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ぶんやさんの記録

断想:復活節第4主日(2018.4.22)

2018-04-20 08:30:10 | 説教
断想:復活節第4主日(2018.4.22)

「良い羊飼い」の説教   ヨハネ10:11~16

<テキスト、私訳>
先ほどの実例に戻りますと、私は良い羊飼いなんです。良い羊飼いとは羊のために命を捨てる覚悟が出来ています。本当の羊飼いではなく、自分の羊を持っていない雇われた羊飼いは、狼が来たり何か身に危険が及びますと真っ先に逃げ出します。羊たちを置き去りにしたままです。その間に狼がやって来て、羊を襲い追い散らしてしまいます。その人は雇い人なので羊のことを心にかけていないからです。よくある話ですね。
私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っていますし、羊たちも私のことを知っています。それは父が私を知っており、私が父を知っているのと同じことです。私は羊たちのために命を捨てます。
私が身を挺してでも守らなければならない羊たちは、中庭の外にもいます。私はその羊たちも導かなければならないと思っていますし、願ってもいます。きっと、その羊たちも私の声を聞くでしょう。こうして中庭の羊たちも中庭の外の羊たちも同じ一つの群れになって、一人の羊飼いに導かれることになります。

<以上>

1. ヨハネ福音書における錯簡
復活節第4主日の福音書テキストは、A年はヨハネ10:1-10、B年はヨハネ10:11-16、C年はヨハネ10:22-30で、すべてヨハネ福音書10章から読まれる。本日のテキストに入る前にヨハネ福音書独自の「錯簡」について簡単に触れておきたい。
10章を注意深く読むといくつかの点で文章の流れに理解困難な個所がある。
先ず第1に、9章の「生まれながらの盲人」の記事から、10章の「良い羊飼い」の文章へのつながりが唐突であり、何か9章の結論と10章の導入とが欠落している感じがする。そして、その部分に10章19節から21節までを9章の「生まれながらの盲人をめぐる議論」の結びとし、22節から26節までを10章の「良い羊飼いの説話」の導入部とするとスッキリとするように思う。また、27節から30節までを15節の前半の部分に挿入するという意見もある(NTDヨハネ福音書、講談社「聖書の世界」5を参照)。こういう一塊の文章の入れ違いを「錯簡」というが、写本の場合にはしばしば見られる錯誤である。ヨハネ福音書における錯簡はここの他にも5章と6章とを差し替えた方がスムーズであるともいわれている。
さて、以上のように整理すると、イエスによる「良い羊飼い」の説教は10:1~18,30で本日のテキストはその一部分である。

(参照:
https://blog.goo.ne.jp/jybunya/preview?eid=d1182b9c15b585fc1005cfe8ca5a8143&t=17685249345ad310b72691e?0.7053404926860722、「原本ヨハネ福音書巻5と巻6」。
https://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/d13006f5e2a67c63cc29df55fdbff689、「原本ヨハネ福音書研究巻5」)

なお、この説教がなされた導入部が10:19~29で、ここではイエスをめぐってユダヤ人の間で対立が起こっている。議論は結論がないままに、イエス本人に「いつまで、私たちに気をもませるつもりなのか。もしあなたが本当にキリストなのかどうか、はっきり言ったらどうだ」と迫ります。ユダヤ人たちの問いに対してイエスは、次のように答えます。
「私はいつでもそう言っているでしょう。それなのに、あなた方がそれを信じようともしないだけじゃないですか。私の父の名において私が行っている行為そのもが私が誰なのかということを証明しているではありませんか。それなのに、あなた方はそれを認めようとしない。その理由は簡単です。あなた方が私の羊ではないからでしょう。私の羊は私の声を聞き分けることができます。私も私の羊を見分けることが出来ます。だから彼らは私についてきます。だから私は彼らに永遠の生命を与えますし、彼らを見失うこともないでしょう。また誰も彼らを私の手から奪うことは出来ません。私に彼らを与えて下さった父は誰よりも強く、だれも父の手から奪うことはできないからです」。「良き羊飼い」の説教は、これを受けて語られる。この説教の最後の言葉「私に彼らを与えて下さった父は誰よりも強く、だれも父の手から奪うことはできないからです」(10:30)という最後の言葉が神を冒涜するものであるということで、ユダヤ人たちはイエスを石打の刑にしようとしたのである(10:31)。

2. イエス殺害の動機
ユダヤ人が何時、どういうことが切っ掛けになってイエスを殺害しようと決意したのか、ということはどの福音書でも重要なポイントである。共観福音書はいずれも「ぶどう園と農夫の譬え」をイエスが語ったときに決意し(マタイ21:46、マルコ12:12、ルカ20:19)、イエスがエルサレムに入城した直後に決定したとされる(マタイ26:4、マルコ14:1、ルカ20:19)。ところがヨハネ福音書では、今日のテキストである「良い羊飼い」の説教後に最初の決意がなされ、ラザロが生き返った時に最終的決定がなされた(ヨハネ11:53)とされる。つまり、「良い羊飼い」の説教はイエスの生涯において決定的な意味付けがなされている。
何がユダヤ人にそれ程の決意をなさせたのだろうか。ユダヤ人たちはイエスのどの言葉が神を冒涜するものと思ったのだろうか。そういう問題意識を持って、「良い羊飼い」の説教を読み返すと、ここではイエスはユダヤ人たちの逆鱗に触れる重要な発言をしている。それは、イエスと神との一体感ともいうべき重要な関係である。「父とわたしとは一つである」(10:30)とか、「誰もわたしから命を奪い取ることはできない」(10:18)とか、「これは、わたしが父から受けた掟である」(同)という言葉は、ユダヤ人社会における最高権威機関である最高法院の権威を無視し、ユダヤ人たちの伝統的価値観を覆すものである。とくに、誰もわたしから命を奪い取ることはできない、という発言は、「それじゃ、命を取ってやろう」ということに直接的に関係する。
しかし、それはいわば言葉尻の問題で、最も深刻な発言は、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)という言葉であろう。これは決して羊飼いと羊との牧歌的な関係をロマンティックに語っているのではない。イエスが自らを「良い羊飼い」とすることは同時に、ユダヤ人社会における体制を「悪い羊飼い」(エゼキエル34:1)とすることで、きびしい体制批判を意味するものであった。

3. 良い羊飼いと悪い羊飼い
イスラエル宗教の伝統に従えば、主なる神が「わたしたちの羊飼い」(詩編23編)である。これが根本的な神と人間との関係である。ただ、実際に主なる神の仕事を行う人として、王があり、預言者がああり、祭司たちがいた。彼らが神の代行機関として国民を外敵から守り、食物を準備し、平和な生活を保障し、精神的に豊かにするために自分たちの生活を犠牲にしている人々であり、その限りにおいて人々から尊敬される。その意味において、人間の指導者たちはあくまでも「神の僕」として、完全に神の意志に従い、神の意志を実行する人であることが期待されていた。従って、もし彼らが期待に反して自己の利益とか権威とかをを求めるなら、「悪い羊飼い」である。

4. イエスと羊
本日のテキストに入る前に、福音書を中心にしてイエスと羊との関係をめぐるいくつかのテキストを確認しておきたい。
まず最初に、ヨハネ福音書第1章で、洗礼者ヨハネはイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と叫ぶ。また、その翌日にも同じようにイエスを見て「見よ、神の小羊だ」(1:35)と叫び、それを聞いた洗礼者ヨハネの2人の弟子たちはイエスに従うようになったと言う。その2人の弟子の1人がアンデレでイエスの最初の弟子である。これがヨハネ福音書が語るイエスという人物の在りようである。イエスを神の小羊とするヨハネの言葉は、イエスの死を理解する上で非常に重要な指摘であるにもかかわらず、この議論はヨハネ福音書では展開されていない。むしろ、この議論は使徒言行録においてフィリポとエチオピアの高官との会話(使徒言行録8:32)の中で、イザヤ書の解釈として取り上げられる。間違いなく、初代教会におけるイエス理解、特にその死を贖罪死として理解する鍵となったのであろう。パウロはロマ書において、伝道者の苦難をイエスの苦難と重ね合わせて「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」(ロマ8:36)と語る。イエスは屠られる羊であるという理解はかなり一般的であったように思われる。
次ぎに確認しておきたいことは、イエス自身が語った言葉として「飼う者のない羊」(マタイ9:36、15:27、マルコ6:34)である。ここでは群衆、特にイスラエルの群衆が羊であり、イエス自身を羊飼いとして位置づけている。ルカ福音書における「見失った羊の譬え」(ルカ15:1~7)はそのバリエイションである。
さて、この「飼う者のない羊」の中から特にイエスに従った者が「わたしの羊」と呼ばれている。ヨハネ福音書第21章で、復活者イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」(21:16)、「わたしの羊の世話をしなさい」(同17)と、ペトロに命じておられる。ペトロ自身は彼の名を冠した文書の中で、この羊についてこう語る。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の所へ戻ってきたのです」(1ペテロ2:25)。またペトロも彼の後継者たちに向かって「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい」(1ペトロ5:2)と語る。つまり、ここではキリスト者は「神の羊」であり、羊飼いはイエスご自身である。ヘブル書ではもっと明確に「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエス」(ヘブル13:20)と言う。聖職者は羊飼いというよりも、真の羊飼いであるイエスから世話を委託された者である。その意味では、旧約時代における構造と類比関係にある。

5. 「わたしは良い羊飼いである」
本日のテキストは10章の11節から16節までである。ここだけを取り上げて読むと、導入部(10:22~26)での問題と微妙なズレがある。イエスがここで「良き羊飼い」の説教を始めたのは、「あなたはキリストなのか、そうではないのか、ハッキリさせよ」というユダヤ人たちからの質問に答えるためで、その答えは、14~15節の「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と答えられている。すこし回りくどいが、羊たち自身が羊飼いの本性を見抜いている。この羊飼いは羊を飼うということに本気なのかどうか、その本気度が「羊ために命を捨てる」ということである。羊たちは羊飼いの本性を見抜いているが故に、羊飼いに従い移動する。しかし羊が他人のものという雇われ羊飼いの場合には羊はそれを見抜き従わないこともある。それと同じように、キリストを待ち望んでいる者たちには、イエスを見たときにキリストだと分かるのだ。私がキリストだということが分からないのは、あなたたちにそれを見る目がないからである。これでユダヤ人たちの問いに対するイエスの答えは完了する。
ところが、ここでは良い羊飼いは羊のために命を捨てるということが異常に強調されている。ここからこの説教がややこしくなる。
通常の羊飼いの仕事においては、野獣が襲ってきたときに、羊飼いが命を投げ出してしまったら、仕事にならない。無防備な羊を狼などの野獣などの外敵から守るために戦い、命を失うこともあるが、それは決して「良い羊飼い」の条件ではない。良い羊飼いの仕事とは「命を捨てる」ことではなく、羊を守ることである。羊飼いは強い相手に対して「必死で戦う」ことが求められている。死んでしまったら羊を守ることはできなくなる。従って、死んだら敗北である。野獣を相手にして勝たなければ何もならない。従って、良い羊飼いは「死なないために」必死で戦う技術を訓練する。それが羊のために命を捨てるという意味である。それは民族の指導者においても同様である。つまり一般的な意味での「良い羊飼い」の場合、命を捨てるというのは、それほど献身的に羊のために働くということの比喩的な表現である。
ところが、イエスの場合には、文字通り「命を捨てる」ということが特別な意味を持ち、それがイエスの人生の目的とされる。そのため、というよりそういうイエス理解に基づいて、「命を捨てる」ということを文字通りに理解し、それが「良い羊飼い」の特質とされてしまったきらいがある。つまり、良き羊飼いの贖罪論的解釈である。つまり、ここでの「良い羊飼い」の説教は、イエスの十字架以後の状況を反映している。この説教をイエス自身の説教と考えるならば、その時のイエスは「まだ、十字架以前」であり、良き羊飼いの条件として文字通りの「命を捨てる」ということは、強調されないはずである。ここで語られている「良い羊飼い」説教の情景は初代教会における牧師と信徒との関係である。

6. 偽教師問題
初代教会における深刻な問題の一つは、いわゆる「偽教師」(使徒20:29~30、2コリント11:12~15、2ペトロ2:1~3)の活動であった。当時、聖職者と呼ばれる人々はいくつかの教会を巡回して牧会活動をしており、正規の聖職以外にもかなり自由にいろいろな人々が聖職を装って諸教会に出没していたようである。従って、各地に分散している教会においては、代表的な信徒が訪問して来るいろいろな聖職者たちを見分けることが重要な役割であった。マタイ福音書では「偽預言者」(マタイ7:15~20)のことに触れているが、これは当時のそのような教会の問題を反映している。同じように、ヨハネ福音書の「良い羊飼い」の説教においても、そのような初代の教会の状況が反映している。
キリスト教信仰における理論形成がまだ未熟な頃、偽教師問題は深刻であった。使徒言行録やパウロの手紙等を見ると、肝心の使徒たちでさえユダヤ教との論争や律法論などぐらぐらしていたようであるし、それを批判するパウロ自身も怪しまれていた様子が見られる。そういう信仰内容に関する偽教師問題だけではなく、キリスト教を壊滅させようとする勢力からの攻勢もかなり激しいものがあった。パウロ自身もキリスト者への回心前はその急先鋒であったことは有名であった。回心前のサウロのように正々堂々と正面からキリスト者を捕縛し、殺害する場合は、逃げたり隠れたりしてまだ防ぎようがあった。事実、ペトロはヤコブの殉教の後、捕らえられ投獄されたが、「天使」の助けにより脱獄した後、地下に潜った(使徒12:17)ようである。このようなあからさまな迫害だけではなく、スパイとして組織に潜入し、破壊活動をする連中もいた。マタイ福音書は彼らのことを「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」(マタイ7:15)と言う。従って初代教会において「神の羊」を預かっている聖職たちにとって、偽教師との戦いは必死であった。時には偽教師たちを信じる信徒たちとの戦いでもあっただろう。一人の信徒の無責任な言動により群れが分裂したり、教会全体が壊滅する危険もあった。

7. 「命を捨てる」、逃げない
「良い羊飼い」の説教の凄さは、ここにある。良い羊飼い、つまり良い聖職者とは「羊のために命を捨てる」と言い切っている点である。では、初代教会において聖職者が「命を捨てる」とはどういうことを意味するのだろうか。もちろん、この文脈では殉死とか贖罪死を意味しない。死んだら羊を守れない。ここでの「命を捨てる」という言葉は「逃げない」ということの徹底さを示す。中途半端で逃げない。悪い羊飼いは自分に危険が迫ればすぐに逃げる。困難に直面したら簡単にその使命を投げ捨てる。羊飼いであるということが自分の生き方になっていない。ここでは「雇い人」であるからと説明されているが、羊飼いということが、いろいろな職業の中から選択した一つの職業にすぎない。
良い羊飼いは羊を守るために徹底的に戦う技術を身に付け、理論武装をする。そのために自分の全生活を集中し、献げる。それが命を捨てるという意味である。イエスが「わたしの羊を飼え」とペトロと弟子たちに命じたとき、その生き方を弟子たちに委ねたのである。弟子たちはイエスの委託に応えて、懸命に生きた。しかし時には力足らずに殉教することもあった。しかし必ずその弟子の委託を受け継ぐものが現れ、今日に至っている。

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