ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

原本ヨハネ福音書巻3と巻4

2015-06-29 08:54:38 | 聖研
原本ヨハネ福音書 巻3

1.パンの奇跡

シーン1 出来事 <6:1~15>

語り手:この事件は、過越の祭が近づいていた頃、風光明媚なガリラヤ湖畔の小高い丘の上で起こりました。イエスを囲むように弟子たちが車座になり、その周りには大勢の群衆が囲んでいました。この人たちはイエスが行なった病人の癒しの奇跡を見て、イエスに何かを期待して追いかけてきたのです。イエスは大勢の群衆を見まわしながら、弟子の一人フィリポに問いかけられました。
 
イエス:この人たちはかなり空腹なようだが、この人たちを満腹にするためにはどれぐらいパンが必要かな。
フィリポ:そうですね。男の人数を約5000人ほどと見積もって、全体で最低200万円分ほどはかかるかも知れませんね。それでも足りるかどうか。
アンデレ:<それを横で聞いていて、面白半分に> 先生、さっき、大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいましたけど、まぁ、何んの役にもならんでしょうね。
イエス:<うれしそうにひとり頷きながら>そうだ、それで行こう。さぁ、みんなで手分けして、ここに集まっている人たちを草の上に座らせて下さい。

語り手:そこはピクニックなどでお弁当を開くのにもってこいの草原で、弟子たちの誘導に従って、人々はこれから何が始まるのかと期待して、がやがや喋りながら、草の上に座り、興味深そうにイエスと弟子たちとの動きを見ています。弟子たちも群衆も、イエスが何を考えておられるのか興味津々で、イエスの一つ一つの仕草を注目しています。イエスは少年から5つのパンと2匹の魚を受け取ると、みんなが見ている前で、先ずパンを取り上げ、食前の感謝を唱え、次に魚を取り上げ、同じように感謝して、弟子たちに手伝わせて、草の上に座っている群衆に分け始めました。

イエス:誰でも欲しいだけ取って食べていいですよ。パンも魚も十分ありますから、遠慮せずに食べてください。

語り手:弟子たちもイエスの声に応じて、みんなに欲しいだけ分けていきます。あれあれ不思議、イエスの手から弟子たちの手に渡されても、イエスの手の中のパンはなくなりません。そして、弟子たちの手から人々に配られても、弟子たちの手の内のパンは減りません。魚も同様です。ともかく、そこにいたすべての人々が思う存分食べて満腹いたしました。それを見てイエスも満足し、弟子たちに言いました。

イエス:余ったパン片を少しも無駄にしないように、集めなさい。

語り手:弟子たちが集めた残りのパン片は12の背負い籠に一杯になりました。

人々:凄い。本当に凄い。この人こそ間違いなく、私たちが待っていた預言者だ。私たちのための王だ。

語り手:イエスはそのような人々の動きに気づき、弟子たちと待ち合わせの場所と時刻とを打ち合わせた上で、一人ひそかにその場を離れ、どこかに身を隠してしまわれました。

シーン2 水上歩行 <6:16~21>

語り手:さて、その日の夕方、弟子たちだけが坂を下り、船着き場でイエスを待っていました。ここでイエスと待ち合わせて、対岸にあるカファルナウムに行く手筈になっていました。もう既にイエスとの約束の時刻は過ぎているというのにイエスはまだ姿を現しません。弟子たちはイエスのことが気がかりでしたが、もう暗くなってきましたし、天候も怪しくなり始めましたので、イエスを残して出航いたしました。舟が港を出たときにすでに波はかなり大きく、風も強いようでしたが、もともとこの湖のことについては熟知している元漁師たちのこと、あまり心配はしていませんでした。舟が岸から4キロか5キロほど沖に出た頃、あたりはもう真っ暗でしたが、誰かが暗い湖の上を歩いて舟に近づいて来ます。ゆらゆらと白い衣が揺れてまるで幽霊のようでした。弟子たちもこれを見て恐ろしくなりました。そんなことは長い漁師生活でも見たことがありません。すると、その水の上を歩く何者かの声が聞こえます。声の主はイエスでした。

イエス:私だ。何も怖がることはない。

語り手:弟子たちは何事もなかったように、イエスを舟に迎え入れました。すると舟は間もなく何事も無かったようにカファルナウムの港に着きました。

シーン3 パンの奇跡、その後 <6:22~27>

語り手:突然姿を消したイエスを追いかけている群衆は、昨日に続いて今日も手分けしてイエスが行きそうな場所を探しています。ほとんど手がかりのない中で、ひとつの事実が分かってきました。前日、港辺りを調べていた人の情報によると、昨日の夕方、港に停泊していた小舟は一艘だけで、その小舟に乗って出航したのは弟子たちだけで、その舟にはイエスは乗っていなかったということでした。それでまだイエスはこちら側におられるに違いないということで、昨日のパンの奇跡が行われた場所からさらに細かく探索がなされましたが、手がかりはまったくありません。それで結局、イエスは対岸の町カファルナウムに行かれたのだろうということになり、数艘の小舟に分乗してカファルナウムに向かいました。やはりイエスはカファルナウムにおられました。そこで人々が先ずイエスに尋ねました。

人々:先生、いつ、どのようにして、ここにおいでになったのですか。
イエス:なぜ、そんなつまらないことが問題なのかね。 もっと大切なことがあるでしょう。本当のことを言うと、あなた方が私を捜しているのは、私が行った奇跡を見たからではなく、不思議なパンを食べて満腹したからであろう。大切なことは、いくら食べても、またすぐに空腹になるような食べ物ではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のことを考え、求めたらどうですか。それこそ、私があなた方に与える食べ物なのです。それが父が私にせよと命じ、承認されたことなんです。

教会的編集者の挿入:6:28~29

2.カファルナウムの会堂にて <6:30~59>

人々:なるほど、永遠に至る食べ物、いいですね。ところで、そのためにあなたはどんな奇跡をしてくれるのですか。私たちはそれを見たら、あなたを信じることにします。いったい、あなたはどんなことが出来るんですか。私たちの先祖は荒野でマナを食ベました。神は天からのパンを彼らに食べさせた、と書いてありますね。
イエス:その通りです。しかしよく考えてみましょう。あの時の天からのパンはモーセがあなた方の先祖にに与えたのではありませんね。天からの本当のパンをあの人たちに与えたのは私の父です。神のパンは天から下ってくるもので、世に生命を与えるものなのです。人々:先生、ではそのパンをいつでも食べれるように私たちにも与えてください。
イエス:私が生命のパンなのです。私のもとに来る人は飢えることがなく、私を信じる人は常に渇くことがありません。

語り手:この会話を側で聞いていたユダヤ人たちは「私は天から下って来た生命のパンだ」というイエスの言葉を聞いて、お互いにぶつぶつ呟いていました。

ユダヤ人:この男はなんという馬鹿げたことを言うのだろう。彼はヨセフの子イエスだろう。彼の父親と母親を私たちはよく知っているよ。それがどうして、自分は天から下って来た、などとしゃあしゃあと言えるのだろうか。
イエス:ここは公開の場です。仲間内でぶつぶつ言うのはやめて下さい。
では、はっきり言いましょう。このことを信じる者が永遠の生命を持つのです。もう一度言いますよ。私が天から下ってきた生命のパンなのです。あなた方の先祖は荒野でマナを食ベましたが、死にました。だが、天から下って来る生命パンを食ベる人は死なないのです。

語り手:これはイエスがカファルナウムの会堂で教えたことです。

教会的編集者の挿入:6:36~40、44~46、51~58

3.イエスの弟子たちの反応 <6:60~71>

語り手;イエスと群衆、およびユダヤ人の指導者たちとの会話を聞いた弟子たちの反応は次の通りです。

弟子たちの大半:<ぶつぶつと>この話は難しすぎる。こんな話を聞いてわかる人がいるのだろうか。
イエス:この話を聞いて、あなた方も躓くのですか。それで、もし人の子が父の元に上って行くのをあなた方が見たら、どうします。霊が生命を作るものなのであって、肉は何の役にも立ちません。私があなた方に話したことは、霊のことであり、生命のことなんです。だが、あなた方の中には信じない人たちがいます。私はあなた方に、誰も父によって選ばれなければ、私のもとに来ることができない、と言ったんです。

語り手:実はイエスは初めから誰が信じないかを知っておられました。そして誰がイエスを敵の手に売り渡すか、ということもご存知でした。それでこの時から、弟子たち中の多くの者がイエスから離れて行きました。

イエス:<残った12人に向かって>あなた方も私から離れたいのですか。
ペテロ:先生あなたから別れて、誰の所に行くというんでしょうか。あなたは生命についての言葉を持っておられますし、私たちはあなたが神の聖者であるということを信じてきましたし、またそう確信しています。イエス:あなた方12人を選んだのは、確かに私だ。ところが、あなた方の中の一人は悪魔になっている。

語り手: イエスはイスカリオテ人シモンの子ユダのことを言ったのです。彼が後にイエスを売ることになりました。彼も12人のうちの1人です。

4.ベトザタの池のほとりにて <5:1~18>

語り手:その後、ユダヤ人の祭が近づいてきたので、イエスはエルサレムに出かけました。エルサレムには、羊の門と呼ばれている門の近くにベトザタと呼ばれている池があります。その池を囲むように5つの柱廊がありました。この柱廊には多くの病人や身体障害者などが横たわっていました。この人たちは水面をジーッと見つめ、池が泡立つのを待ち構えておりました。と言いますのは、ときどき、天使が池に下って来て水を沸き上がらせることがあります。その時に一番に池に飛び込んだ人は、どんな病気でも治るということが言われていたからです。
ある日のことイエスがここを訪れました。その時、一人の人がイエスの目にとまりました。それが何故なのか分かりません。永遠の謎でしょう。ただ、イエスにはその男が相当の期間そこに横たわってきたのだろうと言うことは分かった。周囲の人々の話ではこの人は38年間も病気のために苦しんでいるとのことでした。イエスはこの人に近づき言葉をかけました。

イエス:こんにちは、あなたも元気になりたいのですか。
病人:旦那さん、水が沸き立ったときに、一番に飛び込みたいと思って、私は水が動くのをズーッと待ち構えているんですが、何しろ身体が不自由なもんで、モタモタしていると、いつも誰かが私より先に池に飛び込んでしますのです。誰か私を池の中にほり込んでくれる人がいるといいのですがね。
イエス:<うんうんと頷きながら、突然大きな声で>立ち上がって、自分の寝床を担いで歩きなさい。
病人:ハイ! <何が何だか分からないうちに思わず立ち上がり、家路につきましたました>。

語り手:それで終われば、ハッピー、ハッピーだったのですが、誰がどういう意味で言い出したのか、たまたまそれが安息日だったことから、寝床を担いで、喜び勇んで家に向かっていた元病人を呼び止める人がおりました。

ユダヤ人:おい、おい、お前、今日が何の日か知ってるよね。安息日だよね。安息日に寝床を担いで歩くことは禁止されていることぐらい知っているだろう。
元病人:だって、私の病気を癒してくれた人が私に「自分の寝床を担いで歩け」と言ったので・・・。
ユダヤ人:お前に、担いで歩め、と言ったのは、いったい何者なんだ。
元病人:それはどういう方のなのか存じません。何しろ、歩けるようになったものですから、嬉しくて嬉しくて、その方にろくにお礼も言わずに、言われたとおり大急ぎで寝床を片付けて歩き始めたものですから。その方も人混みに紛れてどこかに行ってしまわれました。

語り手:元病人は一旦釈放されましたが、いろいろ聞き回っているうちに、自分の病気を癒してくれたのがイエスという人だと知らされて、改めてユダヤ人たちに報告しました。それ以後、ユダヤ人たちはイエスを安息日を無視する人間として弾圧するようになりました。

ユダヤ人:あなたはなぜ安息日の定めを守らないのですか。
イエス:私の父は一日の安息もなく働いておられます。だから私もまた働くのです。
ユダヤ人:何とまぁ呆れた奴だ、お前は。安息日を無視するだけではなく、神を「私の父」と呼び、自分を神と同格だとするとは、何たる不敬か。

語り手:それでユダヤ人たちはイエスを処刑する計画をはじめた。

教会的編集者の挿入:5:14

5.イエスの弁論「父と息子の関係」<5:19~44>

語り手:以下はその時イエスがユダヤ人たちに語った弁論です。じっくり聞いてください。

イエス:本当のことを言いますと、息子というものは父の行動を見なければ、自分からは何もすることが出来ないのです。また、父が何かをすれば、息子もそれをそのとおりにします。なんでそうなのか、それが親子の愛というものでしょう。父は息子を愛し、自分がしていることを何でも息子に教えるのです。そうすることによって、今していることよりももっと大きいことを息子は学ぶのです。そうなった時には、あなた方みんな驚くことになるでしょう。
父が死者を甦らせ、生きる者とするように、息子もまた息子自身がそうしたい者を生きる者とします。何故なら、父は誰も裁かないで、一切の裁く権限を息子に託しておられるからです。そうすることによって、すベての人が父を敬うのと同じ様に息子をもまた敬うようになるためです。息子を敬わない人は、息子を遣わした父を敬うことになりません。率直に言いましょう。私の言葉を聞いて私を遣わした方を信じる人は永遠の生命を持ち、裁かれることがありません。なぜなら、もう既に、死から生ヘと移っているからです。
率直に言いましょう。死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来ます。いや、今が既にその時なのです。何故なら、父が自分自身の内に生命を持っておられるように、息子もまた自分自身の内に生命を持つようにして下さったのです。そして父は息子に裁く権限も与えられました。息子は人の子だからです。
もう一度言いましょう。私は自分自身からは何もすることができません。聞いたままに裁くのです。そして私の裁きは正しいのです。私は自分の意志を求めるのではなく、私を遣わされた方の意志を求めているからです。
さて、話が変わって、もしも私が自分で自分について証言するのであれば、私の証言は本当ではないと言えるでしょう。私について証言して下さる方は他におられます。そしてその方が私について証言して下さる証言が本当の証言です。あなた方は以前に洗礼者ヨハネの所に人を遣わし、彼に尋ねたことがあったでしょう。その時のヨハネの証言は間違いではありませんが、私には人間による証言など必要ないのです。こんなことを言うのは、あなた方が混乱しないためなんです。ヨハネは松明のような火であって、火をともされて輝いたにすぎません。あなた方も彼の光をほんの一時だけ喜こびましたよね。しかし、私にはヨハネよりももっと大きな、そして確実な証言があります。それは私が完成せよと私の父が与えてくださった仕事が、つまり私が今している仕事そのものが、父が私を派遺したのだということを証言してくれるのです。それに加え、私を遣わした父自身が私について証言して下さるのです。残念ながら、あなた方はその声を今までに聞いたこともないし、その姿を見たこともありません。だから父の言葉があなた方自身の中にとどまっていません。何故なら、父が遣わした者をあなた方は信じなかったからです。
私は人間から誉められようなどとは少しも思っていません。それでわかったことは、あなた方は本当は神に対する愛など持っていないということです。繰り返して言ますが、私は私の父の名において来ました。しかしあなた方は私を受け入れようとしません。もしも、誰か有名な人が来たら、すぐに彼を受け入れるでしょうが。自分たちどうしでお互いに誉めあっているあなた方が、どうして無関係な者を信じることができるでしょうか。そんなあなた方には唯一の神からの栄光などまったく関心がないのです。

教会的編集者の挿入:5:28~29、39c、45~47

6.ユダヤ人たちの反応 <7:15~24、7:1>

語り手:イエスの演説を聴いたユダヤ人たちは、驚き互いに議論しました。

ユダヤ人:イエスはこんな学問をどこで学んだんだろう。こんな教えを今までに聞いたことがないぞ。
イエス:私の教えは学んで得たものではありません。私を遣わされたお方からのものです。もしもその方の意志を実践したい者がいれば、この教えが神からのものか、私自身が学んだものかすぐにわかる筈です。自分自身の考えを語る者は自分自身を自慢したがりますが、自分を遣わして下さった方の栄誉を求める者は、真実で、彼の中には偽りはありません。
モーセはあなた方に律法を与えました。ところがあなた方は誰もまじめに律法を実践しようとしていないようです。問題は何故、あなた方は私を殺そうとしているのかということです。
ユダヤ人:お前は狂っているぞ。誰がお前を殺そうとしているというのだ。そんな者はいないではないか。
イエス:私は先日一つの仕事をしました。それを見ていた多くの人々は驚きましたが、それが安息日であったということだけで、私を殺そうとしています。確かに私がやった行為は安息日の戒律に違反しているかも知れません。しかし安息日の戒律は絶対なのでしょうか。例えば、割礼という規定があります。この割礼という規定を与えたのもモーセだと言われていますが、実際はモーセよりもはるか以前の父祖たちからの慣習です。あなた方は何の疑問もなく、この割礼という儀式を安息日にでも行っているではありませんか。人間が生きていく上で大切だと思われる行為であれば、安息日の戒律も一時停止されるのです。そうだとすれば、私が安息日に一人の人間の健康を回復し、自分で生きていけるようにしてあげたからといって、あなた方がどうして私に対して怒るのでしょうか。戒律というものを上っ面で判断しないで、その意味を考え、正しい判断をしたらいかがでしょうか。


原本ヨハネ福音書 巻4

1.イエスの点と線

語り手:パンの奇跡の後、ユダヤ人たちのイエスに対する敵意はますます激しくなりました。そのためイエスはできるだけ彼らとの接触を避け、ユダヤ地方には近づかず、主にガリラヤ地方で活動されました。

2.イエスの兄弟たちの提案 <7:2~9>

語り手:さて、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいた頃、イエスの兄弟たちがやって来て、いろいろ忠告しました。

兄弟たち:いつまでユダヤ人たちを恐れてびくびくしているのです。祭の時には大勢の人たちが全国から集まりますから、ユダヤ人たちも下手に手を出すこともないでしょう。なにしろ、あなたは有名人で多くの人たちがあなたを慕っているのですから。こういうときにこそ、ユダヤの地に出かけあなたの素晴らしい力を弟子たちや他の人たちにも見せるチャンスです。大きな事をしようと思う人は地方でこそこそ行動していては駄目です。あなたのしている仕事を人々にしっかり見せることも重要な方策でしょう。
イエス:(彼らの親切そうな忠告に対して)私の時はまだ来ていませんが、あなた方には関係がないでしょう。あなた方はいつでも、どこでも、好きなように行ったらいいでしょう。あなた方と世間とは同類だから、あなた方を憎むこともありませんが、私は憎まれています。私の生活態度それ自体が世間に対する批判になっているからでしょう。もし、あなた方が望むなら、ぜひ祭に行ってらっしゃい。でも、私は今のところこの祭に行く気はしません。きっと、まだ私の時が来ていないからでしょう。

語り手:イエスの兄弟たちもイエスの本当の心を理解していなかったのです。彼らも他のユダヤ人たちと同じようにイエスの奇跡にだけ興味がありました。それでイエスは兄弟たちの忠告を無視してガリラヤにとどまられたでした。

3.仮庵祭にて <7:7:10~13、25~36>

語り手:兄弟たちにはエルサレムに行くことを断りましたが、実は彼らが出かけた後、イエスは人目を避け隠れるようにしてエルサレムの祭に出かけました。予想通り、ユダヤ人たちは祭には必ずイエスは姿を現すものと思い、いろいろ手を回してイエスを探し回っていました。そんなん、こんなんで、かえってイエスの噂はますます膨らんでいきました。

群衆A:イエスはどこに行った。
群衆B:イエスは良い人だ。
群衆C:いや、あいつは人々をたぶらかすけしからん奴だ。

語り手:一般群衆の間ではイエスについての噂は二分していました。しかし人々はユダヤ人たちを恐れて、イエスについてあからさまに話す者はいませんでした。仮庵祭は7日間続きます。祭も既に半ばを過ぎた頃、突然イエスは神殿の境内で堂々と教え始められました。イエスが神殿の境内で話をするのは始めてことでした。それで驚いたのはユダヤ人たちです。しかしイエスがあまりにも堂々としているので誰もイエスに手を出すことが出来ませんでした。イエスが神殿の境内で話しをしているのを見て、エルサレムの人々は不思議に思いました。

群衆A:彼が、お偉方が殺そうと狙っているイエスなのか。あんなに堂々と話しているのにお偉方連中が何も言わないのはおかしいね。ひょっとすると、議員たちも本当はこの人がキリストだという秘密情報でも持っているのかね。また、情報隠蔽か。
群衆B:いや違う。俺たちは彼がどこの出身かを知っているし、彼についての秘密なんかないようだぜ。本物のキリストが現れるときは、その出身地や経歴などがわからんと言うじゃないか。

語り手:人々がいろいろと議論をしている中で、イエスは大声で自分自身のことを話されました。

イエス:皆さん方は私がどこの出身かとか、何をしてきたのかとか、私が話していることについてよくご存知の筈です。そうです。私には何も隠し事はありません。なぜなら私は自分勝手にここに来て、好き勝手なことをしているわけではないからです。私は遣わされてここに来たのです。私をお遣わしになった方は真実な方ですが、皆さん方その方のことをご存じないでしょう。しかし私はその方を知っています。私はその方から派遣されてここに来たからです。
群衆C:やっぱりこの男はおかしいよ。この男が話していることは、ちんぷんかんぷんで、俺たちは彼が何を言っているのかさっぱり分からん。

語り手:というような訳で、人々はイエスが逮捕されても仕方がないなぁ、と思っていましたが、実際にイエスに手をかける者は誰もいませんでした。 彼らがイエスを捕らえることが出来ない理由の一つ、それはイエスの時がまだ来ていないからで、理由もう一つ、群衆の中にはイエスを信じる者も大勢いたからだろうと思われます。イエスを支持していた人たちは「本当のキリストが来られても、この方よりも多くの奇跡を行うことは出来ないであろう」と考えていたようです。
他方、ファリサイ派の人々は群衆がイエスについて、いろいろささやき合っている言葉を聞いて、もうグズグズしておれないと思いました。祭司長たちとファリサイ派の上層部の人々もお互いに相談してイエスを捕らえるために下役たちを派遣しました。イエスは自分を逮捕しに来た下役たちに言いました。

イエス:私はまだ、しばらく捕まるわけにはいきません。まだ、し残していることがあります。それを済ませたら、私をお遣わしになった方のもとへ帰ります。そうしたら、あなた方は私を捜しても見つけることは出来ないでしょう。あなた方は私のいる所に来ることができないのです。

語り手:と、いう言葉を残して、イエスは姿を消してしまいました。イエスを取り逃がしてしまったユダヤ人たちは、イエスを何とか探し出そうとしましたが。どうしても見つかりません。

ユダヤ人たち:ちくしょう。イエスはいったいどこに行きやがったんだ。奴が隠れそうな場所はどこだ。
ユダヤ人たち: 国外に逃亡してギリシャ人の間の離散しているユダヤ人たちの所へでも行って、いい加減な説教でもしているのか。

語り手:ユダヤ人たちの間でイエスの隠れ場所についていろいろと議論が繰り返されましたが、見当もつきません。それにイエスが「あなたたちは、私を捜しても見つけることがない。私のいる所にあなたたちは来ることができない」 と言っていたことを思い出し、その言葉はどういう意味なのかなどと議論を繰り返していました。

註:7:15~24は巻3に移動

4.祭の最終日に <7:37~52>

語り手: 祭が最も盛大に祝われる最終日になってイエスは再び人々の前に姿を現し、大声で説教を始めました。

イエス:もし誰かが渇いているなら、私を信じる者は私のところに来て飲みなさい。
群衆A:この人は、本当にあの預言者だ。
群衆B:この人はキリストだ。
群衆C:キリストはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫だからダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてある、というではないか。

語り手:こうして、イエスのことで群衆の間に対立がますます激しくなりました。中にはイエスを捕らえようと思う者もいましたが、実際に手をかける者はいませんでした。
さて、そうこうしていると、祭司長たちが派遣した下役たちが戻って来ました。

祭司長:どうして、あの男を連れて来なかったのか。
下役たち:今まで、あの人のように堂々と力強く話をしている人を見たことがありません。私たちは彼の話に引き込まれて、手出しすることが出来ませんでした。
ユダヤ人たち:お前たちもあの男に騙されてしまったのか。まさか、議員やファリサイ派の中にも、あの男を信じている者がいないだろうな。律法を知らない連中には困ったものだ。この群衆は呪われている。
ニコデモ: 私たちの律法によれば、まず本人から事情を聞き、事実関係を明確にした上でなければ人を裁いてはならない、といわれているではないか。
ユダヤ人たち: あなたもガリラヤ出身なんですか。よく調べて見て下さい。今までにガリラヤからまともな人間が出たことがありますか。

語り手:このニコデモは以前ひそかにイエスを訪ねたことのあるあの人物です。彼のイエスを弁護するような言葉を聞き、ユダヤ人たちは自分たちの中からイエスを弁護する人間が現れたことに驚きました。しかしニコデモはこの激しい反撥の言葉を聞き、黙ってしまいました。

教会的編集者の挿入:7:38~39

註:7:53~8:11「ある朝の出来事」は後代の挿入なので別に扱う。

5.討論1 イエスの自己証明をめぐって <8:12~20>

イエス:私は世の光です。私に従う人は暗闇の中を歩くことがありません。何故なら彼自身の中に命の光を持っているからです。
ユダヤ人たち:あなたは自分自身で自分自身のことを証言している。そんな証言は当てにならないし、本当のことだとは信じられません。
イエス:どうぞご心配なく、たとえ私が自分自身のことを証言したとしても、それが本当のことだから本当なんです。なぜかというと、私は自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、知っているからです。しかし、あなた方は私がどこから来て、どこへ行くのか、知らないでしょう。あなた方は外見的な事柄で人を判断したり、裁いたりしますが、私はそのようなことで判断したり、裁いたりしません。しかし、もし私が誰かを裁くとすれば、私の裁きは真実です。なぜなら、私は一人ではなく、私をお遣わしになった方と一緒に判断しているからです。あなたたちの律法には、二人が行う証言は真実であると書いてあります。私は自分自身について証言をしていますが、その証言には私をお遣わしになった父も連帯保証人になってくれています。
ユダヤ人たち:あなたは「父」ということをよく言いますが、その父はいったいどこにいるのでしょう。
イエス:あなた方は、私も私の父もご存じない。もし私が何者かを知ったら、私の父もわかる筈です。

語り手:イエスはこれらのことを神殿の境内の宝物殿の近くで話されました。しかしその時誰もイエスを捕らえませんでした。イエスの時がまだ来ていなかったからです。

6.討論2 上からの者、下からの者 <8:21~30>

イエス:やがて、私は死に、この世を去ります。私が死んだ後、私がどこに行ったのか必死になって捜すでしょうが、私が行く所にはあなた方は来ることはできません。あなた方はあなた方自身の罪のために、私が行く所には来れないのです。
ユダヤ人たち:この男は一体に何を言っているんかね。「私の行く所にあなた方は来れない」などと言ってるが、自殺でもするつもりなんかな。
イエス:分からんでしょうね。あなた方は下からの者ですからね。私は上からの者なんですよ。分かりやすく言うと、あなたがはこの世に属しているが、私はこの世には属していないのです。だから、あなた方は自分自身の罪のために死ぬことになると、私は言ったのです。「私はある(エゴー エイミ) 」ということを信じなければ、あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになります。
ユダヤ人たち:えっ、何だって、あんたが言っていることがよくわからん。あんたは一体、何者なんだ。
イエス:そんなこと、どうしてあなた方に言わなければならないんですか。むしろ私の方からあなた方について言いたいこと、考えて貰わなきゃならないことがたくさんあります。しかし、それをいちいち取り上げるつもりはありません。私は、ただ、私をお遣わしになった方の真実、私はその方から聞いたことを世に向かって話すだけです。
 
語り手:ユダヤ人たちはイエスが父について話しておられることを悟らなかったのです。

イエス:あなた方は人の子が上げられたときに初めて、「私はある(エゴー エイミ)」という意味が分かるでしょう。そのときになって、私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるでしょう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださいます。私をひとりにしてはおられません。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからです。

語り手:この討議を通して、多くの人々がイエスを信じました。

7.討論3 イエスを信じる者 <8:30~59>

語り手:イエスを信じるというユダヤ人たちとの対話が行われました。

イエス:私の言葉を信じ、それを持ち続けるならば、あなた方は本当の私の弟子となり、あなた方は真理を悟り、真理があなた方を自由にします。
ユダヤ人たち:私たちはアブラハムの子孫で、今まで誰かの奴隷になったことはありません。それなのに、どうして「あなた方を自由にします」などと仰られるでしょうか。
イエス:本当のことを言うと、罪を犯す人は誰でも罪の奴隷なのです。奴隷はどれほど長く家にいても決して家族にはなれません。しかし息子はいつでも家族の一員です。だから、もし息子があなた方を自由にすれば、あなた方は自由になれます。あなた方がアブラハムの子孫だということぐらいは、私も承知しています。だが、あなたたちは私を殺そうとしています。私は父のもとで見たことを話しているのに、私の言葉があなた方の中で生きていません。あなた方はあなた方の父が語っていることを行おうとしています。
ユダヤ人:私たちの父はアブラハムだ。
イエス:あなた方の父がアブラハムだと仰るなら、アブラハムがやっていたようにやればいいじゃないですか。しかし、あなた方はあなた方に真理を語っている者を殺そうとしています。私は私自身が神から聞いた真理を語っていますのに、私を殺そうとしています。アブラハムはこういうことを決してしませんでした。しかし確かにあなた方はあなた方の父がやっていることをしているのです。
ユダヤ人:私たちは正統なユダヤ人で、私たちの父は唯一人、神のみです。
イエス:もし神があなた方の父であるならば、あなた方は私を愛するはずです。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからです。私は自分勝手に来たのではなく、神が私をここにお遣わしになったのです。なぜ私が言っていることを分かってもらえないのだろうか。それはあなた方が私の言葉を聞こうとしないからです。はっきり言いましょう。あなた方の父は悪魔です。だからあなた方はあなた方の父が願っていることを実行したいと思っているのです。悪魔は最初から殺人者なので、真理をよりどころとしていません。悪魔の内には真理がないからです。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っているのです。自分自身が偽り者であり、偽り者たちの父だからです。しかし私が真理を語るので、あなた方は私を信じないのです。あなた方のうち、いったい誰が私に罪があると責めることができますか。私は本当のこと話しているのに、なぜ私を信じないのですか。神に属する人々は神の言葉を聞きます。あなた方が聞かないのは神に属していないからです。
ユダヤ人:これではっきりした。お前はサマリア人で、悪霊に取り憑かれている。このことがズバリ本当のことだ。
イエス:私は悪霊などに取り憑かれていません。自分の父を尊敬しているのにあなた方は私を敬わない。それはそれでいい。私は私の名誉など求めたいとは思っていません。私は名誉を求めたり、判定されることを願っていない。私を判定するのは私以外のお方の役割です。
ユダヤ人:もう決定的だ。お前は悪霊に取り憑かれている。お前は「私の言葉を守る者は永遠の生命を持つ」などと言う。お前は私たちの父アブラハムよりも偉いのか。アブラハムも死んだし、預言者たちもみんな死んだじゃないか。いったい、お前は自分を何様だと思っているんだ。
イエス:私が私自身の名誉を求めているのなら、私の名誉なんてむなしいものだ。私に名誉をを与えてくださるのは私の父である。ところが、あなた方は私の父を「我々の神だ」と言っています。あなた方はその方を知りませんが、私は知っています。もし私がその方を知らないと言えば、あなた方と同様、私も嘘つきになってしまいます。しかし私はその方を知り、その言葉を守っています。あなた方の父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていました。そして、それを見て、喜んだのです。
ユダヤ人:ははは、お前はまだ50才にもなっていないのに、どうしてアブラハムに会えたのか。
イエス:本当のことを言うと、私はアブラハムが生まれる前から「私はある(エゴー エイミ)」です。

語り手:イエスのこの言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエスに石を投げつけようとしたので、イエスは身を隠して神殿の境内から出て行かれました。

教会的編集者の挿入:8:51

最新の画像もっと見る