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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

信繁の祖父と父親。

2016-04-02 23:04:03 | 「真田丸」

   本は読む物ということなら読まない物は手元に置かない、ましてや買うことは無い、と考えるのが正論でしょう。でもね、その時は読む気がなくても手元に置いておきたい物のあります。古本屋の店先に100円です、という物の中にそんなものがあるのです。

  これは100円物ではありませんでしたが、かなり以前「真田」の名前にひかれ300円くらい出したのでしょう。文庫で二冊ものですがその上だけでした。もちろん「真田丸」のことなど話の「は」の字にも出てこない時期です。手にした当時ある程度目を通したらしく、書き込みがしてありましたが記憶には無いことです。

   あらためて読みだして面白いのです。「上」は昌幸の父親・真田幸隆の物語で終始し、最後の章が「昌幸立つ」です。こうなると明日は本屋の棚の前に行かねばなりません。


作家・火坂雅志氏。

2016-03-29 21:05:36 | 「真田丸」

  昨日紹介しました平山優さんの『真田信繁』の「あとがき」の最後に

【 大林氏(角川選書編集部)と私の出会いのきっかけを作って下さったのは、歴史小説家の故火坂雅志氏である。二人を案内して、信州の武田、真田関係の史跡を歩いた2011年12月の二日間、そして別所温泉で三人で語り明かした思い出は尽きない。火坂氏とは再会を約束し、その後はメールでのやりとりが続いたが、本年(2015年)急逝された。誠にざんねんである。火坂氏は、本書の完成を心待ちにしておられたという。本書を火坂氏の霊前に捧げ、擱書する。】

下の写真の単行本の開かれた頁にそれが書かれています。

火坂氏が写っている雑誌は「別冊宝島」の2014年11月発行のものです。

火坂氏は大河ドラマ「真田丸」の火付け役とでも言える人です、

それはここに書かれています。

 

該当部分は、

【真田幸村の大河ドラマ化に向けては、09年7月に作家火坂雅志さんの小説「真田三代」の連載が信濃毎日新聞で始まったのを一つのきっかけに、上田市民有志らが「NHK大河ドラマ『日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)真田幸村公』放映の実現を願う会」を結成。署名集めをしてNHKに働き掛けるなど、運動を続けてきた。】


ドラマと史実。

2016-03-28 23:18:32 | 「真田丸」

   昨日つぶやいた畑山博さんの『真田幸村』、なかなか面白く読んでます。作家としては歴史物が専門ではなくても、歴史少年であったことや小諸から上田へかけての思いの深さが作品になっています。

   今回の大河ドラマが上田城も物語の中心のひとつであることから、ドラマのなかに史実がどう生かされるのかに関心を持つようになりました。どの大河ドラマも時代考証担当によって内容が史実との関係で検証されるのでしょうが、今まで気を向けたことがありませんでした。

   育った町、思い出のある城が舞台となると面白いだけではない、本当はどうなの、の思いも強くなります。そこで今回の時代考証担当のひとり・平山優さんの書かれたものに目が向きます。写真の本は二冊とも平山さんの書かれたものですが、『真田三代』の「あとがき」には2011年9月15日と『真田信繁』は2015年9月23日となっています。

  書かれた時期で四年間、新書版で300余頁と単行本では380余頁の差があり、一方は「真田三代  幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る」内容で、他は「真田信繁  幸村と呼ばれた男の真実」を書くものです。

『真田信繁』の「あとがき」で平山さんがこう書かれています。

【 真田信繁についての史料が乏しく、手元に集積された史料は、先学の猪坂直一、小林計一郎氏らが戦後、信繁の伝記を公表した頃とほとんど変わっていない。そうした中で、新たな信繁伝をどのように書くべきか苦悩したが、常に自分の脳裏にあったのは、旧書『真田三代』(写真の右の新書版)における真田信繁伝への反省である。事実の検証や歴史叙述に、大いなる甘さを残した旧作に対して、私は痛痒つうようを感じ続けてきた。それを払拭ふっしょくするためにも、膨大な史料群と向き合う決意を固めた。】

   そして平山さんは「通俗的な大坂の陣論や家康論」に異議を唱えることになったのです。このことについて紹介できるほど私が理解をしていませんので後日とします。大河ドラマも小説も史実を縦糸に人間のつながりと言動を横糸にして生き生きとした「物語」を描きだし現代に甦らせます。


「人質」はさておいて畑山博という作家。

2016-03-27 22:42:38 | 「真田丸」

  「真田丸」第12回は「人質」なのですが内容は観ている人の耳につぶやいても嫌がられるだけでしょうし、観てない人に分かるようにつぶやくのには聴き取り不十分なのです。イヤホンで聴いているのですが音楽がセリフにかぶってきて聴き取れないのです。

   今回で言えば信繁と景勝とのやりとりはかなり内容の濃いものだったようです。景勝が信繁という人物に関心を寄せ人質として指名、信繁も景勝を理解し双方の交流の深まりが描かれています。

   さてタイトルの畑山博(はたやまひろし)という作家は、

という本を書いた人です。既に亡くなられていますが、葉山に住んでいました。本の内容は、【湘南・葉山の山腹に住む著者が、葉山の自然の中での生みの営みをつづる。山羊、ニワトリ、アライグマとの共生、海の見える畑での野良仕事など、若者のイメージとは異なる人間味豊かな湘南が味わえる。】です。

 ところが、こういう本も書いていたのです。

 

   芥川賞作家だということはうろ覚えにありましたが、幸村を書いているとは思いもしませんでした、それも葉山図書館にあるとは。借りてきて「あとがき」を読んだら分かりました。

   こうあります【 子供のころ、信州小諸で育った。学校帰りの毎日の遊び場は小諸城址懐古園だった。あの関ヶ原合戦の折、中山道を進撃する徳川秀忠が、上田城の真田昌幸、幸村父子を勧降するため着陣した城である。

   歴史少年だった私は、それだけでもわくわくした、上田はそこから十五キロしか離れていないまちである。その町へ行くと、私の心はもう完全にタイム・スリップ状態だった。】本の著者紹介に「1935年東京生まれ、神奈川県三浦半島在住」主な著書のなかに『織田信長』や『新人物日本史  光芒の生涯』などがあります。歴史少年として関心を持ち続けていたのでした。


室賀正武、歴史の一人・一日……。

2016-03-20 23:06:16 | 「真田丸」

「真田丸」第11回、信繁と梅の祝言をめぐる紆余曲折とともにそこに絡む「殺し」の部分が今回の核でしょう。その核の芯が室賀正武、平山優さんの『真田三代』の年表に《天正十二年(1584)1月、昌幸、小県郡をほぼ統一。6月、家康、室賀正武に昌幸暗殺を命じるが失敗。》とありますが、その「失敗」の「映像」が今日見られました。

   室賀正武という戦国時代の一武将が西村雅彦さんの演技によって強い印象を残してくれました。そこであらためて前松寺の室賀一族の墓所のある辺りをGoogleマップで見てみました。ここは同時に私達の兄弟の父母の、私達の子供にとっては祖父母の墓所であるのです。

   この寺は前回の「真田丸」で紹介されはしましたが著名な名跡というわけでもなく手元のNHK出版の『歴史ハンドブック  真田丸』などでは触れていません。この寺の墓所に室賀正武の墓があるのか分かりませんが、今回のドラマによって正武への関心とともに寺への関心は広がったのではないでしょうか。特に西村さんの「黙れ、小童!」は早くも今年の流行語大賞?の声も聞こえます。

   そんなことで天正十二年の六月?於上田城での一事件が、第一次上田合戦への伏線として敷かれたのです。六月に?を付けたのはNHK『真田丸』には七月と記されていますので。何れにしても長い歴史のある一日のある事件が次の大事件となり、その大事件が天下分け目へと発展していくわけです。歴史上の「ある日」の持つ意味を感じます。


三つの「天正十一年八月二十四日」。

2016-03-15 17:55:17 | 「真田丸」

上田城築城との関係で「天正十一年八月二十四日」が気になっています。

まずはこれです、昨日一昨日と「つぶやき」に記しました「真田丸」の時代考証担当の一人平山優さんの「天正十一年八月二十四日」です。

「天正十一年(一五八三)八月二十四日、家康は上田城を昌幸に与えた」と見えます。


次はこれです、

  『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(著者・橋場日月 朝日新書)の上田城築城に関わる頁です。中ほどに「工事が八月二十四日からはじまって~」と書かれています。ここでは天正十一年と年は記されていないのですが、文の前後からみて「天正十一年」といえます。

   この二つの「天正十一年八月二十四日」の元の出どころは同じなのでしょうか。橋場さんの本には『真武内伝』という史料が見え、この日付はその史料によると読めます。平山さんの日付については史料は書かれていません。

   上田城を「家康が昌幸に与えた」日と「工事をはじめた」日が同じ日だとすると、「家康が昌幸に工事開始の許可を与えた」とも読めます、がすると『真武内伝』に見えます「(家康から)上田城を給ふ」というのと合いません、なかなか面白いです。

   さて、もうひとつの「天正十一年八月二十四日」です、その時家康は何処にいたか? 甲府です。

「家康の軌跡」というサイトに「8月24日、再び甲府に入り」とありました。


   こうしてみると遥か昔のある一日も色々な色彩を帯びて見えます。

   2916年3月15日という一日がどんな色彩を示しているのか、これから小父さんの所へ奥さんの月命日ですのでお線香をあげに向かいます、夕食を共にしイッパイ機嫌になってきます、いい色彩です、夕焼けです。


天正十一年八月二十四日。

2016-03-14 14:59:38 | 「真田丸」

   これはNHKの「真田丸」関連サイトの一部です。ここに「誤解されがちですが」とあります。何が? 

   例えば上田市立博物館刊の『郷土の歴史  上田城』(平成22年3月第6刷)の「はしがき」にも「昌幸の築いた上田城」とあります。本文も「昌幸によって、上田築城が開始された」とあります。「上田城は真田昌幸がつくった」という誤解です。

 

全体は 上田城は家康が築いたってホント? nhk歴史解説 に目を通してみて下さい。

さて、家康が築城した上田城がどのようにして昌幸のものになったのか?

   そこに書かれているのですが、【徳川氏が築いた上田城が、昌幸のものとなった経緯についてはわかっていません】と。これを書かれているのは黒田基樹さん、「真田丸」の時代考証を担当されている3人のうちの1人です。

   昨日の「つぶやき」で、【 天正十一年(1583)八月二十四日、家康は上田城を昌幸に与えた】としたのはNHK出版の『真田三代の挑戦』からの引用ですが、著者は平山優さん、この方も同時代考証を担当されています。

   もう1人の担当者の丸島和洋さんはどう言われているか。それは同じくNHK出版の『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 真田丸』に書かれています。【上田城は、「徳川の城 」として築かれることになる。いつの間にか昌幸の本拠となるが、~】

   ドラマを観る者としては「分かっていません」や「いつの間にか」より「天正十一年八月二十四日、家康は上田城を昌幸に与えた」の方がずーっと面白いのですが、「天正十一年八月二十四日」と年月日を特定した資料はどういう物だったのでしょう。

   例えば家康から昌幸に与えられた約定書のような物として、それを信幸信繁に見せながら昌幸の顔がニンマリするシーンがあったりすると誠に面白かったと思うのです。それは真田家が徳川家の挑戦をその城に拠って二度にわたって退け、後には信之は徳川の元へ、信繁が家康を追い詰めることへの伏線のように見えたでしょう。


「妙手」 上田城築城の経緯など。

2016-03-13 22:38:16 | 「真田丸」

   現在の上田城が真田時代の城ではないことは知ってはいても、その築城の経緯など考えることもなく「上田城=真田幸村」位の受けとめしかなかったので、今回は勉強になりました。

  その辺を『真田三代の挑戦』(NHK出版)に書かれていることを記しておきます。

【 徳川家康が真田昌幸を押し立てて北信濃へ侵攻することを警戒した上杉氏は虚空蔵山城の防備を固めた。天正十一年(1583)三月、真田昌幸等は虚空蔵山城を奇襲し甚大な打撃を与えた。家康は昌幸のもとへ援軍を派遣し、四月、尼が淵で築城を開始した。これが上田城である。

   昌幸が徳川軍とともに上杉方の虚空蔵山城の眼前に築城を始めたことを知った上杉景勝は、ただちに北信濃衆を集結させ、上田築城を妨害して撃破するよう指示した。上杉方は続々と虚空蔵山城に向けて進軍を開始した。だが上杉軍に、深志城主小笠原貞慶が家康の要請を受けて麻積(おみ)城に侵攻しているとの情報が届いたので小笠原軍を迎撃するため進路を変更した。

   危機を脱した真田・徳川勢は、上田築城を完成させた。この城は徳川軍が構築した徳川の城であったが、天正十一年(1583)八月二十四日、家康は上田城を昌幸に与えた。沼田城明け渡しが条件だった。だが昌幸は上田城を拝領したものの、沼田開城には応じなかった。

   家康からの沼田引き渡しを昌幸が拒絶したことは関東の諸将に伝わった。この時家康が昌幸に強く出られなかったのは、上杉との対立が深刻だったからであろう。家康がこの直後に昌幸に上田城を与えたのは、あくまで昌幸を宥めようとしてのことのようだ。】

  今夜の「真田丸」は「妙手」でしたが、城こそ「手」そのものであり、また様々な「手」を生かすのも殺すのも城であったのが戦国時代というものだったのです。城を見る目が深まりました。


「駆引」はさて置いて前松寺。

2016-03-06 22:11:52 | 「真田丸」

   今夜の「真田丸」は第9回「駆引」ですが、それはそれで面白く観ました。その後が! 前松寺がでてきたのです。

   毎回の大河ドラマの本編終了後関連の各所を紹介しているのですから、なにも!マークをつける必要はないでしょうが、我が父母の眠る墓のある寺となれば!付が分かっていただけるでしょう。

   父母の墓があると言いましたが、この地に墓をつくったのは私が上田を離れて20年くらい経ってからです。随分古い寺だなーという印象が今でも記憶に残っています。その時墓地の続きの高い場所ですが室賀一族の墓を見たような記憶があります。今日映し出されましたがかなりの整備された、という感じです。

そいうことで今夜は前松寺の紹介です。

風船印が前松寺で左下に市営の「室賀温泉ささらの湯」が見えます。

Gooleマップで寺の裏側墓地です、左手の少し高い所が一族の墓だと思います。

 

ネット情報から一部お借りしました。

上田市上室賀の、のどかな山里にたたずむ前松寺は天文元年(1532)に室賀下総守盛清によって創建された。開山は宗清天和尚。


「調略」 真田昌幸 君子は豹変する。

2016-02-28 22:50:11 | 「真田丸」

「真田昌幸はただの裏切り者」という話。

この本に出てくる話です。

   ただしその前に「昔の戦国大名論の考え方からしたら」という言葉が付きます。それは昔の戦国大名論は全部の領地を自分で直接支配しようと目指していた、という大前提にたっていた。しかし国衆は自治領として認められて大名としても介入する気がなかった。

   そういうなかで国衆は自分の領国と家臣と領民を守る義務がある、そのため戦国大名に従っている、その大名が頼りなければ他の大名につく、独立する力がなければ当然のことでした。

   真田昌幸は「織田信長の死後、上杉景勝に付いて、一ヶ月後に北条氏直について、三ヶ月後に徳川家康について、一、二年したら上杉景勝について、最後は豊臣秀吉に付いておさまる。まったくの裏切り者なわけです。しかし実はそうではなく、自分の国を守るためにどうするか、主体がそこになることを理解していただければ、昌幸の本質が見えてくると思います。」

「真田丸」の時代考証担当者3人の一人丸島和洋さんの発言です。

   昌幸が国衆という立場に徹底して立った時、周りの大名を手玉に取り知略を巡らし今夜の「調略」もあったわけです。