ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昔、「豊後のローマ」と呼ばれた町がありました

2008-12-08 11:39:03 | ときのまにまに
先日、臼杵を訪れた際に、石仏群の切符売り場で、「大友宗麟物語」(藤澤勝美著、1800円)を見かけた。考えてみると、今までまともにキリシタン大名のことを考えたことがなかったので、すぐに購入した。石仏群と大友宗麟の組み合わせも面白い。その中で、天正の少年使節団のことや豊後の町とキリシタンとの関係など詳しく描かれている。以下の文章は、この著作による。
天正の少年使節団(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)がローマを目指して長崎港を出発したのが1582年2月のことである。少年使節団をローマに派遣するというアイデアは当時の日本宣教の代表者バリニャード神父の提案によるもので、当時のキリシタン大名と呼ばれていた大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の賛同を得て、彼らの名代として派遣されたのであった。少年たちは、苦難の末ローマに到着し、美事にその役割を果たし、ヨーロッパ諸国が日本という国を知る第一歩となった。1585年中だけでも、ヨーロッパ各国で、一行について書かれた書物が20数種も出版されたというだけでも、その影響は小さくなかったことを示す。思えば、その頃が日本におけるキリスト教史における1つのピークで、藤澤勝美氏は、次のように描いている。「(日本における)キリスト教文化は旭日昇天の勢いで大きく開花していく。豊後でも、人々のキリスト教に対するか関心が高まり、進んで、その教えを聞こうとする人々も増えていった。野津や由布にはキリスト教の伝道所が、野津や朽網(直入町)には、信者たちの寄付によって教会も建てられた。こうして、豊後国内には80近い十字架が林立するようになった。府内(大分市)や臼杵の町や村々では、教会の鐘がなり響き、宣教師たちは、臼杵のことを『豊後のローマ』と呼ぶまでになった」。
しかし、彼らが日本を出て8年後の1590年に、印刷機、時計、地図、地球儀、書籍などを携えて無事帰国したころには、彼らの保護者であったキリシタン大名たちはすべてこの世を去り、豊臣秀吉が天下を取り、厳しいキリスト教弾圧の真っ最中であった。
現在では、大友宗麟の墓が、臼杵の隣町、津久見市の宗麟公園内に残っているぐらいで、「豊後のローマの遺跡」は何も残されていない。

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