『考古学へのまなざし』

1998年6月刊。 実はこの本の表紙の開きに 「〇〇〇〇さま 森浩一」 の

サインがあったのでした。 脇に自分の手で 【1999.6.18 朝日カルチャー

センター湘南 「ヤマトからみた関東の古代文化」講座にて 藤沢ルミネプラザ

5F日興証券会議室」】 と書かれています。

 一昨日こうつぶやいたばかりでした、「もし講演など聞く機会があったならぜ

伺いたいと思っていた」 と。 いかに信頼する(と言っている)人の話を表面

的にしか聞いていないかの現われで、情けないかぎりです、 とこれも表面的

に嘆いているだけでは森さんに 「〇〇さま」 とサインされた甲斐がありません。

 もう話を聞くことはできないのですから、書かれたものを丁寧に読むことで

失礼のお詫びにしなければと思います。 何よりも森先生 (こうなるとやはり

先生になります) が言われる 「考古学は地域に勇気をあたえる」 をまず、自

らに勇気を与えるものとして、できることなら地域にも勇気を届けられたら嬉し

いことだと思います。

 森先生はこの言葉に続いて、「ここまでいって次の言葉はのみこんでしまった」

として、「考古学は地域に勇気をあたえることを目差して進めねばなりません」

と書かれています。 当然、考古学に限るものではない筈です。 学問という門を

通る者の方向を示している筈です、 またその軸足を地域に置くという立場の重

要性です。 

 森先生は地方史と地域史の違いを 「地方史は、都を中央と考えての地方であ

る。 それにたいして、地域史というのは、都の存在や役割も重視するけれども、そ

れぞれの地域にコンパスの軸をどっしりと置いて地域のことを考えようというもの

である」 と、同時に軸足は地域に置き世界図のうえをぐると廻す。 先生は学問を

通じてこの立場を確立されてこられました。 

 

 「1時間で分かる神社の話」 という本はなくてても、この地域で勇気(言う気)を

身につけるうえで 「森考古学」 は必修の学問のようです。