ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/07/03~07/09

2016-07-09 09:16:29 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/07/03~07/09

2016 日々の聖句 07月03日(日)
主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう。主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。」(ヨエル2:11~12)

夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。(ロマ13:12)

私の黙想:
「主の日」、それは「甚だ恐ろしい日」だという。その恐ろしさに耐え得る人は誰もいない、という。だから、主の日は「悔い改めの日」でもある、という。これが旧約聖書における「主の日」である。この場合の「主」とはヤハウェ(神)である。元々、「主の日」はそのような日ではなかった。P典における天地創造の物語では、主の日についてこのように定義されている。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(gen.2:1~3)。これが「主の日」である。元来は「喜ばしい日」であった。
私たちが「主の日」という場合の「主」とは、主イエス・キリストである。しかも復活された主イエス・キリストの日である。もはや「恐ろしい日」ではないし、「悔い改めなければならない日」でもない。元々の「喜ばしい日」が主イエス・キリストによって、回復された日である。ただ、神だけが喜ぶのではなく、私たちも神と共に喜ぶ日である。キリスト者がこの日を「主の日」というとき、そのことを思っている。

2016 日々の聖句 07月04日(月)
命ある限り、わたしは主に向かって歌い、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。(詩104:33)

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェ5:19)

私の黙想:
詩104、神をたたえる美しい詩だ。「命ある限り」という名文句は、旧約・新約を通じてここだけ。口語訳では全くない。ただ一つ、最後の「どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つように」という一句が、全部を台無しにしてしまう。しかもそれが、「願望文」ではいただけない。岩波訳のように、情景描写として「罪人らはこの地から消え失せ、不法者らはもはやいない」なら、まだましだ。天地万物の中に、罪人も、神に逆らう者もいない。それぞれが、それぞれの役割を担って、そこにあり、神をたたえている。

2016 日々の聖句 07月05日(火)
御手がわたしを造り、固く立ててくださいました。あなたの戒めを理解させ、学ばせてください。(詩119:73)

パウロの手紙:わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。(1コリント1:4~5)

私の黙想:
今日の聖句の後半の部分を口語訳では、「わたしに知恵を与えて、あなたの戒めを学ばせてください」と訳している。フランシスコ会訳でも「わたしに悟りを与え、あなたの戒めを学ばせてください」で、何が問題かというと、私に与えられている「理解力」は「戒め」に限定されないということである。神が人間を創造されたとき、人間に他の動物にはない「知恵」「悟り」、つまり理解力を与えてくださった。その最終目的は「あなたの戒め」を学ぶということであろうが、その能力は「神の戒め」に限定されない。「神の意志に逆らう自由」もある。パウロの言うように、その理解力は「あらゆる言葉、あらゆる知識」に及ぶ。だから、この賜物を何に向かわせるか、それは私たちの責任である。

2016 日々の聖句 07月06日(水)
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。(ゼファ3:15)

目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。(1コリント16:13)

私の黙想:
さぁ、今日の聖句で何を黙想しようか。ここでの「お前」は私個人ではない。直接的にはイスラエルであり、特にその中心である神殿である。そこに居るべき方が居れば、社会は落ち着く。そこに居てはならない者が居るとその社会は災いとなる。これが社会というものの大原則だ。
社会の中心に居る者たちが「(この都の中で、)役人たちはほえたける獅子、裁判官たちは夕暮れの狼である。朝になる前に、食らい尽くして何も残さない。預言者たちは、気まぐれで欺く者祭司たちは、聖なるものを汚し、律法を破る」(3~4節)ような社会は災いである。
というようなことを考える。

2016 日々の聖句 07月07日(木)
若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。(エレミヤ1:7)

主はパウロに言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」(使徒18:9~10)

私の黙想:
人の発言を「若いから」とか「年寄りだから」とか、年齢によって判定してはならない。神は「石」からでも語る。特に時代が激しく動いているときは、「老人(過去)と若者(未来)」の発言が重要である。これは私の全くの推測であるが、ヨハネがイエスの出会い、イエスの弟子となったのは20歳前後ではなかったかと思う。そして福音書におけるヨハネ福音書は高齢化したヨハネの言葉だと思っている。これは全く根拠のない話である。聖書においては若者の話に満ちている。これも別に数えた訳ではない。私がそういう印象を持っていると言うだけのことである。
今回の参議院選挙から18歳の人たちに選挙権が与えられた。その結果が、どう影響するのか、わからない。18歳という年齢が妥当なのか、どうか。それもわからない。しかし戦争ということになれば、「18歳」という年齢が重要になることは確かである。大人が変に意見を押しつけてはならないと思う。未来は彼らのものである。

2016 日々の聖句 07月08日(金)
神々の神、主は、御言葉を発し、日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる。(詩50:1)

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブル1:1~2)

私の黙想:
先ず「神々の神、主は」という言い方が気になって口語訳を見ると「全能者なる神」、全然違う。新改訳は「神の神」、岩波訳では「神々の神(エル)、ヤハウェ」。文語訳では「ぜんのうの神」とわざわざひらがな表記。原典では「エル エロヒーム」。「神々の神」という表現は他に、詩84:8とダニエル書2:47で使われているだけである。ただし、ダニエル書の場面では異教の王の言葉として用いられている。詩84:8の方は口語訳が「神々の神」と訳し、新共同訳が単純に「神」と訳している。
次ぎに、「地を呼び集められる」とはどういうことか。まさか、日本神話の「国産み」物語ではないだろう。口語訳では「地に住む者を召し集められる」、フランシスコ会訳では「大地を呼び出された」、新改訳では「地を呼び寄せられた」、岩波訳では「地を呼んだ」。要するにヤハウェが全世界に呼びかけられたということであろう。
3節には「(神は)黙しておられない」、フランシスコ会訳、新改訳では「黙ってはおられない」、岩波訳では「沈黙しない」とかなり強い表現になっている。「ヤハウェは黙っていないぞ」と何かドスのきいた言葉である。「皆さん、お聞きください」何って言うよ甘ったるい選挙運動ではない。このままでいくと、全世界の神々の神であるヤハウェが神々を結集して、もう黙ってはいない。「危ない!」と叫ぶ声が聞こえる。

2016 日々の聖句 07月09日(土)
主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。(エレミヤ32:17)

わたしたちは自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(2コリント1:9~10)

私の黙想:
新共同訳を微妙に変えている。ローズンゲンではこういう「変更」は許されているのだろうか。エレミヤの言葉も、創世記の天地創造物語をかなり「変更」している。
ここでは「言葉による創造」が「御手による創造」、つまり「手の業」になっている。「あなたの御力の及ばない事」、口語訳、新改訳では「あなたの出来ないこと」、フランシスコ会訳ではもっと単純に「不可能なこと」。まぁ、大した違いはない。エレミヤ書18章には「陶工」の話が出てくる。エレミヤにおいて天地創造物語は陶工の業とイメージしているようだ。しかし、実際に陶工が作品を作る際に、完全に自分の意志通りに作っているのだろうか。現実には、粘土との会話の中で粘土自体がもつ「原理」に従って創造活動がなされているのではなかろうか。それが「手の業」である。

最新の画像もっと見る