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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

上田から戻り「真田丸」第七回。

2016-02-21 23:08:27 | 「真田丸」

   最初に「いざ、鎌倉!」ならぬ「いざ、真田丸!」という写真を、

   これは上田城公園に入る橋の下です。下の道は堀の跡で私が上田にいた頃は電車が通っていて、真田へ向かう線でした。この堀跡を挟んで左手の建物が新築の第二中学校、元南小学校の後で、小学校は我が母校です。

 

  立ち並ぶ「真田丸」の幟を見ていると「いざ、見参!」という気分になります、単純で純情なものです、場所は上田城公園内旧上田市民会館。

入口は長蛇の列というほどではありませんが、かなりの入りかと思われます。

中の様子は、 http://ueda-sanadamaru.com/overview/ をクリックしてご覧下さい、そして機会があればおいで下さい。

 

   戻って観たのは第七回「奪回」。

  この奪回には人質を取り戻すと領地を奪い返すの二つの意味があるのですが、その内容のことも面白いのです−戦国時代の弱小国主らしく–が今日目に付いたのがこの人の演技です、草笛光子、82歳。

   そこで女優草笛光子のこのドラマにかける思いを見てみました、そこからこの部分を紹介します、全体は インタビュー・とり役草笛光子 で。


宣教師フロイスの記した「本能寺の変」その5(了)

2016-02-14 19:55:46 | 「真田丸」

    信長はいかに死んだか。

【   明智の軍勢は御殿の門に到達すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には若い武士たちと奉仕する茶坊主(ラバードス)と女たち以外には誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が、兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭いで身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀(ナギナタ)という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われ、また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが火事がおおきかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくんり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。】

    フロイスは以上のように記しています、『信長公記』には次のように書かれています。

訳注より【「信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是まで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追い出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け來たり候。御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か、殿中深く入り給ひ、内より御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ……」】

終わりに『フロイス 日本史 5』(普及版)を紹介します。

   帯に杉浦明平氏の書評が見えますが、「キリシタン・バテレンたちは、出島に軟禁されていたオランダ人や、外交特使以外と交渉できなかったロシア人やアメリカ人とちがって、ほとんで権力者の側におり、(略)信長、秀吉、家康と交渉をもったしかれらの麾下のキリシタン大名や近臣からたえず情報を手に入れることができたのである。」ということです。 

それではテレビの前に向かいます。


宣教師フロイスの記した「本能寺の変」その4

2016-02-13 19:47:17 | 「真田丸」

結論を先に言いますと、「敵は本能寺にあり!」は無かった、のだそうです。勿論フロイスの『日本史』に「無かった」とは書いてありませんし、フロイスは当時京都にはいませんでしたので、この記録は「私は見た!」式のものではありません。

昨日の続きに「それはすでに述べたように一五八二年六月二十日」と書かれていますが、訳注では、

【この時、フロイスは都にいなかったためもあって、日時についてはかならずしも「日本史」の記述は正しくない。光秀は邦五月二十八日(洋6月18日)に亀山から愛宕山に詣で、そこで参籠し、おそらく同夜、本能寺襲撃を決意し、翌日、亀山に戻り、邦六月二十一日(洋6月20日)午後10時に出発した。】とあります。では本文へ、

【 それはすでに述べたように一五八二年六月二十日、水曜日のことであった。兵士たちはかような動きがいったいなんのためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた本能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。ところでこの事件は市(まち)の人々の意表をついたことだったので、ほとんどの人には、それはたまたま起こったなんらかの騒動くらいにしか思われず、事実、当初はそのような言い触らされていた。我らの教会は信長の場所からわずか一街を距てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこちらに来て、折から早朝のミサの仕度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。まもなく銃声が轟き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩でなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。】

明日、信長の最期の姿がを紹介します。

なお「敵は本能寺にあり」は江戸時代中期以降に書かれた軍記物「明智軍記」という書物に記述されたものとのことです。


宣教師フロイスの記した「本能寺の変」その3

2016-02-12 21:29:55 | 「真田丸」

日経平均株価、1万5千円割る!

このニュースに「茫然自失」の文字が重なります、勿論株には縁のなkaeruのことではありませんが。

さて、天正十年六月一日・1582年6月21日夜(何時頃だった?)、明智光秀から信長を射つ、と知らされた四人の部下は……、

【 一同は茫然自失したようになり、一方、この企画の重大さと危険の切迫を知り、他面、話が終ると、彼を思い留まらせることも、まさにまた、彼に従うのを拒否することももはや不可能であるのを見、感じている焦慮の色をありありと浮べ、返答に先立って、互いに顔を見合わせるばかりであったが、そこは果敢で勇気のある日本人のことなので、すでに彼がこの企てを決行する意志をあれほどまでに固めているからには、それに従うほかはなく、全員挙げて彼への忠誠をしめし生命を捧げる決意である、と答えた。

   ところで、明智はきわめて注意深く、聡明だったので、もし彼らのうちの誰かが先手をうって信長に密告するようなことがあれば、自分の企ては失敗するばかりか、いかなる場合でも死を免れないことを承知していたので、彼はただちに自らの面前で全員を武装せしめ、騎乗するように命じて真夜中に出発し、暁光が差し込む頃にはすでに都に到着していた。

   さらに明智は、自らの諸国と坂本の城塞を固め、よく修理するように命じ、不在中、なんらの騒動も生じないように城内を絶えず監視するように言いつけた。そして都に入る前に兵士たちに対し、彼はいかに立派に軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に見せたいからとて、全軍に火縄銃(エスピンガルダ)にセルべ*を置いたまま待機しているようにと命じた。】

セルべ=訳注より【 昔の火器の部品。フロイスの書簡によると、火縄銃に点火して引き金に挟んだ状態で発射の命令を待たせたことが明らかである。】

このような状況ですから、当然兵士達は訝りはじめます。そこで、光秀は兵士に向けて「敵は本能寺にあり!」と言うのか? その辺をフロイスがどう記しているか、興味があるところです、明日に。


宣教師フロイスの記した「本能寺の変」その2

2016-02-10 16:25:23 | 「真田丸」

昨日の続きの「その2」に入る前にこれを、

ページの変り目の3行前に「フロイスのみた女性」とあります。この本は『大系 日本の歴史 7』(小学館刊1988年)で、昨夜偶々拾い読みをしてたら出てきたので、メモとして記録しておきます。当時(16世紀)の女性の姿を理解する参考になるでしょう。

【 ◯ 日本の女性は、処女の純潔を重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚する資格も失われない。◯ 日本では男性は望みのまま何人でも離別する。離別されても名誉も結婚する資格も失われない。 ◯ 日本ではしばしば妻たちが夫を離別する。 ◯ 日本では娘や妻が、両親や夫の許可なく、自由に行きたいところへ行く。 ◯ 日本では親族の女が誘拐されようとしても、父母兄弟が見て見ぬふりをしてすごす。親戚どうしの情愛がうすく、たがいに見知らぬ者どうしのようにふるまう。 ◯ 日本では夫婦のおのおのが自分のわけまえや財産を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸しつける。 ◯ ヨーロッパでは女性が文字を書く心得は普及していないが、日本の貴婦人は、その心得がなければ格がさがるものとされる。 ◯ 女性の飲酒は頻繁で祭礼にはたびたび酩酊するまでのむ。】

上の◯の部分はフロイスの書かれた部分として紹介されている部分です。そのあと著者の脇田晴子さん(鳴門教育大学教授)のコメントが続きます。

【 そこには、夫婦のきずなのゆるい、束縛性の少ない結婚形態が描かれている。女性は自立性が強く、それだけ危険にさらされ、保護される度合が少なかったといえよう。実際はこの時期、女性の財産相続性は崩れつつあり、夫や両親の保護下に入りつつあったことは、最近の女性史研究が明らかにしている。それは武家の女性を中心として進んでいたが、現実的には九州や西日本、畿内でフロイスのみたように、女性の独立性は強かったのであろう。】

本ではこのあと、「堕胎・間引き・出産」についてフロイスの書かれたことに触れていますが、省略しましょう。


本題の「本能寺の変」の話、明智光秀が企てを明かし決行する場面です。

【 聖体の祝日(コルプス・クリステイ)の後の水曜日(西暦1582年6月20日・天正十年六月一日)の夜、同城に軍勢が結集していた時、彼はもっとも信頼していた腹心の部下の中から四名の指揮官を呼び、彼らに対して短く事情を説明した。とりわけ彼は自らを蹶起させるやむを得ぬ事情と有力な理由があったので、信長とその長男を過つことなく殺害し、自らが天下の主になる決意であることを言い渡した。そして、そのために最良の時と、この難渋にして困難な仕事に願ってもない好機が到来していることを明らかにした。すなわち、信長は兵力を伴わずに都に滞在しており、かような(謀叛に備えるような)ことには遠く思いも及ばない状況にあり、兵力を有する主将たちは毛利との戦争に出動し、さらに三男は一万三千、ないし一万四千の兵を率いて四国と称する四カ国を征服するてために出発している。かかる幸福に際しては、遅延だけが(考えられる)なんらかの心配の種になりうるだろう。すでに危険を(家来たちに)託し、この計画を明白に打ち明けたからには、彼らに与えられるべき報酬は、特に彼らから期待される勲功と協力にすべて準じ、対応したものになるだろう、と語った。】

このあと【一同は呆然自失したようになり、】と続きますが長くなりすぎました、次へ。


宣教師フロイスの記した「本能寺の変」その1

2016-02-09 22:41:01 | 「真田丸」

「信長や秀吉の肉声を伝えるフロイスの戦国時代史」と帯に書かれた『フロイス  日本史 5』に「本能寺の変」に至る前段、「信長による光秀殴打のこと」が次のように書かれています。

【信長は奇妙なばかりに親しく彼[光秀]を用いたが、このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼に命じた。

    これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人人が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智はなんらかの根拠(フンダメント)を作ろうと欲したかも知れぬし、あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、その過度の利欲と野心が募り、ついにそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもしれない。(ともかく)彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機を窺っていたのである。そして彼は、特に安土で信長から、毛利との戦いにおける羽柴を援助するため、七、八千の兵を率いて、ただちに出動を命じられた武将の一人であった。そこで、受理していた饗宴の接待役を放置して、兵備を整えるためにただちに丹波国へ出発した。そして兵士を率いて都から五里離れた(亀山)と称する城に向かった。従軍の兵士たちは、毛利との戦いち赴くのに通らねばならぬ道ではないことに驚いたが、抜け目のない彼は、その時まで何びとにも決心を打ち明けておらず、かような無謀な企てが彼にあることを考える者は一人としていなかった。】


「資本論」と「真田丸」。

2016-02-07 19:41:49 | 「真田丸」

    今夜8時から「真田丸」の放映があるからといって結びつかないものを無理に結びつけなくってもとお思いの方、それが結びつくのです、少し回り道をしますが。

   まず「真田丸」、

   『戦国のゲルニカ』(新日本出版社刊)という本の紹介です。

この本を持っていたので、是非お見せしたくて探しまくりました、無い?!

無いはずがない、と3時間は探しました、努力が報いられて、ありました。

   最近買っておいたものですから、本当はそんなに探さなくってもいいはずなのですが、思わぬところに置いてしまってそのままになっていたのです。

   さて、この内容はドラマが先に進んで「大坂夏の陣」に近くになったらと思います。だいいち私がまだ読んでいません、パラパラめくっただけですが紹介に値する本だという確信はあります。

   ところで「資本論」 ですが、これです。

  今日の「しんぶん赤旗」からです。文字通り「資本論」についての思い出です、書き手は渡辺武さん。それが「真田丸」に結びつくのは『戦国のゲルニカ』が渡辺武さんの書かれた本だからです。

   元大阪城天守閣館長という肩書がでていますが、本には1937年生れとありましたので私と同じ歳かと思った次第です。

   そんなことで、ひとりの人間のなかでは無関係のようなことも結びついているなー、と決め込んでタイトルにしました。

   さて今夜は「本能寺の変」からはじまる「窮地」です。

  織田信長、歴史を切り開いた男!といえましょう。その点ではマルクスも同様なことが言えます。

  ただし信長は剣をもって、マルクスはペンを以って。

  こうくると次には「ペンは剣より強し」となります。そういう時代へと向かわなければなりません。

 kaeruはテレビの前に向かわなければなりません、ではまた……。


「真田丸」女性陣の背景。

2016-02-05 21:14:20 | 「真田丸」

インターネットでの「真田丸」の評判は視聴率の好調を裏付けるように概ね好評ですが、女性陣にはかなり辛口のようです。

これはNHKの「真田丸」サイトの登場人物一覧ですが、女性陣で好評なのは祖母・とり(草笛光子)くらいで、母・薫(高畑淳子)、姉・松(木村佳乃)、そしてきり(長澤まさみ)、梅(黒木華)にはきびしい。松が出てくるとテレビを消すというものまで出ていました。

共通しているのは軽々しいというのです。演技上の問題というより武士の家の女性像として「軽々しい」という意味にもとれます。はじまったばかりですので「軽々しく」評価はできませんが、当時の武士の家の女性の地位について知る機会だと思い、前回の後の部分を書き写しておきます。

【  家が確立してゆくなかで、その家に固有の苗字(みょうじ)が生まれてゆく。もともと人びとは苗字をもたず、源・平・藤原といった氏の一員だったが、武士の場合などは自分が住んでいる荘園や郷村(ごうそん)の名前を氏のかわりに用いるようになり、苗字が普及していった。たとえば足利尊氏は昔ながらの言い方をすれば源尊氏であり、足利荘を本貫(ほんがん=本籍地)としていたので足利氏を名乗ったのである。庶民の苗字の由来はわからないが、地域の小さな地名によるものが多いのではないかと思われる。

   人びとの生活の展開のなかで家が確立していくが、女性の地位というものもこれによって大きな影響を受けることになる。それまで固有の財産をもっていた女性が、家の確立とともに財産権を失い、家の財産は男子から男子へと継承されていくことになるのである。】

このあと、女性の財産についての具体例が書かれますが長くなりますので次にします。


松やきりの女性像 ー「真田丸」から。

2016-02-01 21:46:58 | 「真田丸」

「真田丸」の人気にのって「真田丸」というカテゴリーを追加しました。「あまちゃん」でこのブログの訪問者が増えたことを報告しましたが、二匹めのドジョウを狙おうという魂胆です。一昨日が209で過去最高を記録していい気のなっているのです。

といってもそれだけでは魂胆が見え過ぎですからこの際戦国時代という時代についていささか知っておこうと思いました。

昨日の「つぶやき」へのワイコマさんのコメントに、ドラマに出てくる女性像について触れられて、それへのkaeruの返信コメントを書きました。

それに関係して、この本(大月書店刊『日本社会の歴史  上』)に、

 

「中世の女性の地位と役割」という節がありました。

真田家の女性ばかりでなく、きりも梅も生き生きと描かれています。わざと現代風にという評価もあるかもしれませんが、そうとも言えないと感じたのがこの本の記述です。

何回かに分けて抜き書きします、その冒頭部分です。

【  江戸時代後半から明治・大正をへて戦前にいたるまでの時代の人びとは、「家」と呼ばれる集団の一員として生活し、この家は子孫に受け継がれるべきものとされていた。しかしそもそも昔の人びとははじめからこうした家のなかにいたわけではない。飢餓や疫病が頻繁に襲い、生産力も低かった時代では、いったん財をなしたとしてもそれを子孫に伝えることは容易ではなく、永続的な「家」が広く庶民にまで行きわたるには長い時間を要したのである。天皇家や公家、あるいは御家人の世界では鎌倉時代にはそれなりの家が確立していたが、地域の住民たちの家が代々受け継がれるようになったのは、戦国時代から江戸時代にかけてのことだった。】

このドラマがその「戦国時代」です、幸村への視点だけでなく松、きり、梅へも視点を移しつつ見ていこうという気持ちになっています。


「真田丸」と自治体。

2016-01-24 22:05:33 | 「真田丸」

夜8時、9時とNHKテレビを観ました。

大河ドラマ「真田丸」とNHKスペシャル「新・映像の世界  冷戦 ・極秘映像は語る」です。

「真田丸」は「船出」「決断」ときて今夜の「策略」で来週は「挑戦」。

このタイトルから、戦国時代という一時代に乗り出した「真田一族」という船団がどのようにして荒波を乗りきっていくか、頭首の決断がありそれを実行するうえでの策略ーそれが今夜の見どころでー、そのうえに立っての挑戦です。

真田の山も案内されましたが、上田市と出ていました。最近までここは長野県小県郡真田町というひとつの自治体でした。2006年3月に上田市と合併したそうです。真田昌幸の「決断」の様を見つ「策略」を通じて、一族の長としてその衰勢をかける姿が印象に残るとともに、自立した一集団の「長(おさ)」の有り様に思いがいきます。

小県郡真田町が合併という時、その当時の町民と「長」等にどういう戦略があったのか、それに基く「決断」だったのか。「真田丸」のもうひとつの舞台の和歌山県の九度山町を見ましたら和歌山県伊都郡九度山町とあります。今回の大河ドラマによってこの町(人口4千強)が注目を集めるでしょう。

信濃の一地方の国衆(独立領主)にすぎなかった真田家が戦国大名になり上がっていく物語ですが、当時の「一族」の盛衰は基本的には領地の大小だったでしょう。それは支配地の石高に表されます。

上田城築城ー天正12年(1584年)、真田昌幸は上州沼田領も合わせ六万五千石、大阪夏の陣の後ーー弟・信繁の死のあとーー、二代目の真田信之は沼田領も合わせ九万五千石でそののち松代へ移されますが十万石となります。

歴史の結果でみての思いですが、昌幸の「戦略」と信之と信繁の歴史上の役割分担がそこまで繋がっているのかと思うこともでき興味が湧きます。