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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第8主日(T10)の福音書

2016-07-09 09:41:34 | 説教
断想:聖霊降臨後第8主日(T10)の福音書
「隣人になる」  ルカ10:25~37

1. 文脈
30節から37節のいわゆる「善いサマリア人の譬え」といわれている部分はルカ独自の資料によるものと思われる。ルカは彼自身が集めた独自資料の内いわゆる「譬え話」を旅行記の中に集めている。「善いサマリア人」(10:30~37)、「実のならないいちじくの木」(13:6~9)、「無くした銀貨」(15:8~9)、「放蕩息子」(15:11~32)、「愚かな金持ち」(12:14~21)、「不正な管理人」(16:1~9)、「金持ちとラザロ」(16:19~31)、「やもめと裁判官」(18:2~8)など。
ルカはその譬えを採用する際に独自の解釈に基づき、一種の「例話」として組み入れている。従って、それらの譬えがどのような文脈で語られているかということが重要である。
本日取り上げられる「善いサマリア人」の譬えは、イエスと律法学者との律法をめぐる議論の中で取り上げられている。律法学者から提出された問題そのものはマルコ(10:17~22)にも、マタイ(19:16~22)でも取り上げられているし、律法の要約あるいは「最も重要は掟」についてはマルコ12:28-34、マタイ22:34-40で取り上げられている。これらの先行する諸資料をルカは独自の視点からまとめている。
ここで重要なことは、25節の初めの「すると」という接続詞で、この議論と譬えとがすべて、この直前の文脈と強く結びついていることを示している。

2. 先行する状況
この「すると」に先行する状況は、イエスの次の言葉である。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(10:23-24)。ここでいう「あなた方が見ているもの」とはイエスを示していることは明らかである。イエスを見て、イエスと共に生き、イエスの働きを手伝う幸いは、「多くの預言者や王たち」が見たかったものであると言う。この言葉は「弟子たちだけ」に語られた言葉であるとされるが、それを傍聴していた「律法の専門家」が立ち上がる。つまりキリスト者の間だけで通用するイエスがキリストであるという「信仰」に対する反論という問題設定である。イエスは本当にキリストなのか。その点を「律法の専門家」が鋭く追求している。この「律法の専門家」(ノミコス)という表現はルカ独自のもので(マタイ22:35でも用いられているが、おそらくこれは後代の挿入であろう)、通常使われる「律法学者」(グラマテュース)とは異なる。ルカは「律法学者」と「律法の専門家」(7:30、11:45、14:3など)という言葉とを使い分けているように思われる。ノミコスという言葉はローマ社会では一般に「法律家」という意味である。ここでこの言葉が使われているということは、この問答がローマ社会を背景にしているものと思われる。従って、ここでの議論はイエス時代における律法学者とイエスとの議論というよりも、ヘレニズム社会におけるユダヤ知識人とキリスト教徒との議論であると考えた方がスッキリする。

3. テキストの分析
ここでの議論の出発点は「永遠の命を受け継ぐ道」である。質問者は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問う。その問いかけの意図が「イエスを試そうとして」なのか、どうかということは一応ここでは横に置いておき、この質問に対してイエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問する。つまり、ここでの第1のポイントは「律法」にその答えがあるという共通認識である。そこで質問者は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答える。その答えに対して、イエスは「正しい答えだ」という。ここまでの問答は完璧である。質問者(生徒)とイエス(先生)との完全な一致である。もし、ここでイエスの言葉が「正しい答えだ」で終わっていたら、質問者の「試そうとして」という意図は完全に無意味になる。ところがイエスの言葉はそこで終わらない。その解釈が現実社会でどう機能しているのかが重要である。神への愛と隣人への愛という律法は、どういう生き方によって実践になるのか。イエスは「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言葉を続ける。問題の核心は律法の解釈から実践に移る。質問者だってその程度のことは理解しているであろう。おそらく、彼は心の中で「私は実行している」と思っていたのであろう。ここで質問者はイエスに「隣人とは誰か」と問題を提起する。ルカは質問者の意図を斟酌して「自分を正当化しようとして」と注釈を加えるがそれは無用であろう。むしろ注目すべき点は質問者は、神への愛の問題(宗教問題)を避けて、隣人問題を提出している点である。言い換えると、律法問題は宗教問題ではなく人間関係の問題である。実際に、自分の目の前に現れている他人に対する関係が隣人問題である。「隣人とは誰か」という質問の前提になっていることは、自分の目の前に現れる人間を「隣人」か「非隣人」かに分けている。これがユダヤ人の場合だと、同胞か異邦人か、ヘレニズム社会においては文化人か野蛮人か。それが人間関係の基本的な枠となっている。従って、法律も内向けの法律と外向けの法律とに分けられる。その点においてイエスの場合は、隣人とは誰かではなく、私はその人の隣人になれるのかどうかということが問われる。従って、ここでの議論をイエス対ユダヤ人、律法主義対反律法主義との議論に矮小化してはならない。

4. 善いサマリア人の譬え
イエスは彼らのややこしい議論に立ち入ることを避けて一つの譬え話をする。もちろん、ここで問題を設定しているのもルカであり、その答えとして、この譬え話をここに置いているのもルカである。従って、この譬え話を前後の文脈から切り離して読むとルカの真意は無視されてしまう。
今さら、改めてこの譬え話を繰り返す必要はないであろう。イエスによる譬え話の中でも最も有名な話しであり、いろいろな場面で、いろいろなメッセージを語る物語として伝承されてきたに違いない。オーソドックスには「隣人愛」についての教訓とか「自己正当化」への批判として説教するべきなのであろう。
しかし、ここの文脈での主題は律法論でも隣人愛でもない。あくまでも、ここでの議論はイエスという人物についてである。律法の専門家たちはイエスという人物を「試そう」として議論しているのである。「試そう」というよりも、人々があまりにもイエスを賞賛しすぎるので、イエスの正体を人々の面前で暴露しようとして、律法論を提起し、隣人とは誰かなどと質問しているのである。従って、この善いサマリア人の譬えもイエスという人物はどういう人物なのかという視点から読むのがむしろ正当なのではないだろうか。(註:私はこの譬えにおいて「サマリア人」であることにあまりこだわらない。ラビ人とか祭司に対する「普通の人」という意味であろう)
さて、本日はこの物語を「私にとってイエスとはどういう方なのか」という視点から考えたい。いろいろ専門的な分析と説明は省略して結論だけを取り上げると、イエスこそ、ここで語られている善いサマリア人そのものであり、私(たち)は強盗に襲われた旅人である。この解釈は聖書学者の間でも少数ではあるが皆無ではない。
この視点に立つと、ユダヤ人とかサマリア人というようなパレスチナ社会に特有な差別問題は、もっと普遍的な人間社会の社会の支配階級と被支配階級の問題になる。そしてイエスは明らかに被支配階級に位置づけられる。つまりイエスは人間社会を最底辺の視点から見ている人物であるとする。そこから見るときに初めて追いはぎに襲われた旅人が視野に入ってくる。これが祭司やレビ人たちとは異なるイエスの視点である。日々の生活にあえいでいる人々、社会における強者たちから収奪され「死んだようになっている人々」が、既存の権威者たちの目に入らない。あるいは目に入っても無視できる。
真の救済者は人々が予期しないところから現れる。誰も「サマリア人」が救済者だとは思わない。ところが、彼こそが真の救済者である。だからこそ、「あなた方が見ているものを見る目は幸いだ」(10:23)とイエスは語る。これはイエスの言葉というよりもルカの言葉であろう。いや、ルカだけではない。世々のキリスト者が全て声を一つにして、イエスを見たものは幸いだと叫ぶ。
      

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