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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

史実としての「上洛」。

2016-05-09 20:06:32 | 「真田丸」

  「真田丸」関連のブログなどを見てましたら「上洛」について「史実」に触れているものがありました。それには秀吉は昌幸に対しまず家康に属するよう命じ、昌幸は家康に謁見して徳川家臣となり、そのあと上洛して豊臣家臣となったのです、とあります。

   そこの部分を平山さんの『真田信繁』では、まず、秀吉が太政大臣に任じられた(天正十四年十二月)これを機に天皇より賜った豊臣姓を称したことに触れた後で、

【 翌天正十五年一月四日、秀吉は上杉景勝に書状を送り、真田昌幸の赦免を正式に通達し、昌幸に上洛させるよう指示した(『上越』3168号)。(略)

   かくて真田昌幸は、小笠原貞慶とともに上洛し、秀吉に謁見した。その際、家康重臣酒井忠次も同席しており、秀吉は帰国途中、駿府の家康に出仕し、その与力大名となるよう命じた。(略)

   秀吉への臣従を認められた昌幸は、三月十八日、小笠原貞慶とともに、酒井忠次に伴われ駿府城に入り、家康に出仕した。ここに正式に真田昌幸は、上田・真田領と沼田・吾妻領を安堵され、豊臣大名として認定されることになったのである。武田氏滅亡から五年、遂に昌幸は大名となり、自立を果たした。】

ドラマでの展開は平山さんの記している筋です。


「再会」の先ヘ。

2016-05-01 21:56:59 | 「真田丸」

   今回の「再会」を見る前に「再会?誰が誰と?」と思い、若しかしたらと思ったことが当たったから、終わってみて「~だったでしょう」と言っても褒められた話ではありません。

   そこで今週の話を来週に向け「再会」は「上洛」の伏線だったということがここで分かります、ということをつぶやいておきます。

これはNHKの「真田丸」のHPでの次回「上洛」の「大あらすじ」です。

終の一文「嬉しい再会が待っていた」とあります。

(HPの全体はこちら、あらすじ 第18回「上洛」 で見れます。)

   以前映画監督の小津安二郎さんの言葉として読んだのか、映画評論家の言葉だったのか忘れていますが「映画の可否は脚本で決まる」とありました。今回の「真田丸」が三谷幸喜さんのシナリオだということに関連して、この言葉を思い出したのですが、今夜改めてその感を強くしました。

  そして、小津さんが死の床にあって城戸松竹社長に語りかけたという「社長、やっぱりホーム・ドラマですね」を思います。「真田丸」が真田家が時代の荒海を行く家族ドラマであることは知られていることですが、それは真田家物語にとどまりません。今夜も秀吉と母親との「家族ドラマ」を見せてくれました。来週の「上洛」も家族再会のドラマを見せてくれるでしょう。

   ここで突然、頭にプロ野球のことが浮かびました。一番いい選手とは出塁してホームに戻ってくる率が一番高い選手でしょう、やはり人生はホームドラマが一番なのです。


「表裏比興」ー拾い読み4ー

2016-04-24 22:12:47 | 「真田丸」

信繁 in 大坂 ー拾い読み1ー (4月11日)でこう書きました。

【 秀吉はこれを大いに怒り、昌幸を「表裏比興之者ひょうりひきょうのもの」と指弾して、八月三日、昌幸の庇護者上杉景勝に対し家康に命じて成敗すると報じた。そして真田領に在陣する上杉軍に昌幸の支援をさせぬようにと言い渡したのである。】

   これも平山さんの『真田信繁』に書かれていることですが、今日の「真田丸」の「表裏」はここの部分を意味していました。11日に引用した平山さんの本には「八月三日、家康に命じて真田昌幸を成敗せよ」と命じたと書かれそのあと次のように続いていました。

【  八月六日、秀吉は家康に真田昌幸成敗を命じ、1、真田領には上杉援軍が在番している城が二、三ヶ所あるのでそこには手を出さないこと、2、上杉領と徳川領の境目は、秀吉が上使を派遣して決めること、3、小笠原貞慶と木曽義昌領にも手出しをせぬこと、4、真田成敗のため出陣するので、家康の上洛が多少遅れても構わないこと、とした。大筋は合ってますが、史実とドラマの違いも楽しめます。

  なお、Wikipediaの「真田昌幸」に昌幸の人物像紹介に次の説明がありましたので貼っておきます。


信繁 in 大坂 拾い読み ー 3 ー

2016-04-17 20:57:03 | 「真田丸」

    大地震は政治を変える。

   これは「熊本地震」のことではなく「天正大地震」のことです。人間社会も地球上の諸現象のひとつですから、大地震が地球上の諸事に大きな影響を与えると同じ様に政治上のことに影響します。

   当然のことながら今回の大地震も日本社会、その一つとして政治に大きな変化を生み出すでしょう。それはもう少し先の話で今夜は1586年1月18日に起こった大地震のことで、当時の暦でいえば天正十三年十一月二十九日ということです。この地震解説のWikipediaの最初の部分です。

   写真の説明にある「地滑り痕」「崩壊跡」は今回見る「痕・跡」そのものです。ちょうど430年前起きた自然現象が所は変わっているが同じ現象として痕跡を残しました。

   では政治上のこととは? 前回 ー2ー は天正十四年十月に【 家康は遂に上洛を果たし、大坂城で秀吉と対面し臣従の礼を取り、秀吉政権に従属することになった。】と始めましたが、この地震はその一年ほど前のことでした。

  家康の上洛を「遂に」と書かれているように、1年前の家康は石川数正出奔や第一次上田合戦の敗退などにより秀吉との開戦が近いと臨戦態勢を急いでいたというのです。

   平山さんによると、【ところが、十一月二十九日亥刻いのこく(午後十時頃)、内陸部を震源とする推定マグネチュード7.2~8.1の大地震が、関西、中部地方を中心とする地域を襲った。大規模な余震が三十日にも発生し、それは十二月二十三日まで続いたという。この地震は秀吉に深刻な打撃を与え、家康との即時開戦に踏み切ることが困難になった。秀吉は、家康打倒を目指す強硬策から一転して、上洛を促す融和策へと外交路線を変更するのである。】

   このあと紆余曲折があり、特に秀吉が妹旭姫を家康の正室として娶めあわせることで家康は臨戦態勢を解き上洛した、につながっていきます。


信繁 in 大坂 ー拾い読み 2ー

2016-04-12 23:13:18 | 「真田丸」

   昨日の続きです。説明はすべて平山優さんの『真田信繁』に拠りますが「拾い読み」ですので関連部分を全文写してはいません。ただし書かれていないことはつぶやいてはいません。

【 天正十四年(1586)十月、徳川家康が遂に上洛を果たし、大坂城で秀吉と対面し臣従の礼を取り、秀吉政権に従属することになった。

  天正十五年一月四日、秀吉は上杉景勝に書状を送り、真田昌幸の赦免を正式に通達、昌幸に上洛をさせるよう指示した。昌幸は上洛し秀吉に謁見し、秀吉は昌幸に対して家康の与力大名となるよう命じた。
   三月十八日、昌幸は帰路駿府城に入り家康に出仕した。ここに昌幸は、上田・真田領と沼田・吾妻領を安堵され、豊臣大名として認定されることになった。武田氏滅亡から五年、遂に昌幸は大名となり、自立を果たした。

  『長國寺殿御事蹟稿』によれば、上洛の時、昌幸は息子信幸・信繁を伴っていたという。これは確実な記録では確認できないが、事実の可能性が高い。この時、信幸は父昌幸とともに帰国したが、信繁はそのまま上方に人質として留め置かれたのではなかろうか。

   信繁の人質生活がいつからはじまったか、諸書によってまちまちで天正十三年、十七年などあるが、いずれも事実ではなかろう。まだ決め手に欠けるが、信繁が秀吉の人質となったのは、天正十五年の昌幸上洛の時と考えておきたい。
   上杉景勝の人質であった信繁を、昌幸が秘かに取り返し、勝手に秀吉のもとへ送ったため、景勝が怒ったとの説があるが、事実ではない。すでに秀吉と景勝は、昌幸を家康の与力大名にすること、すなわち真田氏の上杉氏従属は解消されることになっていたのであり、昌幸上洛とその帰途の家康への出仕によって、真田氏は上杉氏から独立したといえるからである。
   信繁はこの前後に、元服したと考えられる。仮名は源次郎、信繁の諱いみなは、武田信玄の実弟天廐てんきゅう信繁に由来するという。


信繁 in 大坂 ー拾い読み1ー。

2016-04-11 22:29:19 | 「真田丸」

  「真田丸  大坂編」で全50回中第14回で前中後と分ければ、中編に入り、「地方編」から「中央編」に移り「完結編」の大坂の陣への大きな伏線が引かれました。

   信繁の大坂入りに至るまでの史実を例によって平井さんの『真田信繁』から拾い読みをしておきます。

《 天正十四年六月に上杉景勝が上洛した際、秀吉は景勝と相談し、真田昌幸を家康の与力に編入することを決定していた。秀吉は同じく、木曽義昌・小笠原貞慶も家康の与力大名とすることとした。

 義昌、貞慶は上洛した) そこで秀吉は、昌幸にも上洛を促した。だが昌幸はこれを拒否、ならば人質をとの秀吉の要請も拒否。

   なぜ昌幸は秀吉の要請を拒否続けたのか。沼田領が北条軍の攻撃を受けており上田を留守にできなかったこと、秀吉に沼田・吾妻領を取り上げられると危惧していたと考えられます。沼田領問題で秀吉の安堵の確約と徳川・北条両氏に対する停戦命令がない限り昌幸は上洛できないと考えていたのでしょう。

   秀吉はこれを大いに怒り、昌幸を「表裏比興之者ひょうりひきょうのもの」と指弾して、八月三日、昌幸の庇護者上杉景勝に対し家康に命じて成敗すると報じた。そして真田領に在陣する上杉軍に昌幸の支援をさせぬようにと言い渡したのである。

   八月六日、秀吉は家康に真田昌幸成敗を命じた。史料でみる限り、秀吉は本気で真田昌幸を潰すつもりだったらしい。危機感を覚えた昌幸は上杉景勝に秀吉への取りなしを必死に依頼した。恐らく景勝の取り成しが奏功したのであろう、八月七日真田成敗の意向を覆し家康に真田昌幸との問題の仲裁をすると伝え、家康も真田討伐を中止した。

   秀吉が真田成敗を中止した理由は、①秀吉は、真田問題を利用して家康との信頼関係を構築し、家康に上洛を促した、②真田討伐を家康に実行させれば、東国における徳川・北条氏の力が増し、軍事バランスが狂う、③真田を対徳川、北条の緩衝地帯とすることの方が政治的・軍事的にメリットが大きい、④真田昌幸を従属下に置く上杉景勝の説得工作の成果、⑤景勝の面子を考慮した秀吉の配慮、などが考えられるであろう。》

  このあと「豊臣政権下の真田信繁」となります。その「真田昌幸上洛す」以降はこの次にします。


鉄火起請のこと。

2016-04-05 15:08:18 | 「真田丸」

「真田丸」第12回「人質」に鉄火起請の場面が出てきます。NHKの関連HPに解説されています、これです。鉄火起請 前編     鉄火起請 後編

   今回は平山さんの本ではありませんが、『日本社会の歴史  上』(大月書店刊)にこれに関する記載がありましたので記録しておきます。

  【1607(慶長一二)年、伊勢国(三重県)津藩領の一志郡中村・大鳥村と一色村との間で、山争いの決着をつけるために「鉄火取り」がおこなわれることになった。真っ赤に焼けた鉄棒を、争いあう村を代表する者が素手でつかんで、「三宝さんぽう」(台)の上に乗せることを競うもので、神意を占う真偽判定の法である。

   中村・大鳥村の鉄火の取り手は平七、一色村の取り手は庄屋の稲垣源兵衛に決まった。鉄火は、源兵衛が取り勝った。その結果、一色村優位に境界が認められた。こうした鉄火取りは、各地の事例が知られている。負けても勝っても、やけどによる身体の損傷はまぬがれず、この方法にも、村と村との「暴力」発動がみてとれる。

   だが、この鉄火取りは、同じ「暴力」発動のようにみえても、武器使用とは違う。というのは、中村・大鳥村と一色村との争いは、主張の折り合いがつかず、津藩に「公事くじ」(訴訟)が起こされ、領主が決着の方法として、鉄火取りを指示した。この方法が選ばれたのは、それが郷村の伝統に根ざした方法で、気持ちの高ぶった村側からの主張もあったためだろう。しかし鉄火取りは、神意をうかがうとはいえ、決闘に近い。

   この現場には、「御検使」が立ち会って、勝敗を見届けている。鉄火取りが村の自力決裁(お上に頼らず村が裁いて罰する)だとすれば、藩役人は領主として判定を見届ける立場にある。ここでは鉄火取りの結果で決めさせているが、藩役人が立ち会うことでしだいに領主支配の制度や法令(法度はっと)によって裁判するという方向が見える。無事(太平)の時代の民衆は、自力決裁の力を放棄していくが、代わりに現れたのは、たんに武力で押さえつける支配ではなく、「公儀御法度」(幕府の法令)を基準にした、訴訟と法制による取り調べを取り入れた支配であった。

   村社会も、直面する紛争については危険な解決方法を選んでも、人的な犠牲をともなう方式からの脱却を望んだであろう。ただ、1619(元和げんな)年会津藩領(福島県)の鉄火取りでは、耐えかねて鉄火を落として負けた松尾村代表の清左衛門は、制裁として首胴手足を切り離され別々に埋められたという記録が残されている。こうしたことをへて、民衆は、自力決裁による紛争の解決が過酷な「暴力」の手段をともなうため、それから解放された社会を待望したのである。】

  この文に関して少し説明が必要でしょう。これは『日本社会の歴史』のうち「近世」の最初の部分です。その章は「下剋上の乱世から惣無事の世へ変わった」、〈郷村の「暴力」の封じ込めへ〉という節にあります。

「郷村の暴力」とは戦国時代各大名が権力の奪い合いに力を取られ、社会の治安という公的な働きが機能しなくなってきたため各郷村では自力で紛争を解決するようになったことです。それは各村の相互が「暴力」の発動によって行われたのです。

1609(慶長一四)年、二代将軍秀忠が出した「覚」には、

【郷中にて、百姓ら、山問答・水問答(山林の持分や水利権をめぐる争い)につき、弓・鑓やり・鉄砲にて、互いに喧嘩いたし候者あらば、その一郷、成敗いたすべきこと。】とあります。

  武士社会は「一所懸命」でした、同時に百姓にとっても生産地を守るために「一所懸命」だったのです。  


「第一次上田合戦」拾い読み ー2ー

2016-04-04 14:09:18 | 「真田丸」

   昨日、【徳川家康は、真田征伐を決意し、八月八日】と書きましたがいきなり日付だけでは私があとで分からなくなりますので年号が入っている記述を入れておきます。

   昌幸と家康の対立は沼田城をめぐるものであったことはドラマに譲るとしてその後、

【 もはや徳川との決戦は不可避となった真田昌幸は、海津城代須田満親を通じて上杉景勝に帰属交渉を持ちかけたのである。その結果、景勝は積年の宿怨を超えて、昌幸の帰属と支援を了承したのである。景勝は、天正十三年七月十五日、真田昌幸に九ヶ条に及ぶ起請文を与え、その帰属を容認した。】

   天正十三年は西暦では1585年です、ついでに七月十五日は8月10日になります。分かりやすく書けば、天正十三年七月十五日(1585年8月10日)、真夏の盛りです。

  そのはじめの三ヶ条は、

【 一、今度再び上杉方に忠節を尽くすことになった以上は、何か手違いがあったとしても見捨てることはない。

   一、敵(徳川・北条氏)が攻めてきたら、そちら(上田・真田)方面はいうに及ばず、沼田・吾妻方面へも援軍を派遣する。

   一、今度は何か密謀があるとの噂が立ったとしても、よく調査して関係継続に務める。】

   原文は当然古文でしょうがこうして読めるとドラマの景勝と昌幸の顔まで浮かんできてなかなか面白いですね。

   起請文ではこのあと海津城代須田満親を通じて真田昌幸に指示がいくこと、沼田をはじめ吾妻・小県郡や坂木庄内の知行安堵、佐久郡、甲州のどこか一郡に上州長野一跡を与えること、更に屋代秀正の跡を与える、と記されています。特に屋代秀正の跡について、史料にもとづき考察を重ね、

【『管窺(かんき)武鑑』『真武内伝』は、屋代領三千貫のうち、千貫文を弁丸(信繁)に与えたとあり、これは恐らく事実であろう。】

【このように、真田弁丸は父昌幸とは別に、上杉景勝より八代旧領を与えられていたと推察できる。このことは、景勝と弁丸が主従関係を結んでいたことを示す。つまり、弁丸は当初は確かに人質として差し出されたのであったが、すぐにそれは主従関係へと、つまり出仕へと切り替えられたのではなかろうか。(略)

   かくて弁丸は、上杉家臣として軍勢を引率する一手役(寄親)になったと推定される。この資格で、弁丸は第一次上田合戦に参戦したのであろう。】  

  ドラマでの信繁の「人質」から「決戦」参戦への動きが理解できます。


「第一次上田合戦」拾い読み ー1ー

2016-04-03 23:19:22 | 「真田丸」

「真田丸」、今夜は第13回「決戦」で第一次上田合戦。60数年前上田にいる頃はこの合戦のことばかりか、かの有名な秀忠軍を撃退した第二次上田合戦も頭にありませんでした。高校の応援歌に「関八州の精鋭を ここに挫きし英雄の」と歌われていたその範囲のこととしての記憶でした。

   今回のドラマを機に物語としてではなく、出来るだけ史実としての「真田」と上田城を知ろうと思います。幸いドラマも大筋史実を重んじているとのことですのでテレビを楽しみながら平山優さんの『真田信繁』を主なテキストにしてメモしていこうと思います。

【 昌幸が離反したことを知った徳川家康は、真田征伐を決意し、八月八日に甲斐国甲府に在番していた平岩親吉(ちかよし)に甲斐の武士を動員するよう命じ、信濃小諸にいた大久保忠世(ただよ)の指図のもと、ただちに出陣するよう指示した。

   徳川家康は、八月二十日に、伊那衆小笠原・松岡・下条らに小県郡への出演を命じ、大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠らと合流させ、真田昌幸打倒に向けて万全の態勢を整えた。

   甲斐・信濃衆混成の徳川軍は、八月二十六日に小県郡禰津に進出した。これには佐久郡・諏方郡の諸士も参加しており、(略)三河衆と、駿河衆……総数七千人余を数えたとされる。対する真田昌幸軍は、騎馬二百余騎、雑兵千五百余人を始めとする総数二千人余に過ぎなかったと伝わる。

   徳川軍が、八月二十六日には禰津に着陣すると、昌幸はただちに、徳川軍襲来の情報と援軍の派遣を海津城代須田満親に要請した。ところが、須田満親は思わぬ困難に直面していた。真田を支援したくとも、北信濃衆の上杉方国衆が極めて手薄であり、徳川に対抗するには兵力が不足していたのである。

(略)

   この事態を景勝も重視しており、八月二十六日に、同じく北信濃の本領に残留していた市河信房・~らに対し、須田満親より要請があり次第、ただちにこれを支援するよう命じた。ところがこの時、景勝は市河ら北信濃衆に対し「各十五以前六十以後被申付」との動員を指示している。これは十五歳以前の子供と、六十歳以上の老人をかき集めて軍勢に仕立て上げ、真田を支援するよう命じたものである。それほど北信濃の上杉方は兵力が払底していたのであり、事態は極めて深刻であったというよう。】