ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 05/14

2014-05-16 06:16:49 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。11時まで読書、『天国から締め出されたローマ法王の話』。博多に出る。初めて昭和通りの地下駐車場を使った。とても便利である。6月の聖研準備を始める。夜は「ビター・ブラッド」、沢村一樹主演の「ブラック・プレシデント」を見て11時に就寝。5時起床。体調快調、チュン、チュン。

Yutaka Tanabeさん、濱 和弘さん、神本 恭子さん、他24人が「いいね!」と言っています。

藤木 冨士子 おはようございます。体調快調に感謝します。

村田 多鶴子 おはようございます。終日、体調快調で!とお祈り致しますm(__)m

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りをします。良き日となりますように。お祈りします。
posted at 05:06:23

文屋 善明
今日の名言:RT @meigenbot:
人に小言を言われた時に腹を立てるな。腹の立った時に小言を言うな。 (同志社大学創立者)
<一言>「小言」という言葉は面白い。叱られている訳でもないし、批判されているのでもない。あるいは悪口でもない。でも、頭にくるものである。新島に「小言」を言う人間がいたのか。あるいは「小言」が言いたい相手とは誰だろう。

Yutaka Tanabeさん、濱 和弘さん、舟田 譲二さん、他21人が「いいね!」と言っています。

溝田 悟士 奥さんが真っ先に浮かびました。

文屋 善明 八重さんが小言なんか言うかな。意見があれば、堂々と正面から批判するのじゃないだろうか。

溝田 悟士 「ズケズケ叱責」すらも「多少の小言」と済ましてしまう襄の寛容さがなければ、実際には、あの夫婦もやっていけなかったんじゃないかとか、勝手に想像しています(笑)。

文屋 善明 「八重の桜」の新島(オダギリジョー)のあのとぼけたようなキャラからはそんな感じもしますね。

安田 正人 結構学生が小言を言ったのではないか・・・ドラマではそんな印象もあります・・・
posted at 06:19:05

文屋 善明
NHKこころ旅。石川県の2日目、片野海岸より。「私の未来の心の風景」は小松市今江の「前川あいさつ橋から見る白山」。工事により周囲の風景が変わり今の風景は変わり、今の風景が「未来の私の心の風景」になる。白山って美しい。本当に白いんだ。17キロ走ったから神社の前で休憩。面白い3猿。クレソンの公園。本当に「あいさつ橋」なんだ。

舟田 譲二さん、金丸 勝彦さん、鈴木 宏昌さん、他15人が「いいね!」と言っています。
posted at 07:59:00

「昨日のツイート 05/12 小泉元首相、財界と決別」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/a167c4b0f868fbb0947c0435dd9fa80…
posted at 13:40:47

失礼しました。昔からエッチふんどしと覚えていましたので、これからは越中ふんどし覚えました。RT @shokomatsu: @ybunya はじめまして。草木染工房のものです。エッチふんどしではなく、越中ふんどしです。正平さんが着けてらしたあの形のを越中といいます。
posted at 21:00:10

文屋 善明
お目覚めの花。「誰がこんな名前を付けたの」「マダムなんて、どこかの中年のおばさんみたい」「私はまだ乙女ですよ」「「いや、このマダムというのは・・・・フランスでは・・・」「いいの、ここは日本ですよ」。
文屋 善明さんの写真

竹本 耕造さん、濱 和弘さん、Yutaka Tanabeさん、他43人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 目が覚める美しさです~♪(^^♪

文屋 善明 私は「花も恥じらう18歳」という言葉を思い浮かべました。

安田 正人 マダム ヨネなんてあったら、きみまろの世界になってしまいますね。

文屋 善明
2014日々の聖句 05月14日(水)
主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは。(エゼキエル13:3)
イエスの言葉:かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは言おう。「あなたたちのことは全然知らない。」(マタイ7:22~23)
私の黙想:
職業:預言者。しかし「何も示されたことがない」。フランシスコ会訳では「幻を見もしない」と訳している。新改訳では「自分で何も見ないのに」とある。これは酷い。酷いというより言葉の矛盾である。彼の語る言葉は全て「自分の霊の赴くまま」、フランシスコ会訳では「自分の意のままに行動する」とある。それはそうであろう。彼には民衆に語るべき神の言葉を聞いていないのだから。自分の意志によって語り、行動するしかない。彼らに対して預言者エゼキエルを通して語られる主の言葉は唯一つ「主の言葉を聞け」。
主の言葉を聞くとは「自分が」聞くことである。牧師という仕事の核心は聖書において「神の言葉を聞く」ということにある。これは古文書学者が古文書を解釈するのとは次元が違う。「聞く」ためには集中力が必要である。日本語には「聞く」という言葉と「聴く」という言葉がある。通常は「聞く」はBGMのように自然に耳に入ってくることを意味し、「聴く」は耳をそばだてて、意思して「きく」ことを意味してるらしい。その意味では「主の言葉を聞け」という場合には「聴け」の方が適切であろう。むしろ、ここでは(預言者とは違って)、イエスがファリサイ派の人々に「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(ルカ10:26)という言葉を思い起こす。「あなたは」、「今」、「ここで」、「あの言葉」をどう読んでいるのか。 私自身はこの点で苦しむ。しかしこの苦しみが喜びでもある。何故なら、それが私の仕事だから。

濱 和弘さん、金丸 勝彦さん、鈴木 宏昌さん、他27人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、おはようございます。ローズンゲンと先生の黙想がないと、一日が始まりません(^^)

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