2016年元旦
聖書における「猿」についての断想
いつ頃からか、かなり前から、元旦にはその年の干支の動物について聖書でどのように記されているのか考えるようになった。今年、2016年は、「猿」の年ということで、昨年末より新聞でもテレビでも猿が登場し、またいろいろ解説されている。干支というものが、信じるに足りないものであることは、今更説明するまでもありませんが、また干支というものが日本人の生活に深く入り込んでいるということも見逃す訳にはいきません。私たちが日本で生活している限り、今年も色々なところで「猿」を目にすることであろう。それで猿についての聖書はどのように描かれているのか。
1. 聖書において「猿」が登場する場所
聖書は「猿」について、ほとんど関心がない。恐らく、(これはわたしの独断)聖書の舞台になったパレスチナ地方には「猿」はいなかったのではないかと思う。しかし、古代の碑文や彫刻には、猿の引用は結構多く、猿は一種の珍獣として尊ばれていたようである。聖書には「猿」はほとんど登場しないが、たった一箇所だけ「猿」が登場する箇所がある。
列王記上 10:22
この箇所はソロモン王の繁栄ぶりを述べているところで、イエスも繁栄ということを述べる際に、「ソロモンの栄華」ということを引き合いに出しておられる程で(マタイ6:29)、イスラエルの歴史においても最も繁栄したのがソロモン王の時代である。その繁栄の理由は彼の知恵にあった。ソロモンの知恵は全世界に鳴り響き、多くの人々が、特に各国の国王たちが競って相談に来るほどであったと言われている。有名な話では当時知恵と美貌で名声のあったシバの女王がソロモン王と知恵比べをして、「参った」という話がある。(列王記上10:1-13)
さて、その栄華を極めたソロモン王は3年に1度商船を出して、海外貿易をしていた。その時、海外から持ち帰った品目のリストの中に、「金、銀、象牙」その他と並んで「猿とひひ」が登場するのです。この品目リストは海外からの贈り物というより、ソロモン王自身が取り寄せた品物リストである。なぜソロモン王は猿などを取り寄せていたのか、非常に興味がある。恐らく猿はソロモン王のペットであったのではないか。それ以外には考えられない。知恵を愛し、知恵を求めたソロモン王が、猿をペットとしていた。ソロモン王と猿との組み合わせがなかなか愉快である。
2. 猿の知恵
猿は賢い動物である。猿は犬などと違って、道具を利用することもできる様ですし、特殊な例では鍵を開けて檻から脱出する猿もいるといわれている。猿の生態を研究しますと、人間の本性が判ると言われますが、猿の知恵は基本的には本能によるもので、模倣と経験の繰り返しの枠を越えることが出来ません。要するに、猿の知恵は猿の内部から出てくる知恵である。
3. 人間の知恵、ソロモンの知恵
猿の知恵が、本能に基づき猿の内側から出てくるのに対して、人間の知恵は人間の内部から出てくるものではなく、本来神から与えられたもの、絶えず与えられ続けているものである。だからこそ、人間は人間の限界を越えた世界を想像することが出来るし、現在存在しないものでも作り出すことが出来るのである。しかし、猿には、今ないもの、現在欠けているものを、今はないけれども在れば良いと思うもの、未来の設計、等を考え出すことは出来ない。今ここに在るものが全てである。しかし人間は現状の枠を越えて、将来を展望し、理想に向かって何かを作り出すことが出来る。それが創造の神の賜物としての知恵である。記憶したり、またいくつかの中から最も良いものを一つ選ぶということであるならば、猿でも出来るし、コンピューターならもっと早く完全にこなすことが出来が、コンピューターを作り出すことは人間にしか出来ない。
ソロモンが、父ダビデの王位を継いだその夜、神がソロモンの枕元に現れ、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と語られた。その時ソロモン王は、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪とを判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい」と願います。その時、神はソロモンの願いを喜ばれ、次のように言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、また敵の生命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶものはいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もし、あなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(列王記上3:4-14) 。
ソロモン王の知恵は神からのものであった。否、これは必ずしもソロモン王の知恵だけではない。私たちにとっても、知恵は神に求め、与えられるものである。
聖書における「猿」についての断想
いつ頃からか、かなり前から、元旦にはその年の干支の動物について聖書でどのように記されているのか考えるようになった。今年、2016年は、「猿」の年ということで、昨年末より新聞でもテレビでも猿が登場し、またいろいろ解説されている。干支というものが、信じるに足りないものであることは、今更説明するまでもありませんが、また干支というものが日本人の生活に深く入り込んでいるということも見逃す訳にはいきません。私たちが日本で生活している限り、今年も色々なところで「猿」を目にすることであろう。それで猿についての聖書はどのように描かれているのか。
1. 聖書において「猿」が登場する場所
聖書は「猿」について、ほとんど関心がない。恐らく、(これはわたしの独断)聖書の舞台になったパレスチナ地方には「猿」はいなかったのではないかと思う。しかし、古代の碑文や彫刻には、猿の引用は結構多く、猿は一種の珍獣として尊ばれていたようである。聖書には「猿」はほとんど登場しないが、たった一箇所だけ「猿」が登場する箇所がある。
列王記上 10:22
この箇所はソロモン王の繁栄ぶりを述べているところで、イエスも繁栄ということを述べる際に、「ソロモンの栄華」ということを引き合いに出しておられる程で(マタイ6:29)、イスラエルの歴史においても最も繁栄したのがソロモン王の時代である。その繁栄の理由は彼の知恵にあった。ソロモンの知恵は全世界に鳴り響き、多くの人々が、特に各国の国王たちが競って相談に来るほどであったと言われている。有名な話では当時知恵と美貌で名声のあったシバの女王がソロモン王と知恵比べをして、「参った」という話がある。(列王記上10:1-13)
さて、その栄華を極めたソロモン王は3年に1度商船を出して、海外貿易をしていた。その時、海外から持ち帰った品目のリストの中に、「金、銀、象牙」その他と並んで「猿とひひ」が登場するのです。この品目リストは海外からの贈り物というより、ソロモン王自身が取り寄せた品物リストである。なぜソロモン王は猿などを取り寄せていたのか、非常に興味がある。恐らく猿はソロモン王のペットであったのではないか。それ以外には考えられない。知恵を愛し、知恵を求めたソロモン王が、猿をペットとしていた。ソロモン王と猿との組み合わせがなかなか愉快である。
2. 猿の知恵
猿は賢い動物である。猿は犬などと違って、道具を利用することもできる様ですし、特殊な例では鍵を開けて檻から脱出する猿もいるといわれている。猿の生態を研究しますと、人間の本性が判ると言われますが、猿の知恵は基本的には本能によるもので、模倣と経験の繰り返しの枠を越えることが出来ません。要するに、猿の知恵は猿の内部から出てくる知恵である。
3. 人間の知恵、ソロモンの知恵
猿の知恵が、本能に基づき猿の内側から出てくるのに対して、人間の知恵は人間の内部から出てくるものではなく、本来神から与えられたもの、絶えず与えられ続けているものである。だからこそ、人間は人間の限界を越えた世界を想像することが出来るし、現在存在しないものでも作り出すことが出来るのである。しかし、猿には、今ないもの、現在欠けているものを、今はないけれども在れば良いと思うもの、未来の設計、等を考え出すことは出来ない。今ここに在るものが全てである。しかし人間は現状の枠を越えて、将来を展望し、理想に向かって何かを作り出すことが出来る。それが創造の神の賜物としての知恵である。記憶したり、またいくつかの中から最も良いものを一つ選ぶということであるならば、猿でも出来るし、コンピューターならもっと早く完全にこなすことが出来が、コンピューターを作り出すことは人間にしか出来ない。
ソロモンが、父ダビデの王位を継いだその夜、神がソロモンの枕元に現れ、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と語られた。その時ソロモン王は、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪とを判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい」と願います。その時、神はソロモンの願いを喜ばれ、次のように言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、また敵の生命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶものはいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もし、あなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(列王記上3:4-14) 。
ソロモン王の知恵は神からのものであった。否、これは必ずしもソロモン王の知恵だけではない。私たちにとっても、知恵は神に求め、与えられるものである。