ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 08/18

2017-08-20 08:58:28 | ツイッター
お早うございます。主の平和。8月18日、金曜日。宗像市は気温25度、最高30度、ただ今室温28度。ところにより曇り。10時半に就寝、熟睡、6時起床。体温:36.4、血圧(120:80、79)。体調:快調。チュンチュン

26 丹羽 一二さん、井形裕子さん、他24人
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藤木 冨士子 おはようございます。

萩野 秀子 おはようございます。歯科クリニック、母の見舞いです。守られますようにお祈りします

村田 多鶴子 おはようございます~♪
孫ギャングを迎えて、なかなか予定通りに動けません(T_T)
先生ご夫妻がお守りの内によい一日をお過ごしになられますようにm(__)m

東山 富昭 こんにちは😃。大阪は雨☂️が降ったり、やんだりしています。年金が支給されたばかりですが、必要経費も節約したいです。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

小貫 ツマ こんにちは。東京は午前は曇り、午後2時半、今にも降り出しそうな状況です。こちらの内科医院は夏休みを8日も取り、うっかりしていた私は薬切れが7日もあったのですが、心配はないとのことで、❓❓(私は心臓、肝臓、腎臓が良くないのですが)元気に歩けるので感謝です。

久保和男 こんにちはです。主の平和。

文屋 善明
8月18日 5:58 ·
昨日の日誌
午前:家内は整骨院へ。私は断想の仕上げ。今週はかなり手こずりました。
午後:昼寝10分。読書、ヘーゲル。
夕方:釣川散歩。
夜:「刑事7人」、「黒革の手帳」、報ステを見る。トランプのアメリカが危ない。それにつられているアベ日本も危ない。10時半就寝。

23 宮田 真也さん、丹羽 一二さん、他21人

文屋 善明
8月18日 6:02 ·
お目覚めの花。なんだかんだでもう金曜日だ。今朝の花は昨日の散歩道で見かけました。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外、自然

34 小貫 ツマさん、宮田 真也さん、他32人
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若月 新一 おはようございます。

杉浦 紀明 梅雨時のこの花が今どき咲くのはやはり気象異変ですね。

小貫 ツマ 私はカナダのサスカチ🇨🇦ワンというところに行ったことがあるのですがこれに似た花が咲いていました。「サスカチワンリリー」と言って州の花になっていて、この花の革製のブローチを頂きました。

岩城 真紀子 万葉の花、忘れ草ですね。この世の辛さを忘れさせてくれるほど美しい。からきたそうです。サスカチワンリリーカナダではそう呼ばれてる?同じものでしょうかね。学名は確かヘメロカリス。
我が家の庭に毎年咲くのに、今年はまだ咲きません。どうしたのかしら、折角退職して帰って来たと言うのに、私のこと忘れてしまったのかしら。思い出の花なのに・・・。

文屋 善明
8月18日 6:24 ·
2017 日々の聖句 8月18日(金)
あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)
イエスの言葉:渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7:37~38)
私の黙想:
預言者イザヤと水との関係は深い。アッシリアの攻撃を受け、北のイスラエルはあっさりと占領され、最終的には歴史から姿を消したが、その時、預言者イザヤは徹底的な抗戦を主張し、籠城することになったが。籠城するものにとって絶対に必要なものは「水」である。そこでイザヤの勧めにより秘密の泉から場内に水を引いた(イザヤ8:5~10)。それがヨハネ福音書に出てくる「シロアムの池」であり、これによって守られ、囲んでいたアッシリア兵は諦めて退散したという。このとき、人びとは言った。「神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから」(イザヤ8:10)。「インマヌエル」という言葉は旧約聖書ではイザヤ特有の言葉である。それは具体的には「私たちの中には命の泉がある」ということに他ならない。

25 丹羽 一二さん、越山 香菜子さん、他23人

文屋 善明
8月18日 6:35 ·
今日の名言:@Hegelbot
自然状態はむしろ不法の状態、暴力の状態、制御されていない自然衝動の状態、非人間的行為と感覚との状態である。(ヘーゲル)
<一言>ここでいう「自然状態」とは精神(神の霊)によって制御されていない状態を意味する。そこでは人間は野獣である。人間は精神によってコントロールされて人間になる。カントはそれを「理性」というが、ヘーゲルは神の霊(精神)という。

17 丹羽 一二さん、岩城 真紀子さん、他15人
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Daniel Corl 自然状態は暴力の状態。.....ホッブズを想起させます。

文屋 善明
8月18日 6:39 ·
現代文イミタチオ・クリスチ
第8章 聖餐式における奉献(B)
キリスト:
愛する者よ、君たちが私に関係のないものをどれほど持っていようと、君たちは満足しないであろう。それと同様に、私は君たち自身を捧げない限り満足しない。
よく考えてみなさい。私が君たちのものになり、君たち自身が私のものになる。そのために、私は私の肉と血とを食ベ物として君たちに与えた。それにもかかわらず、君たちが君たち自身を、私のものとして捧げないならば、君たちの奉献は完全ではないし、君たちと私との一体化も完成されない。あなたが神の恵みと心の自由とを得たいと思うならば、あなたのあらゆる行為に先立ってあなた自身を進んで神のみ手に委ねなければならない。内心を照らされた人が少ないのはこのためであって、それは自分を全く放棄することを知らないからだ。私がかつて告げたあの宣言は、今なお決定的である。人はその所有する一切のものを捨てないかぎり、私の弟子となることはできない。(3:8:4~9)

16 宮田 真也さん、丹羽 一二さん、他14人

文屋 善明
8月18日 6:48 ·
松山先生、私の尊敬する僧侶です。死は孤独なものだ、で済ませるわけにはいかない。だからと言って「孤独死」を讃美したり、社会的に放置することを認めるわけではない。もっと本質的に死につて考える契機にはなる。
画像に含まれている可能性があるもの:1人、スマイル、テキスト
松山 大耕
8月17日 22:32 ·
「孤独死」は本当にいけないことか

この度、京都新聞夕刊一面「現代のことば」で
1年間連載をさせていただくことになりました。
40名ほどで週末を除く毎日交代で担当するので、
だいたい年に7回ほどの連載になる予定です。

初回ではありますが、かなり踏み込んだ内容にしました。
京都新聞は本当にすばらしい新聞で、
私が最も好きなメディアのひとつなのですが、
今回のコラムも差別的・反社会的でなければ
内容はすべてお任せになっています。
いわゆる「忖度」せずに自由に書けるので、
さまざまな議論やお叱りもあることを想定しつつ、
率直に自分の思いを表現しようと思います。

「孤独死」は本当にいけないことか。
宗教者はもちろん、いろんな方に
じっくり考えていただきたい問題です。
早速、大勢の方から反響をいただきました。
是非、ご一読くださいませ。

~~~~~~~~~~~

「孤独死」は本当にいけないことか

先日、知り合いの医者から
「患者を看取る際、不思議なことに孤独死といわれて亡くなった人のほうが病院で亡くなる人よりも穏やかな死に顔をされていることが多い。孤独死はなぜいけないのか。」
と質問された。
私も同じ問題意識を持っており、先日、ゴリラの専門家である京都大学の山極総長に話したところ、「生物の一番自然な死に方は餓死だ」とおっしゃった。実は、昔の禅僧も自分の死を意識した瞬間から一切の飲食を絶ち、辞世の句を遺して、数日すると自然にすーっと息を引き取った。思うに、単独で亡くなられた方は、そういう亡くなり方をされた人が多いのではないか。
 山極総長は「人間の定義は宗教を持っていることだ」ともおっしゃった。すべての生物で将来自分が死ぬことを知っているのは人間だけ。死ぬことを理解しているから人生を逆算して不安が生まれる。その不安を解消するために存在するのが宗教だというのだ。
 釈迦の教えに「四苦(生老病死)」という概念がある。人類永遠のテーマだが、私は最近この4つの苦のバランスが変化していると感じている。先日、友人の医者が「この薬を飲まないと死にますよ」と言ってもなかなか飲んでくれないが、「この薬を飲まないとボケますよ」と言うと、だいたい皆さん飲むのだと言っていた。「死」よりも「老い」を苦しみと考える人が増えているのであろう。
 本来、日本では「ライフエクスペクタンシー(平均余命)」という概念ではなく、「命を寿(ことほ)ぐ」というのが、寿命であった。しかし、現代では過度な延命治療や認知症などさまざまな問題で本来の意味で命を寿ぐことが難しくなっている。これまでの医療は病気を治すことが前提だったが、今後は「見守る」スタンスの医療も大切になっていくのではないだろうか。
 マザー・テレサは「愛の対義語は憎しみではない、無関心だ」とおっしゃった。まさにその通りで、誰からも何とも思われていないことは一番辛いこと。人の死に方はそれぞれで、大切なのは、孤独死というものが「場所の問題」ではなく、「心の問題」だということだ。一人で亡くなったとしても、普段から近所付き合いがあったり、家族に愛されていた人であれば寂しくないかもしれない。病院にいて安心する人もいるだろうが、逆に孤独を感じている人も大勢おられる。
 不死身の命はありえない。自分が納得した締めくくり方として、無理せず死を迎えるという選択は、いまの医療界でも政治の世界でも議論を起こすのは難しい。だからこそ宗教界から提案すべきだと思っている。食べられなくなったら最低限のことを行って、後は見守る。確かに、難病や不慮の事故で亡くなる方も多い中、すべての人がそういう亡くなり方を選択できるわけではない。しかし、死の在り方として、こういう人生の締めくくり方も選択肢として広く認められるべきだと思う。

妙心寺退蔵院 副住職 松山大耕

21 宮田 真也さん、丹羽 一二さん、他19人
コメント

文屋 善明 結局、私の死とは、私自身との戦いにおいて、力尽き、私の人生は「ここまで」と諦観することだと思う。そこには私以外の誰も立ち入ることは出来ない。

播 稔 立ちいるのは神だけ、霊だけ天に持っていく。

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
8月18日 7:04 ·
1年前に考えたこと。真面目すぎる天皇。
1年前
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文屋 善明
2016年8月18日 ·
これは愉快だ。実に愉快だ。天皇の人間宣言以上に愉快な話である。「働く天皇」そんな姿を「反骨の元外交官・天木直人のメールマガジン(2016.8.18)が伝えてくれている。

タイトル「自らパソコンを打ち込む天皇陛下の姿に思いを馳せる」

<以下本文>
全国戦没者追悼式を報じる8月16日の各紙の記事の中で、東京新聞
に次のようなくだりを見つけた。

「・・・元側近によると、陛下はお言葉を自らパソコンで書いてい
る。宮内庁関係者は『完成原稿まで推敲を重ねられる。お疲れになるはず』と心配する・・・」

もし、これが事実なら、8月15日の戦没者追悼式のお言葉も、その
前に公表されたあの「生前退位」のお言葉も、天皇陛下が自ら書かれたお言葉なのだ。
誰かが草稿を書いたり、助言したりそしてそれを誰かが修正したり
することはあっても、天皇自らがパソコンに向かい合ったのだ。

その姿を想像し、思いを馳せながら、私もパソコンの前で書き続けよう。そう決意させてくれた東京新聞の記事である(了)

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44 安田 信夫さん、増野 真美さん、他42人

8 Kunio Mitsumoriさん、Izumi Naraさん、他6人

文屋 善明
8月18日 8:15 ·
「昨日のFB 08/16」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

14 岩城 真紀子さん、安井 郁夫さん、他12人

文屋 善明
8月18日 8:30 ·
「断想:聖霊降臨後第11主日(特定15)の旧約聖書(2017.8.20)」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

14 宮田 真也さん、岩城 真紀子さん、他12人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
8月18日 14:13 ·
知らない人も知っているが忘れたふりをしている人も多くなってきたようなので再掲載する。これがいわゆる京都学派の戦争協力であった。
2年前
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文屋 善明さんが写真3件を追加しました。
2015年8月18日 ·
高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高による座談会の記録『世界史的立場と日本』(中央公論社)

この4人で行われた3回の座談会が、太平洋戦争のスローガンとなった「大東亜共栄圏」の思想的バックボーンであった。第1回の座談会は昭和16年11月26日の夜に行われた。この13日後、12月8日、「大東亜戦争の大紹渙發」、つまり宣戦布告がなされた。この座談会は中央公論誌の昭和17年1月号に「世界史的立場と日本」というタイトルで発表された。これが大変な評判となった。勢いのある初戦の状況のなか、同年3月4日に「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」という主題で、同じメンバーによって開催され、中央公論の4月の発表された。その後、少し間をおいて戦局は芳しくない状況において昭和17年11月24日、「総力戦の哲学」というタイトルで行われ、昭和18年1月号に発表された。当初、これが一冊の本として出版される予定はなかったが、世論の強い要望によって纏められたのが、この本である。初版は昭和18年3月25日である。この4人が西田幾多郎、田邊元に始まる京都学派の第2世代である。

この度、思うことがあって、この本を再読し始めた。なお、「大東亜戦争」という言い方は、戦争を始めた時の「動機」に基づく名称で、現実に「大東亜共栄圏」というものが存在したわけではないので、通常は「太平洋戦争」という名称を用いる。

15 宮田 真也さん、越山 香菜子さん、他13人

文屋 善明
8月18日 19:44 ·
今日の「折々のことば」は美術における「印象派」の美術論を述べているものであるが、学問というものの本質を語っている。つまり、科学にせよ、哲学にせよ、「見たままの事実(ファクト)」を対象としていると思われているが、実はそうではなくて、見た事実がいったん人間の心(記憶)に収められ、その記憶(印象)を再構成したものが「リアル」として取り上げられている。自然科学の場合は「数値によって捕らえられたデーター」が科学的事実である。
画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

24 宮田 真也さん、丹羽 一二さん、他22人
コメント

植村 光郎 動きを捉える難しさに楽しみを見るドガの言葉。動きを見事に移す

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