ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 05/01 危機意識乏しい社会(辺見庸)

2014-05-04 09:19:26 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。5月の聖研の第1次原稿完成。一応ホッとする。これでネグリに戻れる。「ネグリとは何か」から再出発。「現象としてのネグリ」。70年代の新左翼とネグリ。外出なし。夜は小澤征悦主演「TEAM」、杏主演「花咲舞」を見る。杏はやはりただ者ではない。11時に就寝。今朝は5時半起床。体調快調、チュン、チュン。

金丸 勝彦さん、濱 和弘さん、柳沢 有紀夫さん、他28人が「いいね!」と言っています。

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配り、内科、整形外科に行きます。良き日となりますように。お祈りします。
posted at 05:21:35

文屋 善明
今日の名言:RT @wisesaw:
僕ぐらい僕に似ていない者はいない。(ジャン=ジャック・ルソー)
<一言>思わず、クスっと笑ってしまった。鏡を見ているときには気が付かないのに、なぜか自分が写っている写真を見ると、まさかこれが私だとは思えない。嫌なヤツだ。

キタモト ユウコさん、鈴木 宏昌さん、Yoshiyuki Sakaeさん、他21人が「いいね!」と言っています。
posted at 06:31:06

「昨日のツイート 04/29 【原発】福島の真実──『美味しんぼ』作者・雁屋哲氏に聞く」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/b0b2d7c347344096917d055e967e6b5…
posted at 13:24:36

文屋 善明
お目覚めの花。「お早うございます。今日から5月ですね」「5月と聞くと、なぜかウキウキした気分になりますね」「何ででしょうね」「寒い冬が過ぎて、暑い夏まではもう少し余裕があって」「ジメジメした梅雨の季節ではなく」「ともかく生命にあふれていますよね」
写真: お目覚めの花。「お早うございます。今日から5月ですね」「5月と聞くと、なぜかウキウキした気分になりますね」「何ででしょうね」「寒い冬が過ぎて、暑い夏まではもう少し余裕があって」「ジメジメした梅雨の季節ではなく」「ともかく生命にあふれていますよね」

加藤 治さん、森田 美芽さん、涌井 幸子さん、他37人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
2014日々の聖句 05月01日(木)
主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富む。(詩111:4)
この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。(1コリント11:15)
私の黙想:
今日の聖句を読んで、変貌山での出来事を思い出す。あのとき、ペトロは感激し「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」(マタイ17:4)と言ったという。いろいろ考えさせられる。結局、ペトロの申し出は無視された。ペトロが申し出た「記念」は「わたしたちがここにいた」という記念にすぎない。それは記念でも「わたしの記念」である。一体「記念する」とはどういうことであろう。それは単に「私の思い出」ではない。記念とは私を超え、私たちの世代を超え、世々に、各世代の人々が「記念すべき時点」「記念すべき所」に立ち戻るべきポイントである。今日の聖句では「驚くべき御業」が何かを明記していないが、おそらくイスラエルにおける3大記念日(過ぎ越しの祭、七週の祭り、仮庵の祭り)を指しているのであろう。イエスラエルの民は、この記念日は自分たちが決めたというより、神によって定められた記念であるとした。そのことが「記念するよう定められた」という微妙な表現になったのであろう。口語訳では「記念させられた」、新改訳では「記念とされた」。神の御業を記念するとは、そのポイントに立ち返る時、神と私たちとの関係が取り戻され、新しくされる。人間が集まって協議して定めるものではない。そこでは神と人間とが「共に祝う」ということがなくてはならない。
聖餐式とは神によって定められた「記念の式」である。聖餐式が執行される時、そこに神と人間との出会いが取り戻され、新しくされる。

金丸 勝彦さん、丸山 順子さん、森田 美芽さん、他25人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明
今日は読書に疲れて、1週間ぶりにジムに出かけました。グローバル・アリーナでは「サニックス・ワールド・ラグビー・ユース交流大会」の真最中で、世界中から元気のいい若者があふれていました。何人かの選手たちがジムでトレーニングをしており、そのエネルギーに圧倒されました。帰りに売店で記念の「ラグビーパン」を買ってきました。 (写真4枚)
文屋 善明さんの写真

Yutaka Tanabeさん、加藤 治さん、Tomomi Spennemann-Oshimaさん、他29人が「いいね!」と言っています。

播 稔 噛めば、味のよさそうなパン。(こういう記念パンは味は?が多いですが)。

文屋 善明 今朝食べましたが、すごく美味しいパンでした。私の歯では齧り付くことはできませんでしたが、ちぎって口に入れると「パンらしいパン」な味でした。

文屋 善明さんが芳賀 直さんの写真をシェアしました。
「個で闘うしかない」。同感です。シェアさせてください。

写真: 危機意識乏しい社会

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=645861392160646&set=a.129059153840875.34116.100002103737064&type=1&theater

憲法改正や集団的自衛権容認の動き
絆は虚構「個」で闘う
作家・辺見庸さんに聞く (河北新報 4月30日)

金丸 勝彦さん、玉城 豊さん、播 稔さん、他22人が「いいね!」と言っています。

平野 宏 シェアさせていただきます。

竹花 京子 シェアさせていただきます。

文屋 善明 この「個で闘う」という非常に激しい表現は、ある意味で60年代後半から70年代の初めにかけての「思想闘争」をいろいろな形で経た人間の「連帯への絶望感」という共通意識だと思います。

清水 行雄 辺見さんの世代からすると、僕などは、知識も思想もない、ものを考えない者ということになるんでしょうね(^^;)

文屋 善明 それは、あなただけのことではなく、ジェネレイションギャップでしょう。私が大学院を出たのが1968年の3月で学園紛争のピークの1年前で、かろうじて卒業式が行われました。その直後から、神学部はバリケード封鎖され、ほとんど授業は持たれない状況でした。当時、京大の周辺、特に百萬遍の交差点では24時間態勢で学生と機動隊とが睨み合っていました。

平田 真実 辺見さん、震災直後の文も読みましたが、当時、かなりの感化を受けました。シェアさせていただきます。

清水 行雄 私見ですが、個として存在し連帯を拒絶する世代と、個が連帯することで何かを生み出そうとする世代が、循環しながら今日に至っていると感じています^_^

文屋 善明 そこで思うことは、孤立と連帯とどちらのほうが「自然」なのか、ということで当然「孤立」のほうが自然だし、そのためのエネルギーはほとんど必要なない。それが自然状態のヒトで、ところがそのヒトは孤立に耐えられないで、何らかの連帯を求める。しかし、連帯を持続するためにはかなりエネルギーが必要である。つまり連帯とは「動」としての自然で、ここで動と静との間を行ったり来たりする。それは絶望と願望との緊張関係、弁証法的関係です。

文屋 善明 今、読んでいるネグリの面白さは、グローバリズムによって解体された「個」がもう一度連帯へと向かう方向性を論じている点である。

清水 行雄 多分浅田彰氏が言っていたはずですが、connecticutな関係ということを提唱されてました。個がcutされてconnectする、そういう新しい人間関係を想定されていたと、記憶しています^_^

文屋 善明 浅田とネグリとの関係はまだ掴んでいません。

清水 行雄 今にして思えば、60年代、70年代の連帯思想運動の敗北、連帯が集団化すること、連帯により個人が犠牲になることの反省の上に、個が自由につながりあうような関係を、浅田氏は考えたように思われます^_^

文屋 善明 なるほど、明解ですね。

清水 行雄 先生、個と集団の問題は、IT革命によって半ば解決されたと言っていいと思います。今日の課題は、別のところにあると、僕は思っています^_^

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