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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

真田信繁も黒田官兵衛も。

2016-06-17 19:16:58 | 「真田丸」

   素人が寝転がってテレビを見、寝転がって本を広げ、あれは史実と違うとかつぶやいたのが一昨日の「真田信繁か黒田官兵衛か」でした。本当は、という話も寝転がってタブレットをいじっていて分かったような気分になったのですから、かなりインスタントです。

  さて「digital.asahi.com」にこの件に関する三谷さんの話が載っていました。話の前半を省いて関連部分を、

このなかの「つい最近になって分かったこと」に関連していると思いますのがこのブログのコメントにありました。読んでいただきたいと思います。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/29a8a73af1ce53cebb9107231b8af973

一昨日は二者択一だったのですが、実際は両者とも小田原城に行っていたという想定でした。


真田信繁か黒田官兵衛か。

2016-06-15 21:26:09 | 「真田丸」

「真田丸」第23回「攻略」へのインターネット上発言される感想で目立つのが「信繁が小田原城へ氏政説得にむかった」ことへの異見です。多くが史実の黒田官兵衛の役を信繁に替えたことに異を述べています。

   私はこの史実も知りませんでしたので、2014年放映の大河ドラ「黒田官兵衛」の該当の回の紹介を見ました、これです。

この時は史実にもとづいて描かれ、官兵衛こと岡田准一さんの勇姿が、

このドラマは一度も見ていませんでした。見ていたらこの映像が頭にあって信繁を以って変えることは認めえないことでしょう。

  さて「真田丸」を「できるだけ史実に近い形で描き、記録が残っていない部分だけ、想像力を膨らませ」るとしていた三谷幸喜さんがあえてこの筋書きにしたわけがある筈です。

  あゝ、あの時信繁が滅ぶべき小田原城に入り氏政を説得する場面があったから、この場面が活きてくる、というようなことになってしまう、という様に想像力を膨らませているのですが、どうでしょうか。特にそれが最終回にくるとすれば言うことなしですが……。


名胡桃城 ー4ー

2016-06-14 20:41:17 | 「真田丸」

NHKの「真田丸」ムービーで北条氏家臣・板部岡江雪斎役の山西惇さんが「名胡桃城は北条のモノ!」と「叫んで」います。

これをクリックして「聴いて」みて下さい。

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/movie/movie08.html

『戦国の活力』(小学館 日本の歴史 八 山田邦明著)に「北条領国の解体」という頁に名胡桃城が出てきますので引用しておきます。

【 九州の島津氏を服属させた秀吉は、目を東に転じ、関東と東北の攻略に取りかかった。(一部略) 徳川と上杉という東の大名との関係を固めた秀吉は、彼らの領国の東に位置する関東と東北をその管轄下におさめるべく行動を起こした。

   関東の過半を支配していた北条氏は、家康とは同盟関係にあり、秀吉に対しても反抗的な態度を示していたわけではなかったらが、結果的には秀吉の討伐の対象となってしまう。天正一七年、秀吉は北条氏政・氏直父子に早く上京せよと指示を出すが、これがなかなか実現されず、この年の冬に北条氏の武将猪俣邦憲が真田昌幸の属城である上野の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を奪い取ったことが問題にされて、討伐の理由づけがなされることになったのである。】

  この後「真田丸」では次回の「滅亡」に当たる北条氏の最期が書かれていきます、そして

【 小田原城の開城を実現させた秀吉は、奥羽の仕置を進めるべく会津まで馬を進めた。伊達から没収した会津には腹心の蒲生氏郷を入れ……。八月一二日、秀吉はようやく帰路についたが、帰り道の駿府で小西行長らと面談し、明国への出兵の準備について相談している。小田原城を包囲しながら、秀吉は大陸出兵の構想を練っていたのである。】


上田市 室賀 前松寺、煎餅。

2016-06-13 16:00:03 | 「真田丸」

  兄の葬儀でお経を上げていただいたのは上田市上室賀の前松寺の住職さん、このお寺について 「駆引」はさておいて前松寺 で紹介しました。

「真田丸」の通じて何かと注目されているようで、甥の話では寺へ入る道の角に「案内」が新しく作られたそうです。

NHKの「真田丸 」でも、

山側の古寺の感じが映されています、室賀氏の墓も

   私が兄に案内されて墓地を訪れたのは4分の1世紀以上前のことです。上に記されている「110年ぶりの整備」以前でしたから一般の墓地から裏山に入った一画に古い墓石が幾つか残っているという感じでした。

   「由来」によると「墓塔5基を寺の裏山に移し」とありますが、当時見たのはそれだったと思います。


大河ドラマは色々なところで変化を生み出しています。こんな数字も

それはこんな形で、

「黙れ 小童‼︎」せんべいです、この顔、声です。

それにしても上田では「信繁」ではなくあくまでも「幸村」なのです。


名胡桃城 ー 3 ー

2016-05-31 14:01:05 | 「真田丸」

   昨日昌幸の「あそこの城(名胡桃城)からは、沼田が丸見えだ」とのセリフを紹介し、名胡桃城と沼田城の位置を空から見てみました。

「丸見え」とは、こんな風に見えるという写真があります。

 

   左に見える利根川を境に沼田城側が北条氏、手前名胡桃城側が真田氏の領域です。

もう一枚。

昨日のGマップを更に近付けて見ます。

  この二つの城が歴史の表舞台に出てくるのが来週の「真田丸」です。

 

  平山さんの『真田繁信』の続きに移ります。

【 この名胡桃城事件は、沼田の北条方が城を奪取したのは確かだが、その詳細については不明な点が多い(黒田基樹・2013年)。事件の背景には、秀吉の裁定に対する北条氏の不満があったのは事実だが、実は真田氏も北条領に認定された地域の引き渡しを完全履行してはいなかったことが指摘されている(丸島和洋①、2014年)。

   北条氏直も、十二月七日付の条目において、上杉景勝が信州川中島と名胡桃城とが 知行替になったとのふれこみで軍勢を途中まで派遣してきたため、これを恐れた沼田から加勢の要請があったことや、真田は吾妻領のうち北条方に引き渡すべき村々から百姓を追い出し無人の状況にするなどの嫌がらせを行っていたことなどを訴えている(『戦北』3563号)。いずれにせよ、北条・真田両氏と上杉氏を含めた境目における三者の思惑と不満が、偶発的な衝突を生んだのであろう。

   この情報はその日のうちに徳川家康の知るところとなり、真田氏よりも真田信幸から家康のもとへ正式に報告がなされた(『家忠日記』)。家康はただちに秀吉に北条氏の名胡桃城奪取を報告した。真田昌幸が家康の与力大名であったから、秀吉への上訴は徳川氏を通じて行われるのが原則であったことがわかる。『加沢記』によれば、真田昌幸は当時上洛中であり、秀吉のもとにつめていたといわれ、北条氏の名胡桃城奪取を京都で知ったという。怒った昌幸は、ただちに秀吉へ北条氏の非違を訴えたとされる。】

   ここまでは平山さんの『真田信繁』の第2章「父昌幸に寄り添う」の「ニ、豊臣政権下の真田信繁」のなかの「名胡桃城事件の勃発」です。このあと「小田原出兵と真田父子」に移るのですが、その部分は後日になります。


名胡桃城 ー2ー

2016-05-30 21:09:00 | 「真田丸」

   昨日の『真田信繁』からの引用文に1字誤っていました。最後の1行は「昌幸に知行」ではなく「昌幸の知行」でした。あわせて「知行」についてWikipediaから紹介しておきます。全文は  https://ja.m.wikipedia.org/wiki/知行 で 。

【 知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。

その中で、様々な主体が担っていた所領支配は、武士の手中へと収まっていき、「知行」の語は、武士が主君から給付・安堵(保証)された所領を意味するようになった。知行面積=知行高は、主君が武士に賦課する軍役の基準となり、その知行高の算出は、戦国期においては貫高により表された。江戸時代になると、知行高は石高で示された(一部では永法も用いられた)。平和で安定したこの時代、知行高は、厳格な体系を持つ武士内部の身分指標の役割を持つようになった。】

  以下『真田信繁』からに引用の続きです。

【 真田が失う沼田領三分のニに相当する分は、徳川家康が替地を補償することにした。また秀吉は、北条氏がこの裁定を受諾し、さらに当主氏直が上洛するとの誓約書を提出すれば、ただちに上使を派遣して沼田領裁定を確定させることを約束すると言明した。

   北条氏はこの裁定に大いに不満で、沼田領全域の割譲を強く主張したが受け入れられず、逆に秀吉は使者を小田原に派遣し、返答を催促した。もし拒絶すれば即開戦というのは誰が見ても明らかであった。ここに北条氏は屈服し、天正十七年六月、秀吉より提示された条件受諾を表明し、北条氏政が出仕するとの一札を提出した。

   北条氏の条件受諾を確認した秀吉は、七月に沼田領裁定の執行を実施した。沼田城には北条氏政家臣猪俣邦憲いのまたくにのりが入った。いっぽうの真田昌幸は、旧沼田領の三分の一を統括する拠点の一つ名胡桃城に鈴木主水もんどを配備したと伝わる。また徳川家康は秀吉の指示通り、真田昌幸に対し沼田領三分のニの替地として信濃国伊那郡箕輪みのわを与えた。ここは高遠城主保科正直の所領であったが、家康は保科氏から取り上げたのであろう。

   真田氏はこれを受けて、沼田領割譲によろ知行を失った家臣に対し、箕輪領で替地を宛行う作業を実施した。それは天正十七年十一月三日のことであった。この箕輪領における替地宛行状発給を開始したのは、真田信幸であった。そしてその日に、名胡桃城事件が勃発したのである。】

   このあと事件について書かれていますが、その前にこの城の位置を見ておきます。 

風船が名胡桃城、右下方の☆印が沼田城趾です。

(所在地 - 群馬県利根郡みなかみ町下津3437番地)

  来週の「裁定」では昌幸に「名胡桃城はひときわ高いところにある。あそこの城からは、沼田が丸見えだ」とのセリフがあるようです。

名胡桃城事件そのものについては、明日に。


名胡桃城 ー1ー。

2016-05-29 21:59:31 | 「真田丸」

  名胡桃城が出てくるのは来週「裁定」ですが、ドラマ「真田丸」の視聴を通じてこの城の歴史上の位置を知りました。城の名前は記憶にはありましたが北条氏滅亡に繋がるものとして理解できました。

その辺を平山さんの『真田信繁』で記しておきたいと思います。

【 天正十四年に徳川家康が上洛し、豊臣政権に従属すると、北条氏は同年十一月から臨戦態勢に入り、真田昌幸が上洛した天正十五年より小田原城をはじめ領内各地の大改修を始めた。

   その間、豊臣秀吉は、天正十五年三月から九州平定戦を実施し、島津氏を降伏させ九州の国分を完了した。そして、いよいよ秀吉は関東(北条氏)と奥羽(伊達・最上氏ら)平定に向けて動き出す。

   天正十五年十二月三日、秀吉は家康に対し「関東・奥両国迄、惣無事之儀」(関東・東北地方の戦争停止命令)の実現について一任し、敵対する勢力を「成敗」してもよいとした。家康は関東と奥羽と対峙する豊臣政権の重要な柱石と位置づけられた。これにより、徳川・北条同盟は形骸化した。北条氏は、十二月二十四日に全領国下に「天下御弓矢立」を発動し秀吉襲来に備えた。

   天正十六年四月、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎える行幸を実現させた。これは、「日本国王」足利義満による後小松天皇の北山御行幸に倣ったもので、自分の権威確立を意図したものであった。この時秀吉は、徳川家康以下の諸大名より起請文を提出させ、関白の命令への服従を誓約させた。天皇の権威を背景に天下を治める体制(関白政権)を、確固たるものとしたのである。この聚楽第行幸に際し、秀吉は北条氏政・氏直にも上洛を促したが、彼らはこれに応じなかった。秀吉は不快感を示したと伝わる。

   秀吉は、北条氏の上洛を促すべく、北条・徳川・真田三氏間で懸案となっていた沼田・吾妻領問題の解決に乗り出した。もちろん秀吉は、天正壬午の乱終結時の領土分割協定の内実は承知していた。家康は信濃佐久郡等を自力で奪取していったのに対し、北条氏は真田昌幸に敗れて沼田・吾妻領を制圧できなかったのがそもそもの原因である。だが、秀吉は北条氏を上洛させ、豊臣政権への臣従を優先させるために、妥協案を提示した。それは、上野沼田・吾妻領のうち、沼田城を含む沼田領の三分の二を北条氏のものとし、名胡桃城を含む三分の一は「真田墳墓の地」であるという由緒を考慮して、真田昌幸に知行とするというものであった。】

   名胡桃城の名前が出てきたところで、ー1ーとします。この裁定に対する北条氏真田氏の動きが名胡桃城事件へとつながっていきますが、長くなりますのでその分は明日に。


一人の民、大勢の民。

2016-05-24 22:32:27 | 「真田丸」

「真田丸」第20回「前兆」での聚楽第落首落書事件、その犯人について「民の仕業だ。大勢の民が、殿下に対して、同じ思いを抱いた。それが、あの落首になったのだ」と三成の言葉を一昨日の「つぶやき」で紹介しました。

   ドラマでは犯人としての尾藤道休の首をもっての幕引きがはかられましたが秀吉の怒りはおさまらず罪の無い近住の住民をも磔にと、それを糾す三成に切腹を、と申し渡す時、北政所寧の出現でおさまったという筋書でした。

  道休と同じ門番17人がとらえられ磔にされたことはドラマで触れられましたが、史実ではこの後も道休の住んでいた一帯が焼かれたり、住民が60余人磔になっているそうです。

   このように天下人の怒りにあえば情け容赦なく命が奪われる「民」とは、当時どういう人たちだったのか、という思いがわいてきます。その時この図が目に付きました。

  この時点での「真田丸」登場人物の関係図です。真田家など「家」毎にグループ分けされてます。左下に4人がどのグループにも入っていませんが、いずれも伊達家とか元黒田家とかで、左端上の「出雲大社の巫女 出雲阿国」だけがグループ外の人でしょう。

  誠にドラマを見ての浅い受けとめなのですが、当時の「民」とはここで描かれている枠、グループ分けに入っていない人々のことになるのでしょう。血縁関係はもとより主従関係も含めて枠外の人々ということです。

  先にあげた三成の言葉のあと信繁に、「だから殿下は、あれほど恐れたのかもしれませんね」というセリフがあります。この枠外の人々を恐れる天下人・豊臣秀吉ということです。勿論この言葉は脚本家・三谷幸喜が言わしめたことですが、不自然には聞こえませんでした。

   時の権力者にその時代の「民」への「恐れ」がどういう形で現われるか、この時代には「残虐さ」をもって現れたのですが、400年後の現代では何をどう恐れているのでしょうか。


民の目から見えてきた「前兆」。

2016-05-22 22:25:09 | 「真田丸」

   歴史上の人物というと大河ドラマの主人公として出てくる人なのでしょうが、尾藤道休とは? 今夜の「真田丸」を観なければ全く目に触れることもなく終わっていたでしょう。これからも目に触れることがないでしょう。

   今夜のTVに登場し尾藤道休を演じた俳優はどういう人なのか、多分TV画面では紹介されていたのでしょうが、この本には出てきてません。

そこで「尾藤道休  俳優」で検索したら、

   横田栄司さんという文学座の方でした。今夜の「前兆」を「予兆」と間違えていました、直ぐ気付きましたが。

   確かにわずか数分の出番でした。とはいえ役割としたらかなり大事な役でした。例えば道休と同職の門番17人が捕らえられ磔にされます。その一人一人に名前があったでしょう、どこかの古文書の中にその名は記されているかもしれませんが、その代表格としての尾藤道休です。

   役割については信繁と三成の会話から伺えます。信繁「実のところ、あの落首は誰の仕業だったのでしょう」 三成「民の仕業だ。大勢の民が、殿下に対して、同じ思いを抱いた。それが、あの落首になったのだ」

  その民の一人としての尾藤道休です。


人の恋路を……。

2016-05-15 23:11:10 | 「真田丸」

 「恋路」という文字を見て「人の恋路を邪魔する奴は……」という言葉が頭に即座に浮かんでくるのは、青春時代の邪魔された怨みつらみが深く残っているからでしょうか。具体的な事は個人情報に関わることですので公開は憚れることです。

  さてこの続き「~奴は……」の「……」の部分です。

  浮かんできたのは「~奴は犬に食われて死んじまえ」だったのですが、念の為に検索したら「馬に蹴られて死んじまえ」がでてきました。犬もありますが、馬の方が多いのです。 この言葉は七・七・七・五の口調ですから都々逸なのでしょう。だとすれば秀吉の時代にはなかったでしょう、がいつの世のことでもある感情として、どなたかが思わずつぶやいてもいい言葉です。するとやはり犬より馬の方が実感がありそうです。

全然ドラマ内容に関係なしですが、もう一つ都々逸から、

  人の恋路を邪魔する奴は窓の月さえ憎らしい 

   これは「kaeruのつぶやき」などという無粋な横書きブログで目にするより、某所で三味線の音にのせて聴いていると仮定して下さい。

  来週は「前兆」、波瀾万丈への序曲でしょう。