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葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

「第二次上田合戦の真相」その1

2016-09-11 21:53:42 | 「真田丸」

   このタイトルは平山優さんの『真田信繁』の第2章「関ヶ原合戦と上田城攻防」の第ニ節そのままです。

  その第1節が「兄信幸との訣別」ですから「犬伏の別れ」です。

   前回のタイトルを “「犬伏の別れ」はあったか” にしました。それは平山さんのこの本によって「史実としての犬伏の別れ」考だったわけです。さて今回も史実としての「第二次上田合戦」は? というところからはじまります。

  例により該当部分を引用します。

徳川秀忠の任務

   通説によると、秀忠は中山道を進んで真田昌幸を攻め潰し、しかるのちに家康本隊と合流して石田三成との決戦に参加する予定であったが、上田城に手こずり関ヶ原の決戦に間に合わず、父家康に叱責を受けたといわれている。だが果たして本当なのだろうか。これは通説的な関ヶ原合戦像の再検討にも帰着する課題といえる。この通説に疑問を提起し、秀忠の動向に再検討を加えたのが笠谷和比古氏である。以下、笠谷氏の業績に導かれながら、秀忠遅参説を再検討しておく。】(提示された説の史料について表示されていますがここでは略します。)

   ここでもやはり史実としての「第二次上田合戦」像を求める姿を感じます。歴史学者としては当然ですが、史実にもとづく歴史への理解を拡めることも学者とてあるべきことだと思い、平山さんの本を引用する次第です。

   このあと

【 実は史料を見ていくと、秀忠の任務は当初から明確で、八月二十三日付で在陣する宇都宮から岡田庄五郎に宛てた書状で、「信州(州は別字)真田表為仕置、明廿四日令出馬候」とあり、真田昌幸征討こそが彼の目的であった。同日付で秀忠は、野間久左衛門尉や平野九左衛門にもまったく同じ発言をしている。

   また八月二十八日付の黒田長政宛書状でも「信州真田表仕置」が進軍の目的だと述べている。それは家康も当然承知していたことであった。真田をそのままに放置しておけば、信濃や甲斐が危険に曝されるし、上杉景勝の動き次第では、沼田も危険だとの認識が徳川方には確実にあった。実際に信幸は、家康より第二次上田合戦直前の九月一日、坂戸から三国峠を越えて敵が侵攻する危険性を指摘され、用心するよう求められている。

   家康は、家臣青山忠成を使者として秀忠のもとへ派遣し、御諚(指示)を出している。これを受けて八月二十六日付で秀忠は、本多正純・村越直吉に宛てて「真田表之儀、少も油断申間敷候」と述べており、家康の「御諚」の趣旨が、真田昌幸討伐にあったことは明白だろう。

   さらに、第二次上田合戦の真っ最中にあたる九月九日に、秀忠が家康とともにいた伊井直政・本多忠勝に宛てた返書で、京極高知が赤坂に到着したので、こちらの作戦に参加することは延引するとのことは了解した。こちらは真田表の仕置を行った後に、近日中に上方へ向かうこととすると述べている。つまり秀忠は、上方での戦局如何にかかわらず、真田討伐に専念すればよかったことがわかる。】

   そして、

【 だが事態は急展開する。】と続くのですが長くなりました、また明日にしたいと思います。


「犬伏の別れ」はあったか。

2016-09-04 17:42:11 | 「真田丸」

  先週はお祭りでテレビを観ることなく終わり、昨日「挙兵」を観ましたが相変わらず聴きとりにくく、内容を語るにも不自由です。しかし、捨てる?神あれば助ける神あり、でインターネット上に「挙兵」のフル動画がありました。  http://www.dailymotion.com/video/x4qoecs  

   見直しして、聴き落としていたことも分かり納得したところですが、「挙兵」は一週間も前のことですので「つぶやき」ません。そこでまだ観てない「犬伏」について、タイトルの意味です。

   もし「史実として三成の挙兵はあったの?」などとは言わないでしょう、それならば「史実として “犬伏の別れ” はあったの?」というのも疑問としてあり得ないほどのことなのでしょうか。

   久しぶりに平田優さんの『真田信繁』による「つぶやき」です。

結論から書きますと、

【 犬伏の別れは後世の創作か、もしくはあったとしても、意思確認以上のものではなかったのではないだろうか。】と言い【 記して後考をまちたい。】としています。(『真田信繁』p117)

ここでいわれている【意思確認以上】とは、今の前の頁に、

【 ところで犬伏の別れは史実なのだろうか。実は、真田昌幸・信繁父子と信幸とは、これ以前からそれぞれ別々の思惑で動いていたことが史料から判明する。それを示唆するのは、石田三成・大谷吉継挙兵時に真田昌幸・信繁父子に送られた、七月三十日付書状の一節である。】

その部分を写しておきます。 

   その内容から推して、信幸は慶長四年の段階ですでに徳川方への帰属を決めていた、その段階で真田父子の東西への分立は用意されていたとみられる、としています。

  さて今夜どんな「犬伏の別れ」が観られるのでしょうか、期して待ちます。


秀吉の遺言状、辞世

2016-08-07 22:10:37 | 「真田丸」

   手元にあるはずの鈴に手を伸ばし寝台から転げ落ちる太閤秀吉、こうなると死に瀕する一老人、ただ転げ落ちながらなお床に落ちている鈴に手を伸ばし、指を伸ばしつつ息絶えるの図は印象に残りました。鈴を手にし鳴らそうという意思をブロガーに例えれば、最後の一瞬まで発信しようという姿になると、手前勝手に描くのです。

   今回は秀吉の遺言状をめぐって家康正信の企み、それへの三成側の反撃それに挟まれて意識朦朧状態の秀吉が操り人形化、見兼ねて寧々の一喝が入ります。秀吉の遺言状はこう書かれています、

こうあるわけですがそういうやりとりがあって出来たものでしょうか。

(小学館『大系 日本の歴史 8 天下統一』p340)

辞世が展示された時の写真がありました、

 

つゆとお(落)ち  つゆとき(消)へにし  わかみ(我身)かな  

                                  なには(難波)のことも  ゆめ(夢)の又ゆめ ” 

 この展示については、

https://thepage.jp/osaka/detail/20140818-00000009-wordleaf 

でご覧下さい。


枯れ木に花は咲かない。

2016-07-31 22:29:03 | 「真田丸」

   真田丸第30回「黄昏」これは「たそがれ」なのだが音読みだとなんと読むのでしょうか、「こうこん」でしょう。「たそがれ」と口にすると映画「黄昏」を思い出します、といっても観てはいないのですが、キャサリン・ヘップバーンとヘンリー・フオンダの顔のポスターが浮かびます。

   今夜の真田丸の「黄昏」はそんな静かな黄昏ではありません。豪華絢爛の花見の場で、その五ヶ月後には死んでしまう当時の最高権力者が桜の樹から落ちるという場面ですから。孫の年齢といえる我が子を喜ばせようと、桜の樹に登り「枯れ木に花を咲かせよう」と花びらを撒くという場面、足をかけた枝が折れる、猿も木から落ちるという図でもあります。

   こんなところは今夜の主要な場面ではないでしょうし、実際にも落ちたのでしょうか、落ちなかったのでしょうか、当時の記録には、

「今日太閤秀吉が(醍醐寺に)お渡りになられた。(淀公や北政所を始めとする)「女中」らもおのおのお成りになり、終日桜を御覧になられた。路次や茶屋などの贅を尽くしたあり様は、言葉では言い尽くしがたいほどである。何の問題もなく、無事に(太閤たちは)お帰りになられた。」

とあるそうです。詳しくはこちらのサイトで、

https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html   

  この記録は醍醐寺側のものですから、たとえ落ちたとしても「無為に還御せられ」ということになるでしょう。

   何れにしてももう一度老いの身「枯れ木」に「花を咲かせよう」という思いもあったであろう場面は栄枯盛衰盛者必衰の理りを象徴する場面になってしまいました。庶民の黄昏と権力者の黄昏、その違いを見せてくれた場面でもありました。 


「不信」

2016-07-10 23:40:56 | 「真田丸」

  「不信」のタイトルは秀吉と秀次のあいだのことでそれが大きな悲劇へと向かうことになってしまいます。信繁と信幸がそろっての叙任をめぐっての行き違いも描かれます。

   しかし真田兄弟の場合は悲劇へと向かいません。この兄弟の絆が取り戻される場が次回描かれるようです。前回に祖母とりが最期の言葉として「兄弟の絆」の大切さを心を込めて語っていた景が浮かびます。あわせて今回の画面にも父昌幸と三人の場が映されていましたが、この父親の存在が兄弟の絆のもとになっていると思います。

  やはり「真田丸」は戦国ホームドラマでもあります。

  秀次の悲劇は、真田兄弟に対する祖母とりや父親昌幸的な存在がいない、ホームドラマに厚みをもたらしてくれる人がいないことからきているのではないでしょうか。秀吉の出世過程は家族的絆の強化拡大であっても、その頂点が秀吉であれば、実弟秀長のあと秀吉の目となり耳となって理解を深めさせられる者はいなくなっていました。

   あわせて、政治的権力の動向がホームドラマになってしまう時代の悲劇でもあります。徳川政権になってもそれは同じ、それどころか現代にも同じ流れが政治的権力はじめ企業団体組織のなかに流れているのではないでしょうか。

  秀吉秀次の悲劇を、現代人が理解できるのは数多くの事例のなかに身を置いているからでしょう。


島津奔る。

2016-07-03 22:21:46 | 「真田丸」

   池宮彰一郎の『島津奔る』を買ったのはこの本が絶版になる前だったことは間違いないのですが、いつどこで買ったのか?

   上下の二冊もので二冊とも古本です。

   池宮彰一郎が忠臣蔵に題を得た小説を読んで次は「島津奔る」を、と強く印象に残った記憶がありました。もちろん「真田丸」の話が出てくるかなり以前の、数年前のことだったと思いますがあるいは信繁の奮闘ぶりと島津軍の敵中突破の話が重なって「読みたい!」の気持ちになっていたのかも知れません。

   この本の主題は「関ヶ原の戦い」最終段階の島津軍による敵中突破の凄まじい闘い振りを通じて九州の雄藩・薩摩藩を描ききることにあります。それだけに記述に司馬遼太郎の『関ヶ原』に類似していることを以って絶版になったことは残念です。

「真田丸」を機にあらたに読みかえして、といっても以前も上巻の3分の2位まででしたので、最初から読み出してやはり面白い!

   今夜の「真田丸 瓜売」の背景が秀吉の「唐入からいり」(明朝東征)であっただけに、秀吉主催の「全国仮装大会」の「賑やか」が朝鮮半島では負け戦に転じ始めた戦局と裏腹になって見えてきます。ドラマはあくまでも信繁の視点から見た当時の秀吉周辺ですので、この戦いの全貌は勿論島津軍の戦い振りも描かれないでしょう。

『島津奔る』には、

【 わずか七千の手勢で三十倍の敵、二十万余を完膚なきまでに討ち破り、無敵を誇る朝鮮水軍の名将李舜臣を撃破した島津の威名は、鬼神の如く敵を畏怖せしめる。】

  当時島津軍は、石曼子(シーマンズ)と呼ばれ恐れられたといいます。


小田原城攻めと逗子・葉山。

2016-07-01 23:24:37 | 「真田丸」

   逗子の郷土史家・黒田康子(しずこ)さんが亡くなってこの10月で一年になります。その10月に先生の指導を受け、市の古文書の市民的活用を求めてきた人たち(「逗子の古文書と公文書の保存と公開を進める会」略「進める会」)によって講演会が予定されています。

   主題は「神武寺を知ろう」で、神武寺副住職の土屋慈恭氏の講演が予定されています。下の写真は「進める会」の小冊子ですが、ここに黒田康子さんが神武寺を紹介した短文があります。この文章がおそらく先生が最後の書かれたものでしょう。

   

講演会の準備に向けて、神武寺について書かれたものを整理していましたら小田原城攻めの頃のことがこう書かれていました。

【 天正十八年(1590)太閤秀吉公の小田原征伐の際、その余波をうけ山内の殆どが焼失】と。

   その余波とは? 当然のことながら当時この地方を支配していたのは北条氏でしょうから、神武寺もその支配下にあった、のでしょう、と考えて……、当時のこの地域のこと何も知らないのです。

   更に、この神武寺は神武寺城ともいうべき城郭であったとのことも今日知りました。

【 昭和45年、東逗子駅北側の家号「堀の内」(桐ヶ谷政吉家)という呼び名とその背後丘陵形態が城郭遺構に類似していることに気付く。以来これを以って中世神武寺が自衛上城郭構造を構えたものかと疑い、全山の遺構に注意し神武寺の城郭としての存在を明らかにした。名越切通を中心とする城郭遺構が明らかになり、神武寺山の遺構と似ており名越城との関係が明らかになった。】

  鎌倉幕府の防衛線のひとつ「名越の切通し」との関係でも城郭としての位置付けは十分考えられます。鎌倉の玉縄城は小田原城攻めの際、徳川家康によって攻められ降伏したとありますから、あるいは神武寺も家康軍の手によって焼かれたか? その辺をもう少し勉強したくなります。

『葉山町の歴史とくらし』には、

【 天正18年(1590)、ついに豊臣秀吉より小田原城および北条方の諸城への攻撃命令が出されました。葉山地域の住民たちも戦闘要員として駆り出されました。】 とあります。

   大河ドラマ「真田丸」もそれ自体面白いのですが、こうしてわが町に引きつけてみると、僧兵だった神武寺の坊さんや戦闘要員にさせられた葉山地域の住民(農民)の姿が見えてきます。大きな変革期にはその枠外で人は生きてはいられなかったのでしょう。


「別離」大いなる別離へ向かって。

2016-06-27 20:17:34 | 「真田丸」

「別離」という題から言えば鶴松の病死、利休の切腹、秀長の病死という主人公信繁にとっての別れがありました。

   NHK出版の『真田丸 前編』「略年表」によると第1回「船出」は信繁を16歳としてえがき、最後の第50回が1615年49歳です。今回の舞台になった天正十九年(1591)は25歳でした。前半の25回で信繁の10年間が描かれ同時に信繁の生涯の半生が描かれてもいました。そのなかでも第14回の「大坂」からはじまった信繁の活躍舞台は秀吉の馬廻としての日常で、この形は次回以降も続くようです。

 『真田丸 後編』による「あらすじ」の第29回「異変」でその最終部分を、【 文禄五(1596)年閏七月十三日未明。これまでにない大地震が伏見を襲った。  信繁は真田屋敷を飛び出し、秀吉のもとへと急いだ。秀吉の最期と、豊臣家の行く末を予感させる不気味な揺れだった。】と結んでいます。

  この後の21回分で《秀吉の最期、「関ヶ原の戦い」に伴い「犬伏の別れ」や「第二次上田合戦」から信繁と昌幸の「九度山蟄居」、昌幸の死、信繁九度山脱出大坂城入城、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」そして信繁戦死》が描かれるのでしょう。まさに波瀾万丈の時代劇絵巻が展開されます。

  それだけにこの間の信繁が見聞きする秀吉とその周辺の描き方が、かなり細かく長く描かれているなぁとの感じがします。そして脚本を担当された三谷幸喜さんのインタビューが思い出されました。

  こうあります、 天正壬午の乱が終わると、大坂城の群像劇が始まります。「人たらし」と言われ、天性の陽気キャラだった秀吉が、次第に暴君に変わっていく過程を丹念に描き、馬廻衆として秀吉のそばにいた信繁の視点で、石田三成や茶々といった秀吉周辺の人々を描写します。大坂の陣で、なぜ信繁が豊臣方についたのか、命をかけて秀頼を守ろうとしたのか。その秘密を解くヒントが、若き日の大坂時代にあると、僕は思っています。】 

   波瀾万丈のなか信繁の言動に必然性をもたらし、視聴者に歴史のなかからひとりの武将の姿を蘇らせ、そして歴史のなかへ多くの人々とともに別れさせる「大いなる別離」に向けて、ひとつ一つの「別離」が描かれていくのだと思います。


続・「関東惣無事」と「滅亡」

2016-06-20 16:00:19 | 「真田丸」

  『大系 日本の歴史 8 天下一統』は1988年10月刊ですが同じ出版社・小学館からその30年後に『日本の歴史 八 戦国時代 戦国の活力』が出されています。

   著者も違いますので内容が異なるのは当然でしょうが、同じ時代を取り扱っているので読み比べると面白いです。と言っても拾い読みをしているだけですから、中身の浅い感想になりますが「関東惣無事」についていえば『天下一統』の方は昨日紹介した通りですが『戦国の活力』には目を通した範囲では一言も出てこないのです。

追伸 見落としがありました、一ヶ所ありました。

左側に【「惣無事令」違反だと言いだしたのである】と、北条氏に関係するものではなく、伊達政宗に対するものです。


 どちらがと言えば『天下一統』の方が読んでいて納得させられます。信長から始まった天下統一のなかで「惣無事」ということが言われはじめたようです。「惣無事令」についての評価には異論もあるとのことですが、素人としては信長秀吉家康と「天下統一」の動きのなかで支配の制度化をつかんでおきたいと思います。各大名の動向を理解するうえで「惣無事」の説明は必要でした。

では『天下一統』の昨日の続きの前に、

これについては、

【 関白政権における東国政策の責任者は徳川家康が主役となり、上杉景勝は脇役にかわった。そして、九州のばあいと同様に二人の大大名を前面に立て、しかし、政権の奉行衆が秀吉の意を体しながら二人とときに相談し、ときに監視しつつことをすすめるという点で、よりととのった方式がとられるようになった。この関係はまだ完全に制度化されていたわけではないが、あえて図式化するとすれば】としたものです。


   昨日は【 以後の政治史は惣無事令の執行をめぐって展開する 】で締めました。そのあと、

   京の都に伝えられていた「東国の二つの紛争」は、信州上田の真田昌幸をめぐる問題、それに奥州会津の蘆名氏をめぐる問題でした。ここでは真田昌幸関係だけ引用しておきます。

【 天正一四年暮、秀吉の裁定があり、他の信州大名とともの(真田昌幸が)家康の麾下に入り、知行は秀吉によって安堵されることになったが、沼田領問題はかたがつかなかった。当事者である北条氏が豊臣政権に服属しておらず、上野国は政権の版図の外におかれていたからである。

  関東・奥羽を対象とした惣無事令の発動は、北条氏の服属問題を浮上させ、したがって、沼田領をめぐる紛争を政局の焦点にのぼせることになった。

(奥羽における蘆名氏と伊達氏との紛争の経緯に触れたあと)

   惣無事令の発動は二つの紛争を焦点とし、北条・伊達の二大大名の服属を主たるテーマとしながら、関東・奥羽の戦国時代を終わらせる方向へと社会を動かした。】

【 北条氏の滅亡】

【 室町幕府(=京都政権)とは離れたところで独自に領国形成を行なってきた北条氏は、惣無事令に接してもその新しい意義を理解できなかった。むしろ、領国に総動員令をかけて防戦の準備をすすめ、あいかわず戦国大名的な運動を、対応を示した。

「小田原評定」の名がのこされているように、城内の北条氏は和戦の対応決定が長引き、おくれをとった。このあたりにも、戦国的な家臣団統制のあり方を変革できなかった北条氏の「古さ」がのぞいている。】

  このあと北条氏の滅亡が書かれ、次いで伊達政宗の服属に触れて、

【 伊達と北条とのちがいは、政宗はともかくも秀吉の裁定に服する姿勢を示したことが第一、惣無事令の執行をまかされた家康以下による支持が第二、そして第三にわずかな家来を連れただけで堂々と弁明した政宗の人物を秀吉が認めたことがあげられよう。】


「関東惣無事」と「滅亡」

2016-06-19 22:45:51 | 「真田丸」

「真田丸」第24回 「滅亡」は北条家の滅亡を描いていますが、そのキーワードは「関東惣無事(令)」です。NHKの次の「歴史解説」に書かれています。「歴史解説「関東惣無事」 。

それに関連して『大系 日本の歴史 8 天下一統』にはこう書かれています。

「関白の平和」の下の方に書かれているのは、

【 九州の島津・ 大友氏間の紛争と奥羽の伊達・蘆名氏間の戦いに終止符を打たせた秀吉は、関東に北条氏を破ってついに天下を組み伏せる。秀吉による新しい「平和」支配の方法を戦国大名の終焉に対比させて描く】とあります。

文中の「惣無事」に関係する個所を抜き書きしておきます。

【 天正十五年(1587)暮、関東および奥羽地方の諸大名にたいし、いっせいに関白秀吉の直筆が発給された。(略)

「関東惣無事のことを家康に命じたので承知せよ。そむいたなら成敗する」というのが直筆の内容である。(略)

「無事」とは「有事」の反対で、平穏で何事もない状態をいう。この直筆(は)関東・奥羽地域における領土紛争の全面的停止を命じたもの…。

ここでは、それが徳川家康にまかされている。

   家康が上洛して秀吉に臣従の礼をとった際、両者のあいだで東国の諸問題が話し合われた。秀吉は「関東の儀、家康と談合せしめ、諸事あいまかす」と、関東の処置は関白政権の統轄のもと家康に処置させるとの方針を言明した。

関東・奥羽惣無事令は、この地域における武力紛争の停止とその平和的解決を関白政権の裁定にゆだねることをめいじたもので、徳川家康がそれをとりまとめにあたることになったのである。以後の政治史は惣無事令の執行をめぐって展開する。】

北条氏滅亡との関連でもう少しありますが、明日に回します。